シネマフロアにて 1/3

  ストリートピアノ演奏終了から、およそ三十分後。

 駅と連絡橋でつながれた大型ショッピングセンター五階、シネマフロアの片隅に、非常口の誘導灯が掲げられた階段がある。

 従業員の昇降口になっているのか、関係者以外立ち入り禁止の立て看板が立てられ、照明も最低限だ。

 その薄闇の中、携帯端末の着信が、光と振動で通知される。

 階段の下から三段目に、膝を抱えるようにして座っていた千歳は、左手に伝わる振動にはっと上体を起こす。握りしめていた端末を恐る恐る確認すると、画面には目に染みる光量で、

〈事務所 弓削恭弥さん〉

 発信元を確認するや否や、千歳は慌てふためいて電話に出た。

「もしもしもしもし恭弥さん? おそ、遅い、遅過ぎです!」

 はやる気持ちと声を抑えて、千歳は続ける。

「破魔矢っ、は、早く、早くお願いします!」

 涙目で訴えと、明るく間延びした声が返ってきた。

『あー、もしもし千歳君? ごめんね、遅くなっちゃって。ちょーっと立て込んじゃってさー』

 あははーと、気楽に笑う電話相手に、千歳は縋るようにもう片方の手を端末に添える。

「何でもいいですから、破魔矢、早く……」

 背後から、覆いかぶさるように影が落ちる。何者かの気配を感じて、ぎくりと千歳は身を強張らせる。

 ぼすんと重量のある柔らかい塊が、頭に落ちてきた。

「うわっ!」

 声を上げつんのめると、頭上の塊はニットターバンと一緒に膝の上に転げ落ちてきた。同時に、簡単にまとめたハーフアップの髪が露わになる。

 塊はターバンに絡まってジタバタと暴れていたが、やがて空気を求めて、ぷはっと顔を出した。

「ポン吉、お前かよ……」

 千歳は盛大に脱力した。

 先端に丸みのある分厚い三角の耳に、目には隈取。頭部と胴体の境目がつかない豊かな体毛に覆われた、ずんぐりと丸い体躯。紛うことなくタヌキ、に見える別の生き物は、周囲を確認してふんふんと鼻を鳴らす。

『ポン吉君到着した? 流石霊獣、主人を見失わない。偉い偉い』

「ホントに偉かったら、主人の昼食盗み食いしてとんずらこいたりしません。あーもう、お前は今までどこに行っていたんだ」

 ため息交じりに言って、乱れた前髪を払う。と、端末画面に照らされ、明らかになった髪色が目に入った。

 鮮やかに柔らかく落ち着いた苗色。ターバンを被っていた時とは全く異なる色合いの髪を暫く凝視し、しかし千歳はすぐに興味を失って通話に戻る。

「今ショッピングセンター五階の非常階段です」

『……うん、君の位置、だいたい分かった。ポン吉君がいると、明るくて視やすい。――で、今日はどんなお相手かな?』

「人面で、頭でっかちの影法師みたいなやつで……!」

『ああ、ヌエね。分類は魔物。呪術で生み出されるカルマの一種。主食は人間の精気。最近ネットでオカルト実践動画が流行ってるからよく見かけるよ。あれ結構危ないのに、皆物好きだよね。――千歳君、遭遇率高いから、ちゃんと呼び名は覚えておかないと』

 のんびり指摘され、千歳は焦って、

「ち、違います! ヌエだったら、もっとトロくて、姿も本当に影みたいに希薄じゃないですか。今日のはずっと質感があって、ゴリラみたいに腕使って飛び跳ねてきたんですよ! めっちゃ素早いのなんの。おまけに言葉まで喋って」

