第五話『胎動』
幾度目かも忘れた、とある深夜――。
いつもより長風呂した美琴が、就寝前のカモマイル茶をお伴に、二階の廊下を通りがかった時のこと。
「命花……?」
美琴は、自分の寝室と隣の客間の奥突き当たりに位置する命花の部屋から、微かにか細い呻き声が漏れたのを聞いた。
もし、空耳か寝言ならば起こしてはいけないと思い、美琴は小さな声で呼んでみた。
やはり気のせいだ。
夜の静寂のみが流れる中、美琴は己の心配症を自嘲すると踵を返した。
「……ぁ……ぃ……ぅ……っ……」
静夜の音色に紛れて響いた儚げな掠れ声に、美琴の足は止まる。
息を殺して耳を澄ませてみると、今度は確かに命花の部屋から声が漏れていた。
悪夢にでもうなされているのか、それとも不安で泣いているのか。
心配になった美琴は、少しだけ様子を覗こうと忍び足で扉へ近付いた。
極力音を立てないように、扉のノブをゆっくり回す。
木の扉越しから、今も微かに漏れる娘の声は湿っぽく、母親の琴線を妙にくすぐった。
扉の狭い隙間に広がる真っ暗闇へ、美琴は自分の片目を近づけた。
「ぁ……あぁ……っ……」
命花はないていた。
涙と苦悶に溶けた甘い音色の歌を知る美琴は、一瞬耳を疑った。
夜闇で小さな影は、くねりと
寝台の毛布を頭まで被っている命花の顔は、見えない。
しかし、毛布の隙間から漏れる甘い涙声、毛布の下で身を
美琴の胸に、小さな衝撃と羞恥らしき感情は灯る。
何も不自然なことではない。
天真爛漫な命花だって、女の子だ。
子を成すための甘い熱欲の本能は、成熟に伴って芽生える自然の摂理。
ただ、美琴にとって意外だったのは、命花自身が本能的欲望を意識し、"自ら処理する術"を獲得していたことだ。
しかし、男女が生命を生み育む生物学的
和国での淡々と表面的な性教育、とメディアにおける性的表現の倫理の緩さが物議を醸している中、娘の性に対する理解度は気になった。
「ん……はぁ……ふ……っ……ぁ、ぁ、ぁあ……ぃ……っ」
無垢な嬌声は、さらなる透明な高みへ昇っていく。
激しく揺れる寝台の軋む音は速まり、熱く湿った水音は、耳朶に付き纏う。
「ぁ……あぁ……っ……ル……うぅっ、ん……ェ……あっ……ルゥ……! っ……や……あぁ……っ」
甘い本能の花火が咲き弾け、舞い落ちる花びらのような余韻に悦する吐息は聞こえた。
いたたまれなくなった美琴は、音を立てずに扉を閉めた。
あのような命花の姿を見てしまい、美琴は母親として何とも言い難い感情に襲われた。
決して、娘を恥じているのではない。
むしろ、天真爛漫な少女の心を持ったまま、体は遅れながらも成長した娘。
命花には"そういう欲望がないもの"だ、と無意識に決めつけていた自分への嫌悪と猛省だ。
自分の世界と言う名の宇宙に囚われながら、無邪気に生きてきた命花にも欲望が……誰かを愛し愛される幸福、新たな命を生み育む未来の源となる感情を芽生えさせるのなら、喜ばしい。
期待する反面、恋する感情に目覚めた命花の精神状態は崩れないか、命花を受け入れる相手はちゃんと見つかるのか。
今から考えても不毛な不安を振り払うために、美琴は頭まで布団を被って瞳を閉じた。
「っ……ぁ……はっ……ん……エ……ゥ……」
甘美な細波の微睡みに浸る吐息は零れる。
無垢で艶やかな歌声を奏でていた華奢な喉は、言葉すら枯れて。
熱い花びらは淡い火傷みたいに、奥で散り疼く。
しかし、澄んだ陶酔を映した瞳も濡れた唇に咲いた微笑みも、心から嬉しそうな色を浮かべていた。
「ありがとう……私、いちばん幸せ」
窓掛けの隙間から差し込む月光を吸収して白く輝く両手は、夜天へと伸びた。
「ずっと、こうしていて」
夜の世界を隔てる柔らかな毛布は、天傘のように盛り上がる。
