仲が良いのか悪いのか
社員食堂は一階ホールとほぼ同じ内装で整えられていた。
木目調に統一された広い食堂は、給湯室と自販機があるだけで調理場はない。長机と椅子が規則的に並び、窓際にはカウンター席が設けられた広い休憩スペースは、ホールほど凝った内装ではないが、吊り下げ式の照明器具が淡く輝く落ち着いた空間だ。
周辺に視界を遮るような高い建物がないため、窓からの見晴らしは素晴らしく、今は暗い夜空に、遠く都心のビルの明かりが丘陵のように群がって見える。
千歳の記憶通り、壁面の隅にキャスター付きの大きなホワイトボードが二枚、重なって置いてあった。その内の一枚を引き出し、見やすい位置へと移動させた千歳は粉受けを見て、
「ペンがない。――と」
もう一枚の粉受けを見るが、片付けは徹底されているようだった。
「適当に座って下さい」
言い置いて千歳は、ホワイトボードの横に置かれたワゴンの引き出しを開けた。中にはマグネットやクリップといった事務小物類がきちんと整理されて入っていたが、いかんせん量が多い。ホワイトボード専用ペンを探して、千歳はゴソゴソと引き出し内を漁り始めた。
「……もうこんな時間か」
制帽とマントを外し、一息吐いた澤渡が、壁掛け時計に目を向けながら口を開いた。露わになった頭髪は飴色の短髪だ。
「まったく、余計な口論に時間を割いてしまった」
「おや、そもそもの発端は貴方では?」
うんざりした口調の澤渡に、すかさず宇佐見が混ぜっ返す。
(いや、むしろ俺の失言が元凶だと思う)
ペンを探す傍ら、千歳は背後で繰り広げられる会話に耳を澄ませて気まずくなる。
「御統会幹部の前で市中での術の使用を公言するからだ。迂闊にも程がある」
「ありのままをお話しただけですよ?」
「それが不味いと言っている」
わざとらしく惚けてみせる宇佐見に、澤渡は舌打ちしそうな勢いで言った。
「実際問題、街に魔物が出没する以上、放置するわけにはいかないだろう」
澤渡の言葉に、千歳が「え?」と顔を上げた。振り返り、
「じゃあ、街で術を使っても、別に問題はないって事ですか?」
つい口を挟んだ千歳に、澤渡は畳んだマントを腕に掛け、制帽に視線を落としながら、
「状況による。術者はすべからく魔物退治の任を負う。人に危害を加えるのを見過ごす訳にはいかない」
だが、と断りを入れ、
「だからと言って全てを是とすれば、程度を知らない者が調子付く。それに、君のように、界に疎い者に抜け道を唆す様な真似は危険過ぎる。
――何より御統会が幅を効かせているこの現状で」
一端言葉を切ると、澤渡は制帽を弄ぶ手を止めた。
「隙を見せて介入の口実など与えるな」
ギロリと澤渡は宇佐見を睨む。鋭い眼光を宇佐見は笑いながらかわした。
「確かに。白瀬さんの立ち位置が分からない以上は、下手な事を言うべきではなかったよ」
肩を竦め、白々しいほどにあっさりと己の非を認める宇佐見に、一同、胡散臭い眼差しを向けた。カウンター席に陣取った稔が、頬杖を突きながら呆れる。
「ほーんと、つまんないことで喧嘩して、ガキくせえ」
(――思いっきり便乗してませんでしたか?)
稔の放言に千歳は内心突っ込みを入れつつ、気になってジルの様子を伺えば、彼はニコニコと不自然な笑顔を保ちながら、物珍しげに食堂内を見回していた。
その心情は、腕に抱いたポン吉の怯えきった表情から容易に察せられるというものだ。
(話題一つにつき、もれなく反目が二つは付いてくるのか……)
(面倒くさ)
寮生達の生態を半眼で観察し、再び引き出しに視線を戻した千歳は、かき分けた筆記具入れの底に、ようやく専用ペンを見つけた。手に取り、
「おー、発見」
「お願いします」
待ちわびた様子で、弦之が口を開いた。
清掃の行き届いたホワイトボードは目に白く、専用ペンもまた新品同様だった。
線を引く感触も滑らかで、千歳は俄然やる気がわいた。
簡単にあたりを取り、影法師のような歪な人型、ヌエを描く。その横に拡大した頭の内側もまた同時に描いていく。膝を抱えて座るような、あるいは何かをのぞき込むような格好をした女の姿だ。全体のバランスに問題がないのを確認して、微調整をしながら細部を整える。
「線を引く手に迷いがない。見事なバランス感覚だ」
澤渡が感心したように言った。率直な評価らしいが、描くことに集中する千歳は賞賛にも素っ気ない。
「そりゃあ、随分練習したからね」
「練習するだけで、そんなに上手く描けるか? 才能だろ、サイノー」
僻み混じりにぼやく稔に、千歳はつい失笑してしまった。稔がムっと機嫌を損ねたのを背中に感じながら、
「社長が言うには、絵は線が引ければ誰でも描ける、先人が残した技法の中から、自分に合った練習方法を根気よく積めば、上達も早いそうだよ」
「ふーん?」
「絵は才能ではなく、技術で描くものだから。自分が納得する絵を描けるようになるには時間はかかるけど、情熱が続く限り描き続ければいい。才能のあるなしは、ほとんどが他人の物差しだから当てにはならないし、行き着くところまで行かないと分からないのが才能だよ、だってさ」
「簡単に言ってくれるけど、持ってる奴の言葉にしか聞こえねー」
僻みと言うより、拗ねた子供のような物言いの稔に、千歳はそのまま言葉を続けた。
「絵を描くのに難しい事なんてない。そもそもこの世の中、難しい事なんて一つもない。全ては単純な物事が重なっているだけ。だから複雑に見せたり話したりする相手には気をつけなさい。って、まあ、これは関係ない話か――」
女の足のマニキュアを塗りつぶして、千歳はホワイトボードから少し離れる。全体を確認して、頷いた。
「よーし、完成。さて、如何でしょうか?」
描き始めてから十分強、ホワイトボードの脇へと移動し振り返ると、千歳は完成した絵を披露した。
おおっ、と全員が感嘆の声を上げる。
「凄いっ。上手いよ千歳。流石だねっ」
ポン吉を胸に抱いたジルが、はしゃいだ声を上げた。
「おー、スゲー」
「これは分かりやすい」
口さがない稔も宇佐見も、ここは素直に賞賛する。
「まあね」
ふふん、と得意気に賛辞を受け取る千歳。だが、肝心の弦之が無言のままだ。気になって目を向けると、彼は言葉もなく絵に見入っていた。瞬きを繰り返しながら、何かを見極めようと細かく視線を動かしている。
(一応、満足はしてくれたかな?)
