ヌエの生態を学びましょう

 弦之からの思わぬ忠告に千歳は目を丸くした。その横でつまんだ飴を裏返し見ていた稔が動きを止める。

 弦之はそれほど深刻に話したつもりはないようだった。顎に手を当て、今度は飴の検分に入っている。

 よって千歳もごく気軽に答えた。

「いや、それとなく尋ねたことはあるんだけど、返答を濁されて」

「――確かにそういったきらいはございます。あれらの説明は容易くありませんが……、そうですね。

 ――ヌエは、古に邪な術で作り出されてからこの方、分裂を繰り返し、増殖を続けています」

「はあ」

(何か話し出したぞ)

 適当に相槌を打ち、しかし千歳は(まあ、いいか)と真面目くさった顔を作る。

 二人に挟まれた稔が、飴をつまんだまま固まっているのは気になるところだが、あえて無視をし、千歳は弦之に会話を合わせた。

「有史以前からいるんだっけ」

 街中で不安定にフラつく黒い魔物が、その希薄さとは裏腹に、ゴキブリ並みの繁殖力を持っているのだと知れば、数気味悪くもなるものだ。千歳は顔をしかめながら、

「年代物だね」

「ヌエは人の世に絡みつき、人間関係に必ず生じる齟齬や不和を嗅ぎつけ、獲物を求めて寄り集まってきます」

「獲物、人間の精気かあ……。俺は吸われたことはないけど、やっぱり霊力の高い人間が餌として狙われるの?」

「いいえ。そういった者はむしろ攻撃対象ですので、獲物にはなりません。ヌエの嗜好には偏りがございます」

 適度に笑みを交えながら会話に付き合っていた千歳は、意外そうに目を見開いた。

「そうなんだ? じゃあ獲物として狙われる人には特徴というか、タイプがあるってことかな?」

「ええ、ございます。ヌエと同じ精神性の持ち主、有り体に言えば、卑怯者です」

「ええ……?」

 千歳は顔をしかめた。

「清らかな心の持ち主とかじゃないんだ?」

「獲物となる者はヌエの嗜好が反映されます。気に入った相手を獲物と見定める。人同士でも、好ましい相手というものは、自分と似た感性の持ち主でしょう」

「あー……、成程」

 言われてみれば、確かにその通りだ。

 しかしあのヌエと同じ精神性の持ち主となると、必然、とんでもない性悪ということになってしまうような気がするが。

(あの女の人が歪んで視えたのは、ヌエに影響されただけじゃなかったのかもしれない)

 密かに考え、千歳は何となく胸が悪くなる。

「ヌエは霊力の高低に関わらず、望んだ者に己の姿を見せることが出来ます。獲物と見定めた、いえ、見初めたと言った方が的確でしょうね。その相手を籠絡するために、他者から奪った精気を与え、見返りとして、その者の精気を要求します」

 愛想笑いをしながら、千歳は一瞬「?」となった。何か、とんでもない情報が混ざっていたような気がしたのだ。

(奪った精気を、与える? え? 与えるって……)

 弦之の言葉を吟味しようとするが、同じ単語がぐるぐると頭の中で空回り思考が先へ進まない。

 密かに混乱する千歳を余所に、弦之の流暢な説明は続く。

「つまりヌエは、獲物に取引を持ちかけるのです。獲物となった者は、元よりさもしい性根の持ち主。他者に謂れのない恨みを胸の内に募らせておりますので、簡単に取引に応じるといいます。

 ヌエの狡猾なところは、獲物が妬む相手を正確に突き止め、その者の精気を差し出す点にありますね。憎い相手から精気を奪い、我が物に出来るとあれば、これほど小気味良いことはない。獲物の心理を巧妙に突いた、実に狡猾な手口と言えるでしょう」

 一端言葉を切り、弦之は内容を理解出来たかどうかを確認するように千歳に目を向けた。

 千歳は勿論、弦之の言葉を理解した。単純な話だ、恐ろしく。

 だが、その意味を深く突き詰めて考えようとすると、奇妙に空転していた思考が途端に処理を拒絶する。

 精気を与える、差し出す、取引といった弦之の言葉の端々が頭の歯車にガッチリと挟まり、回転を阻害するのだ。

(ちょっと待て。それって……)