夜闇に溶け込む大きな影は、白い月光を浴びて蠢いていた――。
*
紺碧の闇に静まる閑散とした住宅街の坂道を、登っていく。
夜闇に溶け込む邸宅は沈黙し、朧照る邸宅は和やかな賑わいを奏でる。
月光浴をしながら泳ぐ彩りの鯉のぼりを見上げていると、施設時代に体験した子どもの日の良き思い出は蘇る。
茫然と郷愁へ浸る内に、最近行き慣れた目的地へ辿り着いた。
腕時計へ視線を移すと、針は既に午後七時を回っていた。
今日は、偶々アルバイト先でちょっとしたトラブルに対応したせいで、遅れた。
突然の訪問には適さない時刻だと気付くも、明日へ出直す気になれなかった。
脳裏に浮かんだ天真爛漫な笑顔は、自分を踏み留まらせた。
今まで出逢った女子にはない純粋無垢な煌き、偏見に囚われない自由な知性と精神に満ちた少女のような"友人"を恋しく思った。
ここ二週間は、彼女の顔をまともに見ていない。
瑠璃山大学・血の広場事件によって、焼肉店事件の被害学生も瑠璃山大生だったことは、ついにメディアで明るみにされた。
事件直後から一週間、大学の門前には報道陣の津波が押し寄せた。
学生の登下校と受講への支障や、周辺住民からの苦情も続出した。
これ以上の外聞を憚った大学側は、学生の安全も考慮し、暫くの臨時休校を実施した。
佐藤裕介の休校期間は、大学と生活資金を貯めるバイトのシフトに埋め尽くされた。
隙間時間に天野命花のお見舞いに行くのは、定例化した。
佐藤は勝手知った足取りで、玄関へ踏み入り、呼び鈴ボタンを押した。
しかし、閑散とした住宅街で思案に耽っていた佐藤は、今頃になって気付いた。
天野邸も、夜闇に同化するように静まり返っているのだ。
まさか、いないのだろうか。
「……佐藤君?」
鎖施錠越しに扉の隙間から顔を覗かせる母親・天野美琴の姿に、佐藤は一瞬言葉を失った。
就寝には早い時間帯に、室内の照明が全て落ちているのも、不自然だと思った。
しかし佐藤の目を最も引いたのは、前回の訪問から二日足らずで、急激にやつれた美琴の姿だ。
元々丈夫そうな印象ではなかったが、頬と下瞼はさらに痩せ窪み、月の薄明かりに溶け込む肌は、生気を無くしたように青白い。
「やっと、来てくれてありがとう……ずっと、待っていたの」
憔悴し切った声で奏でられた言葉は、歓迎的だ。
しかし、幽鬼のように虚ろいだ瞳には、青い絶望の炎……静かな憤りらしき輝きに燃えていた。
「夜分にお邪魔します。これ、つまらないものですが」
不穏な雰囲気を醸す美琴に、佐藤は不安に掻き立てられた。
それでも、事件のせいで孤立し、心身共に疲弊している友人とその母親を放っておけなかった。
「いつも本当にありがとう……あの子もきっと、また喜ぶわ……ええ……あの子……」
精一杯のお詫びを示すつもりで、命花の好物であるバターケーキ・ハニーデーツ味の紙袋を掲げる。
そこでやっと美琴は、唇を微かにほころばせた。
しかし、瞳の奥で静かに燃える光は虚ろで、我が娘を想い馳せる声は淀んでいた。
佐藤は胸から芽生えたざわめきに気付かないフリをして、鎖の解かれた扉の向こう側へ足を踏み入れる。
佐藤の踵と後頭部が室内へ完全に納まった
「おば、さん?」
扉が乱暴に閉まる音は、響き渡る。
「お願い騒がないで。正直に答えて」
呼吸と鼓動を奏でていた佐藤の喉と胸は、凍直した。
首筋に冷たい感触が沁み渡る。
しかし、佐藤の肩を小さく震えさせているのは、彼自身の冷や汗ではない。
恐る恐る視線だけを上へ彷徨わせると、佐藤の双眸は愕然と見開いた。
「命花を……あの子に何をしたの」
脈絡のない問いかけに、答えるどころか意味すら理解できない佐藤の思考は、追いつかない。
