第5話 五重奏 怪異と稀有はお手のもの

 福原遊郭は長崎に次いで外国人観光客が多い遊郭である。

 お茶屋や揚屋での飲み食いもそこそこに妓楼へ籠る客も稀にはいるが、日本に来たからには芸者とお座敷遊びを楽しみたいというのが一般的だ。

 福原の共立検番の玄関脇の壁にずらりと掛けられている源氏名の木札はおよそ300。

 毎晩どこかの座敷に芸者が顔を出し、宴会に花を添えている。

 昼見世が終わり、遊女たちは食事をとり、芸者たちは座敷に向かう支度をする時間帯。


 茶屋【つる乃】の一室には、駿牙を除く村雨隊の隊員と、チコと茨が集まっていた。

 凪がアトリエ代わりに使っている部屋である。

 お茶屋にも関わらず、花はなく、背広姿の男ばかりが座敷に詰めているのはこの”梓の間‘’くらいのものだ。

 八畳の和室は、中庭に面した障子窓から南天とモチノキが少しだけ見えた。

 大の男が五人も集まるとやはり手狭になるので、いつも散らかっている画材たちは部屋の隅に追いやられている。

 部屋の主である凪は、廊下に面した壁に凭れて座っており、円を描くように向かい合って座った面々からは離れていたがいつもの事だった。


「お茶をお持ちしました。余りものなんですけどお煎餅も良かったら・・」

「お気遣いありがとうございます。助かります。今日は流水紋をお召なんですね。前回の桜も美しかったが今日の着物も大変涼やかで貴女にお似合いです」

 人数分のお茶を用意してくれた女中に極上の笑顔で応対したのは緋継。

 毎回お茶出しの役が取り合いになるのは、これのせいだ。

 部屋の主である凪はというと、燈馬が新開地で調達してきたかりんとうをひたすらに頬張っている。

 茨とチコは緋継の両脇を陣取って座っていた。これが彼らの定位置だ。

 パッと見14,5歳にしか見えない茨は杉染の縮れ毛を一つに結んだ、八重歯が印象的な愛らしい小柄な少年だ。

 鬼ならではの怪力と跳躍力で殺陣が得意の若手人気役者である。

 いつもは異人街で集まるのだが、今日は締め切りが近い凪の尻を叩くために福原で集まっていた。


「では、茨。先ほど道すがら話してくれたことをもう一度皆さんに」

「はいよっ。緋継兄ぃ(ひつぎにい)いま新開地で噂になってるのが、赤い女の禍付き。芝居帰りの酔っ払いが、赤い禍付きに、もし。って声掛けられて腰抜かしたってのが最初だったと思う。そのうち、遊郭帰りの男も見たって話が聞こえてきた。ね?凪兄ぃ(なぎにい)」

「志津菊の話だと、伊勢屋の客が立て続けに赤い禍付きを見たらしいねー。年季が終わらないうちに亡くなった遊女の怨霊じゃないかって言い出したらしくて、そっから伊勢屋じゃ赤い打掛は禁止だってー」

「赤・・色付きか・・聞いたことがないな」

「これまでワタシが見たものは全て言葉を持たない禍付きばかりでしたね、主君!」

「ええそうですね、でも、たまにいるんですよ。思考があって言葉を操る厄介なのが・・」

「こりゃあ噂が本物ならかなり大掛かりなことになるんじゃねーの?隊長」

「切る前から赤なら、切ってもやっぱり赤だよねえ。いい辰砂(しんしゃ)になるかなぁ・・」

「それなら青金石(ラピスラズリ)のほうがいいな」

「赤の打掛が不人気なら、次点は何でしょう・・?売り場に出す色を変えなくては・・」

「主君・・恐れながら話の本題から反れているような気が・・」

 チコの突っ込みに、口を開きかけた成伴が、驚きと感動の眼差しを黒妖犬に向けた。

 いつもならここで話を本筋に戻すのは成伴の役目なのだ。

「大物が石になるのは事実だが、私もこれまでに数件しか経験がない」

「ねえねえ、その禍付きは何色だった?」

「色などない、お前も知っているあの黒い靄、もしくは実体になった怨霊だ」

「では、初めての色を持つ禍付きということですね・・」

「今の話だとさ、この辺で見たのは全員男ってことだよね?まあ、福原でご婦人がうろうろするわけないから、そこは納得だけど・・新開地なら男女問わず人通りはあるでしょ?」

