第四話『侵蝕』

 天野命花は、不気味なガキっぽい女だった。


 高名な国立瑠璃山大学にめでたく合格し、完璧な青春の大学生活を謳歌するはずだった加納エレナの苛立ちは、頂点に達していた。

 エレナは早速、「在学中限定彼氏」と将来有望な「婚約者候補」となる男を品定めしていた。

 最初に目をつけたのは、心理学研究サークルの書記を務めるアイドル系のイケメンで楽しい浅山先輩。

 もう一人は、誠実系の爽やかイケメンな優等生・佐藤裕介だった。


 彼氏候補の浅山先輩は、見た印象を裏切らないサバサバした遊び人だが、気前も人当たりも良い。

 エレナの積極的な接近アプローチにも乗ってくれたのは、好感高い。

 婚約者候補の佐藤裕介に対しては、新入生歓迎会と言う一大イベントで接近を図り、エレナを印象付けるのが効果的だと思った。

 しかし、エレナの完璧な大学生活、と未来計画を妨げる目障りなはいた。


 「ねぇ、ちょっとアンタ」

 「……♪ ……♪」

 「ちょっと! 聞いてんの!? シカトしないでよ!」

 「っ……!? えっと、わたしに、こえをかけているの?」


 大学内の一角に茂る竹林を突き抜けた先にある、満月型の湖畔に咲く瑠璃唐草の茂みで、天野命花は絵を描いていた。

 二度目の声かけで、命花はようやく自分が呼ばれているのだと気付いた。

 苛立ちに声を荒げたエレナに、命花はか弱い小鹿みたいに怯えて応じた。

 しかし、目の前のエレナと後ろで仁王立ちする五人の取り巻き……事件に巻き込まれたサークルの女子生徒を、"見ているようで見ていない"透明な瞳は、神経にさわる。


 「アンタ以外に誰がいるの? 耳と目がついてないの?」

 「すみません。きづかなくて……」


 部屋着みたいに野暮ったい白地のスウェットワンピースに、履き潰した灰色の運動靴、山登りでも行きそうな大きいリュックサック、伸ばしっぱなしの毛先がボサついた長ったらしい暗い黒髪には、別の意味で釘付けになる。

 見た目を裏切らない、舌足らずな口調と幼稚な仕草、たどたどしくズレた抑揚。

 天野命花は、自分と同じ成人前の女だとにわかに信じ難いほど、小柄で童顔の地味な容姿だ。

 今時の幼稚園児のほうが、お洒落で地に足がついている。

 明らかに垢抜けない命花は、エレナを含む他の女子の失笑を買った。

 それだけなら、歯牙にも掛けない存在で済むはずだった。


 「アンタにはっきり言うわ。佐藤裕介君に近付かないでくれる?」

 「え? さとーくんが? なんで?」

 「あんな事件があったのに、よくもなんで? ってシラを切るわけ? アンタが一緒にいると、佐藤君に迷惑かけてるのが分からない?」


 佐藤と距離を置くよう、エレナが要求する理由を分かっていない命花は、心底不思議そうな眼差しを浮かべる。

 あの知的で誠実で容姿端麗な佐藤裕介は、何故よりによって、天野命花という地味で愚鈍、不気味なオタク女を気にかけるのか理解に苦しむ。


 「えっと、わたしは、さとーくんといっしょにいたら、ダメなの?」


 エレナの真意をようやく理解したらしい命花は、困惑気味に問う。

 それでも、自分の言動は如何に他人を苛立たせ、不愉快にさせているのかに無自覚な眼差しは、エレナ達の神経を無性に逆撫でした。


 「当たり前よ! 歓迎会の事件だって、浅山先輩と小野先輩が襲われたのは、アンタのせいなんでしょう?」

 「で、でもわたし……ごめんなさい……なにも、おもいだせなくて……せんぱいたちのけが、はやくよくなってほしいっておもって……っ」

 「はあ? 覚えていないとか! よく抜け抜けと! つまりアンタは疫病神なの! じゃないと、先輩達と友達がひどい怪我をしたのに、どうしてアンタだけ無傷なの?」

 「本当よ! 私なんて、腕に痕が残ったらどうしてくれるのよ?」


 凄まじい剣幕でまくしたてるエレナに続く者達は現れた。

 後方で控えていたエレナの同級生三人と浅山先輩、親しい先輩二人も寄って集って命花を責める。


 「テレビでは野生動物か通り魔のせいだって噂されているけど、本当はアンタが先輩達を襲ったんじゃないの?」

 「ち、ちがう……わたし、そんなことしない……っ」

 「じゃあ、何でアンタだけ無事なのよ? 忘れたのも嘘じゃないの?」


 エレナ達は、慕っていた先輩に全治三ヶ月以上の致命傷を負わせ、焼肉店の出火で学生を火傷させ、さらには事件のショックと先輩の不在から暫くの活動自粛を余儀なくさせた元凶は、”唯一無傷”だった命花だと決め付ける。


