シネマフロアにて 3/3

 散弾、と鸚鵡返して、千歳は嫌な予感に駆られて顔を上げた。果たして左壁面に無数の光の輪が明るく映し出されている。

 雨に打たれる水面、その波紋のように散開する光の輪は、輝きを増しながら個別に収斂、瞬時に点にまで縮む。

 質量のある何かが多数押し寄せるのを肌で感じて、千歳は顔を引きつらせた。光の点は千歳の真横にも点在しているのだ。

 身構える間もなく、壁面からシャワーのように閃光が迸った。

「うわぁっ!」

 千歳は片腕で頭部を覆う。その体を無数の破魔矢が貫通する。

 破魔矢は魔物以外の遮蔽物、人さえも素通りする。聞き知った知識があるとは言え、実際に射貫かれるとなると話は別だった。それに痛みはなくとも、体内を何かが通り抜ける感覚はあるのだ。はっきり言って気分の良いものではない。通過は一瞬だったが、通り過ぎた後も千歳は頭を抱えて動けなかった。

 非常階段を逆巻く吹き返しが収まったところで恐る恐る顔を上げた千歳は、下から五段目にまで迫ったヌエの胴体に、針山のように無数の破魔矢が突き刺さっているのを目撃した。

 不自然に傾いだヌエはしかし倒れない。弱点である頭部への着弾は一本もない上に、数は多いが、最初の矢に比べて格段に見劣りする細さなのだ。

「へ、下手くそ……」

 助けてもらう立場であるため滅多なことは言いたくない千歳だが、つい言葉が口を突いて出た。

 案の定、ヌエは態勢を戻すと、自分の体に突き刺さる光の矢を見回し忌々しく千歳を睨んだ。軽くのけ反り、反動をつけ前へと倒れ込みながら、

 ――ヌゥゥンエェェェェェェッ!

 赤子の啼き声にも似た絶叫が響く。名前の由来でもある雄叫びだ。鼻にかかったような高音は殆ど衝撃波だ。威力はさしてないものの、近距離で浴びせられ、たまらず千歳は三度後退し、壁に背をついた。

「っいった……」

 脳を揺さぶられたような感覚に苛まれ、額に手を当て、目をきつく閉じる。

「しまった――?」

 隙だらけなのを自覚してはっと目を見開くと、ヌエは千歳など眼中にない様子で暴れていた。

 破れた水袋のように、体のあちこちから泥が放物線を描いて噴き出している。消えずに刺さったままの破魔矢が効力を発揮しているらしい。雄叫びを上げたことで、体中にその力が毒となって巡ったようだ。

 ヌエは手足をばたつかせて絶叫しながら、階段上を右往左往と跳ね回り、盛大に壁に激突すると、ポーンとゴムボールのように反対の手すり壁まで跳ね返った。背を打ち付け尻で着地すると、自らの泥で滑ってバランスを崩し、踊り場まで転がり落ちてきた。

 あろうことか千歳の右手、階下への逃げ道を塞ぐように。

「冗談だろうっ⁉」

 泥を引いて落ちてきたヌエから慌てて距離を取ると、千歳は左の壁に背を押し付けた。

 引きつった顔で魔物を見ると、うつ伏せに倒れるヌエの下に泥だまりが広がる。

 間をおいて、ヌエがゆっくりと四肢を立てた。四つん這いになり、ヌエッ、ヌゥエッと、えずくように短く鳴きながら、体を揺する。

 滑稽なことこの上ない動きをしているが、千歳は笑うことなど出来なかった。見下ろすヌエの側頭部、汚れた塊の深層部に潜んでいた女の顔が、頭部の婉曲に沿ってゆっくりとせり上がってきたのだ。

 魚眼レンズの被写体めいた女の顔は、丸い金魚鉢に、汚水と共にみっしりと詰め込まれたようにも見える。

 曲面に顔を目一杯押し付けているので、鼻や唇は潰れて広がっているが、当人は気にした様子もなく、恨みがましい目で千歳を睨んでいた。こうして内部から押し出された凹凸によって、ヌエの顔面が形作られるのかと、千歳は混乱気味に感心する。

 初見の衝撃ほどではないが、眼前に接して一層不気味さが際立つようだった。床に付いた手指や爪が、人間のそれと大差なく滑らかに動いて生々しい。泥を垂れ流す体はいかにも不衛生で体臭がきつくなっている。息を吸うと吐き気がした。

 ヌエが立ち上がった。長い腕を広げふらつきながら、右へ左へとジグザグに歩み来る。

 獲物を囲い込む動きだと目で追いながら気付いた千歳だったが、ヌエを観察するあまり、逃亡の機会を完全に逸してしまった。思惑通り壁の隅とへと追いやられる。

 ヌエは千歳の数歩前まで近付き足を止めた。背は千歳の頭一つ分は優に超えているが、見上げることで初めて気付いた。頭部に詰まっているのが女の顔だけではないことに。

 女の頬の脇に、猫のように軽く丸めた両手が視える。顎の下に鎖骨が浮いて、服の襟らしき曲線もあった。更に下、骨ばった膝と生白い足がスカートのひだに縁取られている。足の爪にべったりと塗られた派手なマニキュア、その色も判別出来る。しゃがんで覗き込むような格好をしているとはっきり分かった。