「有匡兄ぃの言う通り、女優もいるしな!でも、オレが知る限り今んとこは男だけ、だから、遊女の怨霊ってのもアリかなって」

「確かに・・遊女だから恋仲になった男を探して歩いているというのが一番腑に落ちるな」


 手前に置かれた湯飲み茶碗を口に運びながら、成伴が眉間の皺を深くした。

 力の強い禍付きを祓うと、稀に石が残ることがある。

 意志は石となり、強い怨念や呪いが結晶になると言われていた。

 出来る石の種類は様々で、孔雀石(マラカイト)や辰砂(しんしゃ)、青金石(ラピスラズリ)等は岩絵の具の原料となるので高値で取引される。

 凪は、現場で出た石は自分で持ち帰って画材として使っていた。

 恐ろしい禍付き程、美しい石になるのだから皮肉なものだ。


「遊女にせよ、それ以外の禍付きにせよ、遊郭に影響が出るのは不味い」

オリエントホテルも、東和ホテルも、有馬と福原目的の外国人観光客だらけなのだ。

「志津菊も着物の色に指定が出るのは面倒だってぼやいてたなぁ・・赤って縁起いいのにね」

 凪の馴染みの芸者である志津菊は、あちこちのお茶屋に顔が利くので様々な噂話を聞かせてくれる、お気に入りの絵のモデルだ。

「こっちじゃ赤い妖魔を倒すオペレッタを作ろうか、って盛り上がってるよ。役者ってのは気楽でいいやぁ」

「ここで噂が収束してくれると良いですが・・まあ、無理でしょうね」

「行動範囲わかんないとひたすらに追いかけっこやる感じ?うわあ・・勘弁して」

「神戸の停車場から三ノ宮の停車場まで、捜索範囲を広げて情報収集する」

「僕ここ待機でいーい?」

「茨と凪は引き続き福原、新開地で情報収集を。一番人通りが多いからな」

「んじゃ俺たちはバラけつつ、広域捜査と行きますか」

「チコくん、私とは別の道をお散歩して帰って来てくれますか?」

「承知しました!野良犬共にも声をかけてみましょう!」

「有匡、新開地と福原には結界を張る。7月の博覧会までには解決させたい」


 東の浅草、西の新開地と呼び声の高い、関西随一の大歓楽街で初めて行われる織物博覧会。

 日本中の絹織物を一気に集めて、外国人観光客を呼び込もうという今年一番の目玉行事だ。

 禍付き騒動で台無しにするわけにはいかない。

 万一不祥事でも起これば、成伴の首が飛ぶどころの騒ぎではない。

 村雨隊は勿論の事、陰陽寮の責任が問われることになる。

 付け加えられた追加業務に有匡がため息を吐いた。


「結界・・・はいはい・・準備しますよ」

「それともう一つ、この前の通り魔事件だが」

「ああ、有匡がやらかして、鉢合わせした犯人ねー。すごい確率で遭遇してるよねぇ、どんな強運なの」

「えええ、有匡兄ぃ通り魔事件にも巻き込まれたの!?厄年じゃねえ!?」

「有匡歩けば事件に当たる・・つってな!くくっ」

「茨・・燈馬さん・・次、家来ても入れないよ・・?」

「えええそれは困るって!口閉じます!ごめんなさーい!」

「悪かったって!俺の大事な寝床奪わないでくれよ!な!?」

「ねえ、話巻きでしてよー僕なんか眠たくなってきたんだけどー・・」

「凪、寝るな!かりんとうを零すな!もうすぐ終わる。件の容疑者の意識が二週間たっても戻らないらしい。外傷はほとんどなく、呼吸も安定しているようだが、まるで魂が抜け落ちてしまったような状態らしい・・捜査課の連中が上に進言して、禍付き事案じゃないかという話が出ている」


