写るのは遠い記憶
――千歳、ちょっとモデルになってよ。
おやつのプリンを食べていた千歳は、口にスプーンを咥えたまま、面倒臭そうに振り返った。
場所は実家の台所。
広い土間に三畳程の上がりを設えた古い作りだ。その上がりに座り込んでいた千歳は、ムスッと母親を見た。
上がりから見て左の窓際には流しやコンロが並び、右は食器棚と長い食卓が置かれている。その間に、インスタントカメラを構えた母親が立っていた。
庭に咲いた花を撮りたいとインスタントカメラを買った母親が、ピンボケ写真を量産して四苦八苦していたのは知っていた。設定が上手くいかないのか、カメラを弄り回しながら、あれこれ映しては難しく首を傾げていたのを、千歳は遠巻きに白々と眺めていたのだ。
――えー、めんどくさ。
――もー、ちょっとは協力してよ。はい、チーズ。ほら、千歳、チーズ。
――あーもー。
ぶつくさと文句を垂れながら、しかし千歳は満更でもなくピースサインを突き出してみせる。
現像された写真はやっぱりピンボケだった。ピントはピースサインにしか合っておらず、顔や風景はぼやけて判然としない。千歳はがっかりしたが、母親は満足したらしい。
――おー、一番上手く撮れたわ。さすがは我が息子。
――かーさん、目ぇ、悪くなったの?
――お父さんにも見せないとね。日付書いとこ。
鼻歌交じりに白枠に日付を書き入れると、母親は写真を、彼女の審査に通った他の写真と同じように、冷蔵庫の扉にマグネットで貼り付けた。
(あの時の写真だ)
記者の手の中にあった写真の正体を正確に突き止めた千歳は、混乱しながら、
(何であんな人が持ってるんだ)
(いや、そんなことより、家はもうないってのに、どこから手に入れたんだっ?)
あの記者の脇を通り過ぎてから、随分時間は経過している。とっくの昔に会社を出ただろうが、宇佐見の話だと、記者は相当執念深かったらしい。未練がましくまだ周辺をうろついているなら、写真を取り戻すチャンスはあるかもしれない。
五階へ着地した千歳が、更に階下へ向かおうとした時、
「千歳さん、どうされました?」
静かな女性の声がして、千歳はギクリと足を止めた。直前まで意識していたせいか、美代子の声だと分かっているのに、母親に呼ばれた気がしたのだ。振り返ると、五階のエレベーターホールに美代子が立っていた。
「師範……」
「階段を走ってはいけませんよ」
息を切らせる千歳に、美代子は表情を変えずに注意する。
「すみません、急いでて」
「見れば分かります。それで足を滑らせては、元も子もありません」
「……ええ、そうですね」
言うだけ言って、再び千歳は階下へと向かおうとした。が、
「千歳君、もしかしてこれを探しているのかい?」
上から振ってきた言葉に、千歳は反射的にそちらを見た。
片手に四角い紙片を提示しながら階段を下りてくるのは白瀬だ。白瀬の動作に合わせて、チラチラと照明を照り返すその紙片に、千歳は釘付けになる。
「それ……」
「ああ、写真だよ。あの記者が持っていた」
ゆっくりと階段を下りきり、千歳の元へ近づくと、写真を差し出した。
「あの記者の話しぶりから、目的は君じゃないかと当たりをつけたんだが。 ――写っているのは、君かな?」
笑みを浮かべて尋ねる白瀬から、無言で写真を受け取ると、千歳はゆっくり視線を落とす。
写真は、遠目にはそうと分からなかったが、随分と劣化していた。画面は黄みがかって退色し、外枠も所々破れている。折れ筋が何本か走り、保存状態が悪かったことが窺えた。
画像と外枠の文字を、千歳はまじまじと見つめる。
(間違いない)
あの日、母親が冷蔵庫に貼り付けた写真だった。走り書きの文字、見慣れた癖の形を目で追い、知らず体が震える。
「千歳君、一体どうしたの?」
恭弥が階段を下りてきた。食い入るように写真を見つめる千歳と白瀬を交互に見やりながら、
「何が……」
困惑しながら千歳に近づいた彼は、千歳の持つ写真を認めて顔色を変えた。振り返り、恭弥は白瀬を睨む。
「白瀬さん、何をなさったんですか?」
きつい口調で詰問された白瀬は、ああ、と気の抜けたような返事をすると、
「いやなに、風に飛ばされたのを拾ってな」
空っ惚ける白瀬に、恭弥は眦を吊り上げた。
「あの記者から写真を奪ったんですか?」
「ははっ、人聞きの悪いことを言わないでくれ。風のせいだ」
「都合良く写真を巻き上げる風が吹いたとでも?」
「まあ、ほれ。都会のビル風は強烈だ」
「白瀬さんっ!」
のらりくらりと追求をかわす白瀬に、とうとう恭弥は一喝した。非難も露わに、白瀬を睨みながら、
「ああいった手合いに手を出すと、それを逆手にとってどんな言いがかりを付けてくるのか分かったものではないんですよ。短絡的な行動は控えて頂かないと」
「ま、風のせいだ。そんなに怒りなさるな」
あくまで白を切る白瀬に、恭弥は肩を怒らせた。いい加減、堪忍袋の緒が切れかけたようだが、息を吐き、何とか自制すると、
「あの記者の思惑がどこにあるのか、背後に何が潜んでいるのか分からない以上、楽観的に考えるのは危険です」
「だろうな」
白瀬はのんびりと恭弥に同意した。
「いずれまた、何かと理由をつけてやって来るだろうさ。写真を無くしたとなれば、今度はもっと、決定的な何かを持ってきてくれるんじゃないかな?」
飄々と笑ってみせる白瀬に、恭弥は低く唸る。
「……そこまで見越しておいでなら、なおのこと慎重になって頂かないと」
