水の中 誰かの記憶 2

 彼女がその名前を口にしたのは、久しぶりのデートで食事をした時のことだった。

 最初から浮かない顔をしていたことには気付いていたが、何か悩みがあるにしろ、変に気を回しすぎて雰囲気を悪くする訳にもいかず、彼女が口を切るまで待っていた。

 食後のコーヒーが出された頃合いに、彼女はようやく、躊躇いがちにその名前を口にした。知り合いかどうかと尋ねられ、呆気にとられた。

 聞き覚えがないどころか、初めて聞く名前だ。

 彼女によればその名の人物は、大学在籍中の自分と浅からぬ関係だったのではないか、とのことだが、一体どこからそんな話が沸いて出たのかと仰天した。

 逆に誰かと問えば、彼女はその反応を見て、胸を撫で下ろす。

 話によれば、その人物とネット上で少々揉めているそうだ。メールで話し合いを続けているが、その中で、自分との関係を仄めかしてきたのだと言う。

 少々がどの程度なのか彼女は濁したが、恋人の名前を持ちだし、あまつさえ嘘の関係を囁くともなれば、相当悪質だろう。

 彼女はネット上の活動では、顔出しを避けている。ご両親の意向ではあるが、昨今の情勢、どこからプライベートが漏れるか分かった物ではない。どんなに対策しても、万全とはいかないのだ。

 そろそろ偉い人に仲裁に入って貰うつもりだと、わざとらしく憤慨しながら話していたので、手は打っているらしい。

 何にせよ、彼女の仕事にまつわるトラブルだ。身内が感情的に割って入ったところで、彼女に不利益しかもたらさないだろう。

 全部片付いたら愚痴を聞いて貰いますと嘯く彼女の言葉を信じて、それ以上は追求しなかった。


 ――面倒に思ったのだ。

 仕事にも職場にも慣れたとは言え、新人という枕詞が抜けない時期だ。身内のトラブルに足を引っ張られ、生活を乱されたくないと考えていたのは自分の方だった。

 勤め人として、日々を忙しく過ごす間に、彼女と連絡が途切れがちだったこともあった。自分より先に社会へ出た彼女なら、上手く収めるだろうと手放しに考えてさえいた。

 今となっては、全てはただの言い訳だ。


 年の瀬になって、彼女の動画サイトが運営に不適切と判断され消された。

 デートから二ヶ月後の事だった。

 残業中、休憩の合間に彼女のチャンネルを確認しようと動画サイトを開いて、その存在が抹消されているのを知った。

 彼女のチャンネルを最後に見たのは前日の夜だった。新曲のライブ配信を聴きながら、彼女に曲の感想を添えたメッセージを送った。彼女の返信に変わったところはなかった。それから一日と経たずにこの事態である。

 慌てて電話を掛けるが、当然の如く繋がらない。

 焦って、何があったのかを調べるために、彼女のアーティスト名でネット検索をかけると、彼女のファンが作ったであろう、注意喚起のまとめサイトがヒットした。

 そこでようやく、彼女が置かれていた状況を知った。

 彼女と同じように、動画サイトで活動する別のアーティストグループに陰湿な嫌がらせを受けていたらしい。

 まとめサイトには、日付順に彼女への嫌がらせについて詳しく記載されていた。

 チャンネルのコメント欄に彼女の家族や友人の情報といったプライベートを書き立てる。別のチャンネルに彼女の名前で誹謗中傷のコメントを書き連ねる。自分たちのチャンネルに、彼女の音楽を無断転載し、あたかも自分たちの曲であると吹聴してみせる、など。

 文面を目で追いながら、件のグループの目的が楽曲の横取りであること、もっと言えば、彼女に成り代わろうしていることが知れた。

 ただ、幸いなことに、この悪質な行為はファンの間で周知徹底され、運営にも適切に通報がなされている。分は彼女にあるように思えたが、昨晩のライブ配信時、コメントにアダルトサイト、それも極めて違法なサイトへ誘導するアドレスが貼られた事により一転した。

 動画サイトの運営は、違反の有無を分別に機械判定を用いる。それに引っかかってしまったらしい。

 こういった行為は一時期動画サイトで流行し、数多くの被害者を出したという。承認欲求を拗らせた幼稚な嫌がらせだ。異議申し立てをすれば、チャンネルを取り戻すことは可能だというが、誘導先のアダルトサイトが違法に過ぎた。

 彼女へ寄せられた応援メッセージの中ですら、チャンネルを取り戻すことは難しいとの見解が大多数だった。


 通話口で彼女が出るまで粘っていると、ようやく繋がった。

 大丈夫かと尋ねると、数拍の沈黙の後、彼女は固い口調でこう言った。

 ――これから話し合いに行ってくる。

 聞けば、件のグループとは、この二ヶ月、代理人を通じて話し合いを続けていたが、こちらを煽る発言を繰り返すばかりで全く進展しなかったらしい。

 のらりくらりと煙に巻かれている間に、彼女のチャンネルが消されてしまった。慌てふためいていると、連中から嘲笑を込めたメッセージが届いたと言う。

 ――あいつらに違いない。

 彼女は激情を押さえ込んで言った。その言葉で、例のグループによる犯行だという確証が取れていないことが分かった。

 今し方、直接会って話をする段取りを取り付けた、話を付けてくる、とのことだが、無謀にも程がある。

 勿論止めたが、相当頭にきているらしく、彼女は頑として譲らなかった。代理人も同伴するので大丈夫だと豪語するが、そういう話ではない。全体、話し合いの場所が、相手方が指定したライブハウスという時点で危険だ。

 時間が迫っていると言って、電話は一方的に切れた。

 嫌な予感しかしなかった。

 だが、恋人とは言え、部外者以外の何者でもない自分が乗り込んで、一体何が出来ると言うのだろうか。

 逡巡しながら、まとめサイトに貼られたアドレスから、彼らの活動内容を報告する大手コミュニティサイトのアカウントへ移動して、ギクリと手を止めた。

 ――あの女がいる。

 プロフィール画面に貼られた画像、ライブハウスでのイベントを客席から撮影した写真だが、その中央、ボーカルマイクを片手に熱唱する女。

 その顔、その笑顔に、見覚えがある。

 血の気が引いた。

 気付けば端末を片手に、会社を飛び出した。

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