久し振りっ
社員寮を経由し、寝袋を積んだキャリーケースを引いて事務所へと戻る頃にはすっかり夜も深まっていた。身に染みるような寒さの中、人通りの少ない夜道を恭弥と並んで歩く千歳は、前方に目的のビルを見つけて顔を上げた。
どっしりとした外観と広い前庭を持つ六階建てのスタジオ・ホフミ自社ビルは、まだらに照明が灯っていた。エントランスから続く一階ホールの照明がガラス壁越しに明るく照らし出されて、まだ業務が続いている事を告げていた。
「会議、長引いているのかな……」
前庭を植え込み沿いに歩きながら見上げた千歳は、ふと、エントランスの入口脇、社名のロゴマークが掲げられた壁面に人だかりが出来ていることに気が付いた。
警備員二人と数名の社員が頭を突き合わせて何事か話し込んでいる。片膝をついている者もいて、よく見れば壁を背にして誰かが座り込んでいるようだった。
「何かあったみたいだね。――巻き込まれると面倒だから、少し急ごうか」
怪訝そうに言う恭弥に、千歳は頷いた。広い出入り口は人だかりを避けても通り抜けるだけの余裕はある。恭弥と一緒に早足に通り過ぎようとした時だった。
見るともなく人だかりに目を向けていた千歳は、その中に頭半分ほど低い銀灰色の頭髪が見え隠れしているのを発見して、思わず足を止めた。
(――え?)
その視線に気づいたのか、照明を眩しく弾きながら銀灰色がごく自然に動いた。こちらを向いた顔はしかし、何事もなかったように元の位置へと戻り、次の瞬間、弾かれたように再びこちらを見た。
真っ直ぐに千歳を捉えて、「あ」と言わんばかりに口と目を開く。
(……まさか)
術の加護が切れている。立ち止まり見つめるという、ごくありふれた一連の動作をここまで後悔した事はなかった。
(まさか、冗談だよな?)
顔が徐々に引きつっていくのが分かる。相反するように、銀灰色の髪の主が笑み崩れていく。
人だかりを肩で押し分けてその人物が歩み出た。信じられないといった面持ちで千歳を見つめ、そして、
「ーー千歳っ」
髪を翻し、表情は喜色満面、ともすれば目尻に涙さえ浮かべて、感極まった様子で走り寄ってくる。
目の当たりにして千歳は、
(うああああああああっっ⁉ ああぁー……)
心の中で上げた驚愕の絶叫が絶望へと変わる頃、その人物は千歳の前に辿り着いた。
胸の前で軽く指を組み合わせ、斜め下に顔を向けながら恥じらう様に目を閉じつつも、喜びを隠し切れずにうっすらと紅潮した頬を緩ませている。
トンビコートと袴の今時珍しい着物姿で、足元は編み上げの長靴を履いていた。髪色に合わせた銀鼠色で色調をまとめているので、照明を受けて夜目に白く浮き上がっているように見える。背負い箪笥の様な木箱を背負っているのが特徴的だった。
思い切った風に正面を見たその人物は、顔立ちもまた浮世離れしていた。豊かな髪は顎の下でふんわり広がり、親しげにこちらを見つめる大きな鋼色の瞳は穏やかな情緒に揺れている。
たおやかな美少女と呼ぶに相応しい容姿だが、同い年の少年であることを千歳は嫌というほど知っていた。
「……あの千歳、えっと、三年振り、かな? ひ、久し振り……」
軽く絡めた指をしきりに動かしながら、俯き加減におずおずと口を開く。記憶に比べて声が少し掠れている。細い肩が緊張に強張っているが、口調はしっかりとして、態度とは裏腹になよなよした印象はない。
「でも何だか久し振りって気がしないんだ。不思議だね。毎日動画を見ているせいかな?」
「そ、それはいつもご視聴ありがとうございます……」
ショックから立ち直るより先に、営業スマイルと挨拶が出てしまう千歳だった。それを聞いて少年は感極まった様子で身を縮ませ、ぐっと指を組み合わせると、
「勿論だよっ! だって千歳の動画だよ? 視聴はルーティンだよっ!」
