後片付けの合間に

「――では」

 クリーナーを片手に、千歳は毅然とワイトボードの前に立つ。自ら描いたヌエの絵をキッと見つるその面持ちは、しかし徐々に青ざめてゆく。

(ホント、いらん事聞いちゃったよ……)

 描いた時でさえ気味悪かった絵だ。情報を得て、更に恐怖が追加され、千歳はぐったりしながら、

(とっとと消してしまおう)

 クリーナーを大きく振りかぶっていると、

「手伝おう」

 澤渡が声を掛けてきた。彼は袖をまくり上げながらホワイトボード周辺を見回す。

「クリーナーの予備はあるか?」

「あ、ワゴンにあったはず……」

「そうか。ならそれを借りよう」

 言うや否や、流れるような手つきで千歳の手からクリーナーと抜き取ると、さっさと絵を消し始めた。手伝ってくれるのはいいが、随分と強引だ。

 手際よく端から絵を消していく澤渡に呆気にとられるも、手持ち無沙汰でいるわけにもいかない。千歳は急いでワゴンに向かうと、予備のクリーナーを取り出し、澤渡とは反対側の端から作業に入った。

 手を動かしながら、

「済みません。付き合って頂いて」

「仕事柄、最終確認をする癖がついてしまった。習性だ」

 素っ気なく応対する澤渡に、千歳は、はあ、と気の抜けた返事をする。

(職務熱心かな?)

 当たり障りのない感想を抱きつつ、千歳は首を巡らせた。

「で、先輩は?」

「僕かい? まあ、気にしないで」

 手伝ってくれる澤渡は良いとして、片付けを手伝う素振りも見せず、腕組みしながら二人を観察する宇佐見に、千歳は胡乱な眼差しを向けた。その視線に宇佐見は顎に手を掛けると、急に真面目くさった顔つきで、

「実は、僕に対する君の心証が良くないような気がしてね。挽回しておこうかと思ったんだよ」

「ははっ、そうですか」

 わざとらしい神妙さで告白する宇佐見に、千歳は営業スマイルを浮かべて応じる。内心、うざ、と鬱陶しがっている事などおくびにも出さず、愛想良く受け流して作業に戻る千歳に、宇佐見は芝居がかった口調でさらに続けた。

「神域の加護を受けた者から信を得ると、運が上がるというしね」

「先輩、てきとー言ってます?」

 うふふ、と千歳は笑ってみせる。

「いや、本当だよ、嫌われると逆に下がるとも言われているね」

 あはは、と宇佐見も朗らかに笑う。

 黙って二人の会話を聞いていた澤渡が、これ見よがしに嘆息した。

 白々とした空気が流れる中、

「あ、じゃあ」

 思いついて、千歳はホワイトボードから離れると、ドリンクサーバーから飴の入った竹かごを持ってきた。

 千歳の動向が気になるのか、作業を中断してこちらを見ていた澤渡を交え、二人に飴の種類を説明をすると、千歳は竹かごを宇佐見に差し出した。

「――以上を踏まえて、先輩、飴をどうぞ」

 宇佐見は、ほほうと興味深く飴の小山に目を向ける。

「運試しかい? よしきた」

「澤渡さんも、よければ」

「頂こう」

 飴を取ろうと手を伸ばしかけていた宇佐見は、澤渡の返事に、おやと目を見開く。

「君も運試しに興味がおありで?」

 茶化すような宇佐見など目もくれず、澤渡は飴を一つ、迷いなく摘まみ上げた。赤く澄んだベリーミックス飴だ。

「丁度小腹が空いたところだ」

 澤渡はフィルムを破きながら素っ気なく言った。

「それに今後、自分の生活圏内に頭痛をもたらす相手がいることを考慮すれば、甘いもので気を紛らわせたくもなる」

 宇佐見の存在が苛つくと含ませながら、澤渡は飴を口内へと運んだ。

「成程、それは大変だ」

 宇佐見は自分が煙たがられていることを棚に上げ、同調するように頷く。

「しかして、水面に揺れる木の葉の如く、心乱れるのもまた一興」

「わあ、詩人ですネ」

 いきなり訳の分からないことを言い出した宇佐見に、千歳は棒読みで感想を述べた。ところがどうして、その賞賛に気を良くした宇佐見はふふんっと、得意気に鼻を鳴らした。

「いやいや、これで期待しているんだよ、碓氷君には」

「期待ですか?」

「厄持ちでないにせよ、君は選ばれた者だろう?」

「……どういう意味でしょうか?」

 宇佐見が嫌な方向へ話を持って行こうとしていることを察して、千歳の表情が固くなる。

「神域に関わる事自体が希有なんだよ。そういう目立つ人間は色々狙われやすい」

「狙うなんて大袈裟な」

 千歳は強ばった表情の上に、無理矢理笑みを貼り付けた。

 そんな千歳を見ながら宇佐見は笑みを深める。冗談めかした口調はそのままに、

「強欲で恥知らずな人間は実は大勢いる。そしてそういう人間は、目的の為ならいとも簡単に周囲を犠牲にする。選ばれた者の側はいわば危険区域だ。本人の意思に関わりなく周囲を巻き込む。 ――こんな風に」

