猫又の恩返し

冬城ひすい@現在毎日更新中

88歳の三毛猫

わたしと三毛猫のミケの出会いはごくごくありふれたものだった。

特別劇的な何かがあったわけでも、思い入れがあったわけでもない。

ただ偶然出会ってしまっただけの、行き掛けの駄賃だったはずなんだ。


♢♢♢


にゃー。


自宅であるアパートから一歩出たら、そこには綺麗な三毛を持つ猫がいた。

ちょうどドアが開閉できるだけのスペースを残してちょこんと座っているのだ。

深緑を思わせるつぶらな瞳がまっすぐにこちらを見つめている。


「どうしたの? 迷子かな?」


ちょちょっと手を伸ばしてみれば、ゆったりと身体をこすりつけてくる。

犬にも触れたことはあるけれど、少しばかり猫の方が硬い毛の印象かもしれない。

それでも気持ちよさそうに頭や身体を擦り付けてきて、何だか愛おしく思えてきた。


「ここはペット可だし……わたしも大学生だから飼ってあげてもいいんだけど」


じゃれてくる三毛猫の耳と首元を確認する。

地域猫だったら耳に切れ込みがあったり、飼い猫だったら首輪をつけているかもと思ったのだ。


「野良の子、みたいだね。わたしの家に来る? ミケ」


すでに安直な名前を付けるほどに胸がドキドキしていた。


にゃんにゃーん!


三毛猫の方も人の言葉を理解しているかのように、胸に飛び込んできた。

わたしが支えなかったら、ミケはそのまま落下してしまっていただろう。


「まったく……君はやんちゃだね」


頬がゆるりと微笑みを形作る。

これがわたしとミケの初めての出会いだった。



♢♢♢



「ミケ……! ミケっ……!!」


わたしの瞳からは透明な涙があふれて止まらない。

涙なんて流したのはいつ以来かな。

きっと小さい頃にお母さんに怒られて以来。

しょっぱい涙の味なんて、思い出したくはなかった。


わたしの腕の中には瘦せ細ったミケが丸くなっている。

いやそれ自体、間違っている。

わたしが冷たくなったミケを抱きしめているから、丸くなっているのだ。


初めて会った時から数年後、わたしが24歳を迎えたころのことだった。

会社から帰宅したわたしが見たものはミケの亡骸だった。

どうしてなのかは分からない。


あまりの突然死に声をあげて泣いたのを――ミケという人懐っこい三毛猫がいたことをわたしは一生忘れないだろう。



♢♢♢



「おばあちゃん! しっかりしてっ!!」

「ばあばぁ……ぅくっ! うわぁああああ……!」


枕元では娘や孫が涙を流している。

わたしも年を重ね、88歳の春。

大切な家族に見守られながら、息を引き取ろうとしていた。


とても温かい。

声をかけてくれる人がいるだけで、この先の死が全く怖くないんだから。


ただ、心残りがあるとすればミケには死に際にそばにいてあげられなかったこと。

些細な変化があったかもしれないのに、それに気づけなかった手遅れの悔い。


「あなたたちは、大切な人の傍に……いつ、までも……いてあげなさい……」


視界がだんだんと虚ろになっていく。

明るい空間にいたはずなのに、いつの間にか真っ暗だ。


にゃーん。にゃん?

(僕だよ。覚えてる?)


”ミケ……? ミケなの!?”


いつの間にか目の前には尻尾を二つに分かれさせたミケがいた。

ふと自分のことを見ると、ミケと出会ったばかりの頃――大学生のわたしに若返っていた。


にゃんにゃん。にゃん。にゃーんにゃん。

(覚えててくれて嬉しいよ。僕、感謝してるんだ。嫌な顔一つせず、愛情をくれたあなたに。)


「ううん、感謝してるのはわたしの方だよ……! 君がいてくれたからわたしは寂しくなかった……。だから、一人にして、ごめんね……っ」


ぽろぽろとあの時と同じように、水晶にも似た涙が零れ落ちる。

それをミケは前足でわたしのすね辺りを触れることで慰めようとしてくれる。


にゃん。にゃーん。にゃん――

(心が優しいんだね。僕はそんなこと気にしてないよ。だから――)


ミケはわたしに背を向けるとちろりと振り返る。

二又の尻尾が楽しそうに揺れていた。


にゃんにゃん! にゃーんにゃん!

(元気出して! 88歳の猫又が天国に案内するからさ!)


わたしはふと柔らかい笑みがこぼれた。

猫は霊体になっても歳を取り続けるとどこかで聞いたことがある。

その噂の真偽などどうでもいい。


でも、88歳に享年を迎えたわたしと88歳のミケ。

不思議な運命の悪戯に面白くなってしまう。


「うん、一緒に行こう。また、わたしと一緒にいてくれますか?」


答えは嬉しそうな”にゃん!”だった。

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