第九話『深淵の森海』

 玄関扉を開けて慎重に踏み入れた美琴達は、現実的に有り得ない光景を、目の当たりにした。


 天に届きそうなほど、壮高な樹木の柱。

 地面を覆い尽くす、爽やかな緑。

 清らかな大気へ煌めき舞う、木漏れ日。

 耳を澄ませば、遠くから響き渡る、慈しみのせせらぎと厳かな静寂。


 二階二十畳の一軒家の狭い室内に収まるはずのない、広大な空間に満ちた天野邸に、美琴達は圧倒されながら確信した。

 この場所は、霧華の話にも出ていた『深淵の森』――エルキドゥナルの棲処だ。

 エルゥの神力は現実を侵食し、幻の異空間を生じさせているのだ。

 美琴は、神秘系の素人ながらも思い至った。


 「これが霧華の言っていた、エルキドゥナルの森か……何と清らかで美しい……っ」


 世界の穢れや人間の喧騒から遮断された、幻想的な美しい古代の森に、魅了された九十九は溜息を零す。

 拳銃を手に身構えていた小町も、戦意を削がれた表情で息を呑む。

 心なしか佐藤と南雲の瞳にも、晴れやかな煌めきが灯る。

 美琴自身も、魂が清められるような心地よさに、胸の奥が揺さぶられた。

 娘を、また一つ理解した気がした。


 ずっと、ここにいたい――そう思わせるほどに、深淵の森は純粋で美しい。

 けれど、美琴の理性は悟っている。

 美琴達は現実と向き合い、取り戻さなければならない。

 泣きたくなるほど清らかで温かい緑の聖域から背を向け、の想いを踏みにじることになっても。


 森の美しさに茫然と魅せられている九十九達を脇目に、美琴は率先して足を速める。

 森の奥へ突き進むごとに濃厚に感じられる聖なる威圧感、侵入者自分たちに対する困惑と静かな敵意の気配を頼りに。

 いつの間にか距離の開いた美琴の後ろ姿に、我へ返った南雲達も慌てて後を追う。


 幸い、森を進む美琴達を阻む脅威は、なさそうだ。

 時折、すれ違う兎や獅子の姿に肝を冷やすが、彼らは幻だと知り胸を撫で下ろす。

 樹葉の狭間から差し込む陽光は段々と薄れ、緑の仄闇が深まっていく細道を突き進んでいくと、やがて満月型の湖の広場を発見した。

 緑柱石エメラルドに澄んだ水の底で、銀色の鱗や砂利はゆらゆら煌めいて美しい。

 しかし、美琴達が湖に見惚れるのも束の間。


 湖畔を埋め尽くすように咲いた、おびただしい青天色――――瑠璃星草に瞳を奪われた。

 現実世界の瑠璃唐草と似て非なる"青い花"に、以前なら心洗われるはずで、今眺めても美しい。

 しかし、花の正体を知る美琴の瞳には、恐ろしく映る。

 そよ風に揺れ合う『瑠璃星草』は、一輪一輪が意思を持って踊り蠢き、自分達を威嚇しているように錯覚した。

 一瞬足が竦みそうになりながらも、美琴は意を決して一歩踏み込んだ。


 「では美琴さん、先ずは僕が……」

 「いいえ、私がいきます……娘と……エルキドゥナルと、ちゃんと話したい」

 「でも、危ないですよ……それに話が通じるかどうか」


 先へ進もうとした美琴を片手で引き留めた南雲の心配は、理解できる。

 今から森の主と対面し、霧華から教わった『祓いの儀』と言う危険な行為を、美琴一人にさせたくないらしい。


 「私は娘を信じたいの」


 しかし、美琴は母親である自分が行かなければならない、と確信していた。

 娘の命花を信じたい気持ちは強かった。


 「私達がじっくり話し合えば、きっと大丈夫。娘は……娘が愛したエルゥなら……"娘が悲しむことはしない"はず――」


 命花と彼女を愛護するエルキドゥナルに追い出され、霧華から神話を聞いてから美琴は、ふっと浮かんだ「考え」があった。

 ウトゥナの生まれ変わりである命花、と神霊エルキドゥナルは深く繋がり合い、母親である自分は、命花の本質を熟知している――ならば。

 いつになく、力強い眼差しで確信的な台詞を告げた美琴に、南雲は口を噤んだ。

 代わりに、先頭を歩き始めた美琴の後ろにぴったりくっついて護衛へ回ることにした。

