水の底 誰かの記憶

 入学後、暫くしてから所属した美術サークルは、当初の懸念通り、活動に熱心ではなかった。力を入れるのはもっぱら飲み会の集まりばかりで、肝心の制作は殆ど趣味の域。それなりに名の知れた私立大学とはいえ、美術サークルの活動など、たかが知れていると言ったところだろうか。

 差し迫った事情の為にやむなく入部したものの、煩雑な人付き合いにうんざりする毎日だった。

 

 大学近くの美術教室でヌードクロッキーをやっていると話題になったのは、二年の夏休みが明けて間もない時期だった。

 部員の一部が大いに盛り上がり、おおよその予想通り、行ってみようという話しになった。

 所属していたサークルの男女比率については言及しないが、クロッキー会に参加を希望したのは全員男、それも普段から輪を掛けて制作に関心の薄い連中が主な顔ぶれだった。

 参加するかどうか返答を濁していたら、いつの間にか頭数に入れられていた。

 人を描くのは苦手、もっと言えば、興味がないというのに、貴重な時間を割いて行く羽目になったのは、曖昧な態度を取ったせいだろう。

 渋々、美術教室のクロッキー会へ参加した。


 結果から言えば、クロッキー会への参加は大収穫だった。

 参加者はサークルのメンバーを含めて三十名ほど。半円にモデルを囲んでイーゼルを構え、数分ごとにポーズを変えるその姿を正確に捉えようと鋭く眼を光らせる。紙に鉛筆を走らせる音だけが延々と響く緊張した空間は、恐ろしく真剣な場でもあった。

 下心丸出しで参加した面々は会場の雰囲気に完全に呑まれて、終了後、気落ちした様子ですごすごと退散していった。

 そして自分はと言うと、思いがけず本気で人物画のクロッキーに取り組むことが出来た。

 風景画しか描いたことがないので、最初こそ手は止まりがちだったが、見かねた講師からいくつかアドバイスを受け、少しずつ様になってきた。

 コツさえ掴めば後は描くだけ。いつの間にか時間を忘れて没頭していた。

 講評会では講師や他の参加者から、観察力がある、線が力強いなど誉れを貰い、気分は高揚した。

 今後も参加をと検討するが、今回のような体験入学ならともかく、通うとなると受講料が割高だ。ならばと講師から、着衣モデルの短期講習会を案内された。期間は一ヶ月、全五回の講習で、画材は自由とのこと。

 モデルは美術教室が直接雇っているので、専門事務所から派遣されているヌードモデルよりも受講料が安く済んでいるとのことだ。

 パンフレットを貰い、一晩熟考して、申込書にサインをした。


 受講を始めて、美術教室や大学の帰りに画材屋へ立ち寄ることが習慣になった。

 その日も買い物を済ませ店を出ると、駅の広場で女性がギターの弾き語りをしている。物珍しさから立ち止まると、彼女が美術教室のアルバイトモデルだと気付いた。相手もこちらに気付いて、演奏しながら、小さく頭を下げる。会釈を返して、その日はそれだけで済ませたが、その後も彼女のストリートライブに出会うたび、足を止めるようになった。


 それをきっかけに、美術教室でも挨拶以外に言葉を交わす機会が増えていく。

 ――絵のモデルなんて、ただ座っていればいいだけの楽な仕事だと思ってた。

 花瓶を抱え階段を上がりながら、彼女はさも大儀そうに嘆息した。

 講習会では、終了後、教室の後片付けを自分たちで行うのが慣例となっている。

 使用した小物類を上階の物置へ運びがてら、他愛ないお喋りついでに、彼女はそう話した。

 体を動かせないことがこれほど堪えるとは思わなかったと漏らしながら、他にも髪型の維持や、モデル用の服を痛めないよう洗濯に気を使わなければならないなど、気苦労が絶えない点をしかつめらしくあげつらう。

 大変だね、と適当に話を合わせると、決まって彼女は、滅多に出来る体験じゃないから、と楽しそうに話を結ぶのだ。

 窓から差し込む夕日が彼女の笑顔に黄昏色の明暗を落とす。琥珀色に金が煌めくどこかなつかしい彩りの中、笑う彼女は美しかった。

 明るく前向きな女性だった。

 同い年ではあるが、いくつかアルバイトを掛け持ちしながら、独学で音楽の勉強をしているという。

 動画サイトで自作の楽曲をアップロードし、僅かならが収益も得ているとの事だ。

 本気で音楽家を目指していると言う。

 将来について、親とは何度か衝突したらしいが、彼女の頑固が勝った。やるだけやってみろと、呆れながら承諾してくれたそうだ。

 親の不興を買わないよう、道なりに歩いてきた自分とは違い、はっきりとした目的を持ち、そのための努力を惜しまず、結果も出している。

 眩しいと、素直に心打たれた。

 短期講習会が終了する際、端末のアドレスを交換し合い、友人としての付き合いが始まり、紆余曲折を経て、大学卒業までには恋愛関係へと発展した。


 大学を卒業し、それなりの企業へ就職した頃、彼女も才能を認められて、徐々に知名度を上げていった。

 忙しく、充実した日々。

 順風満帆だった。

 あの女が再び現れるまでは。

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