ずいっと上体を乗り出して目を輝かせる。完全に推しに出会ったファンである。背を反らせて距離をとった千歳は、相手の顔に同じ磁極でもあるかのように滑りまくる視線を必死に定め、
「か、顔出しはしてなかったと思うけど……」
相手の言葉尻を捕えて間をつなごうとするものではなかった。少年は「ふふっ」と、不敵とも得意気ともとれる笑みを零し、
「見くびらないで。ピアノを弾く指を見ればどんな顔で演奏しているかぐらいすぐ分かるんだから。勿論ハーモニカもだよ。時々ピアノと一緒に吹いているけど、ハーモニカだけの動画を上げてないのは、やっぱり顔が入り込んじゃうせいかな? でも最初の動画では、あ、再投稿する前のやつだよ? そっちはピアノに顔が映り込んで、ちょっとだけ見えてたよね。すっごく緊張してたけど、元気そうで安心したんだ!」
聞きたくもない情報を入手する羽目になった。
一方的に話すと、少年は思い出に耽るようにうっとりと目を閉じる。その姿は最早恋する乙女だった。
一方千歳はと言うと、話の中ほどから虚無の顔つきで少年の向こう、暗い夜空へ意識を飛ばし、
(――都会の星明かりはいつも控えめに輝いて、大変奥ゆかしいです)
完全に現実逃避していた。
「君は確か
対照的な二人を興味深く観察していた恭弥が口を開いた。
「はいっ」と目を輝かせて即答する少年、八房ジル。千歳は錆付いた蛇口をひねるように首を動かした。
「エエ、以前同ジ病院ニ入院シテイマシタ」
千歳は底なしの暗い目で機械的に言葉を発した。
「――っ、なるほどね」
吹き出すのをこらえるように、恭弥は口元に指の背を当てた。非難めいた目を向ける千歳を素知らぬ顔でかわして、
「こんな場所で立ち話もなんだから、と言いたいところだけど、あれは一体何事かな?」
微妙な顔つきでこちらを見る人々を片手で示す。集っていた社員達が、どうしたものかとこちらを伺っていた。ここまで注目されては素通りは出来ない。
言われて振り向いたジルは、はっとして、
「あっ、そうだった!」
言うなり千歳の背後とその周辺を、警戒も露わに見回し始める。手で庇を作り、しゃがんだり背伸びをしたりとせわしなく動き、仕舞いには庭木に縋ってその身を隠しながら、通りを睨みつける。
「……何やってるんだ?」
訳が分からず千歳が呆れ気味に聞くと、ジルは木に縋ったまま振り返り、
「ここは危ないから、早く中へ」
真剣な顔つきで促してきた。
「はぁ?」と千歳が顔をしかめると、警備員の一人が見かねたように割って入ってきた。勢い込むジルを少し困ったように一瞥してから、どうも、と軽く会釈する。
「その子の言う通り、中へ入られた方がよろしいと思います。――あの記者さんはこっちで看ておきますから」
記者、と言われて、千歳と恭弥は身を固くした。時刻は二十時を回っており、社内で定められた取材時間はとうに過ぎている。まっとうな来訪ではないと知れた。
芸能関係に身を置く以上、醜聞を求めて嗅ぎまわる手合いがうろつくのは宿命だが、最近は社長の名声に比例するように数を増し、素行も荒くなってきている。心証が悪いだけでは済まされないと危機感を募らせてはいたが、とうとう玄関先まで押しかける輩が現れたのかと二人は警戒するが、初老の男性警備員は帽子の鍔に手をかけ、安心させるように笑った。
「ええ、御心配には及びませんよ。勝手に転んで頭を打ち付けたんです。意識ははっきりしてますし、見たところ、目を回しておるだけのようなんで、少し休ませてから帰らせます」
言外にこちらに非はないと含ませ、変に関わらないようにと気遣ってくる。
二人は顔を見合わせた。状況は分からないが、とにかくここで立ち止まるのはまずいらしい。
警備員に軽く頭を下げると、千歳たちは彼の言葉に従い建物内へ向かった。
