最終話『瑠璃星草』
エルキドゥナルは、灼けていく――。
夕陽色に澄み燃える祓いの炎は、エルゥのみを呑み込んでいく。
霊体を容赦なく焼き尽くそうとする灼熱に苦しみ喘ぐエルゥの姿は、悲壮に満ちていた。
一方エルゥの異変に気付いた命花は、固く閉じていた瞼を上げ、生気のない細腕を差し伸べた。
「っ……エルゥ……? どう、したの……? どうして、火が……? エルゥ……だいじょう、ぶ――!? あ――うぅあぁあぁあぁぁぁ……!! エルゥ――……!!」
しかし、エルゥだけを真っ直ぐ見上げていた命花の指先は、エルゥの頬へ触れることが叶わずに落ちた。
弱っていくエルゥの苦痛と共鳴するように、命花も突如激痛にのたうち回る。
勢い余って白樹の籠を掴み、網目に食い込んだ命花の指から鮮血は滴る。
「っ――命花……エルゥ……私、何てことをっ」
「美琴さん! あれは一体……!? エルキドゥナルだけでなく……何故、命花ちゃんまで、あんな苦しそうに……!?」
『祓いの儀』において、召喚の触媒となった瑠璃石を燃やすことで、霊を浄火する。
エルキドゥナルは、取り憑いた対象を解放してから消滅するはずだった。
しかし、エルキドゥナルは炎に焼かれ続けているが、消滅する気配は一向にない。
命花まで先程とは比べ物にならない激痛に叫んでいる様子は、地獄の苦しみを表していた。
まったく予期せぬ結果に混乱する南雲達を他所に、美琴は取り返しのつかない"誤ち"に立ち尽くす。
命花を蝕む苦痛の正体を問う南雲に、美琴は失意の声で答えた。
「逆だった……間違っていたの。私達は……エルキドゥナルを祓ってはいけなかった――」
「一体何故」
「ずっと"守っていた"からよ……エルゥは、"神の力"を注ぎ込むことで命花と……生まれてくる子どもを生かしていたの……周りに、瑠璃星草が次々とたくさん咲いているでしょう?」
「それがどうした」
エルキドゥナルが命花とお腹の子どもを全身全霊で守ろうと、自分達へ牙を剥いてきたのは、分かり切った事実。
しかし、エルゥに取り憑かれた命花を救う祓いの儀を中断する理由へ、どう繋がるのか。
「瑠璃星草は、いわば神霊エルキドゥナルの力――"自然の癒し"を具現化した特別な花だ」
美琴の結論を急ぐ南雲に対し、代わりに九十九は鷹揚と答えた。
意表を突かれた南雲達の視線は、背後で飄然と佇む九十九へ集まる。
九十九は、温雅な眼差しに純真な知性と好奇心を浮かべていた。
「瑠璃星草は、あらゆる自然治癒の潜在力と速度を高める効果を持つ……つまり、本来であれば全治一ヶ月以上、もしくは身体の障害や欠損を残し、最悪命を落とす大怪我も、瞬く間に治癒できる……素晴らしい”神の力”だよ」
己の分析を意気揚々と語る九十九の無邪気な態度は、出逢った時と遜色ない。
しかし、今この場においては、かえって美琴達を嘲笑い、不安を煽っているように映った。
九十九から説明を聞いても尚、現状と真相を完全に呑みこめていない南雲達へ、今度は美琴が補足した。
「つまり……エルゥは、命花を守りたくて被害者達を襲ったけれど……全員が、大怪我を負いながら命に別状がなかったのは、現場に咲いた瑠璃星草……エルゥの力のおかげだった――っ」
事件の凄惨さとは裏腹に、死者は一人も出ておらず、現場には必ず瑠璃星草が残されていた。
そして、美琴がエルゥによって一度家から追い出され、先程体を払い飛ばされた時もそうだ。
本当ならば、大量出血と頭部脊髄強打による致命傷を負っても、おかしくなかった。
しかし、現に美琴は五体満足で無事なのが、何よりの証拠だ。
生まれた瞬間から命花と魂で繋がり、時空を伴にするようになったエルゥの行動指針は、「命花を守る」を第一優先に定められていた。
何故エルキドゥナルは、命花の脅威と見なした相手を懲らしめながら、"罪滅ぼし"とばかりに怪我を治療したのか。
人に傷つけられること、それ以上に誰かを傷つけることを悲しみ恐れる、命花の純粋さ。
エルゥに対する、絶対的な安らぎと信頼。