 宇佐見は千歳の持つ竹かごに手を伸ばし、淡い色の合間に埋もれたアタリ飴を、周囲の飴と一緒に掴んだ。持ち上げた手首を返し、千歳の目線に合わせ、開く。

「ね?」

 抹茶色のアタリ飴と、巻き込んで掴み取られた淡い数個の飴を千歳に提示しながら、宇佐見は柔らかく笑った。その底知れぬ笑みを、千歳は表情を消して見返す。

「――分かりました。気をつけます」

 慎重に言葉を選びながら、しかし千歳ははっきりと、

「先輩には」

 千歳の返答に、宇佐見は満足そうに喉を鳴らして笑った。

「うん、そうだね。これからの寮生活は、きっと楽しいイベントが目白押しだ」

 心底楽しそうなその声音は、本心からそう言っていることが窺えるほど浮かれていた。

 浮かれまま、宇佐見は普通の飴をウエストポーチへ収納すると、手に残したアタリ飴のフィルムを破り、躊躇いなく口へ放り込んだ。千歳はその一連の動作を静かに見守っていたが、ややって、

「…………うーん、成程」

 笑みを浮かべたまま、宇佐見は顔色を悪くする。明らかに具合を悪くした宇佐見に、千歳はひんやりと、

「それは濃厚青汁飴です。厳選された青汁をオリジナル製法で風味豊かに仕上げた逸品ですね。真ん中には生の粉末が入った二層構造になっていますよ」

「それはそれは。……ちょっと失礼して、自販機を使わせて貰うよ」

「あちらにウォーターサーバーが」

「ありがたい」

 千歳が場所を示すと、宇佐見は小走りで向かった。

 急ぎ水をあおる宇佐見の背を眺めながら、それまで黙って会話を聞いていた澤渡が、濃厚青汁飴か、と小さく呟く。

「失礼を承知で尋ねるが、あれを選ぶ者はいるのか?」

「ええ。温めた牛乳に溶かして飲むと美味しいそうです」

「そうか……」

 澤渡は複雑そうな面持ちで、相槌を打った。

 宇佐見がアタリ飴ショックから立ち直る頃には、ホワイトボードは元の白さを取り戻していた。

「終わったな」

「ありがとうございます」

 澤渡に礼を言うと、千歳はワイトボードを元の場所へ移動させる。

「やあ、ご苦労様」

 宇佐見が笑顔で労う。その顔色はまだ優れない。

 少々やつれた笑みを浮かべる宇佐見に、とうとう澤渡がため息交じりに言った。

「道化気取りに必要悪を演じているつもりかは知らんが、見苦しいだけだぞ」

 澤渡が辟易とした様子で忠告すると、宇佐見はしかし、懲りた様子もなく言ってのけた。

「僕はいつだって真剣だよ。それに物事の判断基準に善悪を用いたことはない。有益か発見かが全てさ」

「完全に悪党の思考ですね」

「よく言われるよ。 ――全く以て心外だ」

 千歳の突っ込みに、宇佐見は珍しく真面目な顔つきで答えた。

(とんでもない危険人物か、盛大に空回っているかのどっちかだな)

 小物をワゴンに収納しながら、千歳は一層警戒を増す。澤渡は疲れたように嘆息した。

「軽口が過ぎると、信頼を損なうことになるぞ」

「おや、その発言は、既に僕のことを信頼していると受け取ってもいいのかな?」

 宇佐見は他人の言動をポジティブに受け取ることを信条にしているのか、嬉々としながら聞き返す。懲りない宇佐見に、澤渡は頭痛を堪えるような表情で、

「初対面の相手を手放しに信用するなど無責任もいいところだ。俺が言いたいのは、貴方が所属する組織に対する信頼のことだ」

 この忠告は、思いの外宇佐見に効いたらしい。

「組織ね……」

 小さく口の中で反芻すると、

「確かに、迷惑を掛けるわけにはいかないな」

 ふむ、と頷き、やおら表情を改めた。

「流石の僕も、あの記者のような大人にはなりたくないし」

 独りごちるような宇佐見の台詞に、千歳は不審な目を向ける。急に素直になったところで、今更信用出来たものではないと訝しみながら、

「エントランスで倒れた人ですよね? まさか知り合いだったんですか?」

「いや、あまりにも騒がしいから鳥を飛ばして様子を視ていたんだよ。随分と執念深い御仁でね。少々乱暴だったが、八房殿が追い払わなければ、騒ぎはもっと大きくなっていたかもしれない」

「弓削殿が神経を尖らせていたが、ああいった手合いは多いのか?」

 宇佐見がしれっと会社の玄関先で術を使った事を漏らすが、白瀬がいない以上、そこまで目くじらを立てる必要はないのか、澤渡はその点については指摘せず、千歳に別の質問をした。

 千歳は少し考えて、

「これまでは玄関先まで押しかけてくるような事はありませんでしたけど、社長や会社の影響力次第では、今後注意が必要になるかもしれません」

 スタジオ・ホフミの評判は、発足から年を重ねるごとに増している。

 名声は人を呼ぶ。それが招かれざる者であっても。芸能を生業とするならば、なおのこと顕著だ。警備員が常駐しているとはいえ、留意する必要はあるだろう。

「敷地内に結界を張っておけば、ある程度は防げるよ」

「そういう術は使ってもいいんですか?」

 宇佐見の助言に、つい千歳が食いつくと、

「ダメに決まっているだろう」

 澤渡が呆れ顔で釘を刺した。

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