第12話 閉幕 あなたとあたしのこれから
ぎゅうぎゅう詰めの市電から抜け出せたと思ったら、その倍以上の人の流れに巻き込まれる。
休日の花の新開地は大盛況だ。
1キロ弱の大通りに活動写真小屋と演劇小屋が20軒以上軒を連ねる大歓楽街。
最近人気の活動写真を上映している小屋の前にはすでに列が出来ていた。
パン屋、洋食屋、大人気の生洋菓子を扱う藤井屋も店を構えており、ご婦人に人気の小間物屋、呉服屋、洋装店、絵葉書屋まである。
新開地に来れば、朝から夜まで遊んでいられる、そんな街だ。
日が暮れる頃には、福原に明かりが灯り、女の子供が家路についた後は、男の遊び場となる。
本日はクラシック音楽の演奏会が行われるらしい聚楽館に流れていく上流階級の紳士淑女を横目に、本日の目的地である茨たちの劇団”御影屋”に向かう。
パラソルと帽子の波間に、ひょいと頭一つ目立つのは、山高帽を被った異国人の紳士たちだ。
日本語以外の様々な言葉が飛び交うここは、まさに混沌の楽園である。
緋継たちとの待ち合わせは、御影屋の前だったが、久しぶりの新開地に思わずあちらこちらのお店に視線を向けてしまう。
シュークリームとショートケーキの幟に惹かれてよそ見していた伊吹の手を、綺麗な白魚の手が掴んで引いた。
「これ伊吹。シュークリームは後じゃ」
「あ、ご、ごめんなさい!」
「久しぶりの晴れ間だから、人手多いなあ・・・伊吹ちゃん、足元とスリに気を付けて。あと迷子も」
「一人でも家まで帰れますよ」
「帰り道は妾が乗せて走ってやろうのう」
「玉さまそれ絶対駄目な奴ですよ。失神者が続出しますから」
「俺が芦屋さんからこっぴどく叱られるからほんとにやめてね」
「一番混む路線ですからね、僕通学が逆方向でほんとに良かったです」
俥で新開地まで出向く事も考えたが、四人で連れ立って行くので、市電を選んだ。
初めての大人数でのお出かけである。
燈馬は琴音を迎えに行ってから合流予定だ。
成伴は、貴重な休日を新妻と二人きりで楽しむらしく不参加。
アトリエから来る凪は、一番近いにも関わらずまだ姿を見せていない。
「玉さま、後でシュークリーム食べましょう?あたしお給金入ったのでご馳走しますよ!」
「なんじゃ、シュークリーム位妾が食べさせてやるぞい」
「そこは俺に言ってよ伊吹ちゃん」
「あ、凪さんですよ!まーたあの人あんぱん買い込んでる!」
駿牙の呼びかけに、パン屋から大きな紙袋を抱えて出て来た凪が片手を上げて答えた。
すでに一つ頬張っている。
これなら金平糖は強請られずに済みそうだ。
「今から観劇なのに、そんなにパン買い込んでどうすんの、凪」
「食べるでしょ?伊吹」
「あ、はい!ありがとう凪くん」
「違うよー。金平糖」
「え、あんぱん食べてるでしょ!?」
「あんぱんも金平糖も食べるんだよ。ほら、交換」
人込みをひょいひょいすり抜けてやって来たひょろ長い長身が、節ばった大きな手であんぱんを差し出してくる。
物々交換を迫られて、伊吹は慌てて袂を探った。
「桃太郎だから、桃色なの?」
今日の着物は桃色の花輪小紋のお召に、鳥の刺繍の空色の帯、帯留めはチコによく似た黒い犬だ。
残念ながら猿柄の小物は見当たらなかった。
本日初演を迎える、五月姫が主役の舞台、女桃太郎、の演目に合わせた組み合わせだった。
「あ、そうです!さすが絵描きさん!!」
出会い頭に伊吹の着物を褒めてくれた凪に、満面の笑みで答える。
「有匡、お前に足らんのはこういうところじゃ」
