第4話 夢想曲 縁は天下の回りもの

「ごめんくださーい!白猫屋ですー!」

 アイスクリームの上に飾られたさくらんぼが落ちないように気を付けながら、伊吹はガラス戸を押し開けた。


 白猫屋と同じく元町通三丁目にある市村写真館。

 三軒隣の馴染みのお店は、常連客が来店するとアイスクリームの出前を頼んでくる。

 もう少し遠ければ岡持ちに入れて運ぶのだが、歩いてすぐの距離に届ける場合はいつもの給仕と同じ方式だ。

 運動神経がよろしくない伊吹なので、慎重に慎重に毎回運んでいる。


 壁に設置された真鍮の看板の横にある大きな出窓には、店の宣伝になるような見目の良い上流階級の家族写真や、晴れ着姿の令嬢の写真が季節ごとに飾られていた。

 出前を届けに来るたびに、それらを眺めるのが楽しみでもある。

 女学生時代から、何度も店の前で立ち止まっては飾られている晴れ着姿の写真を見て憧れを抱いたものだ。

 元町通のマドンナこと、美紅の晴れ着姿の写真が飾られた時には、写真館に問い合わせと美紅あての付文が殺到したらしい。

 美紅の父親からの依頼で、晴れ着姿の写真は早々に出窓の飾り棚から撤去されて、幻のマドンナという噂話だけが残った。

 市村写真館で娘の晴れ着姿の写真を撮ると、良縁に結ばれるなんていう迷信まで生まれて、一時店には予約が殺到したそうだ。

 そんな関係で、市村写真館は誠一が白猫屋を開店させた当初からのでもある得意先でもある。

 市村がコーヒーを飲みに来ることは滅多になく、こうしてアイスクリームの出前がほとんどであるが。



 店内に入ると、入り口すぐにある受付代わりの陳列棚に、店主が愛してやまない輸入品の蛇腹カメラがいくつも飾られていた。

 庶民には、到底手が出せないカメラである。

 写真を撮る事が出来る=裕福な家庭という世間の常識通り、店にやって来るのは光沢のある正絹の着物を身に纏った、華族や良家の子女がほとんどだ。

 カメラの宣伝広告が貼られた壁の向こう、撮影室から眼鏡を掛けた温和そうな中年の男性、店主の市村がやって来た。

 伊吹は受付の棚の上にアイスクリームが三つ乗せられたトレーを乗せる。

「こんにちは、市村さん。アイスクリームのお届けにあがりました!」

 大きめの声で言うと、撮影室から若い女性の声が上がる。

「アイスクリーム!?母様、アイスクリーム食べられるの!?」

「これ、はしたない。ちゃんとお座りなさい」

「お嬢様、着物が乱れますのでどうぞお掛けに・・・」

「やあ、伊吹ちゃん!ご苦労様。噂は色々聞いてるよー?」

「・・えええ何の噂でしょう」

 おおよその想像はつくが苦笑いでごまかす。

「ありがとう。ちょっと待っててねー」

 トレーを持ち上げた市村が、撮影室に戻っていく。

 奥から女中らしき女性が出てきて、差し出されたトレーを受け取ってぱっと表情を明るくした。

「奥様、皆さまでどうぞ召し上がって下さい。溶けないうちに」

「お気遣いありがとうございます。頂きますわ・・あら、女中の分まで?」

「折角ご来店頂きましたから、皆さまでどうぞ」

「ありがとうございますっ!」

 母親と娘の分だけでなく、女中の分まで安くはないアイスクリームを頼んでやる市村の優しさに、女中が感極まっている。

 彼女は初めてアイスクリームを食べるのかもしれない。

 伊吹だって、店で給仕はするけれども、美紅と一緒の時にしか食べたことなどない。

 写真に関してはとことん拘る店主の撮影にこれから付き合わされる令嬢には、今のうちに糖分を補給して挑んで欲しいものだ。

 美紅に聞いた話によると、鞠を持たされたり、紙吹雪の中で立たされたり、傘を差したりと、まるで芝居役者のブロマイドのような撮影方法で長丁場且つ体力勝負だったそうなので。