「魂が・・抜け落ちるですか」

 緋継の呟きに、燈馬が続ける。

「生霊かよ・・・そっちは隊長たちの専門だな。見つけて肉体に戻す!」

「生霊って言っても、体に戻せる確証ないんだよ、燈馬さん」

「え、そうなのか!?逃げ回ってる生霊ふんじばって体に突っ込みゃ済むんじゃねーの?」

「理屈はそうだけど、魂抜けた肉体は衰弱が激しいから弾かれる場合もあるの」

「とはいえ、本当に生霊が彷徨っているなら、このまま放置するわけにはいかん」

「次々と事件が起こりますね・・本当に・・」

「念のため、明日病院の医師と、こちらからは芳賀医師を同伴させて検診の後、確定すればうちの案件になる」

「・・厄介だ・・・」

 やっと一難去ったと思ったのに・・・

「聞こえていますよ、有匡」

「診療所に迎えに行くのは何時がいい?午前は診察混むから琴音が嫌がると思うぜ?」

「午後の病院の回診に合わせて貰う。申し訳ないが、診療所は午後休診してもらうことになるな」

「わかった!そこんとこも説明しとく」

 大手を振って会いに行く理由が出来た燈馬が任せておけと請け負った。

「万一2つの案件が重なった場合は、芳賀医師にもこちらの仕事を手伝って貰うことになる」

「はいよ、それも伝えとく・・嫌がるだろうなー・・」

「・・私からの話は以上だ。ほかに報告はあるか?」

 ぐるりと一同を見回して、誰も挙手しないことを確かめると成伴は解散を告げた。





 遊郭には無用とばかりにいの一番に店を後にしたのは成伴だ。

 結婚前も後も変わらず潔癖な男である。

 茨の殺陣の稽古に付き合うことになった燈馬と茨と新開地の劇場の前で別れて、帰宅する有匡と三吉屋に顔を出す緋継は俥を拾った。

 時間があれば新開地をぶらつきたいところだが、先ほどの成伴の指令で一気に多忙になってしまった。

 現場では第一線で活躍する成伴に代わって、結界を張るための護符や呪具を用意するのは有匡と駿牙の仕事である。

 護符作りは駿牙の得意分野なので、任せておけば良いが急ぎで使用するとなると一人では手が足りない。

 水晶と紫水晶の在庫を思い出していると、緋継が思い出したように言った。


「白猫屋すぐ近くだったんですね」

「え?」

「玉藻前が大量に売り上げ貢献してくれたと報告を受けましたから」

「ああ・・それで・・」


 伊吹への怪我の慰謝料を現金ではなく服飾品にしたのは、受け取って貰いやすいと考えたからだ。

 身の上を聞けば、現金のほうが良いような気もしたが、金を積んで解決するやり方は取りたくなかった。

 陰陽師だの警察だの正直有匡の立場などどうでもよいのだ。

 さっさとこの役目を終えて、ただの美術商の次男坊に戻りたい。

 自分が抱えるのは未成年の弟一人で十分だ。

 そんな投げやりな思いが気のゆるみに繋がったのだろう。

 油断しきった状態で受けた攻撃は、数粒の金平糖の礫。

 もっとちゃんと見て冷静に判断していれば、あの事故は起こらなかった。

 裏路地に蹲った人影を見た瞬間、ひやりと胃の奥が冷たくなった。

 自分の呪力を生身の人間に向かわせたのは初めてだ。

 術者同士の戦いならいざ知らず、護符程度の威力しかないまじない言葉に倍の呪力を返すなんて。

 思い出すだけでぞっとする。

 相手が普通の善良な女の子だったのでなおの事胸が痛い。

 今回の一件で、否が応にも、自分が陰陽師という責任ある立場についてしまったことを改めて実感させられた。

 本当にこの仕事俺には向いてない・・・



「購入品の目録をざっと見ましたけど、あれ、本当に玉藻前が選んだんですか?」

「そうだよ。本人を前にして色々着せかけては試してた」

「もう少し華やかな方が似合うような気がするのですが・・」

さも本人を前にしたことがあるような言い草にどきりとした。

「・・・会ったの?」

「ええ。少し興味が沸いたので。幼馴染の失態のお詫びもかねて」

「はあ?なんで?なに勝手なことを・・」

 成伴と連れて行った時も相当警戒されたのに、色男の代表のような緋継が店に来れば、伊吹の不信感が再燃しかねない。

 この幼馴染の気まぐれは本当にどうしようもない。

「牡丹よりも薔薇ですよ。絶対に。彼女は紅薔薇です」

 深紅の薔薇を思い浮かべて、その隣に伊吹を並べてみるが、やっぱりどうにもしっくりこない。

 彼女のどの部分を見て紅薔薇というのだろう。

 理解できない自分がなんだかちょっと悔しい。


「・・牡丹の柄もよく似合ってたよ。玉藻前も自分の見立てに満足してた」

「玉藻前も・・・?そうですか・・あの方は魂で人を見ますからね・・二人が並べばさぞかし華やかだったでしょうね。花の共演に立ち会えず残念です」

「玉藻前はあの容姿だし・・最初は色香食らってフラフラしてたから止めた。でもそのあとは、結構馴染んでたよ。ほら、うち女の子いないから嬉しかったんじゃないかな・・玉藻前が家に遊びに来いって騒いでた」

「へえ・・それはそれは。で、あなたはどうなんです?」

「どうって・・?」

「今回の一件、彼女に対して謝罪と慰謝料以上の何かはあるんですか?ないんですか?」

「え、そりゃあ、ご両親が亡くなってるって聞いたから・・先々何かあれば助けになれればとも思ったし、必要であれば花嫁道具一式揃えて俺が後見人になって家からお嫁に出したってかまわないよ。それくらい申し訳ない事をしたって自覚はしてる」