「僕もそう思います、玉藻前さま」
玉藻前と駿牙が、重たいため息をついて有匡を睨んだ。
「その着物は俺と三吉屋に行った時に選んだやつだよね!?」
「はい!玉さまが見立ててくださったお召です!さすが玉さまですよね!」
「あ、うん・・そうだね」
「凪さん、金平糖なら昨日僕が差し入れしたやつまだあるでしょ?」
「あるけど、伊吹からもらったやつのほうがおいしいから」
「・・・」
黙り込んだ有匡、駿牙、玉藻前が微妙な空気を醸し出したが、伊吹には全く分からなかった。
「お気に入りなんですね。元町通のお煎餅屋さんの金平糖なんですよ。今度場所教えますね」
「教えてくれても貰うのやめないよー?」
「どんだけ面倒くさがりなんですか、凪くん・・はい、今日は多めに入れておきましたよ!」
和紙にくるまれた金平糖と差し出すと、代わりにあんぱんが手渡された。
それも、二個。
「え、二個?」
「うん、伊吹には二個あげるよー」
「凪、伊吹ちゃんそんなに食べれな・・」
「わー!嬉しいです!二個くらい余裕です!頂きますー」
「あ、に、兄さん、緋継さんたちもう来られてますよ!」
御影屋の前の大きな幟の横に立つ、美男美女が揃って手を振って来た。
本日も優雅且つ極上の笑顔を浮かべているのは緋継。
隣の美紅は、必死に男との距離を取ろうともがいているが、敵わず膨れっ面そのものだ。
それでも、伊吹を見つけた途端ぱあっと表情が明るくなった。
強引に緋継の手を振り払ってこちらに向かってかけて来る。
示し合せたように、緋継の三つ揃えの背広の想思鼠と、美紅の髪に結んだリボンが お揃いであることに気づいたが、口に出すのは躊躇われた。
余計な事を言って、機嫌が悪くなられると困る。
「伊吹!待ってたわ!あなたがうちに迎えに来るって聞いてたのに、どういうわけか渡辺さんが来たのよ!?」
「あたしも予定変更って言われたの、有匡さんが家に来たときよ・・」
「久しぶりの新開地だから、俥でゆっくり話しながら向かおうと思ってたのにっ」
「うん・・ごめん・・なんかもう根回しが凄すぎてね」
緋継から、初演の昼公演に席を用意すると言われた時には、倉橋邸の住人たちとは現地で待ち合わせるつもりだったのだ。
ところが、永尾家まで徒歩で向かおうと長屋の玄関を開けたら、舛花色(ますはないろ)の着物と揃いの羽織を来た有匡が立っていた。
苦笑いを浮かべて、おはよう、と口にした有匡を見た瞬間、全てを悟ったのだ。
狙った獲物は絶対に逃さない最強の狙撃手である。
花紫に鶴の柄の豪奢な着物に、紅の御所の帯を締めた玉藻前が、綺麗に整った丸い爪の先で有匡の頭を小突いた。
「緋継の爪の垢を煎じて飲め、この朴念仁が」
「今日日曜だよ、玉藻前。俺の耳も休日なの」
「伊吹や、この男の耳を引っ張ってやれぃ」
「え、なんで!?」
「そうやっていちいち絡むのやめてよ、玉藻前」
「お前がぐーたらしておるからじゃ!おちおち屋敷を出て行かせるわ、凪に隙を突かれるわ、黙っておれんっ」
「俺だってちゃんと考えてるよ、いいから黙ってて」
「有匡さん、玉さまと喧嘩でもしたんですか・・?」
「伊吹さん、そっとしておいてください・・」
「それより伊吹、長屋の件聞いたわよ!?」
紫陽花青のアールヌーボー柄のスカートを閃かせて、美紅が伊吹の腕を絡めとった。
その一言で、昨日の夜からの懸念事項が思い出される。
この後に控えている五月姫の晴れ舞台を前に、重たい空気は一端手放したい。
「あー、うん、そのことなんだけど」