エントランスを抜けながら横目に来訪者を確認すると、なるほど確かに、くたびれたアウターに擦り切れたズボンの、それと分かる身なりの男が胡坐を組んで壁にもたれ掛っていた。
座り込む男の横には肩紐で繋がった大きなカメラケースが直置きされており、カメラマンであると察せられた。片手を首の後ろに回し、しきりに押し揉みしているので意識はあるようだが、悄然と肩を落としている。
千歳の目がちらりと光を帯びた。脱力する男の体に黒煙のような靄がまとわりついているのを視て冷やかに目を細めた。
水面に浮かぶ油のように漂い絡む靄は、男の抱えるわだかまりそのものだ。澱んだ色合いが邪な用件を抱えていることを示している。
(碌でもない奴で間違いない。……なんで伸びてるのかは知らないけど)
周囲の様子から、ジルが何かしたらしいことは伺える。が、詳細は後だ。
ここから離れるべき理由がはっきりして、前を向こうとした視線の端、俯いてつむじしか見えない男の、膝の上に投げ出された手に握られているものに、千歳は奇妙に引き付けられた。
(……あれは、インスタントカメラの写真か?)
用紙サイズに対して画面が狭い。それに男の手が画面にかかっているので何が写っているのかは判別できないが、広い白枠に手書きの文字がある。右上がりの丸い癖字だ。日付を記しているようだった。
(――あれ?)
何故か胸がざわついた。見過ごせない何かがある。直感して、千歳は歩く速度を落としかけた。
「行くよ」
見咎めた恭弥に固く短く言われて、千歳は歩調を戻した。それでも気になって視線は写真に釘付けだったが、今度は「急いで」と神妙な顔つきで視界に割って入ってきたジルによって遮られてしまった。気を取られていたところに苦手とするジルの顔面を至近距離で見てしまい、千歳は声を上げかけ後ずさる。
二人にせっつかれて、後ろ髪引かれながらも出入り口の自動ドアをくぐった千歳は、
(まあ、いいか)
気を取り直して正面を向く。
(むしろ今考えるべきは、なんでここにジルがいるのかってことなわけで)
千歳はすっと表情を引き締めた。
(……よし考えない。考えないぞ、絶対に)
件の御神託絡みであると、おおよそ結論には達しているものの、はっきりするまでは頑なに目を逸らし続ける意向の千歳ではあったが、エントランスホールの奥、受付横に設けられたセキュリティゲートを袖から取り出した通行許可証をかざして難なく通過し、更にはシューズボックスが並ぶ上り口で迷うことなく上履きに履き替えるジルを目の当たりにして、千歳は堪えきれずに、ふーっと細く息を吐いた。
意を決して笑みを作り、
「ま、街に出てくるなんて珍しいけど、何か用事?」
ぎこちなく問いかける。千歳に話しかけられて、来客用のスリッパを床に置いていたジルは嬉しそうに顔を上げるも、すぐに顔を曇らせた。
「こちらの社長さんからご依頼があったんだ。詳しくは聞いていないけど、何だか大変なお話らしくて」
言って、周囲を憚るように声を落とし、
「……神域絡みらしいよ」
「……はー、そうなんだ」
小声で受け答えしながら千歳は、
(ですよね――)
眦に涙を浮かべて、儚い笑みを零すのだった。
寮で起きた騒ぎについては、ジルもよく分からないらしい。
「俺が到着したのはお昼過ぎだったんだけど、丁度パトカーが引き上げたところで、寮母さん、あ、寮にはね、食事や身の回りのをお世話してくれる女の人がいるんだけど、その方の話によると、不審者を連行してもらったって言うんだ。
驚いて話を聞いたけど、詳しい事情は寮母さんも分からないと仰るし、騒ぎのせいで引っ越しの荷物の搬入が中断しちゃってそれどころじゃなかったんだ。業者さんも次の予定が押していると焦っていらしたから、到着した寮生が順に手伝いに入って何とか夕方前には片付け終えたけど、その頃には不審者のことなんてすっかり忘れちゃっていたよ。
