顔
消灯を確認してから千歳は食堂の扉を閉めた。先で待つ二人に追いつき、三人揃って廊下を歩き出す。
澤渡は、年を聞けば十八と答えたので、来年度、三年へ進級する宇佐見よりは一つ年長だ。だが思考能力や洞察力は同程度らしく、ことに仕事の話は合うらしい。
「整形?」
廊下を歩きながら件の記者について、宇佐見と意見を交換していた澤渡は怪訝に顔をしかめた。
「そう。あの記者は、未成年に会社命令で整形を強いているのではないかと疑っていたね」
引き続き議論を交わす年上二人の会話に、千歳は黙って耳を傾ける。
「回りくどく小出しに話していたけど、おおよそ間違いないよ」
「愚にも付かんな」
澤渡は下らなそうに息を吐いた。
「その記者は、整形が審美目的のみで施術されるとでも思っているのか? 医療術に対するひどい偏見だ」
前方を見つめながら澤渡は、
「そもそも芸能入りを目的に見栄え良く顔を整えてくれと頼んだところで医者は難色を示すだろう。顔は成長と共に変化する。年端もいかないうちは、施術するだけ無駄だとな」
「まあ、その通りなんだけど」
宇佐見は肩を竦めて、ただ、と付け加える。
「記者が言うには、所属するアーティストに事故で治療を余儀なくされた者がいたはずだと推測した上で、その際、よしなに取り計らったのではと勘ぐったようだ」
澤渡は眉をひそめた。
「……やけに具体的だな。確証でも得ていたのか」
「物証だよ。写真というね」
(写真)
二人の会話を聞くともなく聞いていた千歳は、その単語に、つまづくような引っかかりを覚えた。
エントランスで蹲っていた記者が手にしていたインスタントカメラの写真。白い枠と文字を思い出した途端、再び胸が冷たくざわつく。
(あれは)
(あの、写真は……)
「――碓氷君」
宇佐見に名前を呼ばれて、千歳ははっと顔を上げる。沈みかけた思考が引き戻されて、千歳は慌てて、
「すいません、ちょっとぼーっとしちゃって」
てっきり千歳の歩く速度が落ちたのを見て声をかけたのだと思っていたが、宇佐見の指摘は別だった。
「君の事だと思うよ」
「? 何がです?」
「あの記者の来訪目的」
「……それは」
千歳が反応するより早く、澤渡が足を止めた。つられて二人も足を止める。
突然立ち止まった澤渡に、千歳は言いかけた言葉を半端に切った。何事かと訝しむと、澤渡は前方を鋭く見据え、警戒するように口を引き結んでいる。
彼の見つめる先には応接間から歩み出る白瀬と恭弥がいた。硬い顔つきの恭弥と、相変わらずのほほんとした白瀬は、何事かを話し合いながら、並び歩み来る。
どうやら今の今まで打ち合わせが続いていたらしい。ようやく終えて、帰路に就く二人の目的がエレベーターであるのは間違いなさそうだが、そのエレベーターホールにいるのが千歳達である。
「――面倒な」
「間が悪かったね」
小さく吐き捨てる澤渡に、宇佐見も冷ややかに追従する。
だが千歳は、それどころではなかった。
「……あの、先輩」
近づく白瀬を警戒する宇佐見に、千歳は小声で、しかし縋るように話しかけた。
「ん? ――ああ、続きね」
宇佐見は、前方に注意を向けながら、気もそぞろに、
「君は神域で溺れたと話していたね。あの記者はそれを事故と認識していたようだけど、その治療で、君が審美整形をしたのではないかと疑っていたよ」
千歳は自分の顔から表情が抜け落ちるのを感じた。
「あの写真を元手にね」
宇佐見は特別何かを含ませるような話し方はしていない。むしろ白瀬の存在に気を取られ、片手間に千歳の相手をしている様子だ。
「……俺は、整形なんて、してませんよ」
千歳は殆ど呆然と口を開いた。言いながら、自分が何を話しているのか、聞こえない。
「だろうね」
否定する千歳を、宇佐見は取り立てて追求しなかった。
ただ、さらりと流れるように、それを口にした。
「君は一度、死んだから」
――千歳君、何か顔、変わってない?
そう言って首を捻ったのは、誰だったろう。
両親を亡くした千歳が親戚に引き取られ、しばらく経った頃の話だ。
指摘したのは一人や二人ではなかった。しかし、なら、どこが変わったのかと尋ねれば、明確に説明出来る者は一人もいない。
昔の写真と照合すれば、あるいは差異を見つけることは出来たかも知れないが、それは無理な話だった。千歳は両親を亡くす同時に、住んでいた家も失っていたのだ。
――別にいいじゃない、可愛いし。ねえ?
