水の底

 都心へ向かう電車内は適度に込み合っていた。座席は埋まり、あぶれた乗客は乗降口近くにたむろして、端末を弄ったり所在なく外へ目を向けていたりする。

 走行する電車の振動に軽く体を揺さぶられながら、乗降口横の席に座る千歳は考える。

 小さい頃、両親と車で走行中、誤って水の中へ転落した。

 そこが神域と呼ばれる場所だと知ったのは、随分後になってからだった。

 空気より透明な水だった。視界を遮る物は何もない。斜めに差し込む幾筋もの光が、ひだを寄せたレースカーテンのように果てまで続いていた。空の真ん中にいるような心地だったが、見上げる先にゆらゆらと光が踊り、そこを目指して泡が上っていくので、水の中であると知れた。

 一緒に沈んだ両親や、直前まで乗っていたはずの車が見当たらないことに疑問を差し込む隙はなかった。明るく澄み切った水の中は幻想的で何もかもが夢現だ。

 だが、ずっと奥底には巨大な闇がわだかまっているのを、背に冷たく感じとっていた。青く翳りゆく景色が、確実にそこへ近づいていると告げている。

 例えようのない不安と寒気が背を伝って這い上がる。闇は底なしだ。何とかしなければと思う気持ちは確かにあったが、それ以上に、抗う事に意味を見出せなかった。このままでいいという思いの方が、遥かに強かったのだ。

 頭の中に浮かぶ様々な思いが、浮かぶ端から泡になって上っていく。

 ぼんやりと沈みながら、千歳は母親が漬けた果実シロップの瓶を思い出した。透明なもやを上げながら溶けゆく氷砂糖と同じように、自分もまた溶けて消えるだけの存在なのだと、凍えるように考えたのだった。

 ガタンと大きく揺れて、千歳ははっとなる。記憶の底で揺らいでいたのを引き戻され、暖房の効いた明るい電車内にいることを自覚した。

 ひどく安堵して、吐息を零す。

(……今更それが、何だと言うのだろう)

 社長の実家、神域、それらの言葉が出てきた時点で心がざわついていたのは間違いない。真正面から受け取らないよう空っとぼけてはみたものの、恭弥から関係があると明言されて心中穏やかではない千歳だった。

 理由は三つある。一つはその時に両親を亡くし、二つはその光景をつぶさに覚えていること。そして三つにはその出来事を境に、千歳自身のあり方が大きく変わってしまったということが挙げられる。

 思い出すたび、流氷に乗って漂う気持ちになる。揺れて定まらない足の下、薄氷の裏側に、逆さまに張り付く記憶だった。ほんの僅かに波打つだけで容易くひっくり返り、

(過去が起き上がり、今は水の底に)

くぐもった泡の音が耳の奥に重なる。揺れる水面を見上げたあの日の続きに、今もまだ沈んでいるような気がして、

(――あー、ダメだ。完全に鬱に入ってる)

 片手で顔を押さえ、目を強く閉じる。ゆっくりと見開き、千歳はそっと隣を伺った。

 話を持ち出した恭弥は席には座らず、千歳の横、乗降口脇のポールにもたれて目を閉じていた。落ち着き払った横顔は居眠りをしているように見えるが、意識を広げて周囲を監視していることを千歳は知っている。

 先ほどの会話の続きは、ここではしないということだ。

 どういった顔ぶれが集まったのか気にところだが、弦之の件から察するに恭弥も詳しくないらしい。ならば派遣先の組織について概要だけでもと考えるが、そこまでいくと今度は深掘りになる。術者界に疎く、勝手が分からない以上、何を訊ねるにしても、結局一から教わるしかない。

(これまでも、話を聞くタイミングはあったけど)

(……何と言うか、皆あまり話したがらないんだよな)

 術者は大抵、自分たちの身上について口を噤む傾向にある。自分たちを特別な存在だと見なして秘密めかしたり、示し合わせて口を閉ざしているというわけではなく、公に口にするのが何となく憚れるだけだと以前聞いた。

「火災なら消防士が、犯罪なら警察が取り締まるように、術者は魔物や霊的な災いから人や社会を守っているに過ぎない。専門性は高いけど、職業の一つであることに違いはない」

 事もなげに話す恭弥を随分と不思議に思った千歳だった。魔物退治を行える技量技術というものは、例え公に認識されていなくとも、自尊心を高く持ってしかるべきステータスではないのだろうか。そう問うと、

「自尊心は大切だよ。ただ、使いどころは別にある」

 よく分からない答えが返ってきた。さんざん考えて、術者であることは優越感の元手にはならないらしいと納得しておいた。

 その恭弥が必要に迫って情報を先出してくれたのだが、半端に切り上げられては不満しか残らない。

 と、かく言う千歳もこの方面の話題には極力触れたくないので、ギリギリまで避けておきたいというのが本音だ。

(まあ、もやっとするけどね……)