佐藤の眼差しと関心は、彼の首筋にある《調理バサミ》。
刃の背中部分を当てているのは、美琴だ。
動揺のあまり絶句する佐藤を睨む美琴の瞳は、怨霊さながらの剣幕だ。
「一体、何のことですか「とぼけないで。今も信じられないけれど、あなた以外には考えられないわ。そうでなければ命花が……私の大切な娘が、そんな……っ」
極力刺激しないよう努めて落ち着いた声色で、尚且つ困惑を訴えるように、佐藤は問い直す。
しかし、目の前の美琴は余程興奮しているらしく、さらに語気を荒げてくる。
佐藤の言葉も表情すら映していない異様な目付き、と首筋の皮膚を痺れさせるハサミの冷たさ。
佐藤は焦りと冷や汗を感じながらも、根気よく声をかけた。
「どうか落ち着いてください、おばさん。一体何があったのか教えてください。正直僕も、本当に何のことかまったく」
「……ママ……? さとーくん?」
「命花っ」
間が良いのか否か、夜闇の静寂に満ちた玄関で寄せ合う母親、と友人の前に命花は現れた。
二週間ぶりに顔を合わせて口を利いた命花に佐藤は目を見張り、美琴は血走った眼を悲壮に歪めて娘を映す。
窓越しに降り注ぐ月光下の命花は、かつてないほど神々しい美しさと無垢な可憐さに煌めいていた。
夜森の緑さながら深みのある黒髪は、艶やかに波打つ。
一方信頼なる友人との再会に、命花は淡く微笑む。
しかし、かつてないほど鬼の形相で手には鋭利に光るハサミを握り締めている母親に、目を丸くした。
「ママ……? なにをしているの? なぜ、おこっているの……?」
「なら、あなたが本当のことを答えて!」
心底不思議そうに首を傾げていた命花へ、美琴は叫ぶように問い詰める。
かつてない剣幕の母親に、びくりと萎縮した命花の顔には、怯えの色が浮かぶ。
「命花……やっぱり相手は、佐藤君なの? 彼が……あなたに手を出したの!?」
「え……?」
美琴の思いがけない台詞に、佐藤は虚を衝かれた表情で絶句した。
同時に美琴の凶行と動揺の理由、質問の意図をようやく悟った。
美琴の台詞が示唆する驚愕の現実に、佐藤も混乱し、胸の底から自然と湧いた否定を声に出すのが精一杯だった。
「ちがい、ます……僕は何も……いや、待ってください。一体」
「じゃあ、どうしたら何もせずに"子どもができる"というの!? 命花の周りには、あなたしかいなかったのよ!」
一方、佐藤を信じない動揺の叫びは、彼の頭に浮かんだ事実を肯定していた。
戦慄く指先で口元を押さえながら、命花へ視線を戻した、佐藤は恐る恐る問う。
「命花……君は、その……いるのか?」
公共の場であれば不躾な直球の質問に、佐藤は自分でめまいを覚えた。
しかし、天野家を満たす夜闇の静寂と異様な空気の中では、礼節も建前も自分達をさらなる混沌へ引き摺りこむしかないのだ。
「そうだよ、さとーくん。わたしね、"あかちゃん"ができたの――」
殺伐とした場では不相応に煌めく命花の無垢な笑顔に、佐藤も美琴も混沌の闇へ足を竦まれた。
「わたしと『エルゥ』のあかちゃんが――」
確信に酔いしれた命花の言葉は、二人に希望ではなく――残酷な現実を晒しめる朝陽のように、明るく澄み渡っていた。
*
『親権は君に譲るよ。残念だが、アレは私の手に余る。いくら命があっても足りない』
美琴を平手打ちした事件から、三日も経たない間のこと――。
天野宗也は手のひらを返すように、唐突に"離婚"を切り出した。
あれほど高機能自閉症の娘の存在、と特別支援学校への転校、家族揃いの引越しに執着していたにも関わらず。
離婚届への署名も、入院中の夫の命令で早急に為された。
最後まで身勝手な人だ、と溜息を堪えた美琴は、淡々と手続きを済ませた。