 後方にいる佐藤と九十九、小町にはそのまま待機してもらう。

 南雲の指示を渋る三人には、万が一のために構えていて欲しい、と思い留まらせた。

 命花とエルゥの警戒心を、少しでも緩めさせるためだ。


 「命花……エルキドゥナル……そこに、いるの……? いるなら、どうか答えて――」


 湖畔の緑を一歩ずつ慎重に踏み超えながら、美琴は優しく語りかけた。

 美琴と南雲の視線は、揺らめく瑠璃星草に導かれるように、中央奥で佇む巨大なブナの樹――太い幹に忽然と空いたうろへ移る。


 「――ママ……? まさか、ママなの?」


 樹の虚から零れた可憐な声は、確かに命花だった。

 離れてから一週間も経っていないはず。

 久しぶりに聞いた娘の声は、数年以上も逢っていなかったように懐かしく、美琴は瞳の奥が熱くなった。

 しかし、泣くのは未だ早い。

 グッと堪えて自らを奮い立たせた美琴は応えた。


 「ええ、そうよ。命花……ママが来たわ」

 「……どうして、ここへ、来たの……?」


 幻想空間へ変貌した家へ帰ってきた母親との再会に、命花は驚きと喜びを零す。

 反面、強い戸惑いと不安、蘇る恐怖に小さく震えているのは、声から伝わった。

 不安定に怯えている命花、彼女に共鳴するエルゥを刺激しないように、美琴は優しい声色で慎重に答えた。


 「命花を迎えに来たの……あなたが心配だから、一緒に帰りたくて」

 「……帰るって、どこへ? なのに?」


 素直な気持ちを伝えた美琴に対し、虚の中の命花は心底困惑を隠せない返事を零した。

 虚の闇に隠れて姿が見えないせいか、命花の声はあどけない彼女らしくも大人びて聞こえた。

 知らぬ間に大人へ成長してしまった娘と対面するような寂しさに、胸を締め付けられながら根気よく語りかける。


 「命花……せめて、姿を見せて? あなたの顔が見たいの……お願い」


 やはり、堪え切れず震えてしまう声と潤む瞳で美琴は懇願した。

 真摯に訴えかける美琴に、命花はハッと息を呑み、躊躇した気配を不思議と遠くから感じ取れた。


 「――いいの……? 私、ママにも……ひどいこと、したのに……てっきり、ママはもう私なんか嫌いになったかと……」

 「嫌いになるわけないでしょう……!」


 命花の心底申し訳なさそうな……今にも泣きそうな命花の声に、美琴は身の丈で叫び否定した。


 「……本当?」

 「あなたを嫌いになるなんて、この先もあり得ないわ……たとえ何があっても……っ」


 罪悪感の棘に苛まれているような娘の声に、美琴も心臓を茨で締め付けられたような痛みに切なくなる。

 命花が母親に申し訳なく感じているのは、どちらの事を指しているのか。

 事件で再びひきこもるようになり、美琴を振り回した癇癪と異常な食行動か。

 産婦人科受診を、頑なに拒否した事か。

 それとも、事件の被害者と同じ大怪我を負わせた事か。

 いずれにしろ、美琴は許すとか嫌わない以前に、命花を責めたり嫌ったりしたことは最初から一度もない。


 ただ、あの瞬間は娘を説得する母親、と周囲の心配と愛情を見失っていた命花にカッとなり、目を覚ましてほしくて引っ叩いてしまった。

 母親に初めて叱責されて叩かれた命花には、この世の終わりに等しい恐怖と混乱を与えてしまったことに、若干申し訳なく思った。

 だからこそ、今度はちゃんと命花へ伝えたかった。

 美琴の悲痛な眼差しに浮かぶ涙、渇いた唇を引きつらせながらも咲いた誠の微笑みに、命花の息遣いは安堵に凪いでいく。


 「美琴さんはもちろん、僕も、佐藤君だって命花ちゃんに逢いたがっている……元気な君と一緒にまた、たくさんおしゃべりをしたいんだ……」

 「命花……! 俺だって、君に戻って来て欲しい! 一緒に大学へ通って、講義を受けて……君からまた、他の女子からは聞けない、不思議で楽しい話をもっと聞きたい。君に変なこという奴は、僕が追い払う。誰にも文句は言わせない!」

