昔々
〈着信:事務所 マネージャー
〈千歳君、お疲れさま〉
〈引っ越しの準備はもう済んだ?〉
〈明日は忙しくなるだろうから、早めに帰って休んでね〉
運用時間が終了し、係員によってポールで囲われたピアノの側。
片付けを済ませ、携帯端末を操作していた千歳は、マネージャーからのショートメッセージに苦笑した。
「これ完全に子供宛てだよ。美濃さん、ホント心配性」
引っ越しの荷物は既に発送済み、必要最低限の手荷物も、まとめてキャリーケースに詰め込んでいる。
「抜かりはございませんよ。――お」
着信音がして、新たなメッセージが画面に表示される。
(着信:事務所
〈千歳君、演奏は終わったかな?〉
〈急に外してごめんね〉
〈明日は引っ越しだから、早めに帰宅してね〉
〈あやしいモノを見つけても、手を出しちゃダメだよ?〉
美濃とほぼ同じ内容のメッセージだ。千歳は一層苦笑した。特に最後の一文が、如何にも子供扱いに思える。が、
(恭弥さん、ゴメン。やっちゃいました)
心の中で謝罪しながら、千歳は悪戯っぽく笑ってみせる。
(でもあれぐらいは許容範囲ってことで)
許して下さいと、少々浮かれ気味に、端末画面へと指を伸ばした千歳は、ふと気付いて動きを止めた。
指の背の真上からメッセージが読める。手を動かすと、画面の文字が波打つように婉曲して流れる。
千歳は端末の画面から手を上げた。折り曲げていた指を眼前で開くと、右の五指全てが、爪先から根当たりまで透明に変じている。
透き通った指先は、しかし希薄さとは無縁のガラス質で、確かな実態を持っていた。その指先を素通りして、床のタイルが見える。白っぽい床材がくすんだ黄緑色を帯びて見えるのは、そのように指先が色づいているせい。
(……透明面色、いや、容積色ほ方が適切かな?)
どっちでもいいか、と、透明になった手の向こう、僅かに色づく光景を眺めながら、千歳はいつぞや覚えた色彩の専門用語を思い出す。
うーんと眉根を寄せ、
(さっきまではなんともなかったけど、時間差で出たってことかな?)
千歳は手をニットカーディガンの袖に隠した。こういう事態を見越しての長い袖である。
インク詰まりしたペンを振る気持ちで右腕を振りながら、千歳は辟易と考えた。
(力を込めすぎると密度と純度が高くなり透明になる)
(気をつけなさい、とは言われていたけど)
よく見れば端末を持つ左手の爪先も、かすかに光りを灯している。
その親指で、端末を操作しようと画面をこすってみるが、表示された文面は固定され、ピクリとも動かない。完全にフリーズしている。
あちゃーと、顔を歪めながら、千歳は左袖も下ろした。
(力んだつもりはなかったんだけどなあ……)
ぼやくように考え、横に流した視線に、ふと、壁に貼られた旅行会社のポスターが入った。
霧立ちこめる青い森林を背景に、風格のある社の写真、白抜き文字の謳い文句は、
――神話の里へ。
(神話かあ……)
腕を振りながら千歳は、ポスターをぼんやりと眺める。
昔々、人は皆、心に清い水を蓄え、水面に日月を映し出し、光を称えて暮らしていた。
けれどある時突然に、空は燃え、海は底抜け、大地は割れた。
多くの命が失われ、生き残った人々も、明日をも知れぬ身となり果てた。
それでも望みを捨てず人々は、僅かに残った欠片の上で、心静かに耐え忍び、ついに世界へ降り立った。
古い知識をより集め、白銀の糸を紡ぎ出し、霞の布を織り上げて、壊れた世界に巻き付けた。
空より高い針で縫い留めた。
そうして世界を治療して、やがてそれらの出来事を、全て忘れて眠りについた。
神代の頃、この世は未曾有の大災害によって、一度崩壊したという。具体的に何が起きたのかは不明であり、また確たる証拠もないため、この話は天地開闢の神話として一般には認識されていた。
だが、その延長線上に現在がある事を、一部の人々は覚えている。
記憶の保持者はこう語る。
当時の人々は、すべからく神通力を持っていた。その不可思議な力を自覚して、常日頃に使っていた。
世界崩壊後、生き残った人々は、激変した環境に体を適合させるために神通力を衣のように身にまとった。それで何とか生きながらえることには成功したが、代償として、力を自在に操る事が出来なくなった。
神通力ありきで築かれたそれまでの文明社会を維持できなくなり、結果人々は、新たな文明の基盤を一から作り直すことになったのだ、と。
そしていつも、このように締め括る。
人が人である限り、神通力が失われることはない。
名を霊力と改めて、体を維持するために、今も無意識化で使われ続けている。
表に見えぬ人の心の奥底に、今も静かに湧き出でて、身を守るために発現する。
(発現したって、科学全盛の今の世の中じゃあ、無用の長物なんですが)
端末を持ち替え、左右の腕を振り終えた千歳は、袖口から覗く指先に色が戻ったことを確かめると、ふっと一息吐いた。
神通力=霊力は、何か突発的な、命にかかわる事態に遭遇した際、身を守るために甦る、とのことだ。
(事故、事件。けど一番は、――あやしいモノの襲撃……)
実際、自分自身の身に起きた現象だ。説明内容に異論はない。