夫にぶたれ、彼の冷酷な知的探究心と身勝手な言動に、深く失望していた。
美琴にとって、命花の転校と引越しの件も破談になったのは、願ったり叶ったりだ。
反面、己の要望を押し通す夫らしからぬ心変わり様に、釈然としない自分もいた。
そんな疑問は、命花の親権すらあっさり譲った夫の零した心無い台詞――我が子への侮辱に対する、静かな怒りの炎に燃え去った。
しかし、後に理解させられることになった。
血も涙もない夫が呟いた台詞は、我が娘に抱いた強い"恐怖"だったのだ、と――。
目眩を引き起こす酷暑に満ちた夏夜の出来事だった。
その年は、数年にごく稀に生じる「夜なき獄夏」で島民を嘆かせた。
太陽が沈んでも、昼間と違わぬ凄まじい暑さに満ちた熱帯夜をそう呼んだ。
その夜も普段通り、美琴は午後七時で勤務を終えた。
清涼聖域の病院から猛熱の闇へ一歩身を乗り出した途端、汗は一気に湧いた。
汗濡れの衣服や髪が肌にへばりつく不快感、視界の霞む暑さを堪えて、急いで自宅を目指していた。
今頃、家では仕事を終えた夫の宗也と同じ空間で過ごす命花は美琴の帰りと夕飯を待ちわびている。
しかし、美琴の足を逸らせるのは、朝から芽生えた漠然とした不安、大切な娘と二人きりにさせたくないあの夫への嫌悪感だった。
息絶え絶えに帰宅した美琴を待ち受けていたのは、彼女の不安を嘲笑い、的中させるような暗闇だった。
『命花? どこにいるの? 宗也さん?』
全ての照明が落ちた天野家は、夏闇の沈黙に満ちている。
就寝には早過ぎるし、二人だけで無断の外食も考え難い。
まさか――美琴の脳裏に、最悪の光景が浮かんだ。
猛烈な胸騒ぎに駆られた美琴は、祈りに震える手で鍵を開けた。
しかし、美琴の悪い予感は、思わぬ形で現実となった。
『ぐああぁぁぁ……!』
家の奥から、聞いたこともない夫の絶叫が響いた。
激痛にほとばしる声色から夫と、もしかしたら娘の身に恐ろしい事が起きたのだ。
考えるだけで、心臓がキリキリと絞られた。
強盗の可能性に備えて、美琴は玄関に置いたゴルフクラブを握ると、慎重に居間へ駆けつけた。
『……! っ……!』
闇に慣れた美琴の瞳は、扉のすり硝子窓に浮かぶ影を捉えた。
扉の向こうからは、苦悶にこもった呻き声も漏れていた。
『お、ねがい……だめ……やめ……て……っ』
美琴の聴覚を研ぎ澄ませば、小さく掠れた声に耳朶は震えた。
憐憫を掻き立てるか細い声で懇願しているのは、命花だと理解した途端。
考えるよりも先に、美琴の手足は動いた。
『命花!? 命花……!!』
獄夏の夜闇に囚われた居間へ、美琴は勢いよく入った。
家中に奔流していた暗澹の空気を裂いた美琴のかけ声に、大きな人影はびくりと大きく震えた。
一方、美琴の瞳は、真っ先に幼い娘を探し求めた。
『……よ……だめなの……おちついて、だいじょーぶ……へいき、だよ……あなた……たいせつ……だから』
固い床に座り込んでいる小さな人影――命花の姿を確認できた美琴は、胸を撫で下ろした。
しかし、命花は視線を虚空へ彷徨わせながら、言葉を途切れ気味に零し続けている。
許しを希うような口ぶりに、異様な雰囲気を感じた美琴は、夫に説明を求めた。
『あなた! これはどういうことです! 一体、何が』
ついに夫は、我が娘にまで手をあげたのか。
最悪な予感と怒りを美琴は言葉に燃やしたが、途中で止まった。
暗闇に揺らめく細長い影へ目を凝らした美琴は、固唾を呑んだ。
『あ……あぁ……っ』
壁に背中を預けて座っている夫は、「右手の肘から下がスッパリと切れて」いた。
夫のワイシャツと眼鏡にも、赤黒い斑点が飛び散っていた。
仄かに鼻腔を掠めていた異様な臭いは、夫の血だったことに気付いた。
救急車の文字が頭に浮かんだが、美琴は凍りついたまま動けなかった。