邪魔しないよう声は掛けなかったが、不満はないように見える。
(気が済むまで、そっとしておこう)
この絵から何を見出すかは彼自身に任せるとして。
千歳はもったいぶって咳払いをした。
「答えられる範囲になるけど、質問は受け付けるよ」
気分良く、再び自分の絵に目を向けた千歳は、しかし一瞬ギクリとなった。自分で描いておきながら、ここで初めて客観的な目で絵を見たせいではあるが、画面の中のヌエの姿は、どうあっても生理的に受け付けない形状をしている。
具体的にどこが、とは言い表せないが、心がざわついて落ち着かない。嫌悪と苛立ちが沸き起こるような気がして、不愉快極まりなかった。
(まあ、実物よりかは大分マシだけど)
上手く描けたとはいえ、所詮は平面図。それもかなり簡略化して描いた絵である。実物の醜悪さにはほど遠い。
だが、鼻先に生臭さが蘇るような気がして、千歳は無意識に指の背を鼻孔に押し当てた。
「これがヌエの中ねえ……。連中、見た目も悲惨だけど、中身も大概だな」
しみじみ言うと、稔は千歳に目をやり、
「普段からこれだけ見えんの?」
「いや、頭の中がここまではっきり見たのは今日が初めてだよ。普段は黒い靄のようなものが、大人数の顔を象って揺れているだけだったから」
それだけでも充分に気味悪かった。それが今回、人相やあまつさえ着用している服まで判別出来たのだ。思い出し、
「流石に驚いたかな……」
「まあ、確かに強烈だわな」
背を寒くしながら零す千歳に、ホワイトボードに目を向ける稔も同調した。
「ヌエ本体のサイズが知りたい」
絵を注視しながら、澤渡が口を開いた。
「ああ、それなら」
口で説明するより、描いた方が早い。千歳は手に持っていたペンを再びホワイトボードに走らせると、ヌエの横に一般的な成人男性の素体を描いた。
「こんな感じですね」
「――体長は二メートル強、頭部は、六十センチ弱程度か」
新たに描き込まれた人物画とヌエの描画を対比しながら、澤渡は顎に手を当て推測する。
「碓氷君。ヌエとは別に、中の人物に存在感のようなものは感じなかったかい?」
「……ヌエと女の人を、別物として捉えたかということですか?」
宇佐見の質問に、千歳は難しく眉を寄せた。頭部の女がヌエの使役者なら、その存在を本体とは別に感じてもおかしくはないだろう。だが宇佐見に質問されるまで、そんな認識はまるでなかった。
「ええっと、中の女の人に意識が向いた後は、その人がヌエの正体だと確信してしまったので、個別の存在とは考えなかった、かな?」
「ふうん。成程ね……」
少々心許ない返答になってしまったが、宇佐見はそれで満足したらしい。細めた目に嘲笑を浮かべ、
「実体化寸前ということか。それはそれは」
「……忌々しい限りだ」
ことさら楽しげな宇佐見に、澤渡が冷たく言い放つ。
質疑応答は、澤渡はヌエの外見上の特徴と運動能力を、宇佐見は内部の女の状態をそれぞれ尋ね、都度、千歳が絵を描き加えながら答えるといった形で進行した。
稔はそわそわと質問したい素振りを見せてはいたが、意見をまとめるのが苦手なのか、結局最後まで発言しなかった。ジルはポン吉と一緒に聞き役に徹し、時折心配そうに千歳の様子を伺い、弦之に至っては、話は聞いているようだが、会話に参加せず、一人黙して、絵を見つめ続ける。
(個性が出るな……)
絵を描き足しながら、千歳は寮生達の毒気が抜けていることを感じとった。白瀬の存在が彼らに相当なストレスを与えていたのだと実感しながら、千歳もまた、知らず張り詰めていた肩の力を抜くのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます