第6話 間奏曲 薔薇の騎士
迂闊だったかもしれないわ・・・
夕暮れ時の白猫屋のテーブル席に腰かけて、美紅は花の顔を険しく顰めた。
口紅の取れた薄紅の唇を引き結んで思案に暮れる憂いを帯びた表情もまた魅力的だ。
通りを歩く通行人が、これ見よがしに窓越しに視線を向けてきても総じて無視して物思いに耽る。
折角お稽古が早く終わったから、お店に寄ったのに肝心の伊吹に会えないなんて!!
加藤を通じて手紙のやり取りはしているけれど、あの日以来ちゃんと会えていない事が気掛かりで仕方ない。
大切な親友である伊吹に怪我をさせた張本人が見つかって、着物を弁償すると言った時には本当に良かったと思ったのだ。
柄の良くない男が来たのなら早々に追い出していたが、やって来たのはまさかの陰陽師。
しかも警察官の肩書付き。
間違いなく身元の確かな立派な男である。
駄目になった着物なら、美紅にだって買うことはできる。
というか、お父様、お願い!とおねだりして買って貰うことはできる。
美紅は幼いころから自分の容姿が周りより優れている事を知っていたし、それをうまく利用する事も早くに覚えた。
年中無休で不愛想で仕事の事しか頭にない父親も、愛娘の我儘は大抵叶えてくれた。
唯一突っぱねられたのは、伊吹を居候先させて欲しいと直談判した時だ。
ならん、の一言で追い出されたあの悔しさはきっと一生忘れないと思う。
どんなに可愛くお願いしても、それだけは駄目だと言われた。
女学生時代から誰より仲良くしてきた大切な友人が、父親を亡くし家まで手放した というのに、何の力にもなれないのか。
泣いて喚いて食事もとらず部屋に籠って訴えて、兄の誠一が取り持った折衷案が、 伊吹を女給として白猫屋で雇い、誠一の伝手で借家を見つけることだった。
本当なら、永尾邸のもっと近くの借家にして欲しかったのだが、伊吹が少しでも家賃を安く抑えたいと言って結局風呂なし長屋住まいになってしまった。
何とかして、伊吹の事を助けてあげたい。
美紅が買った着物をプレゼントにしたら、伊吹はきっと喜ぶだろう。
すごく嬉しいと笑ってくれるだろう。
そして同じくらい、申し訳なく思って、着物に袖を通そうとはしないだろう。
友情とは常に対等な二人の間でのみ発生するものである。
美紅としては、喜んで伊吹を庇護下に置きたいが、それは伊吹の望む友情とは色が違ってしまう。
それが分かっているから、着物を買ってあげるわよ!とは美紅は言えない。
あのお気に入りの躑躅の着物はとっても伊吹に似合っていた。
だから、伊吹が素敵な買い物ができればそれで良いと思った。
最初の誤算は、美紅が同行できなかったことだ。
本来なら、二人で有匡を連れて元町通の店を回るつもりだった。
伊吹が遠慮するだろうと予想出来たので、自分が一緒に行くことで値段を気にせず一番似合う着物を選んであげたいと思った。
なのに・・・加藤さんのばかっ!なによ、お店位一人で切り盛りしなさいよ!見ず知らずの男性って相手は警察なんだから危ないわけがないでしょう!万一危ない相手 なら、伊吹を一人で行かせることのほうが問題よ!
加藤にとって、まず第一に守るべきは美紅お嬢さんの安全なので、彼の選択は正しかった。
が、美紅にとっては全く理不尽でしかなかった。
せいぜい小一時間で戻ってくると思っていた伊吹はいつまで経っても帰ってこず、代わりに大橋屋から伊吹の好みに合わせた着物や帯がどっさりと届けられて、その中に伊吹がずっと欲しがっていたお召を見つけて良かったと嬉しくなったのはほんの一瞬。
結局日が暮れる前まで、伊吹は店に戻らなかった。
夕方から母親と親戚の家に招かれており、女中が店に迎えにやって来て結局そのまま伊吹とはすれ違ってしまって数日が経つ。
お稽古が詰まっているので当分お店に行けないと手紙を書けば、大橋屋での買い物の後、なんと三吉屋で追加の着物や洋服を購入してもらったと返事が来た。
神戸に住むご婦人で憧れない人などいない。
美紅が一緒に行こうと誘っても、何も買えないのは悲しいから・・と遠慮して断ってばかりいた、あの三吉屋に倉橋という陰陽師は伊吹を連れて行ったのだ!!