「なるほど、その程度ですか」

「足りない!?家と墓石でも買おうか!?」

「いえ。それなら問題ありません」

「何が問題で何が問題じゃないのか俺にはわかんないよ・・・」

「あなたが心を揺さぶられていたら、少し困っていたかもしれませんね・・・安心しました」


 にこりと魅力的な笑みを浮かべた緋継が、暮れ行く空を見上げながら野ばらを歌い始める。

 駿牙にもこの才能の一割で良いから分けてやってはくれまいかと、兄としては思ってしまう。

 低く柔らかい歌声は心地よくてどこか懐かしい。


「清らに咲けるーその色愛でつー飽かず眺む・・・」


 この歌声を独り占めしたい女性はごまんといるだろうに。

 駿牙と違って余程気分の良い時しか歌わない緋継なので、その歌声を聞けるのは機会はそう多くはない。

 伊吹の印象はどう見たって紅薔薇ではないのだが、野薔薇と言われると納得できるような気もした。


 三吉屋の前で俥を降りた緋継に、南京町で中華の夕飯を依頼して別れる。

 有匡は一刻も早く帰宅して、駿牙と打ち合わせをしつつ、必要な在庫の確保である。




・・・・・・・・・・・



「玉藻前が強引に連れてきたみたいで本当に申し訳ない。仕事は大丈夫かな?」

「たぶん・・大丈夫と思います。あの、倉橋さん、あたしの家すぐそこなので、本当に送っていただかなくて結構ですよ!?」

 前町通りを北に上がって、栄町通を西に進みながら、伊吹は一週間ぶりに見上げる視線に戸惑いの視線を向けた。

 いつの間にか空には朧月が浮かんでいる。

 帰宅した有匡に眠っているところを起こされた時には恥ずかしすぎて死ぬかと思った。

 玉藻前の尻尾とじゃれている間に気持ちよくなって眠ってしまったらしい。

 本日の反省をしながら一人で帰路につきたいところだったが、有匡が頑として送ると言って聞かなかった。

 夕飯を食べていけ、という玉藻前の提案はお断りして正解だったと思う。


「すぐそこって言っても、もう逢魔が時だし、一人歩きは良くないよ」

「はい・・・あの・・失礼しました・・」

「え?なにが?」

「いえ、その・・お宅で寝ちゃって・・その・・すみません」

 訪問先で居眠りするなんて、年頃の婦女子にあるまじきはしたない行為である。

 美紅には絶対に言えない。言ったら鬼の形相で叱られるに決まっている。

「いや、それは玉藻前のせいだから・・あと、弟も・・愛想なしで悪いね」

「ああ、いえ、駿牙くんにも宜しくお伝えください。突然お邪魔してすみませんでした。家に帰って知らない女の人がいたらそりゃあ驚きますよね」

 乱れまくった着物を直して体裁を整えて、玉藻前にお別れを告げて部屋を出たところで、階段を降りてきた書生姿の学生を、弟だと紹介された。

 有匡よりいくらか背の低い、雰囲気の似た眼鏡の学生は、伊吹を見るなり元来た階段を大急ぎで上ってしまい、結局直接挨拶出来なかった。