「あまーい・・美味しい!美味しいわ、母様」

「アイスクリームを頂いたんですから、しっかり良い写真を撮って頂くんですよ。ここで写真を撮って頼子は嫁ぎ先に恵まれたんですからね」

「はーい」

 きゃっきゃとはしゃぐ令嬢と娘以上に気合十分な母親の声が漏れ聞こえてくる。

 市村写真館の売上は、幻のマドンナ降臨以降一度も衰えていない。



 ほくほく顔で戻って来た市村が、受付に頬杖をついて伊吹の顔を探るように見つめた。

「それで?どんな男なの?」

 これは客人がアイスクリームを食べ終わるまでは帰してもらえなさそうだ。

「えっと・・何のことだかー・・」

「白猫屋で女給始めた頃からの仲じゃない。水臭いよー。僕は美紅お嬢さんより、伊吹ちゃん派なんだから!」

「あははー・・どうも・・それあちこちで聞きますけど・・」

 今は看板娘となった元町通のマドンナ派と、平凡平民平坦顔な伊吹の庶民派で、謎の二大派閥があるとかないとか。

「で、どこの家の息子なの?大橋屋はともかく、三吉屋から大量の衣装箱が届いたそうじゃない、只者じゃないね、その男。見目のいい優男だったって大橋屋のおばばが言ってたよ」

 やっぱり噂の出どころはそこかー!!!

 あの老婆はしたり顔で店の奥に引っ込んだふりをして、じっくりこっそり有匡の事を観察していたに違いない。

 恐るべしやり手婆(ばばあ)である。

「もしかして嫁入り道具揃えたのかい?」

「そんなバカな!」

「じゃあ、口説かれてる最中だ?」

「あるわけないでしょう?美紅が相手ならともかく」

「いやいやいや!やっぱり結婚するなら一緒に居てホッとできる普通の子が一番だよ」

「慰めてます?けなしてます?」

「褒めてるんだよ。それに、商工会の連中は僕も含めて心配もしてる。変な男ではないんだろ? もし怪しい奴ならおばばが口を出してるはずだしね」

「身元は・・確かな人なので」

「なら安心だ!このご時世に三吉屋で好きなだけ買い物出来るなんざ特権階級のお大尽様くらいだよ?しっかり手綱握って捕まえとかないと」

「ええー・・いやー・・それはー・・どうでしょう・・」

 三吉屋買い物騒動から一週間。

 通りを歩けば知り合いの店主からこの間の男は誰だ?と根掘り葉掘り聞かれるばかり。

 まさか詳細を語るわけにはいかず、曖昧にごまかして逃げている伊吹である。

 慰謝料?の受け取りも終わった今、再び彼らと会う事はないだろう。

 そもそも生きる世界が違う人たちである。

「煮え切らないなぁ・・・もしかして向こうの家に反対されてる?必要なら、誠一くんや、僕だって後ろ盾に・・」

 両親がいないことを暗に示されて、伊吹はぶんぶん首を振った。

 不味い、さらに話が変な方向に拗れている。

「なにかあれば、ちゃんと皆に相談も報告もするので!心配は無用です!」

「当然美紅お嬢さんたちは知ってるんだよね?」

「え?・・・ええ、まあ」


 実のところ、美紅とはこの一週間顔を合わせていない。

 有匡と買い物に出かける前に話したのが最後である。

 伊吹が休みの日に店に来たらしいが、すれ違いで会えずじまいだ。

 通り魔事件が発生してから、伊吹を心配した美紅は、日々の予定を全て変更して白猫屋に顔を出していた。

 お茶やお花のお稽古は勿論のこと、美紅の母親が会員となっている商家の婦女会にも出席していなかった。

 いつも通り家を出て、俥に乗った途端行き先を元町通に変更していたのである。

 帰りは白猫屋に寄り道した体を装って帰宅していたのだが、とうとう講師から連絡が来て両親にばれてしまったらしい。

 長時間のお説教の後、お稽古の振替予定をぎっしりと詰め込まれたので、暫く会えそうにないという手紙を加藤から言付かった。

 大橋屋の後、三吉屋でも着物を買って貰った事を手紙に綴ったところ、美紅が家宝の帯留めを強調したせいで事が大きくなったのかもしれない、と謝罪の言葉が返って来た。

 色々と気掛かりはあるが、新しい着物や洋服が増えて嬉しくないわけがない。

 ほとほりが冷めたら袖を通すことにしていた。


 美味しかったです、という声が奥から聞こえて、市村が会話を切り上げた。

 これ以上突っ込まれても話せることがないのでほっとする。

「とにかく、変な男じゃないなら、上手くいくように祈ってるよ。伊吹ちゃんも年頃なのに全く男っ気ないから心配してたんだ。美紅お嬢さんに遠慮して婚期を逃すなんてもったいないからね!なにかあれば、ちゃんと相談しておくれよ?」

