水の底 誰かの記憶 黒い靄

 その女を初めて見たのは、大学に入学して間もない頃だった。

 都内の名門私立大学へ進学を果たし、授業にも慣れて落ち着いた頃合いに、気がつくと一人で過ごす時間が増えていた。

 高校までとは違い、クラス単位での縛りが殆ど無い大学では、窮屈な教室内での横つながりに苦心する必要がない。講義に出席して授業を受けるだけで済む事がいかに気楽であるかを知った今、煩わしい人付き合いを全て放棄していた。

 飲み会やサークルにも誘われたが、やんわりと断ってしまえば、声を掛けられることもなくなり、食事も一人で取ることに苦を感じない。時折、群れをなして移動する学生達が、嘲るようにこちらを見ることもあったが、軽く会釈すると何故か押し黙る。彼らと自分では、多分生態が違うのだろうと結論づけ、関わりを避ければ衝突することもない。

 勿論、学生生活における必要事項の会話なら交わすが、それ以外は一人静かに過ごす時間のありがたみを噛みしめる毎日だった。

 空き時間は大抵、風景のスケッチか読書にあてた。

 無趣味の代表格である読書はともかく、絵を描くことが好きなのかと問われる事は多いが、返答はいつも詰まってしまう。

 集中力と観察力を養う目的で始めた習慣だ。ただ見たままの風景を手慰みに写しているだけで、好き嫌いを意識したことはない。

 両親の期待を一身に受けた優秀な兄の陰に紛れている間に、こんな習慣が身についてしまった。

 何かに没頭している間は、他の何かを考えずに済む。

 ゲーム等のサブカルチャーだと、親が口うるさく介入してくる恐れがある。ただでさえ肩身が狭いのだ。変に反抗的になって、関係を拗らせたところで、得るものは何もない。

 などと言いながら、絵を描くことを選ぶあたり、芸術に関心を示さない両親へ当てつける気持ちがあったのは事実だ。

 後ろ向きな思いを下敷きにして始めたこの習慣は、しかし思いの外、自分に合っていたようだった。


 大学のキャンパス内は、描く対象に事欠かない。

 そして大学生ともなれば、大抵の学生は他人のやることに関心を寄せない。横槍を入れてくるのはほんの一部。皆、自分の向かうべき将来に向き合い日々を過ごしている。

 気軽だった。

 大学生活は、そのようにして静かに過ぎていくものだとぼんやりと考えていた。

 あの女に、目を付けられるまでは。


 大学の講義は選択制だ。講義が飛び石で入ってしまう日は必ずある。そういう時は、ノートサイズのスケッチブックを片手に大学の敷地内を散策しながら、気に入った風景を描いていく、スケッチ時だった。

 その日は図書館の外観に定めた。

 校舎と同じ様式の決して目立つ建物ではないが、外壁に新緑とその陰が落ちる様が絵になると思ったのだ。着彩は滅多にしないが、今回ばかりは薄く水彩で色付けしたい気分だった。

 気持ちのあり方がそうさせているのだろう。つまるところ、自分は今の生活に充足しているということだ。都合良くベンチもある。刻限まで腰を据えることにした。

 どれぐらいの時間が経過しただろうか。紙面には、全体の構図が収まりよくまとめられている。

 スケッチブックを離して確認し、悪くないと満足に浸っていると、遠くから何やら騒々しく喚き立てる声が聞こえてくる。見ると、図書館の正面玄関付近に人だかりが出来ていた。