一方、失った右腕の創傷口を左手で必死に押さながら息を吐く夫には、美琴の存在が目に入っていなかった。
かつてない戦慄に血走った夫の視線の先を辿る――。
『ば……化け物――!』
力一杯絞り出した声で弱々しく呟いた夫は、いつまでも見ていた。
虚空へ独り語りかけながら微笑む"我が娘"の方を。
やがて娘の姿は、濃い闇影へ消えていき――二つの”黄金の光”は閃いた。
*
五月十日――ゴールデンウィークの終わりまで、残り二日を控えた日曜日の昼時。
瑠璃唐草模様の咲いた白地のトレーから、林檎紅茶と彩りのサンドイッチの芳しい香りは漂う。
薄いふわふわパン生地にたっぷり挟まれた瑞々しいレタスやきゅうり、トマト、塩気のきいたチキンやハム、サーモンの見た目からも食欲をそそる。
生野菜が苦手な娘には、マスタード抜きのまろやか卵サンド、と華やかな甘い苺ジャムと生クリームのデザードサンドを用意した。
醸し出す雰囲気が変貌しても、唯一変わらない娘の笑顔を思い浮かべると、最近忘れていた微笑みは自然と浮かぶ。
「おまたせ。昼食を持ってきたわ」
一度深呼吸をしてから、扉を軽く叩いて開けた。
扉の隙間から身を滑り込ませて室内へ入り、直ぐに扉を閉じた。
真っ暗闇に満ちた部屋に、蝋燭サイズの灯りは一つだけ仄照る。
「ありがとう、美琴さん。僕まで、ごちそうになってしまって」
「いえ。私も娘も、来てくださって嬉しいわ」
馴染みの
南雲純一の二、三度目の訪問。
一連の事件によって傷つき、孤立中の天野母娘を心配する聖先生に頼まれてのことらしい。
今回は、命花の同級生・佐藤裕介から「どうか今すぐ確認してほしいことがある。自分ではどうにもできないから、おばさんと命花の力になってほしい」、と急遽連絡を受けて直ぐ駆けつけたのだ。
胸騒ぎを覚える中で仕事を済ませて、ようやく再訪問した南雲を待ち受けていたのは、変わり果てた天野家だった。
一週間も逢わない内に、美琴は萎れ始めの花のようにやつれ、声も表情も生気に欠けている。
心なしか、家具も灯りも以前と変わらないはずの天野邸の室内も、陰鬱な気配と悲壮な静寂に満ちていた。
南雲が美琴と初めて逢った頃――。
命花がいじめによって不登校へ陥り、美琴も心身の均衡を崩していたあの時期と同じ……否、それ以上に荒んだ状況を示唆していた。
「じゅんくん! ひさしぶり。げんきだった? あえてうれしい」
命花は、南雲を下の名前から一部取って「じゅんくん」、と呼び慕う。
命花にとって、南雲は母親以外で心を許せる数少ない優しい大人だ。
年齢や立場、礼儀作法を問わず対等に話してくれる相手に命花は懐き、友人として接する。
天真爛漫な笑顔で歓迎する命花は、一見今までになく安定している。
普段の南雲であれば、良い箏として認識できる命花の変化。
しかし、今回ばかりは目まぐるしく、かえって彼にすら不安を掻き立てさせた。
「僕も久しぶりに会えて嬉しいよ」
心の底から零れた本音だ。
命花の身へ降りかかった酸鼻極まる事件、報道陣と世間の眼差しに追われて身を潜める生活を余儀なくされた不遇を聖医師から耳にした南雲も、心を痛めていた。
南雲の柔和な眼差しは、命花を見つめながらも別の場所にも注がれた。
目の前には、ニコニコと無垢な笑顔をほころばせる命花の姿。
しかし、以前よりもぽっこりと膨らみを増した腹部は、目を引いた。
極度の運動不足と過食による、肥満や胃腸膨張によるものなのか、それとも……。
見た目では判別し辛い南雲は、悩ましく思いながら、視線をさりげなく命花の背後へ注いだ。
「命花ちゃんの絵、すごいね。これは全てエルゥなのかい?」
「うん! かいたら、たのしくて、いっぱいになったの。すごいでしょ?」