そして、エルゥが命花へ注ぐ深い愛情と執着こそ、エルゥの矛盾した行為の理由を裏付けていた。
つまり現場に残っていた瑠璃星草は、命花を傷つけようとした人間を襲うことで彼女の身を守り、同時に襲った相手の致命傷を密かに治癒していた。
命花が罪悪感と共に、悲しまなくて済むように
異形の神の子どもを産むのは、"命懸け"の試みだ。
分娩に伴う激痛を緩和できても、母体への負担は半端ではない。
命花が辛うじて死なずに済んでいるのは、エルゥによる
しかし、エルゥが消滅しかけていることで、今の命花は癒しの加護を失いかけている。
命花を蝕んでいるのは、全身の肉と骨を粉々にされるような、人間には到底耐え難い産みの苦痛だ。
このままでは、ショック死するか、仮に肉体が無事でも精神崩壊は免れない。
最悪の結末ばかりが美琴の頭を過り、思考は絶望へ塗り潰していく。
「命花……ああ、ごめんなさい……エルゥ、ごめんなさい……」
泣き崩れる美琴は、謝罪の言葉を零す。
しかし、炎に焼かれるエルゥの咆哮と命花の悲鳴に、掻き消されてしまう。
「さあ喜びなさい、霧華君。これでエルキドゥナルは、再び君のモノになる。そしたら、もっと見せてくれるのだろう? 君に眠る神秘の叡智と耽美な世界を――」
悲嘆に暮れる美琴なんか、目に入らないらしい。
九十九は、熱に浮かされた口調で意味深な言葉を呟く。
恍惚と揺らめく瞳は、苦しみ叫ぶ命花の胎で蠢く生命を眺めている。
「お前っ! ふざけないで今すぐ何とかしろ!」
事の発端である九十九へ腹を立てた佐藤は、彼の胸倉を掴んで詰め寄る。
しかし、九十九は苦しげな呻きを漏らしながらも、絵壺に耽る目つきで薄ら笑う。
「ははははは……言ったはずだ。もう手遅れだと……」
「命花ちゃんを見殺しにする気ですか! それでもあなたは人か!」
「何を怒ることがある? あの神を除霊する手助けを求め、決めたのも君達だ。私も霧華君も利害が一致したから手を貸しただけで、強要したり騙したりしたつもりは毛頭ない」
いけしゃあしゃあと詭弁を弄する九十九に、恫喝した南雲も反論に詰まった。
『祓いの儀』の手順を教え、瑠璃石の片割れを託した神谷霧華。
彼女の崇拝者である、九十九教授。
恐らく二人は、この結末を見越していたのだろう。
彼らの目的と真意は不明だが、神秘と怪異の知識と理解の皆無な美琴達が、口車に乗せられたのは確かだ。
結果、命花を囚える元凶であると同時に、彼女の命を救える唯一の存在を消滅させようとした。
「ああ、お願い……命花……死なないで……っ」
己の不甲斐なさのせいで、娘を救えない。
それどころか心の拠り所を奪い、地獄の苦しみを与えて死なせる現実に、ただ無力に打ちひしがれる。
「悲しむことはないさ! 神と人間の血を継ぐ新たなる生命種――神人の誕生さ。ああ、楽しみでたまらない……ふひひひ、あはははは……!」
己の知的好奇心に陶酔し、至高の神秘の瞬間に立ち会える狂喜に、九十九は不気味に笑いながら歩き出す。
未知なる生命の誕生を真近で観察するためか、命花のいるブナの根元へ自らを差し向ける。
しかし、ブナの周辺は苦悶と抵抗を吼えるエルゥが、自分達を守る樹の檻を形成していた。
地面から樹木の天辺を、鋭い樹棘が行き交う。
生身の人間が飛び込めば、ひとたまりもなく串刺しだ。
「何をしている!? そっちは危険――「あははははははは――!」
夢遊病者さながらの足取りで、自ら危地へ向かった九十九へ、南雲は警告したが、既に遅かった。
「ひ……っ」
九十九の顔面には、エルゥの樹の魔手が突き刺さっていた。
樹の幹から枝分かれした棘に眼窩と口腔を抉られ、穴口から淀んだ体液を漏らして、九十九は永遠に口を閉じた。
目の前で晒された九十九の惨たらしい死に姿に、南雲達は吐き気を催す。
しかし、耳障りな高笑いが止まったことに、胸を撫で下ろした。
小町に至っては「せめて一発殴ってから署へ連れて行きたかった」、と冷徹な眉をひそめながら零した。
