水底のネオンサイン
アオシノ
序章
憂鬱な気持ちで改札口を出た彼女は、軽快な音が聞こえた気がして顔を上げた。
首を巡らせると、コンビニやカフェが並ぶ店舗スペースの一画に、人が数名集まっている。
(あそこは確か、空き店舗を潰してイベント広場に改装した場所よね。 ――そう言えば、ピアノが置いてあったっけ)
流行に倣ってストリートピアノが設置されたのは、去年の十月だった。
地元駅の振興と銘打ち、気合いの入ったお披露目がされたが、年を越して一月経過した今になっても、ピアノを弾く人を見たことはなかった。
(時間が合わないのよ)
視線を向けたまま、鞄にパスケースを戻す。
まとめ髪にニットとパンツ、足はローヒールパンプスと、ごくシンプルな通勤服にロングコートを羽織る彼女は、肩の鞄をかけ直し、ぼんやりそう考えた。
都心の勤め先から残業なしで直帰しても、この駅に到着するのはピアノ利用可能時間ギリギリだ。おまけに帰宅ラッシュのピークでもあり、演奏したところで、足早に帰路につく勤め人らを引き留めることは出来ないだろう。
通勤以外でこの駅を利用しない彼女がライブに出会うのは絶望的だったが、今日に限って誰かがピアノを弾いているらしい。
天井から吊るされた時計を確認すると、時刻は十八時五十分。利用時間終了十分前だ。珍しいこともあると、横目に通り過ぎようとして、ふと気が変わり、吸寄せられるようにピアノへと近づいた。
ピアノを囲うポールパーテーションから、更に三メートルほど離れた場所に、まばらな弧を描いて聴衆が立っていた。スーツ姿のサラリーマンやラフな装いの大学生などで、彼女と同じような通勤スタイル女性が、携帯端末のカメラを構えていた。
空いている場所から様子を伺うと、黒いアップライトピアノが見えた。演奏者はこちらに背を向けて椅子に座り、パーティションの側まで近寄った詰め襟の高校生と話している。
リクエストでも受け付けているのか、時折談笑が漏れ聞こえて良い雰囲気だ。周囲の聴衆も立ち去る気配はなく、演奏が再開されるのを、のんびりと待っているようだった。
ピアノを見つめると、黒光りする側面に、鏡のように映り込む自分と目が合った。
茫洋とした虚ろな眼差しだ。気持ちがそのまま表れているようで、音楽を楽しむ人々の中に混ざっていると場違いな気がして、憂鬱だった気持ちが一層沈みこむのを感じた。
(曲が始まれば、少しは気が紛れるかしら……)
ひっそりと彼女は嘆息する。
年明け早々、彼女の所属部署に、何の前触れもなく新人が配属された。
派手な若い女性で、紹介採用との話だが、縁故の詳細が全く出てこない。これは何かあると、部署全員が勘繰るものの、当の新人は、周囲の不信を察してか控えめに振る舞い、これといった問題もなく、暫くは平穏に過ぎた。
事情が変わったのは、主任の急病だった。身勝手な人事に腹を立て、上に抗議を繰り返していた主任が、原因不明の病を患い入院することになったのだ。
突然のことで、見舞いをどうしようとかと話し合っているうちに、今度は先輩社員も体調不良を訴え病欠した。季節の流行病かもしれないと危惧していると、彼女の上司までもが倒れてしまった。
部署内は騒然として、これはいよいよ質の悪い病が流行っているに違いないと結論付けようとした時、件の新人がこう言い出したのだ。
「あたしに逆らうからよぉ」
猫を被っているのは察していた。新しい環境に慣れようとしているのだと、前向きに捉えることにしていた彼女は、新人が何を言い出したのか、さっぱり分からなかった。
「何馬鹿なこと言ってるのよ」
隣の席の同僚がきつい口調で咎めると、本性を現した新人は空っとぼけながらニヤニヤ笑う。
「あーあ次はあんたの番カッワイソォー」
反抗期真っ盛りの中学生が、気に入らない相手を挑発するような物言いだった。これが成人の言動かよ、と目まいがする思いで、何とかその場は収めたが、翌日、新人を咎めた同僚が、本当に病気で休んでしまったのだ。
「ほーらね言った通りでしょウケる」
パンパン手を叩きながら、新人はケラケラ笑う。
その日から態度を一変させた新人は、まるで女王のように振る舞いだした。