 エレナの狙いは、浅山先輩の身代わりにならず、佐藤裕介と馴れ馴れしくしている命花への、逆恨みと憂さ晴らしだった。

 さらに、事件によって蓄積された他の女子生徒の怒りと不満を命花へ集中させることで孤立を図り、佐藤から引き離す計算も入れていた。

 やがて、増長エスカレートしていく疑惑と罵倒の大合唱。

 最初は弱々しく首を振っていた命花も、恐怖に凍り伏せた。


 「いいこと思いついわ。《ゲーム》をしましょう?」


 悪意に耐性がなく無垢に怯える命花の眼差しは、エレナ達の嗜虐心を芽吹かせた。

 エレナは、命花の胸に大事そうに抱えられていた絵描き帳を、強引に奪い取った。

 絵描き帳の消えた腕を真っ青な表情で見つめる命花を、エレナ達は嘲笑うと走り去った。


 「返してほしいなら、自分で取り返せば?」

 「佐藤君と私達の前から消えてくれたなら、返してあげないこともないわよ!」


 命花は大切な絵描き帳を取り返そうと、息を切らして必死に走る。

 しかし、命花の全速力はエレナ達には亀の鈍足に等しい。

 甲高い声で歌い笑いながら軽やかに走るエレナ達は、華麗な白鳥の群れになった爽快感に酔いしれる。

 一方、鈍い足取りでハアハアと惨めに息を切らし、段々と距離を開ける天野命花はさしずめ醜い家鴨あひるだ。

 ずっと胸に燻らせていた不満や苛立ちは、痛快な炎に燃える。

 愉悦の美酒を注ぎ込んださらなる陶酔感に、エレナは仲間と共に笑う、嗤う。


 「おねがい! かえして! 『エルゥ』とのたいせつなっ、おもいでなのっ……かえして!」


 いつの間にか辿り着いた旧校舎前の広場に、命花の悲痛な懇願は木霊する。

 丁度昼休み直前で集まっていた学生達の怪訝な視線は、エレナ達と命花へ注がれるが、誰も止める者はいない。


 「はあ? またエルゥ〜とか、キモい」

 「オタクってほんと痛イ奴!」


 切羽詰まった表情の命花の口から、『エルゥ』という空想の存在が出る。

 エレナ達は、こぞって彼女を侮辱した。

 以前、エレナ以外の女子は興味半分で命花に話しかけた際、絵描き帳を埋め尽くすエルゥについて蘊蓄うんちくと共に延々と語る彼女に、辟易させられた。

 エルゥについてあたかも実在するように語り、現実と空想を混同させた幼い言動に薄気味悪さを覚えた。

 今だって、まるで恋人からの贈り物か形見を取り戻そうとするような必死さは、あまりに滑稽で異常だ。

 広場の中央で足を止めたエレナ達は、互いに耳打ちした。

 天野命花を懲らしめるのに効果的なエレナの考えに、取り巻きも口角を釣り上げた。


 「そんなにこの紙切れ達が大切なら……こうしてあげるわ!」


 エレナは、命花の絵描き帳を左右から両手で摘みながら高々と掲げた。

 エレナの次の行動を察した命花の顔は、色を失った。

 エレナ達が一度足を止めたことで、命花は手を伸ばす。

 後、数歩で触れられる距離まで飛びかかるが、間に合わない。

 絶望に見開いた眼差しで叫ぶ命花に、エレナ達は邪悪な笑みを深め――。


 「せーのっ!」


 目の前で絵描き帳を――《破り捨てた》。


 「――エルゥ……っ」


 硝子がらすのように透き通っていた美しい宝物が壊される音は、命花の耳朶を打ち付けた。

 バラバラに破かれた絵の断片が羽のように宙を舞う様は無惨で悲しい。

 悲嘆に立ち尽くす命花へ浴びせてきたエレナ達の声は、大切な宝の残骸すら、彼女を嘲笑う道具へと穢れ貶めた。


 「ああ、ごめんね? ちょっとやりすぎたかもしれないけど、アンタが悪いのよ? これに懲りたら、佐藤裕介には二度近づかないことね」

 「私達の視界にも入ってこないでよ! この疫病神」