回転扉の向こうはまるで夢の国のように豪華で店内は広々と明るくて、売り場に置かれている商品は雑誌で見たことのあるものばかり。
反物は柄も色も斬新で洗練されていて、背伸びしたって手が出せないようなものばかりだったわ!
エスカレーターにも初めて乗ったのよ!
怖くて手すりにしがみついたわ、だって勝手に階段を上がっていくの!信じられる?あっという間に二階に着くの!
必死になって淑女のふりをしたわ!だってみんなそうしてるもの。
あのお店には、紳士淑女しかいないのよ。
美紅が何度も誘ってくれた理由が良く分かったわ。
しかもね、普通の売り場ではなくて上顧客用の応接に案内されたの!
沢山の店員さんが見たこともない華やかなワンピースや、綺麗な帯や反物を運んできて、あっという間に部屋がいっぱいになったわ。
こんな状況に一人で耐えられるわけないと思ったら、そこにこの世の者とは思えない美しい人が来たの。
あたしの着物や洋服は、全部その人が見立ててくれたのよ、あたしの感性じゃあんな風に選べない!
とにかく驚きの連続で今もまるで夢の中にいるみたい。
滔滔と綴られる伊吹の三吉屋体験記は、眩しい程に鮮明だった。
ああそうか、伊吹はこんなにも三吉屋に憧れていたのか。
その初めてを一緒に経験できなかったことが親友としてとっても悔しい。
けれど、一番にその話を聞けて、とっても嬉しい。
手紙には書ききれない熱い思いは自分だけの日記に綴った。
女学校を卒業して表向き花嫁修業中の美紅の一週間の予定はめいっぱい詰まっている。
というのも、暇な時間を作れば白猫屋に入り浸る事がばれているので、父親からの指示で、母親があちこちのお教室に娘を送り込んだせいだ。
お茶にお花に西洋料理にお裁縫、教会の慈善活動に母親のお供で商家の婦女会なんてものまである。
どれもこれも上流階級のご婦人と年頃の令嬢が集まる場所ばかりだ。
行ったって少しも面白い事はない。
すでに結婚が決まっている婚約中のご令嬢の結婚準備の話や、既婚者のご婦人たちから、良き妻となるための教訓を聞かされるだけ。
興味が沸くのは、新しい西洋料理の調理方法や、新しい洋装の流行くらいだ。
刻一刻と迫る政略結婚への時間制限を感じながら、得意の作り笑いを浮かべるのは疲れるだけ。
全部自分で決めて、自分の責任でこれからは生きていくの。
父親の葬儀の後、どこか吹っ切った表情で胸を張った伊吹を、羨ましいと思ったのは内緒だ。
父親という後ろ盾を無くしてもなお、未来への希望に溢れた真っ新な未来を描ける その強い背中が、眩しくて、憧れた。
彼女だけは、何の柵にも囚われず、自由に生きて欲しいとただただ願う。
「すっごい量ですね・・・これ、伊吹さんの長屋の部屋に入り切りますかね?」
衣装箱が詰まれたテーブルの向こうの加藤は姿が見えず声だけ聞こえる。
三吉屋から届けられた着物と洋服たち。
そのどれも、伊吹が選んだとは思えないくらい大人びて斬新な意匠のものばかりだった。
手紙に書かれた美しい人が、これを伊吹にと見繕ったらしい。相当な美的感覚を持った店員である。
出来るなら美紅の買い物にも付き合ってほしいくらいだ。
聞けば、絽の着物は現在仕立て中というではないか。
あの三吉屋で、一体何枚反物を誂えたのか。
ざっと大まかに計算しただけでも、軽く伊吹の月収数か月分である。
さすがにこれはお詫びの域を超えていると気づいて、美紅は青ざめた。
ご婦人の集まりでちらほらと聞く新手の詐欺だったらどうしよう?でも、あの警察 手帳は本物だったわ!親戚の叔父様が同じものを見せてくださったもの!
だとしても、せめて加藤さんか兄様に相談すべきだった?
