第5話 約束する男
生まれ変わり……。
信じる、信じないは別として、生まれ変わったところで、どうなんだと俺は思う。どうせ生きていても仕方がないような碌でもない世界なのだ。
しかし一方ではでも、とも俺は思うのだった。あいなはこんな碌でもない世界で、碌でもない親から虐待を受けたことしか知らないのかもしれないのだ。他に色々な幸せというやつがあることを知らないのかもしれないのだ。
俺はあいなに視線を向けた。
「なあ、お前、何でこいつと一緒に行かないんだ?」
「だって、ママと離れたくないし、もう一度、ママとお話したいし……」
まあそうなのだろうなと俺は思う。他人から見てどれだけ酷い母親だったとしても、子供にとってはただ一人の大事な愛すべき母親なのだ。
「それに生まれ変わったら、あいなはあいなじゃなくなるんでしょう? ママのことだって、きっと忘れちゃうんだよ」
何気に鋭い餓鬼だと俺は思う。
「お前が生まれ変わりもできないままでこんな所にいるのを知ったら、お前のママは悲しいんじゃないのか?」
俺は心にもないことを口にする。あいなの母親がそんなことを思っているとは思えない。そんなことを思える親だったら、そもそも子供が死んでしまうまで傷つけたりはしないだろう。だが、その事実をあいなが知ったところで何になるのだろうか。
「……そうなのかな?」
「親は親だからな」
「でも……」
そう言ってあいなは言い淀む。
「どうした? 言ってみろ」
「あいなは悪い子なんだ。だからたくさん、ママに怒られたんだよ。ママも怒る時、あいなは悪い子だっていつも言ってた。だから、きっとそんな悪い子のあいなは地獄に行くんだよ」
あいなは死んでしまうまでに沢山の悪態と罵声を母親から浴びせられ、あいなが死ぬことでしか終わらなかった虐待を受け続けてきたのだろう。
俺自身もそうだった。何かにつけて悪態と罵声を浴びせられ、その度に暴力を振るわれた。足音がうるさい。食べ方が汚い。返事が気に入らない……。
きっと、あいつらは何だってよかったのだ。子供を虐げられる理由を探していただけなのだ。それでも何とかしようと子供は思ってしまうのだ。怒られないようにしようと。褒められるようにしようと。喜んでもらえるようにしようと。
……愛してもらえるようにしようと。
「それに、あいな、知ってるんだ。ママやパパより早く死んじゃうと、その子は鬼さんに河原で虐められるんだよ。ずっと、ずうっとなんだよ。きっともの凄く怖いんだよ……」
あいなの顔が泣き顔となって大きく歪んでいく。
そういえば、小さい頃に俺も聞いた気がする。親よりも早く死んだ子供は、賽の河原とやらで石をいくつも積まなければいけないと。そして、積んだ石が完成間近になると、鬼がやって来てそれを壊してしまうのだ。
それを永遠に未来永劫繰り返すといった話のはずだった。
「馬鹿だな……」
そう言った俺の声は掠れていた。そんなことを気にしていたのかと俺は思う。
あいなの大きな黒目勝ちの瞳からは涙の粒が、ぼろぼろと溢れ始めていた。
そんなことはあっていいはずがないだろうと俺は思う。親から死ぬまで虐められ、傷つけられ、そして死んでからも親より早く死んだからといって鬼に虐められる。そんなことがあっていいはずがない。
そんなことはヤクザの追い込みより酷いだろうと俺は思う。斉藤さんの追い込みより酷いじゃねえかと思う。
「……馬鹿だな。安心しろ。お前は俺を助けてくれたんだ。だから、だったら今度は俺が絶対に助けてやる。鬼だ? そんなもん、俺がみんなぶん殴ってやる。本当だぜ? 俺は強いんだ」
そう言いながら鼻の奥が、つんとしてくるのは気のせいだっただろうか。
「……本当に?」
あいなが消え入りそうな声で上目遣いに俺を見る。その黒い瞳は涙で今も濡れていた。俺は精一杯力強く見えるように、あいなに向かって大きく頷いた。
「だって、お兄ちゃん、凄く弱そうだよ。さっきも血を流して倒れていたんだし……」
……本当に鋭い餓鬼だと俺は思う。
「馬鹿、お前のためなら大丈夫だ。鬼なんて何人いようが、絶対に大丈夫だ。絶対に俺が助けてやる」
あいなはまだ救いを求めるように上目遣いで俺を見ている。あいなの顔とあの時、妹が俺に向けた顔とが不意に重なった。
高校一年生の時に養父を刺して俺が警察に捕まった時、妹もこんな顔をしていた。その時以来、俺は妹と会ってはいなかった。
俺が捕まった後、養父と母親による俺たちへの虐待が発覚して、妹は児童施設に入れられたと聞いていた。十九歳になる妹はもう児童施設を出ているのだろうか。そして、まだあの地元で暮らしているのだろうか。妹のことなど、もう何年も思い出すことはなかったのに……。
俺は小指を立てた片手をあいなに向けてゆっくりと差し出した。
「ほら、約束だ。指切りだ」
「うん……」
あいなが恐る恐るといった感じで小さな小指を俺の小指に絡ませた。あいなの小指が俺の小指に触れる感覚はなかったが、不思議な温かさをそこに感じることができた。
次の瞬間、あいなから俺の中に何かが流れ込んでくる感覚があった。
これは何だろうか? あいなの思い、そして記憶か……。
物が散乱している暗い部屋で泣いているあいながいる。叩かれた頬が、腕が、お腹が痛いと泣いているあいながいる。お腹が空いたと泣いているあいながいる。ママが帰って来ないと、泣いているあいながいる。
ベランダで窓が開かないと泣きながら、必死でガラスを叩いているあいながいる。
ベランダで、寒いと震えているあいながいる。
泣きつかれて、寒くて、おなかも空いて、ゆっくりと目を閉じようとするあいながいる。
あいなはいつも泣いていた。
いつも全身でママに愛されたいと泣いていた。
俺はゆっくりと小指と小指が絡まった手を上下に振った。
「……馬鹿だな。お前はもう泣かなくていいんだ。何も心配するな。ほら、約束したぞ。だから、もうこいつと行け」
あいなが黙ったままで小さく頷いた。そして意を決したような顔を俺に向けた。
「あいながまだここにいたら、ママは悲しいのかな? あいなはママを悲しませたくないんだ……」
「ああ、そうだな……」
俺は頷くしかなかった。本心では糞な親にあいながそんなことを思いやってあげる必要などはないと思う。だけども、俺は頷いたのだった。
……結局、子供はどこまでもいっても親が大好きなのだ。他人から見てそれがどれだけ酷い糞な親だとしても。多分、この俺ですらも子供の頃はそうであったはずだった。
「お兄ちゃん、ほんとだよ。ほんとに助けに来てよ!」
俺はもう一度、大きく頷くと若い男に顔を向けた。
「ほら、行くってよ。生まれ変わりだか何だか知らねえが、今度はこんなことにならないような生まれ変わりをさせてやってくれ」
俺の言葉に若い男は意外そうな顔をしてみせた。
「あなた、存外に優しいんですね。覚えておくとしましょうかね。後ひとつだけ、あなたにヤクザは向いていませんよ……」
……覚えておく? 怖いことを言いやがる。
……それに、何で俺がヤクザだってことを知っている? 余計なお世話だ、うるせえんだよ。
俺は心の中で呟いたのだった。
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