白瀬と恭弥の口論を、千歳は写真を見つめながら他人事に聞き流していたが、ふと顔を上げ、美代子を見た。
「――あの、師範。捜し物は見つかったんですか?」
千歳は電話口で正樹が話していた御神託の覚え書きについて尋ねた。職務に忠実な美代子がここにいるからには、目当ての品が見つかったということだろう。
「ええ。社長の机に置いておきました。明日、戻られてから確認なさるそうです」
「見てもいいですか?」
千歳の要求に、美代子は口を閉ざした。静かに千歳を見やり、
「構いません」
袖から鍵を取り出し、差し出す。恭弥と白瀬も口論をやめ、千歳と美代子のやり取りに目を向けている。
「……千歳君?」
恭弥が声を掛けようとするが、千歳の尋常ならぬ雰囲気に思わず口を閉ざす。
「捜し物というのはもしかして、例の覚え書きのことかな?」
社長室の鍵を受け取っていると、上階の手すり越しに顔を出した宇佐見が口を挟んできた。千歳を追ってきたのだろうが、捜し物という一言を、即座に御神託の覚え書きと結びつけるあたり、賢しいことこの上ない。
「それは是非とも見たいね」
図図しく笑ってみせるが、言葉とは裏腹に、あまり期待はしていない様子だ。
「正式なお披露目は明日行いますので、外部の方はお控え下さい」
美代子はぴしゃりと断った。予想通りの反応に、宇佐見は肩を竦めてあっさりと引き下がる。美代子は再び千歳に目を向けると、一ミリも表情を変えずに、
「持ち出しはなさらぬように。それから退出時は必ず施錠して下さい」
「……分かりました」
千歳は頭を下げると、その場を後にした。背中に無数の視線を感じながら。
(多分、絵だと思う)
社長室の鍵を開け、引き戸に手を掛けながら、千歳は考える。
(見れば一目瞭然と言うなら、絵以外に考えられない)
御神託の内容を絵に描き表したというなら、いかにも正樹らしいやり方だ。
千歳が御神託の覚え書きを見たいと言ったのは、単にその場を離れたかっただけで深い意味はない。
用意された客室へ行けば一人にはなれるだろうが、そこまでの道すがら、あれこれと聞かれる恐れがある。よしんば千歳を思いやって質問を呑み込んでくれたとしても、気まずい沈黙に耐えるだけの余裕は、今の千歳にはない。
とうの昔に消失したはずの写真を入手したことで、心の奥底に沈めた過去が浮き上がりそうなのだ。今にも耳に、こもった水の音が聞こえそうになる。何か別の物事で気を紛らわせたい。それだけだった。
千歳は照明の壁スイッチを押した。薄暗い室内が、途端に眩しく照らし出される。
社長室と銘打っているが、実質社長専用のアトリエである室内は、千歳が予想したより片付いていた。覚え書き捜索の傍ら、美代子が片付けをしたようで、普段床に所狭しと散らばっている紙片や訳の分からない小物類は、今は見当たらない。
元専門学校のスタジオ・ホフミ社屋は、一部、当時の面影を残している。
特にこの五階アトリエフロアは、外部の人間が立ち入る頻度も少ないということで、改装の際、それほど手を入れていない。規則的に配置された窓や等間隔に突き出た支柱などは学校そのもので、作品制作の工房として使用されている元教室も、防音工事を施した程度以外は在りし日の姿をとどめている。
元はオーソドックスな教室だったことが窺える広い空間には、可動式の大型イーゼルやキャビネット、様々なデザインの椅子がそこかしこに散在している。
出入り口として使用しているのは後ろの扉だけで、教壇側の扉の前には、千歳がストリートピアノで使用した物と同型のアップライトピアノが引き戸を塞ぐように置かれていた。
高窓のある廊下側の壁には頑強なラックが組まれ、パネルや紙束の収納スペースとして機能している。反対側の窓辺には、もっぱら社長の昼寝に使われるソファが、クッションや毛布、平べったいぬいぐるみといったくつろぎグッズで埋まっていた。
社長の机は、かつては教壇だった黒板前に、鎮座と呼ぶにふさわしく置かれていた。
袖引き出しのない、シンプルな横長の机には、絵画制作用の大型の液晶ペンタブレットが置かれ、四枚の液晶モニターが専用フレームによって支えられている。音楽制作のスタジオは別にあるが、キーボードやスピーカーといった音響関連の機器類も一通り揃っていた。
机の下には書籍や引き出しの詰まったワゴンが雑然と並び、中央にはハイバックのオフィスチェアが、主人が立ち上がった時の角度を維持して置いてあった。
千歳は机の内側へと回り込んだ。羽箒や毛筆やら、様々な筆記具が一緒に押し込まれた陶器の筆筒の側、持ち手付き文鎮の下に、目的の物はあった。
裏表に伏せてあるのは、八つ切りサイズの画用紙だ。
文鎮を外し、両手で慎重に持ち上げる。
散見するかすれた汚れはオイルパステルだろうか。挟んだ指を支点に、千歳は画用紙を半回転させた。
表れたのは、色彩豊かな絵だった。見立て通り、オイルパステルで着色されているが、やけに大雑把な印象だ。
コーティング材で保護されているらしく、指先に汚れが付着しないのはありがたいが、
「……?」
見る向きが違ったのか、何が描かているのかよく分からない。千歳は画用紙を左右に回し、縦に持つことで、ようやく情景の意味を読み取ることに成功した。
――そして千歳は愕然と言葉を無くした。
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