もし詐欺でも何でもないとして、殿方が大量の服飾品を贈るのは口説く目的以外の何物でもない。
ぐるぐると不安が渦を巻いて美紅の心を押しつぶしてくる。
「あの男・・・善良そうな顔をして伊吹をたぶらかすつもり!?」
握った拳でドンっとテーブルを叩けば、衣装箱の山の向こうで加藤が声をかけて来る。
「お嬢さん、大丈夫ですか?何か落とされましたか!?」
「それもこれも加藤さんのせいよ!!」
「え!?えええ!?な、なにかしました!?」
「わたしを引き留めるからこんなことになったのよ!!!」
「え、いつ?いつの話です?」
「いいえ違うわ!わたしが余計な事を言ったのがいけないのよ!!!」
「え!お嬢さん落ち着いて・・」
「そもそもわたしが永尾家の娘だからいけないのよ!!!普通の家に生まれてたらこんなことにはならなかったのよ!!!」
「お嬢さん!そんなこと言わないでくださいっ!!あなたが永尾家のお嬢さんでいることで、どれだけ皆が幸せになっているか!!」
「・・・・っそうよね・・生まれを言い訳にするのは良くないわ!じゃあやっぱり加藤さんのせいよっ!」
「ええええええ!?」
振り出しに戻った美紅の八つ当たりに、加藤が大声で嘆いた。
看板娘のご乱心で、店に残っていた数人の客たちは綺麗に去っていった。
ぐずぐずと鼻を啜る美紅に、食器を片付けながら加藤がちょっと表の空気でも吸って気分転換してはどうですか?と提案する。
今日は伊吹は休みだし話し相手もいない。
加藤にこれ以上グチグチいうのもさすがに気が引ける。
かといって胸のもやもやは消えてくれない。
「ちょっと表を掃いてくるわ」
「え!掃除なんて美紅お嬢さん・・」
「いいの、気にしないで頂戴。何かしてないと手持ち無沙汰だから」
指先が荒れるから水仕事は駄目だと言われて、美紅が白猫屋で担当しているのは給仕のみ。
料理の腕を見込まれている加藤が調理全般を担当しているので厨房に入ることすらほとんどない。
エプロン付けて店に居てくれるだけでいい、というのが兄の本音なのだと言うことも理解していた。
ため息を吐けば幸せが逃げていくと言ったのは誰だったか・・・
たいしてごみのない店の前で箒を揺らしていると、数軒先の店の前でざわめきが起こった。
背広姿の男が、元町通を一人で歩いている。
女性の中では高身長の部類に入る美紅より、頭一つ分ほど背の高いその男は、柔らかそうな榛摺(はりずり)の髪をしていた。
隙なくきっちりと着こなした三つ揃えの茶鼠の背広に薄紅梅と紺藍の格子柄のネクタイを締めて、白い中折れ帽を被って優雅に歩く姿は芝居役者のよう。
行きかう人々の中で、照明を受けたかのように彼の存在だけが浮き上がっている。
その男を取り巻く周辺一帯の女性たちの表情が興奮とときめきと期待に満ち溢れていた。
確かに・・このあたりじゃ見たことのないすごい男前だわ・・・
一番近い役者は誰だろうと最近みた舞台を順番に思い出していく。
男の姿に呆然と見惚れて、真横を歩く女性が足元を崩した。
「っきゃっ」
膝をついて倒れこむであろう数瞬後の女性の未来を予想した美紅の目の前で、男が片腕を差し出した。
傾いだ身体を支えるように前に回り込んで、着物姿の女性を受け止める。
「お怪我はありませんか?お嬢さん」
聞こえてきた胸の奥を掬うような甘ったるい声。
助けられた女性と、同伴の友人らしき女性、反対方向に歩いていく途中の女性達数人が揃って足を止めて顔を赤らめる。
「は・・はい・・っも、申し訳ありませ・・・」
「素敵な藤の花が枯れずに済んで何よりです。どうぞお気をつけて」
「あ・・ありがとうございますっ」
か細い声でお礼を言った藤の柄の着物の女性は、友人と手を取り合って夢見心地で歩き出す。
まるで出来すぎた小歌劇(オペレッタ)の一幕のようだ。
このまま彼が歌いだしたら、見物客たちは万感の拍手を響かせたに違いない。
客席の立場で一連の出来事を眺めていた美紅は、その男の視線がこちらに向かっていることに気づいて箒を動かす手を止めた。
白猫屋の看板を確かめると、帽子をちょっと直してから店を覗いて、美紅の姿を見止める。
元町通のマドンナ、現看板娘としての謎の闘志がメラメラと燃え上がって来た。