「わたし、もう一度父様にお願いして・・」
「紅薔薇の君、燈馬たちが来ましたよ」
べったりと伊吹にくっつく美紅の隣にやって来た緋継が、さりげなく肩に腕を回して抱き寄せる。
通りすがりの洋装のご婦人が、羨ましそうな目線を一瞬向けて反らした。
美紅の美貌に浮かぶ鬼の形相に気づいたからである。
嫉妬心からなどではなくて、純粋な嫌悪感であると伊吹には分かったが、緋継は素知らぬふりで交わして見せた。
こうでなくては元町通のマドンナを射止める男にはなれないのだ。
「こうしてお休みの日に会うのは久しぶりだから、今日は伊吹の隣で観劇するわね」
「伊吹お嬢さんは、有匡の隣ですよ」
「反対側の隣よっ」
譲るものかと美紅が反撃した直後に、呑気な声が響いた。
「待たせてごめんなあー。いやーいつ来ても新開地はごっつい人やわぁ」
「晴れて良かったなぁー初演が快晴って幸先いいじゃねーか!」
「琴音先生!二週間ぶりですね!今日は袴じゃないんですね!洋装初めて見ました」
御影屋の前で止まった俥から降りて来たのは、クロシェットに白藤色のワンピース姿の琴音と、錫鼠の着流し姿の燈馬である。
ほっそりとした肢体に沿う柔らかい生地のワンピースは、琴音の魅力を最大限に引き出していた。
四角いフレームの眼鏡は外出用らしく、今日は医師ではなく綺麗な貴婦人だ。
幟や看板を見ながらどの芝居小屋にしようか悩んでいた二人連れの書生が、御影屋の前の美女軍団に見惚れて立ち止まっている。
「御影屋は満席だ、ほら、とっとと他所行け」
しっしと雑に追い払う燈馬の様子からして、こういうことは日常茶飯事なのだろう。
日本にはまだ数少ない美人女医だ。しっかり護衛してもらいたい。
「袴は仕事着なんよ。この子が美紅ちゃんやね、わー別嬪さんやないの、ひーくんやるなあ」
「渡辺さんではなくて、伊吹の友人の永尾美紅と申します。どうぞよろしく」
「へー・・ひーくん苦戦中なんやな。悪い男やないで、まあちょーっと面倒くさいけどなぁ」
「そこ、かなり、に訂正してくださいます?」
「いやー。あんた気に入ったわ!うちは、ひーくんやなくて美紅ちゃん派やから、困った事あったらいつでもゆーといでやー!」
「頼もしい限りですわ」
「えっと、あの、そろそろ中に入りませんか・・?お芝居が」
駿牙が気まずそうに提案して、成伴を除く村雨隊と仲間たちはぞろぞろと御影屋の中へ移動した。
「こんなの聞いてないわよ!席替えよ!席替え!」
「どうしてもこの配列でしか席が取れなかったんですよ。あちらの席も舞台は十分見えますから」
「だったらわたしと伊吹をこっちの席にして頂戴!」
「伊吹お嬢さんは、五月姫のご家族ですから、舞台から一番見やすい場所に居て頂かないと」
「なら、わたしもそっちに座るわ!五月姫とはお友達だもの!」
「有匡も燈馬も凪も駿牙も琴音先生も玉藻前も、みんな晴れ舞台を心待ちにしていたんです。ここは倉橋邸の同居人たちを優先させてやりましょう」
「でも・・だって・・そんな」
「間もなく暗転しますからね。さあ、席に行きますよ、紅薔薇の君」
「え、待って、伊吹!」
緋継は強引な笑顔と完璧なエスコートで通路を挟んだ舞台袖に近い座席へと美紅を連れていく。
すでに客席はほとんど埋まっており、満員状態だ。
ざわめきはあるものの、こんな場所で大声を張り上げるわけにも行かず、美紅は必死に伊吹に助けを求めている。
が、玉藻前と有匡に挟まれている伊吹の肩手は、しっかりと玉藻前に握られており とても身動きは取れない。