 「いっそ、大学やめちゃったら? てゆーか、来るな! あははははは」


 絶望に凍りついた無垢な瞳に、悲しみの墨が広がっていく。

 一方、エレナ達の瞳は愉快な輝きに燃える。

 青春の魔力が授けてくれる至高の全能感と優越感。

 自分達を最上へ昇らせてくれる快楽こそ、天野命花のように低脳で醜い家鴨を踏みつけて手に入るのだ。

 中学時代に誰もが悟る真理は、愉悦の炎となってエレナ達に蘇る。

 罵倒と嘲笑は火矢のように、天野命花を串刺しにしていく。


 「ちょっと、さっきから動かないけど?」

 「やっぱマジで耳ついてないんじゃない?」

 「死んでたりして? ちょっとアンタ確かめてよ」

 「やだ! 触りたくもない!」


 固く冷たい地面に膝をついて俯いたままの命花に、エレナ達は嘲笑を浴びせ続ける。

 命花の次の反応見たさに、エレナは地面に折れ落ちた桜の小枝を拾う。

 汚らわしい芋虫の生死を確かめるように、エレナは枝木の先端で命花の頭頂部をつついた。


 「きゃああぁあぁあぁあぁ!」 


 エレナは、背後から見物している取り巻き達の絶叫を聞いた。

 恐ろしい野獣に遭遇したような凄まじい悲鳴に、エレナは何事かと訝った。

 しかし、エレナ自身は見ることも訊くことも、叶わなかった。

 人工的な華やかさに縁取られたエレナの眼差しは、恐れ慄く取り巻き達を映して一寸も動けなかった。


 程なくして視覚を含む五感は、”真紅の闇”に染まっていく中。


 純粋無慈悲な『獣』の咆哮は、遠くから鼓膜を戦慄させた――。


 *


 五月五日――淡い空色の花びらを踊らせる瑠璃唐草は、道なりに咲いている。

 当島の象徴たる瑠璃唐草は、胸の暗い燻りを真っ青に浄化してくれるように美しい。

 朝陽のぬくもりを吸収したアスファルトの坂道を登る中。

 並び建つ邸宅の頭上を雄々しく泳ぐ鯉のぼりや、子ども達の無邪気な笑い声に和む。


 「こんにちは」


 子どもの日で楽しく賑う世の中の片隅で、息を潜めているような一軒家の玄関で足を止めた。

 同時に周りの気配への確認も怠らない。

 既に幾度目かの訪問になる家の前に立つと、心臓が引き締められる緊張と罪悪感に疼いた。


 「……こんにちは……どうぞ、あがってください……」


 微かに開いた玄関扉の隙間、と鎖の施錠チェーンロック越しに顔を覗かせた相手は、来訪者を迎えた。

 しかし、決して歓迎しているわけではない。

 最早、用件を聞いて断る手間すら煩わしそうな態度は、憔悴しきった顔色と声から窺えた。


 「ご協力感謝いたします。お邪魔させていただきます」


 心臓を巡る灼けつく感情と不快感が増す中、小町警察官は冷静な表情のまま沈着に答えた。

 「早く入ってほしい」、と苦言を申される前に足を踏み入れた。

 小町を貫く不信と苛立ちの眼差しの奥で瞬くのは、果たして救いを希うだろうか。


 「あれから娘さん……命花さんは?」

 「あの事件から変わらず……今日も部屋からほとんど出てきません」


 爽やかな柑橘香の芳しい紅茶を口に含ませると、小町自身も言い飽きた事務的な質問をする。

 すっかりやつれた美琴は、濃い隈で落ち窪んだ眼差しのまま、同じ台詞を零した。

 またしても起きた"惨劇"を思い返せば無理もない。

 時は遡ること、四月十九日・金曜日の正午。


 昼休みで集まっていた多くの瑠璃山大学生達の目の前で、は起きた――。


 『瑠璃山大学・事件』が大々的に報道されてから、二週間は経過した。


 大学の旧校舎前にある広場に浮かんだ血の池に、在学生の女子七名が倒れているのを警察と救急隊に発見された。

 広場を濡らしていた大量の血液源は、被害者だと判明した。