「あああああああ……!」
「エルキドゥナル……?」
一方、地面に膝をついたまま呆然と見守っていた美琴は、エルキドゥナルを瞳に捉えた。
炎に包まれていたはずのエルキドゥナルは――両手をお腹へ添える命花を抱きしめていた。
「っ――エルキドゥナル……いいえ、エルゥ……あなた、今も……命花を……子どもを、助けようとしているの……?」
エルゥは命花から瞳を離さない。
命花を両の巨手で抱き撫で、縋り付くように切なげな鳴き声を奏でる。
すると、命花の周りに瑠璃星草がほんの一、二輪、咲き煌めく。
途端、真っ青に濡れていた命花の顔に生気が色づき、乱れていた呼吸は少し和らいだ。
エルゥを焼いていた炎が消えたのも、強力な祓いの力すら凌駕するエルゥの神の力――命花への深い想いだった。
あまりの痛みに叫びすら枯れ果て、意識が朦朧としながらも、命花も呼吸を止めない。
この世へ生まれたがっている”我が子”を胎内から出してあげるために――。
「ありがとう……ごめんなさい……エルキドゥナル……命花……どうか、がんばって……っ」
十分身を擦り減らすほど頑張ってきた命花へ、さらに「がんばって」、と言うのは酷かもしれない。
しかし、命懸けで愛しい我が子を産もうとする命花へ贈る言葉は、それ以外に思いつかない。
美琴の言葉は、命花とエルキドゥナルへの"祈り"だった。
「っ……はっ……エルゥ……ママ……っ……あのね……お願い、あるの……」
「 ――――?」
「命花……? ええ……ママにできることなら何でもするから、言って? 」
苦しそうに胸を上下させる命花は、不意に語りかける。
美琴は耳を向けながら大きく頷く。
エルゥも不思議そうに首を傾げながら、ずいっと命花の顔を覗き込む。
真剣な様子のエルゥと美琴に、命花は額に汗を滲ませながら、屈託なく微笑んだ。
「赤ちゃんを守って……私は、もう、いいから」
「 ――――」
「え――?」
一瞬、美琴は娘の言葉を理解できなかった。
否、胸の底からじわりと滲む血のような感情は、理解を拒絶していた。
嘘だと言って。
一縷の望みに縋る眼差しで訴える美琴を、命花は見つめ返す。
美琴は、不思議な感覚に見舞われた。
今思えば、人とまともに瞳を合わせることはどうしてもできなかった命花が、美琴を自ら見つめたのは、これが初めてだった。
「この子が、生まれてきたら……この子を、愛して……守ってほしいの……ママ……エルゥと――っ」
「っ――ええ……もちろん、大切に愛するわ……だって、可愛い命花の可愛い子ども……大切な、私の孫だもの……だから、命花が、この子を育てて、私はそれを手伝いながら……この子の成長を見守るの……あなたと"一緒に"――そうでしょう……っ?」
声を戦慄かせて問う美琴に命花は寂しげな、けれど優しい微笑みを咲かせて答えた。
「そうできたら、きっと幸せだった……でも、ごめんね……私、分かるの……叶わないんだって」
「そんなこと、ない……っ」
「だから……せめて、どうしても……この子だけは、助けたいの――」
「だめよ! 命花っ!」
命花が零した残酷な現実と避けられない未来、彼女の願いを否が応でも悟った美琴は、名前を叫んだ。
美琴も母親だからこそ、痛いほど理解できてしまった。
かつて、自分も身をもって心臓の髄まで感じた、全身を真っ二つに裂かれるような苦痛と恐怖。
けれど、それらを遥かに凌駕する、涙の溢れるほどの歓喜と幸福を。
この世に生まれ、自分を母親に選んでくれた我が子の愛しさ。
この子だけは、自分の命に代えても愛し守るのだ、と。
けれど命花は母親である以前に、美琴のたった一人の娘であることに変わりない。
どうして失ってしまうのか。
こんなのは到底認めたくない、認められるはずはない。
「あなたがいなくなったら、私はもう、生きていけない――っ」
身の丈の想いを絞り出した美琴は、ついに言葉尽きて泣き崩れる。
「 ――――……――――」
美琴の慟哭に共鳴するかのごとく、エルキドゥナルも喉の底から