壁から窓一面を隙間なく覆い尽くす『闇の獣』で黒く塗り潰された画用紙、部屋の中央に佇む『後ろ姿の天使』のカンバスは異様だった。
今回の命花が示す異変は、佐藤と美琴から予め耳に挟んでいる。
長年、市役所の福祉課勤めで様々な複雑困難事例の家庭と関わり、正視と嗅覚に耐え難い塵屋敷へ踏み入れてきた。
そんな南雲ですら、久しぶりに肝を冷やした。
不穏な気持ちを表情に出さず、手作りサンドイッチを片手に、南雲は命花と談笑する。
とは言っても、命花が頭に浮かんだことを自由に一方的に喋り、南雲が相槌を打つのが常だが。
「そうなんだ。大学には色々な人がいるからね。ところで、命花ちゃんは好きな人はできた? その……恋人、とかさ」
命花の話題が、大学での勉強や芸術的な建物へ移った所で、南雲はさりげなく核心の質問を投げかけた。
「いないよ、そんなの」
「そうなのかい?」
「うん。わたしには、エルゥがいるから」
「佐藤君は?」
「さとーくんはやさしくて、いいひとだからすき。さとーくんは、わたしをわらったり、いやなことをいっていじわるしたりしないから……じゅんくんもすきだよ」
「ははは、ありがとう」
屈託なく答える命花からは、やはり嘘や誤魔化しの気配は感じ取れない。
それでも、南雲は胸に冷たく引っかかるものを感じながら、会話を続けた。
「ならよかった。じゃあ、大学では怖い人はいたかい? 一緒にいると緊張や不安が強くなるような」
今度は、質問を変えてみた。
命花のように自分から気持ちや状況を理解し、言葉で上手く表現するのが難しい人がいる。
南雲も美琴も危惧している、一つの「最悪な可能性」を確かめようとした。
「いたよ。こわいひとたちも。もみじいろのくるくるかみのおんなのひととか。めいかのたいせつな、スケッチブックとったの……。あと、ツンツンしたくりみたいなあたまのひとは……おもしろいけど、こえがおおきくて、かたをたたくからいや……」
「そっか。それは怖くて嫌だったね。そんな人達は気にしなくていいよ」
「ありがとう……」
「紅葉色のくるくる髪の女の人」は、第二事件の被害者兼いじめの主犯格である加納エレナ。
「ツンツンした栗みたいな頭の人」は、第一被害者の浅山先輩だ。
両者とその連れの同級生は、事件直前まで、命花にとって好ましくない言動をしていた。
「だから……エルゥは怒っちゃったの……あのひとたちが、わたしをなかせたから」
「そうなのかい?」
「うん……むかしからいつも、エルゥはわたしをまもってくれるの」
悲哀に伏せた命花の眼差しと台詞からは、被害者への罪悪感が滲み出ていた。
反面、エルゥの名前と共に零れた淡い微笑みは、甘く澄んでいた。
エルゥの存在は、命花との会話に必ず出てくるため、南雲も以前から知っていた。
エルゥは、天使のように清らかで美しい容貌をした守護霊であり、命花にとって安らぎとなる”空想の友達”だ。
しかし、命花の部屋を森林さながら塗り潰す黒い絵、とそこに浮かぶ黄金の目玉のことが気になった。
「前に、僕にも見せてくれた綺麗な絵の天使がエルゥだよね。そしたら……あの真っ黒い絵は、何かな?」
「あのこもエルゥだよ」
「へぇ……エルゥは二人いるのかい?」
心に燻る黒い
アレもエルゥだ、と教えられた南雲は、意外そうに目を張った。
「ちがうよ。エルゥは"かみさまのちから"で、ひとのすがたをもらったの。エルゥはとってもやさしくて、あたたかくて、いとしいこ。でも、すごくおこったり、よわったりすると、"もとにもどっちゃう"んだって」
「へぇ、なんだかすごいね。エルゥは変身もできるの?」
「うん、エルゥのほんとのすがたはこんなかんじだった」