『うん、ヌエだよ。実体化寸前のね。しかしまた、随分と育った個体だね。……相当数の人の精気を吸ったな』

 陽気だった通話口の声が、口調はそのままに温度が下がる。その変化にひやりとした千歳は、しかし説明を続けた。

「ストリートピアノの聴衆に混ざってたんです。会社帰りの女の人の背中にしなだれかかって、憑りついてるみたいでした。演奏が終わったら消えていたんで、いつも通り音楽で浄化できたと思ったんですけど、改札通ろうとしたらそいつ、目の前にいたんです。こっちが気付いた途端、奇声を上げて追いかけて来て……。散々走ったんですよ」

 思い出し、げんなりと肩を落とす。

 発狂する魔物、ヌエに度肝を抜かれて駅前デッキへ飛び出した千歳は、そのまま追い立てられるように連絡橋を走り抜け、ショッピングセンター内へ駆け込んでしまった。

 人の多い建物内へ逃げ込むのは如何にもまずい気がしたが、方向転換して別のルートを探す暇など千歳にはなかった。

 ヌエの姿が見えない買い物客が必死の形相で全力疾走する千歳を怪訝な顔で振り返り見ていたが、体裁を取り繕う余裕も当然の如くない。

 ただ、逃走しながら、万が一にと渡されていた退魔の札を使用することには成功している。

 一筆箋サイズのノートパッドからちぎり取った札は、手から離れると自動でヌエに向かって飛びその体に張り付いた。途端にヌエの動きは、水中を歩くようにゆっくりになった。

 スローモーションのように動くヌエは、視界も封じられたのか、千歳の姿を、もったりと首を巡らせ探し回る。

 札に助けられ、ほっとしたのも束の間、反撃されたヌエは千歳に対する憤怒を倍増させたらしい。ピアノ演奏に対する恨み辛みもあったのだろう、怒り狂ったヌエは、フロアを揺るがすように大絶叫したのだ。

 明るい照明に照らされたおしゃれな衣料品店の並ぶ一画、小洒落た店員が仕事帰りの女性客を接客するその横で、泥の塊が喚き立てる様の落差ときたら、シュールどころの騒ぎではない。

 さすがに移動させるべきだと千歳は青くなりながら決断した。

 札の効力には限度はある。それに、獲物を見失ったヌエが周囲の人間に無差別に危害を加える可能性もあるのだ。

 おっかなびっくり目隠し鬼の要領で、千歳はヌエをショッピングセンター屋上駐車場の端まで何とか誘導すると、手持ちの札を全て投げつけた。追加の札によって、ヌエは見えないトリモチに絡みつかれたかのようにその場に張り付きもがきまわる。

 動きを封じ、してやったりと拳を握り、千歳は即座に撤退、この非常階段へ逃げ込み、息も絶え絶えに助けを呼んだ次第である。

「ヌエ、でいいんですよね? 一応、お札を使って駐車場へ誘導しました。まだそこを歩き回ってると思うんですけど」

『残念だけど、見当たらないね。君を探して店内へ入ったみたいだ』

「あー……、そうですか」

 何となく予想はしていたが、千歳はがっくりと項垂れた。

 屋上駐車場は、平日の夜とあって車も少なく見通も良い。駆けつけた恭弥が退治しやすいだろうと思ったのだが。

(アレが店内を動き回っているのか……)

 とんだ営業妨害だと申し訳なく項垂れながら肩を落とし、千歳は言い辛そうに口を開いた。

「――その、手出しするなとは言われていたんですが」

 魔物は異形の一種で、さらに天然と養殖に分類されるという。

 天然の魔物は、本来の生息地から何かの弾みでうっかり地上へ迷い出た個体だそうだ。そのため環境に適応しきれず脆弱らしい。

 姿は深海魚と節足動物を掛け合わせたような姿で、大抵は人気のない寂れた場所に寄り集まって、宙を漂い回りながらひっそりとたむろしている。小食で知能も低く、地上の生物に対して警戒心を持っているので、積極的に近づかない限りは危険度は低い。

 と言っても、体を構成する物質が人間にとって非常に有害であるため、人間社会に紛れ込んだ魔物はすべからく排除しなければならないが、おどろおどろしい名称とは真逆に至って大人しいのが本来の性質だ。