異性からの熱視線を一身に受けて生きてきた美紅である。
性別は違えど、あれほどの人数を一気に惹きつける魅力を放つ人間には出会ったことが無かった。
このあたりの気温が二度ほど高くなった気さえする。
なんだかとっても癪に障る。
「いらっしゃいませ」
竜胆色の地に紅薔薇の着物に黒の格子柄の帯を締めた美紅は、視線を逸らすことなくその男を真っすぐ見つめた。
確かにすらりとした長身と、洗練された洋装、肌艶も申し分ない綺麗な男だ。
背後から近づいてきた二人連れの洋装の女性が、一瞬だけ視線を上げてきゃっと黄色い悲鳴を上げる。
くすりと声も出さずに笑った男が、すいと隣の女性達に流し目を向けるのをまじかで見ながら、美紅は面倒な客だわと思った。
「こちらが白猫屋ですか?」
先日店にやってきた件の二人組とはまた違った種類の男。
見た目だけじゃなくて声までいいなんて、神様はいったいどれだけ依怙贔屓なさるのかしらね。
有匡の人好きのする砕けた口調とは違う、紳士の鑑のような丁寧な口調は、その容姿に似合っていた。
「え・・・ええ、そうです」
とはいえ、美紅も元町通一番の看板娘と言われている美人である。
妙な意地が出てきて心持ち胸を張って答える。
美紅と視線を合わせるように僅かに背を縮めて、男が帽子を外して頭を下げた。
「先日は私の友人、倉橋が大変ご迷惑をおかけしました。お詫びの品はお気に召して頂けましたか?精一杯対応させて頂きましたが、万一不足があれば・・」
伊吹の手紙に書かれていた一文が蘇る。
この世の者とは思えないほど美しい素敵な人が夢のように颯爽と現れて、あたしがとびきり綺麗に見える服をいくつも見立ててくれたのよ。
美紅の感情の暴走によって過剰に脚色された一文は、彼女の導火線に一気に火をつけた。
この男だったのね!!!!!!
手にした箒をぎゅっと握りしめて、美紅は男を睨みつけて毅然と言い放つ。
「倉橋さんは、一体どういうつもりなのかしら!?お金で取り入ってたぶらかそうたって、そうはいきませんからね!!!!」
「お金で取り入る・・・?なるほど、なかなか面白い発想ですね、紅薔薇の君」
美紅の暴言に眉をひそめる事すらせず、面白そうに笑った男の視線が美紅の着物で止まる。
紅薔薇の君ー・・・かっと頬に熱が走った。
これがこの男の常套手段なのだとしたら、油断すれば美紅とて命取りになる。
「なっ!!!」
不意打ちを食らって顔をしかめた美紅を目を細めて眺めながら、男は穏やかな口調で続けた。
「ご心配なさらずとも、たぶらかす程の技量は倉橋にはありませんよ。あくまで慰謝料ですのでご心配なさらず」
「ほ、本当にただのお詫びだと仰るのね!?それ以上の感情はないと!?あっても受け取りませんわよ!」
「ええ、勿論です。神に誓って」
「それなら結構ですわ!これ以上の謝罪もご挨拶もお受けしませんのでどうぞお引き 取りになって!ごめんあそばせ!」
自分史上最高につんけんした口調で言い放って、店の中へと戻る。
地面を踏みしめるように勇み足で床を打つと、ぐっと空いている拳を握った。
鬼を退治した桃太郎の気分である。
言ってやったわ!
これでもう二度とあの男たちはこの店には訪れまい。
伊吹の平穏は守られたのだ。
一瞬だけ通りを振り返ると、男は丁寧に店に向かって一礼してからゆっくりと去っていった。
この状況でどうしてそんなお辞儀が出来るのか。
これではまるでこちらが負けたようではないか。
「美紅お嬢さん、お掃除ありがとうございました!って・・どうしました!?顔が真っ赤ですよ!?」
「腹が立ったのよっ!!!」
「な、なにかあったんですか!?まさかお怪我でも!?」
「今日は厄日よ!わたしはもう家に戻るわ!」
「ええ!?ちょ、ちょっとお待ちを!俥を呼びますので!」
「暫く伊吹にも会えないっていうのにもう!!もう!!なんだっていうの!!」
あの友人の言葉を信じるなら、伊吹に届いたものは全て純粋な慰謝料なのだろう。
安心していいはずなのに、やっぱりしっくりこない。
あの男の態度がやたらと鼻についたせいかもしれない。
むしゃくしゃする気持ちで美紅は長い髪を乱暴に背中に払った。
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