 父親を亡くして、長屋住まいをしていることを馴染みの店主たちは皆知っているので何くれとなく気にかけてくれるのは有難い。

「はい、ありがとうございます」

 空になった食器をトレーに乗せて、伊吹は店を後にした。




 市村写真館を出て、白猫屋に向かって歩き始めるとすぐに、店の前に一台の俥が止まっているのが見えた。

 道行く人たちが、通りすがりにちらりと乗客を見ては驚いたように目を見開いて何度も振り返っては確かめながら通り過ぎていく。

 その俥の上の人物が、こちらを見て優雅に手を振って見せた。

 白地に湊鼠の立涌柄の着物に鶴が刺繍された七両染の帯、半結びの黒髪には金と銀の細工の髪飾り。

 本日も平安時代の姫君もかくやの麗しさを誇る玉藻前その人である。

「伊吹や、待ちくたびれぞ?早う来い」

 約束をした記憶などない。

 白猫屋のことを玉藻前には話していないが、有匡から聞いたのだろう。

 それにしても、伊吹に会いに来る理由が見当たらない。

 ご婦人の気まぐれだろうか?

 どんな理由であったとしても、間違いなく玉藻前は今日も本当に麗しくただただ美しい。

 自分の語彙力のなさが悔やまれる伊吹である。

 衆人環視のなか、俥で待つ玉藻前の傍まで小走りで駆け寄った。

 薄紅の地に七色で描かれた蝶紋の着物に蒲公英色の帯と猫の帯留めを選んだのはこの為だったのかもしれない。

 伊吹の運動神経では、甘い蜜に吸い寄せられる蝶の気分で猫のように軽やかに、とはいかないが。


「玉さま!どうしてここに!?」

「なんじゃ、つれないのう。屋敷に遊びに来いと言うたのにちいとも伊吹が顔を見せぬから、妾から出向いたのじゃ」

「え!?」

 そう言われてみれば、あの日玉藻前から家に遊びに来るように言われた気がする。

 半分忘れていたし、当然社交辞令だと思っていた。

 騒がしくなった通りの様子に気づいたのか、加藤が店から出てきた。

「ああ良かった!伊吹さん戻って来たんですね!凄い美女があなたを探して・・」

「加藤さん、すみません今戻り・・」

「店主。伊吹をこれから借り受けるぞ?良いな?」

 ぐりんと首を巡らせて、玉藻前が通りに立つ加藤に向かって言い放つ。

 勿論伊吹はまだ仕事中で、店には給仕が必要な客が数人入っている。

 ところが。

「・・はい。承知しました」

 まるで術にかけられたように加藤が文句の一つも言わずに頷いて、店の奥へと戻っていく。

「え・・い、いいんですか!?」

「構わんと言うておろ?店主の許可は取った。この後の時間は妾が貰うぞぃ」

 唖然とする伊吹の手を軽く引いて、俥の上に引っ張り上げると、玉藻前は俥夫に告げた。

「早う出せ。異人街の屋敷まで」






 異人街の前町通りの一角にその洋館はあった。

 曲線の美しいアールヌーボーの模様が描かれた錬鉄の門扉は見上げるほどの高さ。

 敷地をぐるりと囲む石造りの塀とその上に付けられた錬鉄の柵。

 ぎっしりと蔦が絡まった柵の向こうを外から伺うことはできない。

 俥夫が走り去ると同時に、中から門が開けられる。

 姿を見せたのは聴色(ゆるしいろ)の着物にエプロンをした若い女中だった。

 玉藻前と伊吹を確かめるとにこっと可愛らしく微笑む。

