そういうことじゃないんだよ
MAY
第1話
『お笑いの道を志してから、苦節十年。〇〇県出身――』
テレビから流れる口上を聞きながら、出前のうどんをすする。
すっかり住み慣れた部屋は、あちこちに傷みが出ているものの、まあ、まだしばらくは住めるだろう。インテリアにこだわるような趣味もないため、家具の配置は転居してきたときからずっと同じだ。せいぜい老朽化した家電が入れ替わったのと、本棚が増えたのばかりが変化といえるだろうか。
もう三十年ばかり同じような生活を続けている。
「いやいや、そりゃねえよ」
テレビに向けてツッコミを入れながら、タバコに火をつける。
最近では、どこもかしこも、禁煙禁煙で、ずいぶんと肩身が狭くなった。俺が社会に出た頃は、一人前の男ならタバコくらい吸えと言われたものなのに、変われば変わるものだ。誰に遠慮することなくタバコが吸えるのは、もはやこの部屋くらいかもしれない。食後の一服は至福さをしらないとは、最近の若者はかわいそうなことだ。
「あはははは」
お笑いはいい。笑うのは何よりもストレス発散になる。最近ではガンにも効果的だとか言われている。専門ではないので、真偽のほどは知らないが。
仕事は安定している。昇進は難しそうだが、このまま何事もなければ、無事定年まで勤められるだろう。老後の資金もそれなりにある。俺は十分ましな部類に入る。客観的には、そのはずなのだが。
お笑いはいい。簡単にできる気分転換だ。夢を叶えようと努力する若者を見ているのも気分がいい。自分が夢を見ているような気持になれる。規制や何やらで、昔に比べてやれるネタの範囲は狭まってきた。そんなところも肩身の狭い喫煙者と似ているような気がして、親近感を覚える。
明日も明後日もその次も、同じように変化のない毎日が続く。
一片の疑問もなくそう信じていたのは、単なる思考の硬直だったのかもしれない。
「警察の者です」
テレビで見た気のする、黒地に金色の桜田門が付いたのとは、なんか違う手帳を見せて、その男は言った。
「はあ」
阿呆のような返事しかできなかった俺を誰も責めはすまい。スピード違反の取り締まり以外で国家権力から絡まれることなど、めったにないのだから。
「目撃者を探しています。昨日、午後6時前、屋上に向かう女子学生を見ませんでしたか」
「……」
俺は、思わず目を泳がせた。
思い出せないからではない。見たからだ。
女子学生と男子高校生が屋上へ向かう階段を昇って行ったのを、少し離れた非常階段から見ていた。
なぜ、屋上だと断言できるのか。簡単である。あの上には、屋上以外の何もないからだ。
なぜ、屋上しか行先のない非常階段になどいたのか。簡単である。全面禁煙の学内で、こっそり隠れてタバコを吸っていたのだ。
「心当たりはありませんか?」
警察官が重ねて問う。
だが、馬鹿正直に認められるはずもない。禁煙を破った場合の懲戒は何だろう。まさか、免職ではないと思う。多分、厳重注意くらいで済むはずだ。済むよな?
確証のない賭けには踏み切れなかった。
「……ありません」
偽証も、罪だ。バレなければ問題ないが、バレたらどうなるのだろう。
非日常おもしれえと笑えるほど若くない。心臓バクバクものだが、幸い、警察官はそれ以上踏み込まなかった。
「そうですか。捜査協力ありがとうございました」
あっさり引き下がられても安心はできない。
こういう時こそ趣味に逃避すべきなのかもしれないが、さすがにこの心境ではお笑いも笑えない。
パソコンを起動した俺は、慌てて就業規則を見直した。
確かに俺は、少しばかり変化に憧れていた。だが!
求めていたのはこういうものじゃない!
キリキリとし始めた胃を抱えながら、俺はいつもより長く表示されてるように感じるwindowsのロゴを穴が開くほどにらみつけるのだった。
そういうことじゃないんだよ MAY @meiya_0433
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