気に入った社員や上役には、あからさまに媚びを売り、手前勝手に格下と判断した相手は恫喝する。机には事務用品ではなく化粧品が並び、書類の上にファッション誌を開き、社用パソコンでネットサーフィンに明け暮れる。菓子を食みながら、近くの社員に茶を入れろと要求する。
度を超した身勝手さに、これは尋常ではないと、部署社員総出で人事部へ問い詰めると、担当者は渋々白状した。
例の新人は、最近経営悪化が噂される取引会社の事務員だったそうだ。
自社の傾きを目の当たりにして、進退に不安を覚え、出入りのあったうちの役員に相談し、紹介採用してもらったらしい。
「……つまり自分の勤め先を見限り、楽に転職しようと、うちのお偉いさんに色目使って釣り上げた訳ですね」
穏便な言葉を選ぶ人事担当者に、彼女は白々と言い放った。担当者は押し黙る。
「その方と話せますか」
氷の眼差しで問うと、担当者は額に手を当て、その役員は昨年末から体調を崩し、長期休暇を取っていると、ため息交じりに教えてくれた。
部署内は慄然となった。
呪詛を使っていると言い出したのは、誰だったか。
ネットの匿名掲示板に、自分の意に沿わない相手に呪いをかける方法が載っていて、新人はそれを実践している。そんな噂がまことしやかに流れだした。
彼女はオカルトの類を一切信じていない。だが、病に倒れた人たちは、皆新人への当たりが強かった。社会人らしく抑制してはいたが、傍目にもそうと分かる程に新人を毛嫌いしていた。
科学全盛の時代に、そんなふざけた話があるものかと一蹴するも、その後も、新人が不機嫌になると、誰かが体調を崩す。休むほどではないが、顔色を悪くして、就業中、ずっと辛そうにしている。
新人は気味悪がられ、敬遠されるようになった。そして本人は、それを畏怖と捉え、ますます増長するのだった。
そして今日、とうとう彼女は切れた。
月締めの一番忙しい時期に、新人は社内電話を私用に使い、大声で雑談に興じていたのだ。
人が減り、業務は逼迫していた。残業が続き、多忙を極めていたのが、とうとう噴出したのだ。
受話器を頬で肩に固定し、爪の手入れをしながら、ゲラゲラと品なく笑う新人のデスクに無言で近付くと、電話のフックスイッチを指で押した。
通話が途切れ、新人が怪訝に受話器を見る。彼女の行動を横目で追っていた社員たちが手を止めた。部署内がシンと静まり返る。
「仕事をする気がないなら、帰りなさい」
彼女の行動に、最初新人は呆気に取られ、次に忌々しく睨みつけながら粘着質に笑った。
「あなたにぃそんな権限ないと思いますぅ」
語尾上がりの耳障りな口調だった。しかし限界を迎えていた彼女には、効果はなかった。
「荷物をまとめて、とっとと帰りなさい!」
自分でも驚くほどの声量と激情で新人を一喝した。
社会人としてあるまじき行為かもしれない。が、相手は社会にあってはならない存在だ。躊躇いはなかった。
彼女の剣幕に僅かに怯んだ新人は、周囲を見回す。誰かに縋ろうとしたようだが、集まるのは冷やかな視線だけで、取りつく島がないのは明白だった。
「次はお前だからな」
唸るように吐き捨て、新人は席を離れた。去り際の目つきは、同じ人間と思えないほどに醜悪だった。
それからだ。彼女の体調が悪くなったのは。
下手なマッサージを受けた翌日の、揉み返しのようなだるさ。そう形容するのが一番しっくりくると、彼女は他人事のように考える。後頭部から腰までが、鉄板でも背負っているかのように重い。少し動くだけで息が上がり、動悸が激しくなる。目が翳み、文字が読み取れない。
見かねた同僚に早退を勧められるも、気力を振り絞り定時までは粘ったが、流石に限界を悟って退社した。
彼女はこめかみに手を当てた。確かに体調が優れない。が、
(バカバカしい。何が呪詛よ……)
睨め付ける新人は異様に過ぎたが、この期に及んでも呪いなどを信じる気はさらさらない。
それより仕事に穴をあけたことの方が心苦しかった。
人間関係は良好、適度に忙しい理想的な職場だったはずが、こうも荒らされて、腹立たしさの方がずっと強い。
ポン、ポーンと、音が弾む。自分の考えに入り込んでいた彼女は、はっとなって顔を上げた。次の曲が決まったらしい。椅子に座り直した演奏者が、軽く鍵盤を弾いている。
曲をリクエストした高校生が、聴衆の列から携帯端末を掲げて振っていた。身振り手振りで撮影可だと伝えていた。数名の聴衆が端末を用意する。