「ご苦労じゃったの。妾の客人、伊吹じゃ」

「あ、あの、おおおお邪魔しますっ」

 貿易関係の会社や、富裕層の住居が多い旧居留地に足を踏み入れるのは初めてだ。

 有匡と出会ってから初めて尽くしの事ばかりである。

 大げさなくらい頭を下げた伊吹にペコペコと何度もお辞儀を返した女中からは、一向に歓迎の言葉が出てこない。

 これはもしや平民来訪禁止とかでは?と訝しむ伊吹を振り返って、先を歩いていた玉藻前が手招きする。

 前庭の芝は綺麗に刈り取られており、手前は自動車や俥が止められるように煉瓦が敷かれている。

「使役式神じゃ。口は聞けん。いいから早う来い」

「し・・式神・・あ、あの陰陽師の僕(しもべ)的なやつですか!?」

「そうじゃ。なんじゃ、知らんのか?おぬしも縁持ち(えにしもち)じゃろうて」

「縁持ちって・?」

「妖と縁(ゆかり)のある人間をそう呼ぶ。禍付きが見えるじゃろ?妾の尻尾も見えんかえ?」

「え・・し尻尾って・・綺麗なお尻しか・・わぷっ」

 たわわな胸に着物でもわかる色っぽい腰回り。

 割り太鼓に描かれた優美な鶴の羽ばたきのように綺麗な足さばきに見惚れていたら、玉藻前の背中にぶつかってしまった。

 真後ろの伊吹に流し目を寄越して、玉藻前が京緋色(きょうひいろ)に彩られた唇をにいっと引き上げた。

「ここが妾の住処、倉橋邸じゃ」


 白壁に紫檀色で縁取られた一階の上げ下げ窓と、二階の壁半分を使用した大きな格子窓、煉瓦の煙突が特徴的なコロニアルスタイルの大きな洋館が目の前にそびえていた。

 伊吹が知る中でも一番大きな永尾家の日本家屋にも引けを取らない存在感だ。

 二本の白い支柱で支えられているマンサード屋根の玄関はガラス張りの白い扉。

 一階の窓の下を飾るのは腰の高さの金糸梅だ。

 女中が開けてくれた扉をくぐって屋敷の中に入ると、広々としたタイル張りの上り口と、板張りの廊下、そして二階へ続く階段が見えた。

 外観は洋風だが、室内は靴を脱ぐ和風様式らしい。

 右手の手前が食堂、奥が台所となっており、伊吹は玄関すぐ左手の応接に通された。

 レースのカーテンが揺れる日当たりの良い応接には、三吉屋で見たような三人掛けの大きな長椅子と、一人掛けの肘掛け椅子が三脚置かれており、その間の楕円形の艶のある大理石のテーブルの上には赤と紫の風信子が活けられている。

 火の入っていない暖炉を囲むマントルピースの上には舶来品と思われる赤銅色の古めかしい置時計と、写真立て、そして貴婦人の美人画が完璧な配置で置かれていた。

 暖炉の反対側の壁には女学校の音楽室で見たものと同じピアノが鎮座している。

 最近増えたという成金趣味とは違って、上品に纏められた調度品達は、応接にしっくりと馴染んでいた。


 落ち着きなく視線を彷徨わせる伊吹に、さっさと座れと手を振って、玉藻前は長椅子にゆったりと腰かけた。

「品物は届いたかえ?」

 すぐに着られる初夏の花の着物と通年柄の着物の他にも、舶来品のレースが贅沢に使われたブラウスやリボンが届けられ、天鵞絨張りの箱の中には、土耳古石(トルコいし)がはめ込まれた 花の帯留めと、紅石英(ローズクオーツ)のウサギの帯留めが入っていた。 