しかし、先程まで美琴達を襲った透明な凶器の声とは異なる。
むしろ、無垢なる魂を震えさせるような美しくも哀しい旋律を奏でる声色は、美琴の胸を無性に締め付ける。
エルゥの悲壮な鳴き声に惹かれるように瞳を細めた命花は、汗ばんだ片手でエルゥの頬を撫でた。
「――エルゥ……お願い……エルゥの顔、見せて……エルゥの、綺麗な瞳、大好きなの……」
「 ――……」
「エルゥの声、聞きたいな……これが、最後だから……」
母親が幼子に希うような慈しみに溶けた声で、命花は儚く微笑む。
途端、エルゥの巨体は、眩い新緑の光に包まれた。
何事かと瞳を眩ませた美琴達は、光が晴れるのを待つ。
光の気配が失せた時期に、美琴達は恐る恐る瞳を開けた。
途端、彼らは信じられない光景を目の当たりにした。
獣の角・牙・爪に毛むくじゃらの巨体を持つ異形の神・エルキドゥナルの姿は、忽然と消えていた。
「――エルゥ……あなた、なの?」
獣の神の代わりに娘を抱きしめている存在に、美琴は声をかけた。
美琴の声に反応した存在と瞳が合った瞬間、全員が心を奪われた。
「――命花……」
天使のように純粋で美しい"ヒト"がいた。
純白の花さながら、たおやかな美しい顔立ちは、凛々しい女性にも柔和な男性にも見えた。
白樹のように、しなやかな四肢。
新緑の川のように、サラサラと艶やかに波打つ長い髪。
目の前に突如現れた美しいヒトは、まさに命花の絵に何度も見かけた「後ろ姿の天使」――。
エルゥのもう一つの姿だ、と美琴は直ぐ分かった。
獰猛な獣神の姿とは対照的な、神々しい美しさと慈愛に輝くエルゥに、美琴達が瞳を奪われるのも束の間。
「命花……いやだ、命花……君まで……いやだ――っ」
小さな命花を掻き抱くエルゥは、初めて言葉を奏でた。
初めて耳にした天使のエルゥの声も、優しい色に澄み渡っていた。
「もう、離さないと……これからは、ずっと一緒だと約束したのに――ごめん――っ……やっと、また逢えたのに……私はまた君を――っ……これじゃ、前と同じだ……っ」
涙を零す緑柱石の瞳も、命花を必死に呼ぶエルゥの声と姿も、悲しみに透き通っている。
夢を通じて垣間見た過去のエルゥの悲嘆と喪失、再会の歓喜を思うと美琴も胸が潰れそうになる。
優しく触れて抱き締める手、慈しむような眼差し、柔らかな甘い囁き声。
エルゥの命花への深い愛情、故に喪う恐怖と絶望は、灼けつくように伝わってきた。
「泣かないで、エルゥ……っ……今度は、大丈夫だよ」
ゆっくりと開けた命花の瞳は霞んでいたが、目の前のエルゥだけをしっかり見つめていた。
悲しみに濡れたエルゥの頬を小さな手が優しく撫で、瞳から零れて止まない涙を拭う。
いつも、エルゥが命花へそうしてくれたように。
命花の儚い命を瞳と温もり越しに感じられて、エルゥは少し胸を撫で下ろしながらも首を傾げた。
「命花……?」
「だって……もうすぐ、私達はやっと逢えるの……世界一愛しくて大切なこの子に……ほら――」
このうえなく幸せそうに囁いた命花の顔は儚げで、けれど太陽の花の笑顔に輝いていた。
苦痛の色が失せた命花の言葉を合図に、彼女の腹部から溢れた白金の光は、雪のように舞う。
命花とエルゥを遠くから見守っていた美琴には、何が起きているのか分からない。
ただ、二人が微笑み合っているのは見えた。
命花の体に起こった異変に、エルゥは瞳を大きく開き、彼女自身は確信の眼差しで頷いた。
「――エルゥ……見えて、いるかな?」
霞んだ瞳を穏やかに細めた命花は、問いかける。
「――ああ、見えたよ命花……本当に、愛らしい――っ」
エルゥは歓喜に震えた囁きと共に、命花の腕に抱かれた”光”を見つめた。
エルゥは、己の胸へ命花を抱擁すると幸福に泣いた。
「ふふふ……生まれたね……っ」
「ああ――私達の子どもだ……ありがとう――ありがとう、命花――っ」
「っ――ありがとう、は……私の方だよ……エルゥ……ありがとう……私を愛して、大切にしてくれて……こんなにも幸せな、贈り物を、私にくれて――っ」