 そういった天然物から作り出されたのが養殖物、カルマと呼ばれる魔物たちだ。

 その一種、ヌエは、元は怨敵を呪うための使役として生み出された使役用の人造魔が、人の手を離れ野生化したのが始まりだ。

 それ以降、人の精気を求め、分裂を繰り返しては増殖を続けている。

 管理不行き届きもいい話だが、他人を呪い殺そうとする者にまともな思考は期待出来ない。後始末など端から頭にはなかったのだろうから、当然と言えば当然の結果だろう。

 他にもガシャ鎧や凍て火といったカルマが存在するが、遭遇率の高さはヌエが群を抜いている。街で見かける異形の代名詞と言っても過言ではない。

 そして、ヌエはその生い立ち故に人への攻撃性を本性としている。

 陰湿で残虐、自分たちの姿を見抜く者、とりわけ霊力の高い者を敵視して、付け狙う。

 さらには、人が美しいと感じるものを毛嫌いする。

 音楽などは最たるもので、心地よい調べを奏でようものなら、どこからともなく姿を現し、演奏者の周囲に纏わりついて騒ぎたてる。

 実体を持たないとは言え、数が集まれば見えざるその体積で常人の視界を遮るようになり、人の耳では聞き取れない音域で発せられる嗤い声は、微細な振動となって不快に肌を刺激する。汚水の詰まった体からまき散らされる悪臭と相まって、人の心身に悪影響を及ぼす魔物だ。

 が、もとより霧のような不安定な存在であるため、音楽の規則的な振動によって跡形もなく霧散する。嫌いなものを見つけると、火が付いたように大騒ぎを始め、挙げ句勝手に自滅するのがヌエだった。

 千歳がストリートピアノを演奏する理由はそこにあった。何もせずとも狙われるのだから、付近のヌエをまとめて誘い出し、退治しようという算段だ。

 音楽だけで対処しきれない大物は、付き添いの射手が仕留める手筈になっており、万が一への備えは万端だった。

 おかげで戦闘はからきしな千歳が、ここまで追い込まれる事はなかったのだが。

「……迂闊でした」

 ヌエに取り憑かれたあの女性を助ける義務も義理も、千歳にはなかった。

 しかし、目に見えて憔悴する彼女を、そのまま見過ごすことも出来なかったのだ。

 元より単独で手出しするなと厳命されていた。いっぱしに魔物の浄化を行っているとは言え、千歳自身はただのアーティストだ。魔物退治の訓練など受けたことはない。

 適当な理由を付けて演奏を切り上げ、専門家である恭弥へ報告することが正しい対処方法だったろうが、それを出来なかったのは、結局の所、千歳もまた、人に取り憑くヌエの不気味さに動転していたのだった。

 頭が冷え、今更ながら自分の失態を自覚し苦くかみしめるが、恭弥は至って気軽だった。

『悪くない判断だよ。勘の良い人だったら異臭を感じるかもしれないけど、実体化前だからね。執着されでもしない限り、実害は少ない』

「執着って」

『姿を見られた上に消されそうになって、相当おかんむりだろうから、他に目もくれずに、一途に君を追いかけてくる。おまけに千歳君は高い霊力の持ち主だ。気に入らないものを一度に排除出来るとあっては、気合も入るものだよね』

 クスクス笑いながら言われて、千歳は弱り切って言った。

「冗談じゃないですよ。――恭弥さん、今どの辺りですか?」

 助けが来たこと、更には膝の上にポン吉がいる事で幾分平静さを取り戻した千歳が問うと、恭弥はやはり笑みを含んだ声で、

『駅に着いたところ。狙撃しやすい場所へ移動するから、ちょっと待って』

「え? ええっ? ちょっとって?」

『ちょっとはちょっとだよ。――屋上へ』

 最後の一言は別の誰かに向けた言葉らしい。声のトーンが常より低い。

(誰か一緒なのか?)

 勘ぐる間もなく、恭弥の声は遠ざかった。

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