 なにより素敵だったのは、ワンピースに合わせたつばが広めの上品なキャプリンだ。

 胡桃染の大人びた色合いに一重梅のリボンが可愛らしさと加えている素敵な帽子だった。

「あ、はいっ!沢山ありがとうございます・・でも、こんなにしていただいて逆に申し訳ないような気が・・」

 美女の微笑みにふやけた声でお礼を言うと、玉藻前が首筋に零れる長い髪を優雅に背中へ払った。

「気にせずとも良い。あの程度で痛む財布を持ち合わせてはおらぬ」

 一生に一度は言ってみたい台詞である。

「おお、来た来た、これじゃ」

 音もなく使役式神がやって来て、紅茶と、りんごといちごのジャムが添えられた焼き立てのワッフルをテーブルに乗せた。

 玉藻前の白檀の香りと、バターとワッフルの香ばしい香りがふんわりと漂ってくる。

「妾の最近の好物じゃ。あまじょっぱいのが堪らんでのう・・ほれ、試してみい」

「あ・・は、はい、頂きます!あの・・今日は倉橋さんは・・?」

「うん?あやつは働きに出ておるでの。夕方には戻る」

「そうですか・・あの日きちんとお礼を言えていなかった気がして・・」

「九尾の色香に当たれば、意識が揺らぐのも無理はない。じゃが悪くなかったじゃろ?ん?」

 玉藻前は、青白くさえ見える細い指先で器用にナイフとフォークを使ってワッフルを口に運ぶ。

 女学校の洋食の作法で先生が見せてくれた手本よりもよほど綺麗な食べ方だ。

 伊吹も精一杯見習って音をたてないように気を付けながらワッフルを齧った。

 甘すぎないジャムと塩のきいたバターがふわふわの生地と口の中で解ける。

 口の中は幸福感でいっぱいだ。

「美味しいですー・・・」

 咀嚼しながら玉藻前の言葉を繰り返す。

「玉藻前・・・きゅうび・・・九尾!?」

「そうじゃ。妖ではあるが、妾は怖くないぞい」

 自分で怖くないという妖は聞いたことがない。

 というか、人間の見た目の妖を目の前にするのは初めてである。

「妖なのに・・陰陽師と一緒にいるんですか・・?敵・・なんじゃ」

「気になるのはそこかえ?ほんに面白いおなごじゃ」

「え、いえ、いろいろ気になりすぎて良く分かりません・・でも、玉さまは恐ろしいくらいお綺麗ですけど・・怖くないです・・確かに」

「ふふ・・うい奴め。妾と有匡とはな、かれこれ10年以上一緒におるの。出来の悪い息子じゃな、あれは・・」

「む、息子・・」

「呪力の質は並み、成伴程の才能も無い・・・一族の中での序列は中の下。出世街道から早々に脱落しておる故多少ひねくれてはおるが、気の優しい男じゃ」

 息子と称した相手への評価としては辛口な気もするが、気の優しい男と口にした時の穏やかな表情から、愛情が感じられる。

「土御門とは関わりとうないと逃げ回って屋敷に引きこもっておったが、此度の一件で初めて自分の力と正しく向き合ったようじゃ。おぬしは有匡が初めて抱え込んだ責任じゃな。軽くては困る」

「責任って・・そんな大層な・・本当によくして頂いたのでこれ以上この件を引きずるつもりはありませんので」

「見知らぬおなごを傷つけたと血相変えて屋敷に戻った時には、死にそうな顔をしておったわ・・・今回の慰謝料は、有匡なりのけじめじゃ。不出来なあやつを許せよ」

「はい、それはもう勿論です!」

「ふむ・・して、伊吹。有匡はどうじゃ?」

「どう・・?というのは?」

「おぬし生娘じゃろ?」

「っ・・み、未婚ですので・・それは・・はい、でもなんで・・?」

「生娘は匂いで分かる。見たところ好いた男もおらんようじゃ。あの加藤という男は別のおなごに夢中らしいの」

 別のおなご、というのは恐らく美紅の事だろう。

 そんなことまで見ればわかるのだろうか、妖の能力というのは恐ろしい。

 冷や汗をかきながら、適当な嘘はすぐにばれるぞと腹をくくった。

「加藤さんはただの従業員ですので・・あのうー・・倉橋さんをどうと言われても、一度会っただけですし・・たぶん、もうお目にかかる事もないと思いますので」

「有匡は陰陽師としては二流じゃが、家柄は申し分ない!性格も悪くはないし、まあ緋継ほどではないが見目も良い方じゃろう!死ぬまで苦労はさせぬぞ!何が不満じゃ!?」

 いきなり年頃の息子を持った母親の顔を全面に押し出してきた。

 玉藻前が母親、なんともすごい迫力の恐ろしい親子である。

「何が・・というか、うちには両親がいないので、あたしじゃ相手のお家に障りがあるかと思います。あたしの二番目の兄は生涯独身を決めてますし、同じ選択も良いかとも思ってます。ですので、お嫁さんをお探しならどうぞほかの良家を当たって差し上げてください。きっとすぐに良いご縁に・・」