エルゥの優しく力強いぬくもりに懐かしさを感じる中、命花も微笑みながら泣いていた。
涙で濡れた顔は、くしゃっと歪んでいたが、晴れやかな笑顔だった。
白金の光と命花、エルゥの腕に隠れて見えないが――二人が生まれてきた子どもを抱き締めているのは分かった。
光に包まれる二人が微笑み合っていたの束の間。
命花の瞼と手足は、急激に力を失っていく。
「命花――君を愛している……永遠に――」
段々と力とぬくもりが抜けていっている命花を抱き締めたまま、エルゥは優しく囁いた。
「――私も、ずっと……大好きよ、エルゥ……愛している――っ」
もはや視界は完全に霞み、顔の輪郭すら見えていない瞳で、命花はエルゥを真っ直ぐ見上げた。
そして、最後の力を振り絞ってぐんっと伸ばした手で、エルゥの頬を撫でながらひたむきな愛を囁いた。
命花の健気な行為に、愛しさで胸が灼けついたエルゥは微笑み、たまらず顔を降ろした。
エルゥと命花の唇同士は、優しく重なった。
「だから――今度は君独りでいかせたりはしない……私が永遠に君の傍にいるよ……」
「エルゥ……?」
唇を名残惜しそうに離したエルゥの、意味深な微笑みと言葉。
状況と意味を直ぐに呑み込めなかった命花は、霞の瞳でエルゥを不思議そうに見上げる。
ふっと息を吐くように微笑んだエルゥは、命花の額に張り付いた汗と前髪を手で優しく拭ってやる。
「今度は、あの子を見守ることができるんだ……二人で一緒に――」
エルゥの言葉の意味をようやく理解した命花は、驚きで軽く瞳を瞬かせ――心の底から安らいだ表情で瞳を閉じた。
「嬉しい……――っ」
閉じた瞼から一粒の涙は零れ、ブナの幹に咲いていた最後の一輪へと落ちた。
瞬間、白金の光は命花とエルゥを完全に呑み込み、二人の体は半透明化していく。
不思議な光は、二人の腕に抱かれている何か――玉菜のように大きな花の蕾が光源になっていた。
花の蕾は葉を重ねる玉菜さながら、みるみると大きく成長していく。
天使の翼さながらの花びらを広げる蕾は、体の透き通っていくエルゥと命花を包み込んでいく。
美琴は"本当の最期"を悟った。
「命花……! エルゥ……!」
『――――……』
大切な娘、彼女を愛してくれた心の救世主たるエルキドゥナルの二人を惜しむように、美琴は彼らを呼び叫んだ。
美琴の悲痛な呼び声に気付いた命花とエルゥは、無邪気な瞳を丸くして美琴を見つめた。
しかし、殆ど現世から消えかけている二人は、口をぱくつかせたが、音にならない。
もう、互いに言葉を交わすことすら叶わない、異なる境界に位置しているのだ。
思い知らされた美琴は、胸が灼けつくように痛んだ。
それでも、せめて二人には自分の声は届いていると信じて、美琴は最期の言葉――"心残り"を零した。
「二人とも……ごめんなさい……もっと、あなた達の話を、聞いてあげたかった……そしたら……もしかしたら……三人……いいえ、"四人"で……」
もしも、命花とエルキドゥナルも、二人の子どもが一緒にいたのならば――。
かつては明るい乳黄色の木製机と椅子に若草の絨毯、空色の窓掛けのある我が家の居間で、祖母となった美琴と母親になった命花、夫のエルキドゥナル、そして
食卓を囲い、湯浴みに浸かり、テレビ鑑賞や本読みに耽り、狭すぎる寝台か居間に敷いた布団で家族そろって雑魚寝する――。
そんな今となってはあり得ない、ささやかで幸福な夢想、を美琴は心に浮かべずにはいられない。
もう少しだけでも、命花の心へ耳を傾けていれば……エルゥの存在と美しい世界を、少しでも尊重する気持ちが自分にあれば――。
もっと違う道が拓けたのか、別の異なる未来が在ったのかもしれない――。
そんな風に、美琴は悔やまずにはいられない。
『 ――――……』
「命花……? 何……――?」
涙ですっかり赤らんだ瞳の美琴に向かって、命花は静かに微笑み――何かを呟いてくれた気がしたが、やはり音にならない。
命花の最期の言葉、と微笑みの意味を問いかけるように、美琴は戸惑いがちに見つめ返す。