 「命花……!」


 美琴に続いて、後ろに控えていた南雲の穏やかな言葉がけ、そして腹の底から大声で心の丈を叫んだ佐藤に背中を押されたらしく、真っ黒な虚の底から真っ白な両手が伸びた。

 純白の花さながら開いた手のひらとそこから伸びる腕は、美琴との間に縮まる距離を表すように段々と大きくなる。

 見慣れた華奢で色白な命花の手がついに伸びてきた、と美琴達の唇は安堵にほころぶ――。


 「……ありがとう……私は、……」


 虚の深淵から伸びてきた白い手は二つから四つ、六つへと枝分かれし始めた。

 虚闇を背景に、毛細血管さながら分岐して無数に生えてくる不気味な白い手に、美琴達は凍り付いた。

 白い魔手達が虚から這い出でてきた頃にようやく美琴達は理解した。

 ソレらは、白樺に似た白い樹木の枝だった。

 同時に命花の姿は、緑明りょくめいの下に晒される――。


 「エルキドゥナル――っ」

 「     ――――……」


 幻の森はいなないた―――。

 歌声のように美しく、獣のように激しくも無垢な――。

 何とも言い難い感情を起こす鳴き声に、凍てついた空気は皮膚を痺れさせ、心臓を鷲掴みにした。

 エルキドゥナルの純聖な気配と澄み凍った威圧感を、真近で感じているはずの、唯一人を除いて――。


 「ママ――……」


 命花は、この上なく微笑んでいた。


 はち切れるほどの膨らんだお腹を慈しむように撫でる。


 無垢なる神子を宿した聖母のように――。


 *


 まさかの奇跡は起きた……。


 愛しいウトゥナ――唯一人愛した純粋無垢な少女に、時代を超えて「再会」できるとは、夢にも思わなかった。

 ウトゥナも深淵の森も全てを奪われ、全てに復讐した末に力尽きた私の魂は、霊体となってバビロニアの天と地を永らく彷徨った。

 果てなき久遠の時空で、愛しのウトゥナに恋焦がれながら独りで過ごすのは、己へ課せられた罰だと思った。

 神の身でありながら、人間を愛した末に愛する者と親愛なる友を守れず、怒りに任せて森ごとウルの人間を滅した大罪を冒したのだから。

 しかし、生きても死んでもいない無価値な神の亡霊わたしを呼び起こした、奇特な存在が現れた。


 遥か海の彼方に佇む小さな島国に灯った、懐かしい気配に惹かれた私の魂は、召喚者の前へ実体化された。

 しかし目の前にはウトゥナの姿はなく、代わりに悪意と愉悦に色づいた女は、私へ手を伸ばした。

 ウトゥナの魂の在処を求めた私は、召喚陣と女の結界を強引に破り、外の世界へ飛び出した。

 霊体化して、異国の上空をかけていた途中。

 無垢なる産声の響く建物へ、引き寄せられた私は――ようやく、見つけたのだ。


 『エルゥ――……』


 ああ、だ。

 見間違えるはずはない。

 今まさに生まれようとしているのは、ウトゥナ――唯一人の最愛。

 此処に、ウトゥナはいる……。


 ウトゥナの魂を確信した私は、難産の最中にある女児へ、私の神力を注ぎ込み、生まれる手助けをした。

 今度こそ、ウトゥナを救いたい……決して死なせるものか。


 私の祈りは女児を救う力となって届き、天野命花ウトゥナは、新たな生を授かった――。


 ああ、ウトゥナ――否、今は命花――愛しき「命の花」――。


 気の遠くなる永き時空を経て、再び君と逢えるなんて……。


 命花が生まれてきた瞬間、私は許された気がした……。


 ようやく、救われた……流れるはずのない涙の溢れるような幸福に満たされ、歓喜に心臓は灼けた。

 命花は自我を芽生えさせるより前から、神霊である私の存在を感じ取り、無条件に慕ってくれた。

 何もかもが、ウトゥナの生き写しだった。

 二歳になった命花が、私の姿を見て触れられるようになった頃、「エルゥ」と舌足らずに呼んでくれたことも。

 本当の姿異形の獣を見ても、怖がらずに無垢な手で抱きしめてくれたことも。

 人間の姿を取った私を「天使」、と呼んで受け入れたことも。

 初めて私と時、涙を零しながら幸せそうな瞳で、微笑んでくれたことも。


 やがて、命花も私を愛してくれて――二人の"新たな命"を宿してくれた。

 ああ、本当に夢みたいな奇跡だ。

 ウトゥナの生まれ変わりと巡り逢い、昔と同じように愛し合える。

 あまつさえ、生まれることの叶わなかった”我が子”を得られるなんて――。


 『エルゥ……ずっといっしょにいてね』


 ああ、もちろん約束する。

 今度は、決して君を離さない。

 君を傷つけようとするあらゆるものから、君を守る。

 僕から君を引き離そうとする者は、容赦しない。


 今度こそ、守ってみせる――。

 愛しい命花と私達の子どもを――。


 たとえ、他の者を傷つけても――。


 *


 過去と未来を想い馳せる瞳の奥から、痛みと伴に零れるモノは何なのか。

 命の期限を奏でる心臓から、熱と伴に湧くこの感情を、どう吐き出せばいい?