「もうすでに三連敗なのじゃあああああ!!!」

 断末魔の悲鳴のように玉藻前が叫んだ。


 肌の表面を爪の先で軽く引っかかれるようなジリリとした感覚はが走って、ふわっと一瞬風が吹く。

 身体が浮いたと思ったら、ふかふかの毛に埋もれていた。

 もふもふの何かかが全身を包んでいる。

 ぱっと目を開くと、そこは白銀の光に満ちていた。

 つい先ほどまで座っていた応接の長椅子たちが斜め前に見える。

「え・・・」

 背後を振り向けば、紅消鼠の瞳の大きな狐がそこにいた。

 玉藻前の本性である。

 ぐすんと鼻を啜って、玉藻前がふかふかの尻尾で伊吹の肩や腕をなじるようにぽふぽふ叩き始めた。

 綿の詰まった弾力のある座布団で揉まれるようななんとも言えない心地よさに包まれる。

「三連敗・・なんででしょう・・?」

「わからぬ!毎回振られて白旗じゃ!この間のお見合いは、会う前から先方がかなり乗り気と聞いておったのに・・会った途端ご破算じゃ!しかも成伴のやつが隙をついて花嫁を掻っ攫って行きよった」

 成伴・・あの強面陰陽師が横恋慕!?

 そこだけ物凄く気になったが、突っ込めば余計ややこしくなりそうなので黙っておく。

「あのーええっと・・人はいいけど、ちょっと物足りない人っているそうですよ、あ、聞いた話ですけどね!」

「妾はこのままややこが見れんのか・・?・・いやじゃいやじゃ!」

「あ、お孫さんが欲しかったんですね!玉さまは!それで焦って・・」

「・・かわゆいおなごもややこも必要じゃ。妾は潤いが欲しいのじゃ!むさ苦しい男ばかりに囲まれた生活には飽き飽きした!伊吹や」

「はい!」

「悪い事は言わぬから、有匡の嫁になれ」

「え、無理です」

「なぜじゃ!?妾が毎日モフモフしてやるぞ!?若いおなごは犬や猫が好きじゃろう?可愛いおべべもたーんと用意させてやろう!」

「そこにはすっごく惹かれますけど!!!」

 九尾の狐が犬猫と同類かは別として、家賃の掛からない三食昼寝付き、着物と狐のモフモフ付き。

 どこかの不動産屋の間取り案内の文句のようだ。

「あたしも良いご縁があるようにお祈りしてますから、ね?」

 有匡本人そっちのけでグイグイ話を進めようとするところはまるで本当の母親のようだ。

「・・ならばせめて妾の友になれ。いま世間ではおなご同士の友情が流行っておるのじゃろ?エス、とかいうのじゃろ」

「・・・そ、それはちょっと友情より親愛寄りと申しますか・・」

 主に乙女の園で密やかに紡がれる女学生同士の濃厚で濃密な友情。

 美紅の愛読書でもある”白花の乙女たち”は、年頃の娘が部屋に籠ってこっそり楽しむちょっと刺激的な読み物である。

 将来を誓えない代わりに、セーラー服のリボンを交換し合って額に口づけを贈る特別な儀式を伴うらしいそれは、恐らく玉藻前の思う友情とは一線を画している。

「親愛!まさに妾が伊吹に感じておるものじゃ!」

「あ有難いんですけど、あ、駄目、玉さま。目見たら・・また・・」

 くわっと伊吹を抱えこんだ玉藻前が、白檀の風を吹かせる。

 紅消鼠の瞳に光が走ると、あのふわふわなときめきが胸に押し寄せてきた。

「妾と伊吹は特別な友じゃ、良いな?」

 甘い囁きに一秒も悩まずこくんと頷けば、モフモフの尻尾の渦が襲い掛かって来た。

 目の前の毛並みをするする撫でれば、玉藻前が心地よさげにクスクス笑う。

 子供のように尻尾に埋もれて足をばたつかせれば、ひざ下をくるくると長い尻尾が踊る。

 玉藻前のひそやかな笑い声ははまるで子守歌のようだ。

 九尾の狐といえば、大昔の帝を誑し込んだ伝説の妖怪。