 激しく言い争う彼らは、遠目にも不穏な空気を漂わせており、ふざけて騒いでるようには見えない。通りすがりの学生たちも足を止め、何事かと様子を伺っている。

 喧嘩だろうか。

 折角の良い気分が台無しだと冷たく眺め、無視をしようと再び手元に視線を戻した時だった。

 視界に、何か黒いもやのような物が漂っているのを捉えた。

 気のせいかと思いながらもう一度人だかりに目を向けると、やはり間違いなく、黒煙のような物が騒ぎの中心地点から上がっている。

 何かが燃えている気配はない。それに煙と言うより、水中に落ちた墨が溶け出すような揺れ方と表現した方が近い。

 不審に思って目を凝らしながら、知らず手はスケッチブックをめくり、表れた白紙に鉛筆の先を構えていた。

 周囲の様子をなるべく正確に捉えようと、気持ち身を乗り出し、手を動かし始める。

 中心で騒ぐ学生達と物見に集った学生達を、雰囲気重視で描いていく。

 描きながらふと自分がこうして人間を描いていることに疑問が沸いた。

 常に描くのは風景ばかりで、人間を描きたいと思ったことなど終ぞ無かったはずが、一体何に引かれたのか、手が止まらない。

 描きながら思考する事も、これまではなかったというのに、さて、どうしたものかと内心奇妙に思いながら、やはり手はひたすらに動き続ける。

 その動きもまた、何かに追い立てられるように早急だ。

 おかしいと、頭では冷静に判断しながら、手は衝動に駆られ、止めることが出来ない。

 せわしなく描き続けていた手が、ようやく止まった。

 息を吐き、見ると、紙面は自分らしからぬ荒く濃い線で埋まっていた。

 先程と同じようにスケッチブックを離して全体を確認すると、雑なあたり線で、言い争う学生達とそれを遠巻きに眺める学生達の姿が表現されていた。

 彼らの頭上に黒い靄が、不気味に渦巻いてわだかまっているが、その形が何かに似ている。

 描いている最中は形を取るのに必死で、それが何を象っているのかを判別する余裕などなかった。

 眉を寄せ、じっと見つめて、息を呑んだ。

 それは女の顔だった。

 学生達の上に、君臨するように広がって、争う彼らを嘲笑を浮かべて見下ろしている。

 何だ、これは。

 目を疑い、群衆に目を向ける。黒い靄は、依然として彼らの上空に、とぐろを巻いて漂っている。だと言うのに、渦中の彼らは誰も頭上の異変に気付いていないのだ。

 驚いて周囲を見回すが、物見に集まった学生達も、靄の存在に気付く素振りを見せていない。

 呆気にとられていると、靄はゆっくり渦巻きながら下降し、人々の中心部へ、漏斗に流し込まれるように吸い込まれていった。

 同時に学生達の輪が崩れた。騒動の中心を形成していた数名の学生達が、肩を怒らせながらその場を離れたのだ。どうやら、一応の決着はついたらしい。

 相対していたと思われる学生達はその場でたむろしているが、野次馬達は興味を失った様子でまばらに散り始めていた。

 すまし顔で散開する学生達を、半ば呆然と眺めながら、あれは一体何だったのかと自問する。

うららかな春の日差しに当てられて、おかしな幻影でも見たのかと考えるが、なら手元の絵はどう説明する。こう言っては何だが、自分に想像力はない。絵を描くにしても、何かを見ながらでなければ、一ミリだって線は引けない。

 気の迷いだとしても、こんな醜悪な絵を描く謂れは、自分にはないはずだが。

 幽霊でも見えたか、あるいは自分がどこかおかしくなったのではないかと、一人静かに狼狽えていると、残りの学生達も移動を始めた。

 いかにも遊び慣れている風体をした一団は、諍いを起こしていたもう一つのグループに違いないだろう。争いの後のせいか、ひどく陰気な雰囲気を漂わせている。周囲に険のある視線をくれながら、警戒するようにゆっくりと歩いているのは、彼らの中心にいる人物を庇っているせいだった。

 それが女だと分かったのは、彼らの足下、ズボンに紛れて白く細い生足が見え隠れしているからだ。

 枯れ枝かと見まごうような貧相な足だった。そのせいで靴が異様に大きく見える。

 随分と分かりやすい構図だ。

 諍いの原因が何となく知れたが、そこはどうでもいい。気になるのは女の容貌だった。

 脳裏に強烈に残る靄。それとの関係を、何故か予感してしまったのだ。

 根拠はない。ただの直感だ。普段なら、そんな曖昧な感性に誘導されることなどないが、この時は違った。

 男達に護衛される女の正体を確かめるべく、足下から徐々に視線を上げる。

 小柄な女だった。

 服と髪は流行を押さえ、ショルダーバッグはブランド物だろう、留め具のロゴマークが目を引く。

 両手で顔を覆い、俯きながら歩く女の横から、取り巻きの男達がしきりに話しかけている。慰めているのだろうが、その度に女は身も世もなく顔を振り、全身で打ちひしがれると訴えるのだが、身振りがいちいち大袈裟でどうにも滑稽だ。おまけに口元は露骨に薄笑いを浮かべているので、嫌悪以外の感情は沸かない。