「お邪魔しました!駿牙くん、さよなら!」

 玄関から一応声をかけておいたが、心象は良くないに違いない。

 玉藻前と友の契りを結んでしまったのに、どうしよう。

 この感じだと、また不意打ちでお店に来て、屋敷に拉致される気がする。

「あーいやーうーん・・・女子に免疫なくてごめんね・・」

「いえいえ!学生さんですもんね」

「玉藻前が、伊吹ちゃんの事を気に入ってるのは知ってたんだけど、まさかこんな風に家に招くとは思わなくて・・驚いたよね・・」

「そうですね・・」

「狐の本性、結構すごいでしょ」

「あははは、すごかったけど、あのモフモフの尻尾はちょっと癖になりますね」

「玉藻前は、気に入った人間にしか本性を見せないんだよ。好き嫌いが物凄く激しい」

「あー・・なるほど・・ええっと・・その、お友達になって欲しいというような事を言われてですね」

「友達・・・そう」

「倉橋さんにはご迷惑だと思うんですが!あの、またお邪魔させて頂くこともあるかも・・しれませんので・・ご容赦を・・」

「あるかもって言うか、あるよね、きっと。こっちこそごめんね。でも、玉藻前すごく喜んでから、懲りずにまた来てやって」

「はい・・あ、そうだ!三吉屋から沢山商品が届きました。ありがとうございました。お礼を言うのが遅くなってすみません」

「いや、あれで良いのかほんとわかんないんだけど・・」

「十分すぎますよ!」

「そう・・良かった」

 ほっと肩の力を抜いた有匡の緊張が和らいだことが、隣の伊吹にも伝わってきた。

 玉藻前が話していた通り、相当今回の件で罪悪感を抱いているのだろう。

 玉藻前からされた突飛な提案はひとまず置いておいて、倉橋有匡という人間を伊吹は嫌いになれない。


「あのう・・提案なんですが・・」

「うん、何かな?」

「お詫び、とか、慰謝料、とか、もう今日でお終いにしませんか?これから先、玉さまに御呼ばれして、お会いする時に気まずいのはちょっと・・」

「伊吹ちゃんがそれでいいなら、俺は勿論、喜んで」

「良かったです。あたしもこれで遠慮なく着物に袖を通せます」

「うん。そうしてください。ありがとう」

 妙な連帯感を感じながら、視線を合わせてふにゃりと笑い合う。

 玉藻前の側に居た時とはまた別の心地よさだ。

 彼が三度目のお見合いを引きずって傷心のままでいるのは忍びないし、勿体ない。

「あ、あとですね!あたしが言うのもおこがましいと思うんですけど、人の縁っていくつもあるそうなので!また、新しい出会いはありますよ!」

「・・・玉藻前から聞いたんだ・・」

「す、すみません・・余計な事言いましたね・・」

「いや、いいよ。別に気にしてないし・・周りのほうが気を使ってくれちゃってさ」

 

 へらりと陽気に笑う有匡が、空元気なのかそうじゃないのか、伊吹には推し量る事が出来ない。

 そんな間柄ではない。

 この人の本音はどこにあるんだろう?