 人間らしい陳腐な言語で強引に表せば、感嘆、歓喜、悲嘆、寂寥せきりょう、祝福、希望、絶望――どれも、今の自分の感情を伝えるには、足りなくてもどかしい。


 「命……花……っ」


 ああ、でも、ただ確かな現実は一つ……。

 我が娘は――美しかった――。

 涙が溢れて止まらないほどに――。

 純粋無垢に澄み渡っていた――。

 世界に絶望したくなるほどに――。

 聖母の慈愛に輝き満ちていた――。

 あらゆる罪悪も汚穢も浄化される、と錯覚するほどに――。


 「ママ……」


 淡い桜色の唇から、歌うように透き通った声で呼ばれる。

 途端、美琴の耳朶は甘く粟立ち、心臓も切なく震えた。

 白い布衣の襟から伸びた、花茎の細い手足と首は驚くほど白く、可憐でありながらどこか艶めかしい。

 腰を撫でる長い髪は、黒銀の星屑を散りばめた夜空色に艶めき、肩から滑らかに零れる。

 年相応の知性と幼気いたいけな心が溶け合う、無垢な黒曜石の瞳を、嬉しそうに細めていた。

 どれも、寸分違わず自分の娘・天野命花だったが、どこか別人のようにも映った。

 理由は以前に増して青褪めた顔色、少しやつれた手足と首に不自然なほど膨らんだ腹部、以前よりもひどく大人びたような――。

 世を儚み慈しむ賢母のような眼差しと微笑みは、"あの神谷霧華"すら彷彿させた。


 「命花……その……」

 「     ……」


 ほんの少し気まずい雰囲気に、瞳を伏せていた美琴は、意を決して口を開く。

 同時に無垢なる獣の嘶きは、美琴の鼓膜を震えさせた。

 不安と恐怖よりも警戒心を露わに威嚇する小動物さながら、か細くも威圧的な鳴き声に、緊張でこわばる。

 不意に、美琴がブナの巨樹を見上げると――"神"と目が合った気がした。


 暗い虚の底から命花に続いて姿を現わしたのは、神霊――エルキドゥナルエルゥだった。


 白い樹の枝で編んだ籠に乗せられた身重の命花を、エルゥは両腕に抱き上げている。

 時折命花が軽く身じろぎしたり、小さく息を吐いたりすると、エルゥは彼女の肩を撫でる。

 さらに甘える猫さながら頬擦りもし、彼女の機微を敏感に気遣っていた。

 異様な形相と巨体に似合わない繊細で優しい手付きから、エルゥが娘を大切に扱っているのは伝わった。

 命花も苔のような緑の毛むくじゃらな頬を愛おしげに撫で、甘い炎を灯す瞳にソレを映す。


 生まれてから十九年間、双方の間に芽吹き育った友情と絆は、やがて"恋の感情"を咲かせた。

 愛と呼べる強固な根っこ執着を、今からのだと思うと、美琴は胸が痛んだ。

 それでも――。


 「命花……エルゥにお願いしたいの。命花を……私の大切な娘を"解放"してほしい……っ」


 祈るように胸へ手を当て懇願する美琴に向かって、エルキドゥナルが吼えた瞬間。


「     ――――!!」


 エルゥの咆哮は、突風となって緑と水面をさざめかせ、美琴の体を勢いよく吹き飛ばした。

 後ろのめりに均衡を崩した美琴を、南雲は慌てて抱き留めた。


 「美琴さん……!」

 「ありがとう、南雲君。私は、大丈夫……っ」


 美琴は自分を支える南雲へお礼を述べると、姿勢を立て直す。

 一方エルキドゥナルは、美琴を威嚇するように森色の毛を逆立てる。

 獅子さながら獰猛な唸り声をあげるエルキドゥナルに、やはり圧倒される。


 「ママ……! エルゥ……大丈夫だから……私は離れない……ここであなたと……あなたとの子どもと一緒に穏やかに暮らすの……


 一方、足を震えさながら萎縮する母親を案じた命花は、エルゥの頬に触れながら優しく宥める。

 エルゥは命花の頭をすっぽり覆える巨手で、命花の頭を撫でる。

 しかし、美琴達を射抜く敵意と警戒の気配は、緩めないまま。