 脇の下を嫌な汗が流れる。顔色を悪くした千歳に、弦之は表情を曇らせた。

「なるべく簡単に説明したつもりでしたが、分かりづらかったでしょうか」

(違う、そうじゃない)

 申し訳なさそうに詫びる弦之に、千歳は内心激しく動揺しながらツッコミを入れた。

(それは、だから、つまるところ……)

 頭の中であらん限りの接続語を繰り返しながら、助けを求めるように稔を見ると、飴をつまんで固まっていた彼は、千歳の視線を避けるように、すいっと顔を背けた。

 気まずさを通り越して居たたまれないといったその表情が、弦之の言葉が事実であると裏付けしていた。

 稔に拒絶された千歳は黙って顔を戻すと、固い声で、

「いえ、どうぞお構いなく、続けてくだサイ……」

「顔色が優れないようですが?」

「暖房が効き過ぎてるのかな? えー、それで、ヌエは何故そんな回りくどい真似をするのでショウカ?」

 気遣う弦之に引きつった笑顔を向けながら、千歳は機械的に尋ねた。

と言っても、本質を無視した上っ面の質問だが。

 弦之は心配そうな顔をしていたが、千歳の言葉を尊重したようだった。小さく頷き、

「ヌエが獲物を求めるのは、精気を自分好みに調味せしめるためです。ヌエが敵と見なす相手は、大抵まっとうな精神の持ち主ですので、精気を奪ったところで嗜好には合いません。ですから獲物に奪った精気を蓄え、熟成する。酒樽のように仕立てるのです」

「………………」

 輪を掛けて理解を超えた情報に、千歳の意識は遙か彼方へ飛ぶ。口の端は下がり、虚ろに開いた目は虚無を映しながら、

(酒樽て、仕込むて)

 能面の如く表情をなくした千歳に、弦之が問いかけた。

「――千歳殿、ヌエの向こうに女を見たとき、汚水にまみれてはいませんでしたか?」

 千歳ははっと我に返った。確かに、ヌエ頭部内の女は、汚水の詰まった金魚鉢に沈んでいるように見えた。

「ヌエから与えられた他者の精気を全身で浴び、啜っていたのでしょう」

「それは」

 千歳は、目が覚める思いで口を開いた。ようやく頭に血が巡るのを感じながら、

「――それはつまり、他人の精気を吸っているのは、あの女の人ってことになるよね?」

 ここまで説明されて、この結論に辿り着けない方がどうかしている。

「ええ、そうです」

 弦之は断言した。

「そうして肥やした獲物、ヌエ憑きを糧とし、ヌエは肥大します」

 千歳は呆然としながら、その言葉を聞いた。

 昔、己の若さを保つために、若い娘の生き血を浴びた貴族がいたという。後の世に語り継がれる残虐な行いだ。思い出し、ゾクリと背が粟立つ。

 他者の背にストローを挿し精気を啜る女の、更にその背にストローを挿し、自分好みに味付けされた精気を堪能するヌエ。そんな構図が、自然、頭の中で組み上がる。

 背後にヌエが潜んでいるとは言え、人が人の精気を吸う、有り体に言えば食人行為に他ならないその事実に、千歳は色をなくした。

 ヌエは幾度となく目にした魔物である。裏路地の物陰や、駅のホームの片隅に蟠り、にやにやと下品な笑みを浮かべながら人通りを物色しているのを、いつも目の端に捕らえてきた。

 しかしその内実を、これまで顧みることはなかった。

 取るに足らない魔物だと軽視していたこともあるが、ポイ捨てされたゴミのように、ありふれた日常に不意に映り込む世の中の醜い一面として、なるべく気にしないよう心掛けてきたのだ。

 それはヌエのおぞましい本質を無意識に感じ取り、深入りを避けていたに過ぎなかったのだと、ようやく気付いた千歳だった。

 恭弥を初め、交流のあった術者達はヌエの実情についてはぐらかす傾向にあったが、それは千歳に恐怖を与えないための、思いやりに他ならなかったというわけだ。

(うそぉー……)

 ぐらりと横にかしいだ上体を、ドリンクコーナーのカウンターに手を突いて支える。 カウンターの木目を呆然と見つめ、

(い、いらんこと聞いちゃったよ)