あるとすれば、霊力は鍛えなければ使い物にならないという不満の方だ。
運動機能と同じで、潜在能力が高いという、その一点のみだけで出来ることは非常に限られており、用立てるために鍛錬しようものなら、相当な努力を必要とする。
理屈としては理に適っているが、高い霊力によって引き起こされる弊害を考えると、割に合わないのではないかと、常々考える千歳だった。
(あんなのばっかり見てたらいつか病む。絶対)
げんなりしながら、千歳は先程の様子を思い出す。
演奏の合間、聴衆の反応を伺おうと周囲を見回した千歳は、ソレを目にして固まった。
(とんでもない大モノを引き連れてたよ、あの女の人)
声を上げなかった自分を、今更ながら賞賛したい。
会社帰りだろう、オーソドックスな通勤スタイルの女性の背に、べったと覆い被さる黒い人影。遠目にもはっきりと見て取れるその異形が、千歳を認めてにちゃりと笑ったときは、肝が冷えるどころの話ではなかった。
異形は、女性の首に腕を絡みつかせ、足は地に垂れ、だらしなく引きずられていた。縋り付かれた女性の顔色は、青白さを通り越して、黒ずんで見えるほど悪く、彼女が取り憑かれているのは明白だった。
異様な事態を、しかし女性自身も含めて、周囲の誰もが気付かない。千歳だけが、その姿をはっきりと目視してしまったのだ。
霊力が高いとこの世に存在する姿無きモノ、異形を目に捉えることが出来る。そして目が合ったら最後、執拗につきまとわれ、最悪襲われてしまう。
目が合った相手に因縁を付けるという、非常に分かりやすい図式ではあるが。
千歳は嘆息した。
(ならず者と同じだな)
見ないようにと指導されてはいるが、相手の姿が姿なだけに、突発的な邂逅においては、見るなと言う方が酷である。
ただ今回は、異形は女性に執着していたため、千歳にちょっかいを出す気配はなかったが、胸の悪くなるような光景なのは間違いなかった。
(上手いこと追い払えて良かったよ、ホント)
あの女性に何があったのか、千歳に推し量る術はない。だが、追い払う術は、かろうじて心得ている千歳だった。
千歳は側のピアノに目を向けた。
黒光りする表面は、駅構内の照明を弾いて格調高く輝いていた。場所によっては派手にペイントされていたりもするが、ここのピアノは購入時の状態を維持する方針のようだ。
(音楽で敵を倒すとか、昔のゲームにあったな、そういうの)
(――と言っても、専門家じゃないから、手は出すなと言われてはいるんだけどね)
先のメッセージ、その最後の一文は、親しい相手を揶揄う類いのものではなく、額面通りの意味であり、千歳への忠告だったわけだが。
(着信前だから、セーフって事で)
言い訳を繰り返すのは、後ろめたさを自覚しているからだ。
専門家の忠告をないがしろにして良いことなど一つもないことは、勿論心得ている。
(でもさ)
千歳はすっと目を細める。瞳の色が濃くなった。ガラス質に変じた指先の、その内部に満ちていた黄緑色を、奥深くしたような色合いだ。
苗色と呼ばれる光を目に宿し、
(あやしいモノ、異形、魔物)
(そんなモノは、いない方がいいに決まってる)
端末の画面が正常に動くことを確認すると、千歳はアウター下に掛けたサコッシュの位置を直した。手の異変が収まったからには、長居は無用だ。引っ越しが控えている。準備万端とはいえ、そろそろ帰宅しなければならない。
千歳は胸元を探った。シャツの下、ペンダントトップの固い感触を掌に確かめる。
(じゃあ、オフモードでよろしく)
布越しに、ぼやけた光が指の隙間からこぼれる。光が収まると同時に、今度は千歳の体が僅かに発光した。
誰からも見咎められないようなごく淡い光は、刹那に消える。微かにハーモニカの和音が響くのを耳にして、千歳はよしと頷いた。
(――そう言えば、アイツ、どこ行ったよ?)
ふと思い出して、千歳は周囲を見回し、次いでしゃがんでピアノの下を覗き込む。おざなりに探索して、千歳は仕様もなく目を細めた。
(ま、腹が減ったら帰ってくるか)
あっさりと諦めて立ち上がると、左手に携帯端末を下げたまま歩き出した。
本格的な帰宅ラッシュの時間を迎えて混雑し始めた駅構内を、千歳は何気ない風を装いながら首を巡らせる。ひっそりと頷き、
(あやしい魔物はどこにもいません。さっすが千歳君。凄い、えらーい)
ふふんと得意気に鼻を鳴らし、千歳は意気揚々と改札口へ向かう。
(そう言えば、引っ越し先に何人か新人が入るって話だったけど)
(どんな人が来るのかな?)
などと、お気楽に考えながら、自動改札機を通過すべく端末をかざし、止まる。
「うん?」
自動改札機の向こう、すまし顔で通り過ぎる人々の合間に、黒い影が立ち塞がっていた。
上背は、通行人の頭二つ分はゆうに超えている。重量を感じさせる巨大な頭部に対して、体はひどく貧相だ。
前屈みにだらりと腕を垂らし、首を突き出して千歳を見るソレは、千歳の視線を受け、ねっとりと陰湿に笑った。
千歳は笑顔のまま固まった。
「……あれ?」
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