 やはり、エルゥは美琴達が命花と引き離そうとしていることに、怒り恐れているようだ。


 「エルゥ……私は"全て"を知ったわ。昔、あなたと森に起きた出来事を……命花の前世――ウトゥナを愛して、失った悲しみを……だから私も分かるわ……あなたがウトゥナ……命花をどれほど深く愛し、大切に慈しんできてくれたのか」


 かつて、エルキドゥナルの味わった深い悲嘆へ、想いを馳せる。

 大いなる異形の神への恐れを克服せんと真っ直ぐ見上げ、涙声で言葉を紡ぐ美琴に、エルゥの醸す敵意は微かに揺らいだ。

 かつての傲慢で野蛮、無理解・無慈悲なウル兵とは、違う気配を感じ取ったのか。

 瞳の隠れた毛むくじゃらの顔で美琴をじっと窺うエルゥは、耳を傾けてくれているように思えた。


 「不甲斐ない母親だった私の代わりに命花を助けて、心の拠り所になって……あまつさえ、命花に恋と愛を教えてくれた――あなたには感謝しているわ」

 「ママ……っ」


 美琴の言葉はあまりにも意外だったのか、エルゥは驚きに息を呑むような呻き声を零した。

 エルゥに抱きしめられたままの命花も、目尻に涙を溜めて美琴から目を離せなかった。

 命花は自分と愛するエルゥとの仲を母親に認めてもらえたのだ、と歓喜と安堵に胸を震わせていた。


 「だからこそ……命花をずっと此処には置いておけない」


 束の間、歓喜に潤んでいた命花の瞳に、動揺が波紋する。


 「命花にはここから出て、私達と一緒に病院へ行って……お腹の子どもと元気になってほしいの。そして、佐藤君も付いてくれるから……大学にも行って、の」


 再び紡がれた説得の言葉に、命花は愕然と瞳を潤ませ、微かに開いた唇を戦慄わななかせる――絶望の表情だった。

 命花の精神的な揺らぎと共鳴するように、エルゥの彼女を抱き締める巨腕にはぎゅっと力が籠り、森中はさざめき始めた。


 「今度こそ、命花には感じて欲しいの……友達と楽しく話して、色々なことを学校で学んで、好きなことか得意なことを仕事にして……もしかしたら、好きな男の人と出逢い結婚して、家族を作る……そんな"普通の女の子"としての幸せを――」

 「、もう、ほしくないの――」


 切実な説得と懇願も虚しく、命花は耐えられないとばかりに、美琴を遮った。

 家から絶対離れないと駄々を捏ねた時とは異なり、命花の眼差しは全てを諦めたように静まり返っていた。


 「私だって……ママが考えたようなことを願って、"努力"してみたことはあったよ……でも、無理だった」


 切なげな優しい声は、母親である美琴の想いを"感情"で理解はしているが、"正論"としてはまったく響いていないように聞こえた。


 「私なりに普通に振る舞おうと話したり、興味のないことを好きになろうとしたり、逆に好きなものが嫌いなフリをしたりもした……それでも私は

 「外の世界では……私は私になろうとすれば、普通じゃないから傷ついて……普通になろうと努力しても、"私"がだけだった」


 最後に呟いた台詞は、深い"絶望"だった。

 美琴の切実な願いは、命花にとって尊いと同時に、どれほど残酷なのかも物語る。

 無邪気な命花から語られることのなかった深い孤独と自己不全感に、美琴も我が身のごとく打ちひしがれる。

 だからこそ、命花は自分を無条件に愛してくれるエルゥの存在、エルゥの純美な世界を愛し縋りついた。


 「だから……ごめん、なさい……私は……ママ達と一緒に……行けない――」


 エルゥの腕と木の籠にもたれかかる命花は、浅い呼吸と共に哀しげに零す。


 今の美琴なら、命花の気持ちもエルゥの愛着も理解できるが――。

 命花が”彼女らしさ”を持ったまま、外の世界で他者と関わり、心から笑って生きる希望を見出せるように――今度は、どんな言葉をかければいい?