 我ながら腰が引けていると半眼になる。

 シートに沈み込んでいたのを座り直し、やや前屈みになると、社内を目の動く範囲で観察する。

 吊革に網棚、窓枠、乗降口上の路線図から、ガラスに貼られた広告、床の僅かなシミと順に視線を巡らせる。

 視力は良いので、物の輪郭がぼやけることはない。

 次いで正面、気怠そうに横並びに座る勤め人たちに目を向ける。途端に人の像が崩れた。

 絵具を分厚く盛るように塗った油彩画、あるいは粗削りの彫刻か。

 くすんだり温かみがあったり、電飾のように煌めいたり、あるいは黒ずんで消え入りそうだったりと、それぞれが個別に色彩を放っている。その後ろ、黒々とした窓ガラスに映り込む隣の乗客たちもまた同じ様相を呈していた。

 霊力を灯した視界とは趣の異なる視え方の人々から、千歳は視線を外した。

 護身術の弊害だった。大前提として術はすべからく双方向に作用する。胸元にしまったペンダントには使用者を人の認識から遠ざける術がかけられているので、本人にも同様の効果が表れる。

 見られない、見つからないという事は、こちらからもはっきり見えないといった案配だ。

 ストリートピアノなど舞台に上がる時以外はこの仕掛けを作動させているので、際立った容姿の千歳がこういった移動時間に周囲の関心を引くことはまずない。

 最も、そこに千歳がいるとはっきり認識している場合は術の効果は及ばない。現に恭弥の姿だけは鮮明だ。

 意図して直視すれば本来の人となりを判別出来るが、それは術の恩恵をないがしろにする行為なので、術が発動している間はなるべく人の目に触れないよう大人しく身を潜める千歳だった。

 目立つ容姿だと自覚が大きい分、術のありがたさが身に染みた。が、

 はっきりと明るい車内にあって、不明瞭な色の塊で映し出される人々は、さながら美術館に展示されたアート作品だ。紛れて座る自分がいかにも場違いで居心地悪いことこの上ない。

(術の仕様だから仕方ないんだけど)

 他人との違いが一目で分かってしまうのは、どうにもやるせない。

 顔立ちや霊力が基準より上回っているだけで、他人と同じ代わり映えのないただの一人だと自分を捉えるようにしてきた。しかし術によって歪められた光景を目の当たりにしていると、日常という演目を離れた場所からぽつねんと観ているような気がして、否応なく不安定になる。

(術の効果で奇妙に見えているだけだ)

 そう言い聞かせるも、目から得る情報の大きさに太刀打ち出来ない。

 千歳は首に提げたネックレスを外へ引き出した。長いチェーンの先、表れたペンダントトップは、金色のミニハーモニカだった。

 メーカー名が刻印された本体にマウスピースは四つきり。チェーンを付け替えた以外はありふれた市販品だ。身を守る術は大抵こういった量産品に付与するらしい。一時凌ぎではあるが、直接吹けば下級魔程度なら追い払うことも可能だ。ショッピングセンターでヌエを誘導するのにも使った。

(……文句は言えない。けど改良の余地はあると思う)

 表面を撫でると、指に刻印の凹凸が固く伝わる。

 普通ではない、異質だ、そう突き付けられた気がするのはいつもの事だった。隔たりを感じて気落ちすることにも慣れている。

(今の自分を否定しない)

 それは千歳が己に課した約束だ。どうしようもない過去を飲み込むための虚勢はしかし、

(つまりは今を受け入れがたく感じているわけで……)

 空元気さえも空回り、自嘲気味に目を伏せると、ふすん、と足元で鼻を鳴らす音がした。見下ろすと、足の間に不自然に出来た影の中から、しょんぼりとした目がこちらを見上げていた。惚けた顔に、千歳は小さく吹き出す。

(忠義者だってことは、認めてるよ)

 笑いかけると霊獣は尊大にふんっ、と鼻を鳴らし、満足そうに目を細めて再び影の中へと身を潜めた。

 主人を気遣っているのか、あるいは子守りをしているつもりなのか、霊獣によって現実へと引き戻されるのもまた、いつも通りだった。

 千歳は気を取り直して、

(やるべきことを考えよう)

 まずは社員寮の片付けが先だった。

(寝袋を片付けて、植木鉢は吊り具のままキャリーケースに提げるとして、それから……)

 目先の行動を順序立てて考えながら、千歳は駅に到着するまでをやり過ごすのだった。



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