せめてもと手を振って、友を見送る。
「美紅、お芝居が終わったら会おうね!」
「約束よ!?絶対よ!?」
「うん!約束!」
遠ざかっていく美紅を見守る伊吹を横目に、二つ隣の駿牙が遠い目で言った。
「ロミオとジュリエットってこんな感じなんですかね・・」
「それはなんじゃ?駿牙」
「男女の悲恋物語ですよ」
「作品間違えてるよ、駿牙」
「あ、あれだ、ジャンニスキッキだ!」
「伊吹ちゃんがお父さんなん・・?それも可笑しくない?」
「凪、そろそろあんぱん食うの・・・もう食ったのか!?」
「三つだけね、燈馬も一個いる?」
「鈴木屋のあんぱんは甘さ控えめだから何個でもいけますよね!あたしも二個頂きました」
「お前らすげーな・・」
燈馬が感動した面持ちで伊吹と凪を見つめる。
「二個くらい普通ですよ・・多分・・」
控え目に進言したところで、客席の明かりが落とされた。
・・・・・・・
「今こそ鬼を討ち殺し!私はこの世を手に入れるうううう!!!覚悟おおおお!!」
舞台袖から飛び出して、二歩の助走で宙を舞った五月姫は、舞台の真ん中でくるり と宙返りして、赤鬼に扮した茨の首目掛けて日本刀を振り下ろした。
彼女の素性を知る面々にとっては、ハラハラするアドリブてんこ盛りの台詞だが、客席は大いに盛り上がっていた。
桃太郎の意匠に扮した五月姫が、舞台の上をくるくる飛び回るたび、どよめきと歓声が沸き起こる。
「簡単にやられるものかっ!」
片手で刀を受け止めた茨が、勢いをつけて押し返す。
「あまいっ!」
のけぞった五月姫が、茨の肩を足場にして、くるりと後ろ向きに宙返りした。
とんっと舞台に足が着くなりそのまま姿勢を低くして切り込む。
脇腹に日本刀が突き刺さり、茨がたたらを踏んでよろめいた。
「そんな・・まさか・・・」
腹部を押さえて呻きながら、赤鬼が闇に溶けていく。
犬、猿、雉が舞台の中央にやって来て、鬼を倒した!と叫んだ。
桜吹雪が舞い散る中、スポットライトを燦々と浴びながら、女桃太郎が決め台詞を放つ。
「これにて一件落着!」
どっと拍手と喝さいが押し寄せた。
座席から立ち上がった観客が、口々に五月姫たちの名前を呼ぶ。
「よっ!女桃太郎ー!」
「五月姫ー!!」
「かっこよかったぞー!」
上演中ずっと拳を握りしめていた伊吹の手のひらは、汗がびっしょり浮かんでいる。
万感の想いで拍手の輪の中に加われば、舞台の真ん中から五月姫が大きくこちらに手を振って来た。
「すっっっごかったですね!鬼と妖術使いの身体能力どうなってるの!?」
「伊吹さん、声もうちょっと押さえて」
「このにぎわいですから、聞こえませんよ」
「女桃太郎、流行るわよきっと!」
「そのうち活動のお声がかかるんちゃう?」
「看板役者二人が銀幕飾るかぁ・・案外夢じゃねえな」
「また別の芝居も見てみたいのう」
「茨と五月姫って相性いいよね、きっと。稽古中も楽しそうだったし」
「やらせてあげて正解だったね、伊吹ちゃん」
御影屋を出ると、少しずつ日が傾き始めていた。
ティータイムに合わせて、緋継が座席を予約しておいた藤井屋に全員で向かう。
次の目的地が藤井屋と聞いた途端、美紅が分かりやすく目を輝かせていた。
伊吹も勿論同じ気持ちである。
緋継としても、美紅を絶対に逃さないために藤井屋は外せなかったに違いない。
お土産に、マドレーヌとワッフルは絶対に買って帰ろう。
ああ、お給金が入った後で本当に良かった。
ちょっと贅沢をして、オレンジジュースも注文してみようか?