 一度覚悟を決めたはずの美琴は言葉に詰まり、瞳を彷徨わせる。

 沈黙に俯く美琴を、ぼんやりと霞んだ命花の瞳が見下ろす。

 青白い花びらのような額から、雨露のような汗は滴る。


 「っ……こんな、私を……そのまま、愛してくれたエルゥ……」


 命花は、喉を引き絞るような声で答える。

 心無しか、熱く湿った吐息は早まる。


 「っ……私をお母さんに選んでくれた……この子の……傍にいてあげたいの……っ――ぃ――あぁ――っ!」

 「命花……!?」


 久しぶりに言葉を交わした際に気付けなかった違和感は、目に見える形で表れた。

 熱に浮かされた霞の瞳と浅い息遣い、額から溢れた汗、やがて苦しげに儚いでいる声に、命花の異変と原因を察した。

 まさか――。


 「っ――、よ……私と……エルゥの、"赤ちゃん"が――うぅ……っ……はぁっ」


 案の定、美琴の悪い予感は的中した。

 尋常ならぬ苦しみに喘ぐ命花を襲っているのは、明らかに陣痛……お腹の子どもの誕生を示唆していた。

 命花の苦痛をわずかでも緩和させようとしているのか、エルゥは彼女の背中を摩り、額の脂汗を赤身肉みたいな舌で舐め取る。

 今まさに出産に見舞われている命花を前に、一同は呆然と狼狽える中、我に返った美琴と南雲は慌てた声を張り上げた。


 「それなら! 早く娘を病院へ連れて行かないと……っ」

 「ああ……あんなの、"尋常じゃない"」


 半混乱状態の二人が狼狽えるのも、無理はなかった。

 命花の腹部は、今にも彼女を内側から突き破らんとばかりに膨張している。

 お腹の皮膚下で、"何か"がボコボコと暴れ蠢く様は、見ていて不気味だ。


 命花が交わり孕んだのは、異形の獣の神――その子どもとなれば、いかにこの世のものではない”聖なる異形”であってもおかしくはない。


 現世へ生まれ出たがっている子どもは、命花の生命を食い破らんとばかりに、胎内で暴れ狂う。

 神であるエルキドゥナルが付き添っていれば問題ない、と命花は零していたが、美琴達の懸念は別の事だ。


 聖なる異形の神と純粋無垢な人間の血を受け継いだ、”新しい命”の誕生を阻止しなければ――。


 『あの娘――……ふふふ……』


 こちらに向かって、妖艶に微笑む神谷霧華の声が、響いた気がした――頭を過ぎった、最悪な結末の象徴となって――。


 「お願い! 命花! エルゥ! 今すぐ止めて! それ以上は、娘が……娘が、死んでしまう!」

 「来たらだめっ!」


 命花とエルゥのいるブナの巨樹の根元へ、駆けつけた美琴と南雲は、必死に止める声をあげる。

 しかし、決意の揺るがない命花の儚くも力強い一喝とエルゥの威嚇に、気圧されてしまう。

 美琴と南雲は互いに尻餅をついてしまうが、痛む背中に鞭打って再び立ち上がる。

 二人は樹へよじ登る作戦も考えたが、頭上から突き刺す茨の殺気、怒れる樋熊のごとく凄まじい唸り声に、一瞬で吹き飛ぶ。

 一歩でも近付くにつれて濃厚化する神の威光に、畏れで足の筋肉が竦む。

 無防備なまま樹へよじ登ったが最後、ちりのように追い払われるだろう。

 最悪の場合、獰猛な爪と牙、角の餌食になりかねない。


 邪魔する者は殺す――と言わんばかりに鋭利な牙と爪、角を振って威嚇する姿から、エルゥは命花と我が子を必死に守ろうとしているのが分かる。

 何があっても命花を現実世界へ返すことも、我が子の誕生を邪魔されることも嫌なのだろう。

 あんな死にそうな顔で苦しむ命花本人が望まない限り、説得も交渉も決裂した。どうすれば――。


 「しっかりするんだ! 美琴さん! 思い出してください! 我々がここへ来た目的を!」

 「九十九教授……!」


 万策尽きて窮地に凍りつく美琴の思考を、九十九の熱い激励は燃やした。

 いつになく真剣な声を荒げた九十九を、美琴は唖然と見つめ返す。

 九十九が鞄から二つの硝子小瓶と一本の点火装置ライターを取り出した姿に、我へ返った美琴は慌てて外套のポケットを弄った。

 先程、転倒した拍子に懐へ紛れ込んだ瑠璃星草の葉っぱと花びらは、指を掠める。

 後にひんやりと固い物体を掴むと、直ぐに取り出した。