 伊吹が知る情報はそれだけで、ほかに分かっていることといえば、今目の前にいる狐がふかふか且つツヤツヤということだけ。

 漂う白檀の香りと、差し込む日差し。

 開け放たれたままの窓から吹く風は時に冷たかったけれど、玉藻前の尻尾にくるまれているから少しも寒くない。

 頭を撫でてあやすように背中を叩く尻尾のリズムが心地よい。

 尻尾のリズムに合わせて息を吸って吐く。

 少しずつ瞼が重たくなってくる。

 星の世界の歌が聞こえてきた。

 微妙に調子はずれなその歌声が遠く近くなって、やがて意識が途切れた。





 可愛い女給のいるカフェーへ行こうと誘いかけて来る友人をうまく交わして、学校帰りの生徒で込み合う市電を降りると、駿牙は真っすぐ帰路についた。

 コーヒーは好きだが、色目を使ってくる女給は苦手だ。

 そういう女給のいないカフェーも多くあるが、年頃の男子学生が行きたがるのは、目配せが上手な色気のある女給の多いカフェーばかりだった。

 帰ったら、課題を片付けて、夕飯の後に護符作りして・・・

 商業に関する知識を学ぶ高等学校、通称【商神】は名家の息子が多く通っている。

 本格的な実務を学べる学舎として、人気があり、その分課題も多い。

 由緒正しい陰陽師の末裔ではあるが、一般人として倉橋美術の経営の一端を担っている呪力皆無の長兄と、呪力はあるが分家の中でも中の中(二流)の次兄を見て育った中の下(三流)の駿牙は、普通の会社員を目指す勤勉な学生である。

 卒業後は、倉橋美術のコネと実力を最大限に利用して、将来性のある企業に就職して、うまく出世の波に乗る事が目下の目標だ。

 そんな駿牙なので、色っぽい女給とキャッキャウフフしている暇はない。

 陰陽師の家系に生まれ、幼いころから式神や禍付きに触れてきたので、陰陽師への憧れが皆無というわけではない、が、駿牙に至っては、呪力の格は最低、陰陽師としての素質は悲しい程になかった。

 ただ、護符づくりの才能には長けており、文官としての仕事ぶりも申し分ないので、補助役として兄の陰陽師の仕事も手伝いつつ、本業を別に持つのが理想だ。

 陰陽師としての実力は、有匡と駿牙を足して、ようやく成伴の足元に届くかどうか、というのが実情である。

 最初から陰陽師としての期待をされなかった駿牙と違い、有匡には、陰陽師としての素質が人並みにあった。

 あったが故に、倉橋家の期待を一身に背負わされ、努力して努力して、頭角を現すことが出来ずに、全部を投げ出してひねくれた。

 他の倉橋家の陰陽師たちのように、仕事を受けることもせず、倉橋美術の倉庫番とは名ばかりの引きこもりの隠居生活。

 陰陽師としての一切の責任を放棄して、面倒を見るのは異母兄弟の駿牙のみ。

 そうやってのらりくらりと逃げ回っていたから、そのつけが今頃になって一気に回って来たのだと駿牙は分析している。

 陰陽寮を取り仕切る、頭司(とうのつかさ)は当代の土御門一門の当主。

 生まれた世代が近かった事から、神子の名を欲しいままにした鬼才の持ち主と比較されることになった有匡の不運を思うと、やさぐれたくなる気持ちも分からないではないが。

 三十も近づき、いい加減所帯を持って落ち着いてくれと親族から押し付けられたお見合いに二連敗。

 結婚してもそれなりに適当にうまくやる自信があるとか大ぼら吹いてたくせに。

 駄目押しの三回目に至っては、先方から是非ともと前向きな提案で受けた見合いにも関わらず先方より破談の申し入れがあり、その後その見合い相手は上司である芦屋成伴の細君に収まってしまった。