帝都での開店と同時に大人気になり、売り切れが続出して話題をさらった生洋菓子店、藤井屋の関西初出店がここ新開地である。
開店と同時に客が押し寄せ、店の外まで列をなすと有名な店は、日曜日の午後三時ということもあって、パラソルを差したご婦人たちが大勢軒先で順番待ちをしていた。
「失礼、先日予約を入れた渡辺です」
「ああ、御影屋さんの!いつもご贔屓ありがとうございます。奥のお席へどうぞ!」
慣れた様子で一行を、店内の最奥へと案内する店員に付いて歩く。
テラス席まで全て満席の店内は、圧倒的に女性客が多い。
ティーカップを持ち上げた手を止めて、着物姿のご婦人が緋継を見てため息を漏らし。
フォークを口元に運んだ洋装のご婦人が、有匡を見止めて頬を染め。
スプーンをソーサーに戻した二人連れの着物姿のご婦人が、凪と燈馬を交互にうっとりと見つめ。
同伴のご婦人の付き添いらしき紳士たちが、コーヒーを飲むのをやめて、玉藻前と美紅と琴音に釘付けになる。
見事に空気のように無視された駿牙と伊吹はいつものことだ。
「いつもって・・そんなしょっちゅう藤井屋に来てるのかな、渡辺さん」
「御影屋への差し入れは大抵ここで買われてますね」
「羨ましいい・・」
「伊吹さん、シュークリーム食べたいって言えば、兄さんがいくらでもご馳走しますよ、きっと」
「有匡さんに買って貰うわけにいかないでしょ」
「いや、たまにはご馳走させてあげてくださいよ・・」
「それより、もっと重大なお願いをこの後しなきゃいけないのよ・・・」
それを考えると気が重い。
せっかくのシュークリームが待っているのに。
「お願いって・・?」
「うん・・」
「伊吹ちゃん、駿牙、早くおいで」
先に席に着いた有匡がこっちこっちと手招きする。
テラスに近い日当たりの良い窓際の二つのテーブルには、白いレースのテーブルクロスがかけられていた。
恐らくこの店で一番乗客が座る席なのだろう。
ちらりと見たが、すでに美紅の隣は緋継が座っていた。
ああごめん、またしても出遅れた。
ひとまず心で謝罪して有匡の隣に腰を下ろす。
幸い、美紅はメニューを見るのに夢中で伊吹と席が離れてしまったことに気づいていない。
緋継、美紅、凪、燈馬、琴音のテーブルと、有匡、駿牙、玉藻前、伊吹のテーブルに別れる。
シュークリームは絶対に食べようと決めていたので、かなり贅沢なお値段でも許容範囲とする。
オレンジジュースの値段を見て、よし、諦めようと決めた。
「シュークリームと、オレンジジュースでいい?」
「え、お財布的に無理です!」
「お腹的には食べたいんだよね」
「え、でも」
「駿牙は?」
「僕は伊吹さんと同じで!どうせ緋継さんか兄さん持ちですよ、遠慮せずに食べましょうよ」
「そうだよ。あんぱんは食べれて、シュークリームとオレンジジュースはいらないとか言わないよね?」
「い、いります・・!」
「妾はラムネが良いのう」
「んじゃ、俺はコーヒーにしようかな」
一通り注文が決まった所で、女給を呼んでメニューを伝える。
ずらりと並んだ美男美女に、注文を取る手が震えていたが、少し前の伊吹だったらきっと同じ反応をしただろう。
慣れというのは恐ろしい。
あちこちから楽しそうな談笑の声が聞こえて来る優雅な午後だ。
「しかし異国人が随分増えたのう・・」
「市電でも何人か見ましたよねー。きっともっと増えますよ」
「チコのような異国の魔物も来るかのう」