多少顔が変わったとして、成長過程における些細な変化だと、親戚達は好意的に受け止めた。
千歳が千歳であることに変わりはないと、その疑問は日々の生活を営む間にあっさりと忘れ去られた。
この頃、親戚達にとっての最優先事項は、家も家族も失った千歳の心を癒やすことにあり、そのために心を砕いてくれた。
親戚は皆、千歳に親切だった。
だが、誰もが忘れたその疑問は、靴に入り込んだ小石のように、千歳の心をことあるごとに刺し続けた。
正樹の元へ引き取られることになったとき、千歳の面倒を見てくれた術者が答えをくれた。
――神域はあの世の別称に他ならない。その境に流れるのは、水と似て非なる霊力の流動体。万物が回帰する生命の源泉であり、死へ通じる淵でもあるそこは、すべからく生者の肉体を融解する。
――そこから帰還するという事は、すなわち蘇りを意味する。
――つまり君は、一度死に、
「神域の力によって、新たに生まれ変わった。君の顔立ちが理想的な比率に叶い整っているのも、溶け落ちた肉体が何らかの理由で再構成された際に、神域の霊力が全身にくまなくチャージされたせいだろうね」
白瀬に気を取られているせいか、口調は淡泊だが、話す内容は無情だった。何より的確に千歳の事実を指摘している。
ここまではっきりと言われたのは、あの時以来だった。無遠慮な指摘に、千歳の頭は真っ白になる。宇佐見の言葉の大半が、耳の右から左へ上っ滑りに流れていくように感じたが、胸には重く鋭く突き刺さり、そのまま貫通する勢いだった。血の気が引き、代わりに冷や汗が吹き出る。
そしてその動揺は、何も宇佐見の言動に対してだけではなかった。
(……顔)
(写真……)
呆然とする千歳など眼中にない様子で、宇佐見はまるで、教本を読み上げるように続けた。
「実際、安定した容れ物は大抵左右相称だ。神域の縁故に美相の者が多いのは、神域から流れ出すその霊力を充分に蓄えた、霊力の容れ物に相違ないか――」
「そこまでにしろ」
淡々と話す宇佐見を、佐渡が鋭く遮った。静かな声音には、これまでとは段違いの怒気をはらんでいる。底光りする目が、宇佐見にこれ以上言葉を重ねることを制していた。
「……おや?」
宇佐見は目を瞬いた。どうやら、自分が語る言葉の内容を、まるっきり考慮していなかったらしい。少々面食らった顔をしていた彼は、しかしすぐに笑みを浮かべる。
「やあ、少し口が過ぎたようだね。すまない」
肩を竦め、冗談めかしてみせる。反省の色などどこにもないが、澤渡も、近づく白瀬を気にして、強くは言えない様子だ。つけ入るように宇佐見は笑うと、千歳に顔を向け、
「まあ、碓氷君の事情は、この程度には理解しているよ」
「宇佐見っ」
澤渡が叱責を飛ばすが、それで宇佐見が黙るはずはなかった。
「最初に彼の挨拶を聞いた時から、有り体に言えば君の顔を見たときから、厄持ち以外の可能性として推測はしていたんだよ。君が神域で溺れたと話したことによって確信を得た。 ――恐らく、他の誰もが」
――堕ちる者は、確かに存在する
千歳の脳裏に、弦之の言葉が甦る。
つまり彼は、こう言いたかったのだろう。
――昇る者も存在する。貴方のように。
「……我々の暗黙の了解をかいつまんで説明したとでも言いたいのか?」
澤渡が低く唸った。最早白瀬などそっちのけで、全警戒を宇佐見に向けている。
「僕たちが碓氷君を警戒した最大の理由だろう? この際はっきりさせた方が彼も気が楽なんじゃないかな? 変に気を遣って口を閉ざすにも限界があるだろうし、考えようによっては、そちらの方が薄情だ」
しゃあしゃあと言ってのける宇佐見に、佐渡はひどく冷めた目を向けた。口の端を吊り上げ、厳然と、
「人が言い辛いことをあえて口にすることが思いやりとでも思っているのか? 意味の無い事をするな。そんなものは、ただ人の間に不和をもたらすだけと、何故分からないっ」
「……あの、先輩」
千歳はようやく口を開いた。俯き気味に、廊下の床材を焦点定まらず見つめながら、
「写真は、何が、写っていましたか……?」
知らず、唇が震える。
放心状態の千歳に澤渡が何か声を掛けようとするが、宇佐見の方が早かった。
顎に指を掛け、思い返すような素振りで、
「室内で映した子供の写真だったよ。ピンボケがひどい上に、画面の大半がその子供のピースサインで埋まって」
充分だった。
皆まで聞かず、千歳は駆け出す。
「碓氷君?」
「待てっ……、?」
止めようと手を伸ばす澤渡の横をすり抜け、エレベーターホールの脇に設けられた非常階段へ千歳は向かう。
視界の端に、白瀬と恭弥がこちらに気付いて、驚いている姿が入ったが、どうでも良かった。
(……知ってる)
階段を駆け下り、踊り場に着地すると、手すりを掴んで、振り子のように体を回転させると、下へ向かう。
(あれは)
(母さんが撮った写真だ)
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