 「     ――……?」

 「これで……もう、"終わり"にしましょう……エルキドゥナル……」


 美琴の手に握りしめられた瑠璃の石片――エルキドゥナルと現世、そして命花を繋げている瑠璃石の首飾りの

 天のように真っ青で、海のように深く澄んだ石の欠片を、エルゥは怪訝そうに首を傾げて――。


 「ヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴアアア――――!」

 「危ない! 美琴さんっ」


 エルキドゥナルは、猛々しく牙を振り上げながら、けたましく吠えた。

 同時にブナの巨樹の枝は急成長し、緑の魔手となって、美琴へ襲いかかった。

 美琴の手に握られた瑠璃石――唯一無二の愛しい少女へ贈った、首飾りの片割れを返せ、と怒り狂うばかりに。

 咄嗟に美琴を助けに駆け出した南雲は、自身ごと美琴の体を抱えて飛んだ。

 二人の体は、共に湖畔の芝生へ転倒した。

 地面に咲く瑠璃星草の花びらは、二人の体へ雪のように乱れ舞う。


 「無事ですか、美琴さんっ」

 「ええ、大丈夫よ。ありがとう、南雲君……」


 吹き飛ばされた拍子に、背骨と後頭部を激しく打つけたはずの二人は、奇跡的にも無傷だった。

 蠢く魔手の攻撃から逃れた二人が、胸を撫で下ろすも束の間。


 「二人とも! 気をつけて!」


 後方で控えている小町は、警告を叫ぶ。

 エルゥの操る樹木の魔手は、二人に息吐く隙も与えずに襲いかかる。

 たこの足のようにうねりながら、二人を捕らえようとする樹木へ、小町は発砲するが触手は怯まない。

 埒が明かないと判断した南雲は、咄嗟に美琴の手を引いて駆け出すと、周りの樹木を盾にしながらエルゥから距離を取った。

 緑の盾超しにも、びりびりと皮膚を痺れさせるエルゥの怒り狂う咆哮に、固唾を呑む。

 今まで以上に凄まじく、もはや殺気に等しい威圧感と咆哮から、エルゥは美琴の持つ首飾りの片割れの意味、彼女達の試みを見透かしているかもしれない。

 結局、説得にも失敗した以上、エルゥが手のつけられないほど暴れ狂う前に、急いで『祓いの儀』を済ませなければ。


 「さあ! 美琴さん! 今のうちにっ」


 九十九のかけ声を合図に、美琴達は儀式の準備が整ったことを認識した。

 南雲から佐藤、小町、九十九を順に、美琴は視線を移した。

 南雲は銀の点火装置、佐藤は清めの塩、小町は聖なる油、九十九は古びた臙脂色えんじいろの書物、そして美琴は霧華から預かった瑠璃石の欠片を手に、円陣を組んだ。

 打ち合わせ通り、九十九が祓いの呪文を唱えたのを合図に、美琴は瑠璃石を地面に置いてから、清めの塩と聖なる油を注いだ。


 「では……」

 「私がやるわ、南雲君」


 南雲から点火装置を預かった美琴は、螺旋ネジを回して火を灯す。

 最後は炎で石を燃やせば、祓いの儀は完了する。

 さすれば、エルキドゥナルの霊魂は元の地へ還り、命花も解放される……。


 「早く! 美琴さん! あいつが来る前に……!」


 点火装置に揺らめく炎を見つめる美琴へ、佐藤は催促する。

 緑の盾の背後から迫る樹の魔手は、小町の銃弾で足止めしているが、時間の問題だ。

 もう迷う余地は、残っていない。

 エルキドゥナルを焼き祓うことで、命花を生死に関わる危険な出産から救い出す。

 美琴は理解り切っていた。

 このまま手を離せば、全ては完了するというのに。

 しかし、決意とは裏腹に点火装置を握る指は、凍りついたように緩まない。

 心の奥底が拒否している気がした。

 ちらりと、眼差しだけをブナの巨樹へ移す。

 樹木の上で膨らんだお腹を抱えて、必死に叫び息む命花。

 彼女を抱きしめたまま、心配そうに覗き込むエルゥ。

 彼らを応援するように、美しく咲き散るのを繰り返す瑠璃星草の大群を、瞳に映す。


 「美琴さん……? 大丈夫ですか」


 茫然と佇んだまま一向に動かない美琴に、不安を覚えた南雲は、彼女の顔色を伺う。

 すると、我に返った様子で目を見開いた美琴の手から、点火装置はぼとりと落ちた。


 「ごめんなさい……」