「あ、チコくんにお土産買って帰ってあげないと!ひとりでお留守番ですからね!玉藻前さま、チコくんへのお菓子見に行きましょう」
化身しても人型にはなれないチコは残念ながら倉橋邸で留守を守っている。
藤井屋には、日持ちする焼き菓子やお菓子も沢山あるので、お土産には事欠かない。
「良いな良いな。マシュマロが欲しいと言うておったぞ」
「ジェリービーンズなんかもありますよー」
駿牙と玉藻前が楽しそうに入り口近くにある焼き菓子売り場に向かうと、伊吹たちのテーブルは一気に静かになった。
「・・・」
「さっきからなんか言おうとしてるよね?困りごとでもあった?」
テラス席と前の通りを眺めては、店内に視線を戻す、を繰り返していた伊吹の様子をしっかり見ていたようだ。
迷う様子の伊吹を一瞥して、有匡がテーブルに頬杖をついた。
「言いにくい事?」
「あ、禍付きとかじゃないんです!ないんですけど!」
「うん」
こんなお願い虫が良すぎるとしか思えない。
が、ほかに頼るところもない。
穏やかな有匡の眼差しは、さっきから一度も伊吹を離してはくれない。
「実は・・・今住んでる長屋が・・取り壊されることになりまして・・」
「・・・結構古かったもんね」
「なんか、急に土地ごと買いたいって人が出て来たらしくて、大家さんが二つ返事で売る事を決めちゃって、今月には立ち退かないと駄目なんです・・それで・・」
「伊吹ちゃんのベッド、そのままにしてあるよ?」
「ほんとですか!?」
「だから、いつでもうちにおいでって言ったでしょ」
「次の住まいが見つかるまで、暫く・・また・・居候を・・」
お願いできれば、と続けようとした伊吹を遮って、有匡が言った。
「あのさ、伊吹ちゃん」
「はいっ」
「俺のこと嫌い?」
「え!?いえ、好きです!」
そういう答え方じゃない方法もあったな、と思ったが後の祭りだ。
だって嘘じゃないし。
伊吹の言葉を真正面から受け止めた有匡が、ゆっくりと瞬きして視線を反らした。
日差しのせいだろうか、頬が赤い。
「じゃあさ、ずっとうちに居てよ」
「・・・え」
居候として、だと頭では分かっていても、反射的に頬に熱が溜まった。
口ごもった伊吹に向かって、有匡が笑う。この上なく楽しそうに。
「俺も、みんなも、それが一番嬉しいよ」
・・・・・・・・・
「兄さーん!そろそろ伊吹さん迎えに行かないと・・」
ノックしても一向に中から返事がない。
しびれを切らした駿牙は、兄の部屋のドアをゆっくりと開けた。
開けっ放しの窓から熱を纏った夏らしい風が吹き込んでいる。
レースのカーテン越しに床を照らす日差しはもう夏のそれだ。
上着が無い所を見ると、すでに有匡は出発したあとらしい。
それなら良しと部屋を出ようとした駿牙は、机の上に出しっぱなしになっている書類に気づいた。
吹き込む風で、机の上に広がった書類をまとめて、綺麗に角を揃える。
と、表紙にある文言が目に入って来た。
「売買契約書・・・」
見ると、土地の売買に関する書類のようだ。
記入してある住所は元町通・・・
「え!?」
まさか・・・
「あそこの土地・・買ったの!?」
仰天した駿牙の耳に、使役式神の気配が伝わってくる。
間もなく通りに面した錬鉄の門が開かれて、新たな住人が有匡と共に姿を現した。
「今日からまた、ご厄介になりますー!」
大正妖恋小歌劇 ~神戸異人街異聞~ 宇月朋花 @tomokauduki
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