 このあたりの経緯は、駿牙は良く知らないが、あれが止めだったような気がしている。

 あの後から、どうも有匡の調子が良くなくて、そしてこの間の一般市民相手の呪力傷害事件だ。

 一般市民を禍付きから守るはずの陰陽師が、よりよって一般市民のご婦人に・・・ああ思い出すだけで胃が痛い・・・

 人を殺したような顔で帰宅した有匡に引っ張られて、夜通しいなくなったご婦人を探し回ったあの夜は最早悪夢だ。

 無事、元気な被害者と再会し、慰謝料を支払って示談に持ち込んだと報告を受けたが、当分有匡の周辺には目を光らせておいた方が良いだろう。

 ただでさえやる気がないのに、また陰陽師なんか嫌だと引きこもられると面倒くさいので。

残り僅かな十代を彩る青春の悩みとしては、ややどんよりして華やかさに欠ける駿牙の日常である。

 出来ればそのうち甘酸っぱい恋とかもしてみたいが、おそらく当分は無理だろう。

 なんせ村雨隊は、成伴以外全員が三十代を前に未だ独身なのだ。

 上が片付かない事には、順番は回ってこない。

 見目は悪くないのに、博愛主義が過ぎる男と、肝心なところで押しの弱い男と、自分の殻に引きこもりたい男、面倒なのばっかり揃ってる・・・

 もし僕の婚期が遅れたら、あの人たちのせいってことにしよ。事実だし。

 護符作るなら甘いもの欲しくなるなぁ・・・藤井屋でシュークリームでも買って帰ろうかな・・凪さん・・は、どうせ戻らないか・・そういやあの人が置いていった甘納豆がまだ残ってたな・・


 家路を急ぐ人の波に沿ってのんびりと異人街に向かって歩く。

 これから夏に向かっていく柔らかい夕陽を浴びながら、空いっぱいに広がる勿忘草と樺桜の色 合いを楽しんだ。

 こうなると、もうすぐ見える一番星を思い浮かべて、好きな歌を歌いたくなる。

「かーがやく夜空ーの・・星の光よー・・」

 駿牙はそこそこ歌えていると自負しているが、実際のところ通り過ぎていく通行人たちは、揃って下を向くかそっぽ向いて吹き出すかだ。

 本人は心から楽しそうなのでそれだけが救いである。

 一度だけ有匡から意を決したように真顔で、大声で歌わないようにと言われた事があったが、それすら遠い過去だ。

 面と向かって音痴だと言われた事のない駿牙である。

 日中は兄を含め大人組は仕事で出払っているので、屋敷に居るのは玉藻前か駿牙だけ。

 その玉藻前もふらふらと出かける事が多いので、帰宅しても誰もいないことは珍しくなく、そうなると一人歌謡ショーだ。

 懐かしの我が家にたどり着いて、門の前に立つと使役式神が中から開けてくれる。

 ここまではいつも通りだった。

「慈愛ーは御胸のー奥より流れー・・汲ーめども汲めどーもー・・」

 胸に染み渡るお気に入りの歌詞の部分だ。

 いつもなら玄関を開けるとすぐに持ち場に戻る使役式神が、駿牙の前で応接を指し示す。

 廊下に上がった駿牙が不思議に思いながらひょいと応接をのぞき込むと、そこには。

「・・・っ!?!?!?」


 ドアノブを持ったまま目を白黒させた駿牙は、声もないまま立ち尽くす。

 星の世界の壮大な世界観の歌詞が一気に吹っ飛んだ。

 窓際の広い床にゆったりと寝そべった化身を解いた玉藻前と、彼女の尻尾に埋もれて眠ってい るやたらと着物が着崩れた女性。

 ふかふかの尻尾に絡みつくはだけた着物の裾から伸びた白い膝小僧とふくらはぎ。

 ぎゅうぎゅう尻尾を抱きしめる、袖口から伸びた柔らかそうな二の腕と緩んだ襟元。

 見てはいけないものを見てしまった。

 かっと頭に血が上る。

 ぎゅうっと目を閉じて忘れようとすると、つうっと鼻下を冷たいものが伝った。

 鼻血である。

「・・・!!!」

 そのまま一歩後ろに下がって握りしめていたドアノブから手を離すと、駿牙が一目散に二階へ続く階段を駆け上った。

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