 心底申し訳なさそうに、美琴は謝罪を呟いた。

 雪色の塩が澄んだ油で濡れ固まった瑠璃石は、結晶のように煌めく。


 「ごめんなさい――っ……――っ」


 点火装置の炎は消えていた。

 緑の地面には、濡れた瑠璃石と点火装置が寂しく落ちていた。

 涙ぐむ美琴の選択に、佐藤と小町は動揺に目を見開き、九十九は興味ありげな表情で頷き、南雲は驚きながらも気遣う眼差しを送る。


 やはり、自分は"母親失格"だったのかもしれない。

 もっと、母親としてしっかりしていれば。

 不在の父親に代わって、教育ができていれば。

 命花がハンディを抱えても他の子ども達と関わり、現実を侵蝕する空想へ逃避することもなかったかもしれない。


 普段からもっと、命花のへ耳を傾けていれば。


 いじめで深く傷つくことも、「普通であること」へ馴染めない孤独と絶望に、早く気付いてあげられたかもしれない。

 命花の人生を思うならば、彼女を救うためにエルキドゥナル最愛の幻想と決別させるのが正解だ。

 たとえ、命花に憎まれたとしても――。

 けれど、美琴に出来るはずはなかった。


 純粋無垢な魂を宿す愛しい命花から、最も大切な者を奪うことも――娘に愛と幸せを与えてくれたエルゥを、手にかけることも。


 かつて、人間の悪意と恐怖の犠牲になった神と少女――永き時を経て奇跡の邂逅を果たした二人を、ウル兵と同じ方法放火で引き離す非道な仕打ちも――。


 これが"運命"だというのなら――世界はこのうえなく残酷だ。


 「なぁに。これも"一つの正解"……君が気に病む必要は一切ない」


 瑠璃石の前で膝をついて泣きうずくまる美琴の頭上から、励ましの声は降る。

 知性に鷹揚な色を滲ませた少々しゃがれ気味の声から、九十九が話したのだと分かった。


 「後は私に任せたまえ。"彼女"の意思は、


 九十九の意味深な台詞に、美琴は状況を呑み込めなかった。

 しかし、頭上からカチリっと金属の摩擦音は響いた。

 途端、九十九の意図を悟った美琴は、慌てて立ち上がった。


 「待ってください、九十九教授――!」


 弾かれたように顔を上げた美琴は、背後に迫っていた九十九へ掴み掛かろうとした。

 焦りに揺れる美琴の瞳に映った九十九は、点火装置に炎を灯して晴れやかに


 「危ないですよ! 美琴さ……」


 このままでは、ぶつかり合った拍子に点火装置の炎が二人へ移る、と危惧した南雲は慌てて美琴を止めた。

 南雲が美琴を羽交い締めした隙に、九十九は炎を瑠璃石の上へ投げ落とした。


 「だめ――!」


 瑠璃石は、聖なる油と清め塩を燃料に激しく燃え上がった。

 炎に包まれていく光景に、美琴は絶望で色を失っていく。


 「!? 何してるんですか! 美琴さん! 馬鹿な真似は止してくださいっ」

 「早く! 早く火を消して!」


 衝撃的な光景は、南雲達の瞳に映り込む。

 瑠璃石を焼き尽くそうと燃える祓いの炎を、美琴は素手で叩き消そうとしていた。

 血迷った美琴の行動に、南雲達は虚を衝かれながら慌てて止める。

 それでも、美琴は肘で南雲達を振り払い、上着を叩きつけたりして必死に火を消そうとする。


 「もう諦めなさい。あなたの手が無駄に火傷するだけだ。"聖なる祓いの炎"は水でも消せない。それに……は、ほぼ生まれたものだ」

 「そんな……嘘よ……そんなの絶対駄目! エルキドゥナルが――娘が!」

 「落ち着いてください! 美琴さん! 今の言葉はどういうことですか!? 何故、今になって火を」


 半狂乱で火を消そうと叫ぶ美琴。

 このうえなく、会心の笑みを浮かべながら静かに諭す九十九へ、南雲は困惑気味に問いかけた時――。


 「ア――アァ……アアアアアアアアアアア――――……!」


 耐え難い激痛に満ちた獣の叫びは、風となって空中の樹々を切り裂き、大地を震えさせた。


 耳朶を激震させた凄まじい咆哮に、振り返った美琴達は目を見張った。



***次回、最終話***

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