 じっと観察しながら、ふと、どうして自分は女の表情が分かるのかという疑問に気付いた。

 女の背丈は取り巻きの男達から頭一つ分は低い。何より顔は両手で覆い隠していると言うのに、何故その表情が分かるのだと。

 黒い靄と同じだ。見えるはずのない物が、見えている。

 頭の中で勝手にくみ上げた光景が、現実と錯行しているのではないかと一層混乱するが、確かに見えるのだ。

 自分の感覚を疑っていると、その女の顔が目に入った。

 瞬間、喉が強ばった。

 宙に漂っていた黒い靄と寸分違わぬ顔が、そこにはあった。

 薄っぺらな悲嘆の下、勝ち誇ったように嗤う醜悪な顔が、黒い靄のそれと重なる。

 ヒュィーッ、ヒヒー、と、空気が抜けるような嗤い声さえ聞こえるのだ。総毛が逆立つとは正にこのことだった。

 唖然としながら見ていると、不意に女が立ち止まった。顔を上げ、首を前に突き出すと、周囲を探るように左右へ巡らせる。

 凝視しすぎたせいで、気付かれたらしい。女に追従するように、一団もまた足を止めている。どこぞ姫君にお伺いを立てるかの如く、取り巻き達は女の動向に注意を払い、言葉を発するのを待っているようだった。

 不味い。

 そう感じた時には、女が己を観察する目に気付いた。猫背に伸ばした首が不格好にこちらを見る。

 自分もまた見た。濁っているとしか表現のしようが無い顔を。

 淀んだ目が、ぐにゃりと弓なりに曲がる。

 にちゃ、と女が嗤った。

 怖気を通り越して、恐怖すら感じる醜さだった。

 立ち上がりざま、ベンチ下の鞄をひっつかんで身を翻すと、一団から逃れるべく、全力で走った。

 大学の敷地内をどう走ったのかは覚えていないが、正門前に辿り着いて、ようやく足を止めた。肩で息をしながら、体を折り曲げ膝に両手をつく。久々の全力疾走で、体が動かない。

 呼吸を整えていると、周囲の音が耳に入ってきた。学生達が交わす他愛ない会話や通りを走る車の騒音、鳥の囀りといった雑多な音が混ざり合い、ありふれた日常の喧噪となって耳朶に届く。通りすがりの学生達が不審そうにこちらを見ているのが如何にも普通だ。

 上体を起こして息を吐くと、片手にスケッチブックを握りしめていることに気付いた。表紙の皺を見つめながら、確信する。

 あれは人間じゃない。

 取り巻きの男達は勿論、他の学生達も誰も気付いていないだろう。

代わり映えのしない、退屈とさえ形容される日常の中に、異質な何かが入り込んでいる……。

 根拠は、ある。手にしたスケッチブックの素人描画、簡単に否定されるであろう、それだけが証拠だ。

 妙に笑いたい気分になった。きっと、緊張をほぐそうとしているのだろう。こんな馬鹿げた考えが浮かぶ方が異常だと、冷静な判断力が諭してくる。

 だが、あれは間違いなく、人の形をした何かだと、本能が告げている。

 そして、それに目を付けられてしまった。間違いない。

 見てしまったことが原因ではあるが、それは理由の一端に過ぎない。妙に冴えた頭で考え、すぐに結論へ至った。一人でいるからだ。

 恐らくアレは、群れから外れ、孤立している者を狙う。正に今の自分のような。

 他人との衝突を厭い、社会性を軽んじ、孤独という名の怠慢に安寧する弱い性根を見透かして、アレは忍び寄ってくる。

 大学内で、自分の居場所を確保しなくてはならない。人脈と地位を獲得し、他人と関係性を持つことが必要だ。

 美術サークルへの入部を選んだのは、他に考えが浮かばなかったからだ。

 入部してから、図書館の騒動、その当事者の学生達が所属していることを知った。

 それとなく原因を尋ねると、諍いの原因は作品の盗用だったらしい。美術サークルで制作した作品を、あの女が無断でネットのイラスト投稿サイトへ掲載したという。

 それを指摘したことが騒動の発端らしいが、訳の分からないことを延々と言い連ね、仕舞いには被害者面で泣きわめくので始末に負えなかったと、彼らは憤然と言う。

 てっきり痴情のもつれかと思っていたため、些か拍子抜けはしたが、ここへ所属する限りは、あの女も近寄らないだろう。根拠はないが、確信はあった。

 美術サークルの学生達は、これまで関わったことのない種類の人間ばかりだった。周囲からは大人しい、控えめな気質の集団だと思われていたが、実際は真逆で、普段は気怠げなのに、何かの弾みで急にテンションが爆上がりしたりするので、ついて行けずに気後れすることは多い。

 しかし文句など言っていられない。他人と関係性を築かなくては、即座にアレは寄ってくる。

 そんな思いに突き動かされて、遅ればせながら、本当の意味での大学生活を始めたのだった。

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