仕事の話は明日だと聞いていたから、皆部屋に引き上げて休んでいたら、いきなりこれから会社へ移動すると言われてね。大慌てで準備したんだ。
そう言えば、会社へ下見に行った人がいたそうだけど、俺たちの到着と入れ違いに出て行ったみたいだね。――ああ、その人ならさっき戻ってきたよ」
以上が、何があったのかと質問した千歳に対するジルの回答だった。
矢継ぎ早に話すジルに圧倒されながら、しかし要点は押さえらえていたので、大方の事情は理解出来た。
「つ、つまり、寮に不法侵入された事は、知らなかったわけだ」
「うん。こっちに来て、初めて知ったよ。てっきり周辺をうろついていたものだとばかり思っていたから、驚いたのなんのって、ねえ? ポン吉君」
ジルは腕に抱くポン吉に困った顔で語りかける。たっぷりとした着物の袖にくるまりながら、霊獣はふんふんと、物知り顔で鼻を鳴らした。
乗り込んだエレベーター内にて、扉が閉じた途端、千歳の影の中から飛び出したポン吉は、脇目も振らずジルに飛びかかったのだった。
「ポン吉君っ、久しぶりっ!」
ポン吉の熱烈な歓迎を、ジルは両腕を広げて受け止めた。そのまま、ひし、と固く抱き合う知己たちを、千歳はげんなりとした顔つきで見つめた。
(昔から、俺より仲良かったっけ……)
隙あらば、千歳に噛みつく、引っ掻くといった暴挙に出る在りし日のポン吉を、なだめすかして大人しくさせていたのがジルだった。
(そのままジルに引き取られたら良かったのに)
千歳は白々と考える。その思考を読んだのか、ジルに甘やかされてデレデレに弛んでいたポン吉が、ムッとした顔つきでこちらを振り返る。半眼で睨む霊獣に、知ったことかとそっぽを向く千歳だった。
盛り上がるジルとポン吉とは対照的に、恭弥はずっと押し黙っていた。扉上部の階数表示が順に点滅するのをじっと見つめて、考え込んでいる。
エレベーターに乗る前に、例の騒動について、一階ホール担当の兼森に問い合わせた後からずっと表情が固い。
(あの記者の事だろうけど、何というか、先が思いやられるよ……)
千歳はこっそりと嘆息するのだった。
ゲストルームへ向かう前に、まずは美濃に報告を入れなければならない。と言うことで、三階の事務フロアでエレベーターを下りる千歳と恭弥に、ジルは、
「部外者が、奥へ立ち入る訳にはいかないから」
そう言ってエレベーター内に留まった。二人が降りるのを黙って見送り、
「……じゃあ、また後で」
ポン吉を胸に抱いたまま、ジルは控えめに手を振る。その笑顔は少々覇気を欠いており、最初の元気はどこへやら、目に見て分かるほど萎れていた。
(あからさまに避け過ぎたかな……)
容姿や態度から一見奔放に思われがちだが、その実他人の気持ちには人一倍敏感なのがジルだった。自分の来訪を喜ばしく思っていないと察したのだろう、笑顔を保ったまま、しかし目線は床に落ちている。
(――別にそこまで落ち込まなくても)
分かりやすくしょげかえるジルに、千歳もまたきまり悪く視線をそらす。ジルの腕の中でポン吉が、非難がましくこちらを見ているのが鬱陶しい。
「……あ、あのね、千歳」
ポン吉を抱く腕に力を込め、ジルが顔を上げた。言うべきかどうか暫し逡巡した後、そっと視線を斜め下に向けて、
「久しぶりに会って、ちょっと浮かれてちゃって……、その、ごめんね?」
「あ、いや……」
「千歳が照れて話せないのを考えずに一方的に喋ったのは、本当によくなかったと――」
「じゃあ、ポン吉頼むわ」
皆まで言わせず、千歳は片手を振る。
直後、エレベーターの扉が静かに閉まった。
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