 ふと浮かんだ疑問を、関係ないな、と振り切る。


「あのさ、伊吹ちゃん」

 明るい声音で呼ばれて、視線を上げる。

「はい、なんでしょう?」

「これから玉藻前に呼ばれて家に来るなら、毎回倉橋さん、じゃ分かりづらいんだけよねー」

「駿牙くん、倉橋さん、じゃだめですか?」

「俺のことはね、みんな有匡って呼ぶよ」

 なぜだが、その名前を呼ぶのに一瞬だけ躊躇った。

 息を吸って吐くリズムに合わせて、彼の名前を口にする。

「・・・じゃあ、有匡さん」

「はい」

 あっさり返って来た当たり前の返事。

 どんな風に呼ばれたら、この人は心から笑うんだろう。

「・・・ここから走水通に入りますね!」

 大急ぎで反らした視線の意味に気づかれたくなくて、細い路地を指さした。


 興味は何の始まり?


 問いかけて来る心の声に答える余裕はない。


「伊吹ちゃん、走水通に住んでるんだ」

「はい。走水神社の近くの長屋です」

「だからあの日、裏路地で会ったのか」

「あ、そうです。なんか随分前のことみたいですけどね・・」

「あの道って暗いし、通らないほうが良いよ?」

「あれ以来近道はしてませんから!」

 美紅には散々叱られたし、あの日の二の舞は絶対に御免だ。

 自分の身は自分で守らなくては。

 伊吹の言葉に頷いて、有匡が笑顔を浮かべた。

「それは良かった・・・視えるって自覚あるなら、明るい道を歩くのが鉄則だよ」

「はい。そうですね」

「神戸のほうで、赤い禍付きの報告が上がってるから、念のため気を付けてね」

「え・・・赤い・・?」

「俺たちも初めて聞く禍付きだから、用心してる。こっちじゃ目撃情報がまだ無いけど、新開地に行くなら注意して」



 一瞬だけ出会った赤い影。

 伊吹を守ってくれたあの子だろうか。

 消えてしまったと思ったのに・・・

 いや、でも、確信はないし。


「はい。気を付けます」

 終わりにできたと安堵した有匡の顔を思い出すと、実は・・とは言い出せなかった。





 おやすみなさい。と挨拶して、独り暮らしの長屋に入っていく伊吹を見送った後、 異人街に戻る有匡の表情は先ほどよりもずっと暗かった。

 御幣を恐れず言うのならば、雨漏りがしそうなボロ長屋だった。

 妙齢のご婦人が一人で暮らす家ではない、決して。

「あれは駄目だ、あの家は駄目だ、絶対駄目だ・・・やっぱり家と墓石か!?」

ぶつぶつと独り言を呟いて、星がいくつも瞬く空を見上げる。

「いやでもどうやって・・・家・・家なあ・・・」

 

 妙案が浮かばない。

 そもそも慰謝料と家はどうしたって結びつかない。

 一体どうしたら良いのだろう。

 分かっていることは、あの子をあの長屋に住まわせておくのは忍びないという事。

 そして。

 あの子に名前を呼ばれて嬉しかったという事。

 前から歩いてくる海老茶袴の女学生の髪に結ばれた赤いリボンがひらひらと視界に入って来た。

 赤い禍付き。

 魂が抜けた通り魔事件の犯人。

 一気に思考が現実に引き戻される。


 そして、鼻血・・・

 帰宅した有匡を待ち構えていたのは、尻尾に埋もれた眠り姫と、思春期真っただ中の敏感な弟と、困惑しきった使役式神。

 夕陽に照らされた白い脹脛がちらりと頭をかすめた。

「あれで鼻血かー・・」

 ちょっと過保護にしすぎたかもしれない。

 燈馬あたりに頼んで、福原で免疫を付けさせなきゃな・・

 考えることが山積みの有匡の思考から、伊吹に向かって湧いた細やかな感情はすぐにかき消えてしまった。

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