 そしてそれらの全身が、極端な俯瞰図、尻すぼみに視えるのだった。

(これはつまり)

 千歳は理解した。

 ヌエの頭部には女が一人、丸ごと詰まっていることに。

『――君、千歳君!』

 無意識に握りしめていた端末から、恭弥の呼ぶ声が聞こえる。珍しく切羽詰まった声だ。その声で千歳は我に返った。

 顎を引き、状況を再確認する。左右、下と目を動かし、最後にヌエの頭部の向こう、天井の高さを目測する。

 千歳は慎重に息を吸い、ゆっくりと吐くと、

「囮って、結構きついっ」

 爪先で床を二度ほど叩く。

 千歳の動向が変わったことを察したヌエが、広げていた両腕を降参するように上げた。へっぴり腰気味に屈み、バネで弾かれたように前へ飛び出す。

 ベチョンッと盛大に泥が跳ね、ヌエが壁の隅に激突した。

「……ひぇ」

 直前まで自分が立っていた場所が泥まみれになるのを見下ろして、千歳は小さく悲鳴を上げた。

 現在千歳は天井近く、ヌエの頭上を通過中である。

 ヌエが飛びかかる直前、垂直にジャンプし、壁を蹴って前方へと飛び出したのだ。勢い余って天井にぶつかりかけるのを両手をついて回避、押し出すと、斜め下へ降下しながら体を捻って半回転、反対側の壁に後ろ向きに着地してから床に降り立った。

 身軽で済ますことが出来ない身のこなしだった。明らかに筋力を使った動きではない。

 手足に霊力を満たし、一時的に運動能力を飛躍させる、術者の初歩的な移動術だ。感覚を掴めば大抵の者が行使出来るとあって、習得を推奨されている術でもある。

 緊張すると知らず手足に霊力が溜まり透明化してしまう千歳は予防目的で教わったが、魔物からの襲撃を回避逃亡にこの上なく役立つ。最初にヌエから逃げ切ることが出来たのもこの移動術のおかげだ。

 戦いに不向きとは言え、魔物と関わるのであればこの程度は出来なくては話にならない。

 壁の隅に挟まって身動きが取れないヌエを見て、千歳はよし、と拳を握る。会心の笑みを浮かべ、暫く待ち、

「……えっと、破魔矢は」

 何の先ぶれもない壁に、笑みが萎む。

 上手く足止めできたのだ。ここでとどめの破魔矢を期待してもバチは当たらない。

 そう考えて、逃走せずに留まった千歳は、当てが外れてどうしたものかと考える。ヌエは自らの泥で接着でもされたのか、壁に両手を付き、頭を引き抜こうと足掻いている。逃げるなら今しかないが。

「――あの、恭弥さん。俺はこれからどうしたら……」

 取りあえず指示を仰ごうと端末を耳に当てた千歳は、不意に鋭い鳴き声を耳にして階下を見る。

 笛のような警戒音を発しているのはポン吉だ。四肢を張り、こちらを見上げて鳴くポン吉に、千歳ははっと気付いて振り返った。

 壁の隅で足掻いていたはずのヌエの姿が、何処にもない。

 スッと血の気が引いた。目を離したのは一瞬だったはずだ。

「どこにっ……⁈」

 直後、視界が黒く覆われる。床から吹き出した泥が、眼前に幕のように広がった。

 ――イナアァイイナアァイバアァァアッー。

 泥の幕の中央上、両腕を広げるヌエの頭部内で勝ち誇ったように女が嗤う。

(……迂闊だと言った舌の根も乾かぬうちに)

 完全に不意を突かれた千歳は、なす術もなく呆然と見上げ、

 ドンっと、重い音がして、ヌエの頭部が横に流れた。

 反動をつけて戻ってきたその側頭部には、破魔矢が深々と突き刺さっていた。燦然と輝く矢は太く強靭だ。

 頭部内の女は目を見開き嗤っていた。獲物を捕らえる寸前の、歪んだ喜色を浮かべたまま、完全に硬直している。

 ドンっ、ドンっ、と重低音が続いた。頭が更に二度、激しく右へと押し込まれ、元の位置に戻ったときには、こめかみと首に追加で破魔矢が刺さっていた。

 破魔矢の重さに耐えかねて、ヌエの首が直角に折れ曲がった。体が自ら広げた泥溜まりの中へとズルズル沈む。

 足、胴体と沈んだところで体の輪郭が崩れた。支えを失った頭部が、ボチャンと音を立て落ちる。

 一拍の後、泥溜まりにつかる頭部が、破魔矢の着弾箇所を起点に硬化を始めた。みるみるうちに白濁して表面が曇り、やがて頭部は、路傍の石のように静まり返ると、パカっと軽い音を立て、ひっそり割れた。

