水の底 誰かの記憶 見えない
途中で拾ったタクシー内、端末を操作しながら考えを巡らせる。
あの女と直接接触したのはそれっきりだ。言葉を交わしたこともなければ、名前も素性も知らない赤の他人だった。強いて共通点を上げるなら、同じ大学の卒業生という点だけだろう。
だが、狙われていた自覚はある。
見積もった通り、美術サークルへ所属してから、あの女が接触してくることはなかった。
だが、時折粘り着くような視線を背に感じることがある。
振り返ると、談笑するあの取り巻き達の隙間から、女が物色するようにこちらを見ていた。
張り子のおもちゃのように、伸ばした首をゆらゆらと揺らしながら嗤う女は、確実に自分を狙っていた。
あの女の琴線に触れる何かが、自分にはあったということだろうが、こちらとしては薄気味悪い以外の何物でもない。
ただ、積極的に動く気はなかったようだ。
暫くすると視線を感じなくなり、やがて順当に学生生活を送る間に、その女のことは、いつしか頭から消えていた。
あの黒い靄の事もすっかり忘れ、表紙のよれたスケッチブックは、白紙のページを残したまま、掃除の傍らに処分した。
――それが、今になって。
端末を握りしめ、窓の外に目を向ける。タクシーは順調に進んでいるが、流れ去る景色よりも、気持ちの方が遙かに逸る。必死で自制しながら、目的地への到着を待った。
歩道に面した地階への階段を下りると、異変は既にあった。
重く閉ざされたライブハウスの入り口脇に、スーツ姿の男性が倒れている。慌てて駆け寄り確認すると、昏倒しているのは中年手前の男性だった。意識が無いだけで息はある。
彼女が言っていた代理人だろうかと考えながら、ざっと見、目立った外傷もないので、丸めた自分のスーツを男性の頭の下へと押し込み、警察と救急に通報をすると、ライブハウスの扉を押し開けた。
途端に奥から、むっと悪臭が押し寄せる。夏場のゴミ捨て場と、汚れた動物の臭いを混ぜたような、ひどい臭いだ。
吐き気を催す悪臭に蹈鞴を踏むが、意を決して中へ踏み込んだ。
薄暗い室内、まず目についたのは、正面、ステージライトに照らされた舞台だった。光源はここだけらしく、ピアノやドラムセットが艶やかに照り返す様が目立つ。
右側のバーカウンター、ホールに並ぶテーブルセットと見回し、訝しんだ。無人だ。しかし、暗がりのどこかに、何かが息を潜めている気配を感じる。
嫌な雰囲気だった。侵入者の行動を期待を込めて見物しているような、そんな息づかいが聞こえる気がして、警戒を強める。
その何かが放っているのだろう、悪臭が充満した室内を、片腕で鼻と口を覆いながら慎重に歩くと、舞台の左最前列、影絵のようなテーブルセットに、黒く盛り上がる曲線が目に止まった。
直感して駆け寄ると、果たしてそれは、テーブルに突っ伏す彼女だった。確認すると同時に、うっ、と顔をしかめる。臭いの発生源はここらしい、テーブル周辺には温風のように臭気が吹き付けていた。
彼女は、一応意識はあったが、ぐったりとして、身動きがとれないようだった。ゆすり、耳元に顔を近づけ声を掛ける。鈍いが反応は返ってきた。同時に彼女の好きな柑橘系の香水が鼻孔をかすめ、悪臭の元凶ではないと分かった。
店から連れ出さなくては。
肩に近い上腕を両手で挟み込み、何とか立ち上がらせると、そのまま引きずるようにして、扉へ向かう。
テーブルの下へ意識が向いたのは、傾いだ彼女の上体を立て直そうとしたときだった。膝を抱えて、テーブルの下に潜むそれを、最初人間かと思った。だが、人にしては頭が大きすぎる。おまけに服を着ていない。枯れ枝のような手足の色は、照明のせいか、ひどく濁って見える。
思わずまじまじと観察すると、抱え込む足から泥が伝い落ち、床に泥溜まりを作っているのに気付いた。
ジワジワと広がる泥溜まりの端を目で追い、再びその頭に目を向け、ようやく目鼻がないことに気付いた。
生き物の気配はする。だが、これは人間ではない。
呆然としながらそう意識した途端、ソレは、あの女と同じように、にちゃ、と嗤った。悪臭が顔面に吹き付ける。
側の椅子を投げつけたのは、良い判断だったと思う。背面を掴み、サイドスローで投げた椅子は、テーブル下から這い出そうとしたソレの側頭部に、物の見事に直撃した。咄嗟の事ながら良い腕だ。
耳障りな悲鳴を上げるソレに、手掴み出来る周辺の物を、手当たり次第投げつけつつ後退、扉を出た。冷たい外気が、思考をクリアにする。
背後に追いすがる異形の気配を感じながら、地上へ続く階段を、彼女の手を引きながら駆け上がる。彼女は朦朧としてはいたが、自分の足で歩くまでには回復していた。
何とか歩道へ飛び出し、ほっと息を吐いて気を抜いたのは失態だった。
ガンっと、まず頭蓋に音が響いて後から痛みが来た。
斜めに滑り落ちる景色を見ながら、後頭部を殴られたと理解した直後、肩が地面に激突する。衝撃で視界が暗転して、すぐに開いた。
仰ぎ見る視界に、歩道を行く通行人の驚いた顔が映る。その脇を、支えを失った彼女が、フラフラと歩いているのが見えた。
逃げろと叫んだのは、アレがまだ近くにいると思ったからだ。
その声に突き動かされるように、彼女が歩を早める。
車道へ向かって。
通行人達は、倒れた自分にばかりに気を掛けて、車道へと突き進む彼女に目もくれない。
制止しようと口を開ける間もなかった。
危ない、と誰かが上げた悲鳴と、車のブレーキ音が重なる。
目は開いているが、何も見えない。頭に入ってこない。
止まった車。驚き後ずさる通行人。数人が携帯端末を耳にあて、何かを喚いている。
遠く鳴り響くサイレンの音が、いつまでも頭の中で反響した。
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