すると、命花に続いて隣のエルキドゥナルも、このうえなく慈しみに微笑んだ。
「っ――命花――! エルゥ……!」
命花とエルゥよりも随分大きく成長した花蕾は、白金の光を強く発した。
あまりの眩さに、目を開けていられなかった美琴は、指の隙間超しに垣間見た。
お揃いの微笑みを柔らかに咲かせた命花とエルゥが互いを抱きしめ合う中、白金の花びらに全身を包み込まれた――。
美琴だけでなく、後方で見守っていた南雲達も、息を呑んで立ち尽くす。
美琴達が瞼を開いた時には、命花とエルキドゥナルの姿は、既にどこにもいなかった。
「――命花……?」
ブナの巨樹の天辺を覆い尽くすほど大きな白金の花は、咲き輝いていた。
天使の翼のような花びらを開き、白金に煌めく鱗粉のような光は、雪のように美しく舞い降る。
花の中央で朧に光る不思議な塊を見つけた美琴は、何となく命花の名前を呼んだ。
――ごめんね……ママ……たくさん、ごめんね――。
確かに声は、風に吹き舞った。
可憐で無垢な声は、ひどく懐かしく聞こえた。
――でも、わたし、いま――とっても、しあわせ――。
晴れやかな気持ちに満ちていた。
――ママ……わたしを、生んでくれて、ありがとう――。
泣きたくなるような、愛しい言葉。
――もう、見たり聞いたりはできないけれど――
――ママのこと、ずっと――大好きだよ――――……
生まれた時から最期まで、言い続けてくれた優しい想い――
私は、どれだけ伝えられていただろう――?
「っ――命花っ!!」
――ありがとう……またね――――……
「っ――ママも――命花を愛している――これからも、ずっと――っ」
燃えるような涙と心臓を締め付ける切なさに、喉が詰まりそうになる。
それでも、美琴は想いを命花へ向かって叫んだ。
その頃には、既に命花の声すら聞こえなくなっていたが、彼女に届いたと信じたかった。
「――……」
一方、白金の花の中央で灯っていた不思議な光の玉は、少しだけ浮上した。
光の玉は、ゆっくりとブナの樹から地上へ舞い降り、美琴の腕の中へと導かれた。
自分の懐へゆっくりすり寄ってきた光の玉を、美琴は自然に受け止めた。
眩い光の正体は分からないが、ずっしりと重く、甘い香りの漂うぬくもりに満ちていた。
美琴は、腕の中で灯る
やがて光は完全に晴れ、"ソレ"の姿は白日の下へさらされた――。
「――……ああ、神様」
「……美琴、さん?」
神の存在を茫然と呟いた美琴の後ろ姿に、不安を覚えた南雲は恐る恐る声をかけた。
「はじめまして――」
無垢なる生命の躍動を、活き活きと歌う"産声"は、響き渡る。
緑の神霊が築き上げた幻想の森城は、崩壊する。
南雲達が瞳を瞬かせた時、既に場所は見慣れた元の天野邸の居間に、戻っていた。
困惑する南雲達が立ち尽くす中、向かいで悠然と佇む美琴の姿を見つけた。
非現実な不可思議体験を味わい、憔悴した南雲達とは対照的に、美琴はこのうえなく微笑んでいた。
たった今、唯一最愛の娘を喪ったばかりだとは思えない、"晴れやかな眼差し"で。
不自然な美琴の異様な態度に、南雲達は不安を掻き立てられたのも束の間。
おぎゃあ……おぎゃあ……
熟れた桃のように、瑞々しい頬。
淡い桜の花のように、小さく可憐なお手々。
思わず口付けしたくなるように、柔らかで温かい足。
生乳のように芳しく、花蜜のように甘い匂いを仄かに漂わせる滑らかな肌。
微笑みが零れるほどの愛らしさ、泣きたくなるような無垢――愛おしさが狂い咲く存在。
ソレを愕然と見つめる南雲達に向かって、美琴は柔らかに囁いた。
「お帰りなさい――っ」
美琴の両腕に抱かれた小さな「赤ん坊」の額に、透明な滴が零れ伝う。
おぎゃあ……おぎゃあ……
いつまでも、響き渡る赤ん坊の無垢な産声を――二輪の瑠璃星草は、静かに聴き入っていた――。
***完***
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