 それを合図に、壁や床に飛び散った泥が灰色の煙を上げながら蒸発を始める。

 泥の飛び散った階段周りは、ものの数秒で何事もなかったかのような静寂を取り戻した。

 速やかに物事が片付いていくのを立ち尽くして眺めていた千歳は、足元にすり寄ってきたポン吉をしゃがんで膝に抱き上げると、盛大に息を吐いた。

「終わったぁ……」

 安堵して目に光が灯るが、構わず端末を耳に当てる。

「恭弥さーん。終わりました。終わりましたよおぉ……っ⁈」

 通話しながら立体駐車場の方角を向こうとした千歳は、思わず素っ頓狂な声を上げた。千歳の真横、ガラスのように透き通った壁の反対側に人がいたのだ。

 黒いロングコートを着た同世代ぐらいの少年だ。壁面を足場に、上から吊るしたロープを左手で掴んで体を支えている。

「近っ、めっちゃ近っ!」

 千歳はポン吉を抱きしめて思わず叫ぶ。

『あー千歳君? 無事みたいだね。良かった』

 笑いをかみ殺したような声で恭弥が応答した。千歳は壁面の少年から目を逸らせずに、

「無事ですけど、え? 誰? どちら様ですかっ?」

 ともすればヌエの襲来よりも取り乱しながら、しかし千歳は眼前の少年が恭弥の側にいた誰かだと気が付いた。確かに右手には破魔矢の端を掴んで下げているので、射手で間違いなさそうではあるが、それにしては肝心の弓が見当たらない。

「あ、もしかして、新人の人、かな?」

 相手に問いかけたつもりはなかった。そもそも千歳が視えているだけで、実際の壁が透明に変化したわけではない。壁一面隔てた向こう側からは、こちらの姿は勿論、声も届かないはずだ。

 だから相手が応じた時は、千歳は心臓が飛び出るほど仰天した。

「はい。射手を務めさせて頂きました」

「えぇっ? 俺の声、聞こえるの?」

「はっきりと」

 低い声で淡々と話す相手は、確かに千歳を真っ直ぐ捉えている。紫にも見える黒い瞳が瞬き、

「驚きです」

 無表情ではあるが、この状況に心底感心している様子は伝わってくる。言われて千歳は心外とばかりに、

「いや、驚いたのはこっちだよ? 何で壁にぶら下がって……、あ、はい」

 何となく察して押し黙り、微妙な気持ちで射手から目を逸らす。

(――直接手で投げたのか)

 そういった弓の技があることを以前聞いたことがある。が、何となく口にするが躊躇われて視線が彷徨う。

 泳いだ千歳の目がライトに照らされ淡く輝く彼の髪を捉え、ん? となる。

「っていうか、そこ、外壁の間接照明のとこだよね? めっちゃ目立つトコじゃ」

 ショッピングセンター夜の外壁を明るく彩るテープライト型間接照明、その真下にぶら下がっていると思しき射手に、千歳は慌てて言った。

「降りて、早く降りてっ。そこは下から丸見えの場所っ」

 狼狽える千歳に、射手は冷静にウエストバッグから板切れのようなものを取り出し翳した。

「このように隠形の札を携帯しておりますので、御心配には及びません」

 やけにテンポが遅い。千歳は何とも言えない表情で、

「……はあ、さいですか」

 札の効力について不理解ではあるが、相手が自信をもって言うので、それ以上言及はしないことにした千歳だった。

(……俺のターバンや、ペンダントみたいなものだと思っておこう)(――それよりも)

 優先して言うべきことがある。千歳は改まって、

「えっと、ヌエを倒してくれたのは貴方ですよね? その、ありがとうございました。おかげで助かりました」

 千歳の礼を受け、何故か射手は押し黙る。

(あ、やっぱり気を悪くしたかな?)

 しゃがんだままというのは流石に失礼だったかと千歳は懸念するが、膝が抜けかけているのだから仕方がない。開き直るつもりでいると、ややあって射手が口を開いた。

「御無事で何よりと存じます」

 頭を下げる。堅苦しい物言いに、今度は千歳が押し黙った。

(……どうしよう。絡みづらい)

 先をつなげられずにいると、携帯端末から恭弥の笑い声が聞こえた。

『二人とも、そんな場所で挨拶もなんだし、本館の屋上駐車場まで来てくれるかい? 

 ――それから札があったとしても、完全に姿が消える訳じゃなよ。森に木を隠すのと同じで、大勢の注目を紛らわせるだけのものだから、孤立すると効力は薄いかな?」

 恭弥の言葉に下を視た千歳は、数名の通行人が訝し気にこちらを見上げているのに気が付いた。ぎょっとなって、

「バレてるバレてる! 早く移動してっ」

 大慌てで射手に伝える千歳だった。

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