 軽い気持ちで質問をした事を、今になって後悔する千歳だった。ヌエは、街中で見かける割合の高さでいえば、ダントツだ。護符の加護があるとは言え、すぐ側を通り過ぎる事さえあるのだ。

(しばらく出歩けないかも……)

(いや、それより)

 余計な知識を得て竦み上がる千歳だったが、気になることは他にもある。千歳は上体を折り曲げたまま、恐る恐る首をよじって弦之に顔を向けた。

「……降霊術でヌエが増えるって話、アレは一体?」

「昨今出回っている降霊術は、呪詛が元になっているそうですね。元より他者の財産や生命を奪う目的で開発された呪術、その使役として作られた魔物ですので、本能で集まるようです」

「へえ……」

 力なく返事をする千歳。だが、本当に知りたい情報は別だ。

 ここまで話を聞いたのだ。今更躊躇ってどうするよ、と意を決して、

「……あの、ヌエと取引をした人は、結局最後、どうなるんですかね?」

 澤渡や稔がかわした質問だった。彼らは死は免れるとは言った。その末路は、半々だとも。

 だが、死以上の報いを受ける事は必至だと、今の千歳なら分かる。

「まずは人の形を失います。泥溜まりと呼ばれていますが、生きたヘドロとお考え下さい」

 早速とんでもない情報が来た。青ざめながら、しかし千歳はぐっと堪え、無理矢理笑みを作ると、

「そ、それは何故カナ?」

「ヌエは獲物に他者から奪った精気を与えますが、それ以上の精気を吸い上げます。肉体を維持する力を失い、しかしその事実に気付かぬまま、ヌエが放つ微細な振動に当てられ続け、結果肉体が崩壊します」

「それ、死んじゃうよね?」

「いいえ、生きています。人とは別の生き物ですが。問題はその泥溜まりが、人間にとって非常に有害である点です」

 人が生きたまま、別の生き物になる点はどうでもいいのだろうかと、千歳は虚ろに考えるが、弦之の顔つきを見る限り、わざわざ確認するまでもないだろう。

(自業自得って考えてそう……)

「泥溜まりは、日光や流水で簡単に浄化出来ますので、放置してもいずれ消滅しますが、少しでも残ると別の魔物、主に悪霊ですが、その発生源になりますので、なるべく人の手で処理することが望ましいですね」

「ソウデスカ……」

 愛想笑いが乾いていくのを感じるが、千歳に取り繕う気力はなかった。

「今回のようにヌエを退治することが出来た場合は、泥溜まりから自然浄化、残留した泡沫から悪霊発生と、型通りに進む公算が高うございますが、ヌエが退治されず、獲物が限界を迎えた場合は、ヌエの培養土になります。ヌエの発生源ということですね。

 昔、ヌエを真菌、キノコを利用して作られた人造魔だと考えられた時期がありましたが、その理由となった生態が、泥溜まりに群生するところ――」

「……なあ、山城サン」

 カウンターに頬杖を突きながら、黙って話を聞いていた稔が、見かねた様子で口を挟んだ。弦之は訝りながら説明を中断する。

「説明に不備でも?」

「いや、そうじゃなくて」

 稔は目で下を示した。追うように視線を下ろした弦之は、途端にぎょっとする。

「ち、千歳殿、どうされましたっ?」

 顔の横に握り拳をつき、カウンターに突っ伏す千歳の姿に、弦之は声を上げた。狼狽えながら、

「やはり、どこか具合が」

「いや、違うから」

 稔が冷静に否定した。

 ヌエの実態を、全容とまではいかなくとも、片鱗を聞かされ、千歳は完全にダウンしていた。脳内に、新たに入力された情報の密度と重量に押し潰され、プルプルと戦慄きながら、

(なんつー生態だよっ)

 声なき悲鳴を上げる。

 人の形を失った後、悪霊かヌエ、そのどちらかの魔物に養分にされるのが、半々と濁した末路の内実で間違いないらしい。その事実に、千歳はこれでもかと打ちのめされる。

 更に悪いことに、この衝撃を分かち合う相手が周囲にいない。

「多分疲れてるんだろ。甘いものでも食べる?」

「でしたら、水の方がよろしいのでは」

 一人、苦悩を抱える千歳を、稔は飴を振りながら適当に、弦之は至って大真面目に気遣う。

「……………………水でお願いします」

 息も絶え絶えに、千歳は請うのだった。

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