ここで初めて、彼女は演奏者に注目した。
へちま襟のゆったりとしたニットカーディガンに、パンツとローファーのカジュアルな着こなしは、無彩色で統一しているので、落ち着いて見える。ニット帽をかぶっているのかと思ったが、くたった帽子の天井から僅かに髪が垂れ下がっているので、ターバンだと分かった。襟足や前髪が不揃いで、髪形が少々乱雑に思えたので、それを隠すためにニットターバンを被っているのかと思ったが、淡い茶髪には艶と清潔感があった。
彼女の立ち位置が演奏者の右斜め後ろだったので、顔は頬と顎以外は見えない。座っており、ゆとりのあるアウターを着用しているので、若者であること以外、年齢や性別の判断が難しい。
唐突に演奏者が振り返った。聴衆の数を確認するための行為だとは分かったが、振り向いたその顔を見た瞬間、彼女は固まった。
おおよそ美しい顔というものは、目や鼻といったパーツの比率とバランスで決まるという。具体的な数字は知らないが、その定規を正確に使って顔を造作すれば、きっと目の前の演奏者になる。そう確信するほど、整った顔立ちだった。
高校生ぐらいだろうか。目元は柔らかく、口角はわずかに上がって穏やかな気質が伺える。頬が少し痩せて、首がしっかりと太いので、男性、少年だと分かった。
(……可愛い。これは可愛い)
男女に限らず、これほどの美貌を見たことはない。鞄に手を突っ込み、素早く携帯端末を掴み出すと、演奏者を凝視したまま高速で端末を操作、動画撮影を開始する。
ここまで整った容姿を目の当たりにするチャンスは、この先絶対ない。確信して彼女は無表情に端末を向ける。
愛想を振りまいていた演奏者が、撮影を始めた彼女に気付いて手を振った。内心快哉を上げながら、彼女はズームボタンを押す。と、
(――ん?)
フレーム内の演奏者が、笑顔のまま固まったように見えたのだ。彼女の形相が必死過ぎて、引かれたのかと狼狽えたが、それは一瞬の出来事だった。演奏者は花咲くように笑みを深める。
(……眼福です。アザーっす!)
満面の笑顔に、震えて緩みかけた口元を、必死に押さえる彼女だった。
演目は流行のアニメソングだった。サブカルチャー関連に疎い彼女も、オリジナルを聞いたことがある程有名な楽曲だ。迫力と疾走感のある曲をピアノ演奏用に軽やかにアレンジしている。軽快な音色が弾むように響く。
演奏者の腕の良し悪しは分からない。音が立体的に広がるライブは、それだけで十分に聞きごたえがあるのだ。
やっぱり上手いな、と、近くの聴衆がぽつりと漏らしていたので、それが演奏者の実力なのだろう。真実鑑賞して、耳だけでなく全身が心地良く感じる。
曲が終わると、控えめながら熱のこもった拍手が贈られた。演奏者は立ち上がり、そつなく一礼してみせた。
衆目を集めるのに随分と慣れた様子だ。芸能事務所に所属するアーティストかもしれない。が、どの場所に設置されても、原則ストリートピアノでの街宣行為は禁止されている。演奏者も承知しているようで、ひとしきり挨拶を済ませると、名乗りもせずに片付け始めた。
満足げな顔で散開する聴衆の内、幾人かが彼に近づき、話しかけているのが見える。
(混ざるべきか)
と、逡巡しているうちに、完全に出遅れてしまった。演奏者を取り囲む輪は完成し、今から入り込む隙間はないように見える。彼女は盛大に落胆した。
(あーあ。行けば良かった)
仕方なく動画をチェックする振りをしながら、聞き耳を立てると、
「
少年らしい少し高めの甘い声で、歯切れよく明快に受け答えしているのが聞こえた。
早速端末で検索をかけ、ヒットした文面を目で追う。
――スタジオ・ホフミ所属、ピアニスト、作曲家、イラストレーター……。
肩書もさることながら、所属する組織もまた一流である。
そこまで読んで、彼女は手を止めた。
(こういうのは、家でじっくりとするものです)
ふふん、と内心悦に入り、端末を仕舞うと、名残惜しい気持ちを抑えて歩き出す。
(いいもの見ちゃった。定時上がり万歳)
浮かれて帰路に就く彼女が、自分の体調がすっかり良くなっている事に気付いたのは、それから二十分後、自宅玄関の扉を開けた時のことだった。
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