南雲がエルゥへ関心を示すのに、気を良くしたらしい。
命花は壁に貼られているのとは似て非なる一枚の黒い絵を、机の引き出しから取り出した。
命花が手渡してきた黒い絵を丁寧に受け取った南雲は、またしても息を呑んだ。
「これがエルゥの"本当の姿"?」
「うん! やさしいエルゥもだいすきだけど、ほんとのエルゥもすごいんだよ」
絵の中の闇色に同化しながらも、圧倒的存在感を放つ"獣"は、
しかし、普通の熊との違いは、頭頂部で弦を描く巨大な両角、獅子さながら鋭利な牙と爪を生やしている点だ。
「身体はヒグマの四倍の巨体、ゾウ並みの踏む力、カバにも匹敵する噛む力を誇るのに、足もチーターみたいに速いんだよ。しかもシャチみたいに賢くて泳げるの!」
"エルゥの力"の話に入ると、命花は饒舌のスイッチを発動させ、言葉遣いも流暢になった。
エルゥ語りに熱中し始めた命花へ、内心困惑を感じつつも、南雲は引き続き相槌を打つ。
手の中にある黒い絵をじっくり観察しながら、南雲は頷く。
一際、南雲の心臓を畏怖で鷲掴みにしながらも目を離させてくれないのは、獰猛な巨体に妖しく浮かぶ”二つの目玉”だ。
猫らしい無垢な煌めきに、肉食獣の冷酷な鋭さも秘められている。
美しくもおぞましい雄々しさは、神の異形らしき神聖さと同時に、人間の罪を体現する
「エルゥはすごい存在だったんだね。命花ちゃんは、本当にエルゥが大好きなんだね」
「うん……私はエルゥを"愛している"の」
南雲の言葉に反応した命花の瞳と声に突如、真剣に澄んだ色が揺らめいた。
ハッと視線を命花へ上げた南雲は、息を呑んだまま数秒沈黙した。
南雲を見つめ返す命花は、以前の彼女には決してない顔だった。
「生まれた時からずっと傍にいてくれたエルゥも、私を愛して大切に抱きしめてくれたの。私、自分が自分として生まれてきて一番幸せだと思ったの……」
普段の命花は、年齢不相応な幼い無邪気さに満ちているため忘れがちだが、彼女も周りと同じ十九歳前の大人になりかけの女の子だ。
ただ「感情と感性」は、嘘や悪意に疎い純粋無垢な子どものまま成長し、さりとて関心分野への卓越した知識記憶と情熱は、大人すら凌駕する。
あまりに、
「だから、生まれてくる"この子"も大切で愛おしいの……」
穏やかな声色で語っていた命花は、自分のお腹へ両手を添えると愛おしそうに撫でる。
命花の手は、子どものように小さくて滑らかだ。
しかし、お腹を見つめる命花の顔は、母親さながら凛と大人びており、瞳は清らかな美しさに輝いている。
「もしかして……ここに?」
「うん。エルゥと私の赤ちゃん。よかったら、触ってみる?」
驚愕の言葉を屈託ない微笑みと一緒に零す命花に、南雲は開いた口が塞がらなかった。
「いいのかい?」
「うん、是非。きっとこの子も喜ぶよ」
深い所まで踏み込んだ手前、後には引けないと感じた南雲は、戸惑い気味に微笑んだ。
南雲は一瞬躊躇を覚えながらも、片手のひらを命花の腹部へそっと当ててみた。
未だ大きくないお腹は、やはり妊娠中期の膨らみか腹部内膨張によるものか、定かではない。
心臓に冷や汗が流れるような緊張が解ける感覚と共に、南雲はそっと手を離そうとした。
「――今……」
「やっぱり、この子も喜んでくれたのね。私と一緒」
一瞬、確かに感じた――。
まさか、自分の気のせいなのか。
戸惑いを隠せない南雲を他所に、上機嫌に微笑む命花へ呼応するように、"ソレ"はもう一度――今度は確かに動いたのを、南雲は感じた。
母親と世の中に早く会いたい――と逸る無垢な胎動を――。
***次回へ続く***
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