 第一被害者・加納エレナは「左頬から顎、肩を斜めへ」状態で、血溜まりに沈んでいた。

 加納エレナと同じ、心理学研究サークル内で親しかった残り五名の女学生達も重傷だ。


 一人は両腕を骨ごと、二人目は両脚の骨と前腿の皮膚ごと、三人目は下腹部の皮下脂肪、四人目は臀部と裏ももの肉、五人目は毛髪を頭の皮膚ごと裂き剥がされていた。


 正視に耐えがたい酸鼻極まる事件現場は、多くの学生に目撃された。

 校内とSNS上でも事件の詳細と不穏な噂は、瞬く間に広がった。

 幸いか否か、迅速な応急処置と救急搬送のおかげで、被害者は怪我と出血量が危うかったにも関わらず、全員一命を取り留めた。

 とはいえ、今も入院している被害者六名には、事件当時の凄まじい恐怖と痛みの記憶による再現フラッシュバック等、明らかに急性ストレス障害からPTSD心的外傷後ストレス障害による深刻な精神症状が現れている。


 そして、事件のもう一人、七人目の被害者である天野命花は――。


 「容態はいかがですか?」

 「……最近になってますます、ひどくなってきています」

 「……と、いうと?」


 「……ある日は頭痛と吐き気がひどくて、食べたものを全て吐いてしまい、一日中食事も水一滴すら欲しくないと寝台に伏せて……。かと思えば、別の日は私が出勤で家を空けた間に、冷蔵庫のお肉や野菜、米を食べ尽くして。昨日は突然ケーキが食べたい、と苦しみだしたから仕方なく買ってあげたら、スーパーのホールケーキを、七個も一人で平らげました」


 「……他には?」

 「ああ……やっぱり夜は悪夢にうなされて目が覚めるらしく眠れていないみたい。そのせいか、昼間はずっと寝台で十四時間以上伏せている日もあります」


 血の広場事件当時、加納エレナ達と一緒に血溜まりに倒れていた天野命花も、救急隊員によって保護・搬送された。

 幸い、天野命花も大事には至らず、軽い擦り傷以外は怪我も異常も見られなかった。

 暫くの間、医療管理を要する重傷の六人とは違い、天野命花は事件の二日後に直ぐ退院した。

 とはいえ、精神的な衝撃ショックと恐怖が強かったのか、今は自宅の部屋にひきこもり続けている。

 母親の美琴と同級生の佐藤裕介、担当警察官の小町に見守られる中で意識を取り戻した直後も、精神不安定に陥っていた。


 『いや! おねがい! もうやめて! おねがい! うばわないで! きずつけないで! こわさないで! おねがい! もういや! こわいのもいたいのもかなしいのもくるしいのも! もう、いやああぁぁあぁ……え、る……たす、けて! たすけてぇ……っ』


 小さな赤ん坊さながら、悲痛な形相で半狂乱に首を振り、けたましく泣き叫んでいた命花。

 駆けつけた呼びつけた看護師が打った鎮静剤、と美琴の優しい声かけのおかげで、徐々に落ち着いた。

 しかし、あの尋常ならぬ怯え様と錯乱ぶりは、今思い出しても痛ましい。

 何より理不尽なのは、多くの瑠璃山大生とメディアが一連の猟奇事件の"元凶"として天野命花を疑い、槍玉に挙げたことだ。


 命花が最初の焼き肉店事件に続き、血の広場事件において必ず現場にいたことに加え、唯一無傷でいられた理由――。

 それは、命花自身が浅山先輩達と加納エレナ達を襲った犯人だと仮定すれば、民衆は腑に落ちる。

 現場に居合わせた学生は、事件直前に天野命花が加納エレナ達に私物を奪われ、目の前で壊され踏みにじられ、罵声と嘲笑を浴びせられるという――明らかな"いじめ"行為を目撃した。


 加納エレナ達の残酷な仕打ちを鑑みれば、命花の方が被害者だ。

 しかし、多くの目撃者がむしろ加納エレナ達とのトラブルと結果、起きた惨劇は命花に原因があると見なしている。

 学生達は犯人の烙印を押した挙げ句、外聞を憚った大学側も「療養のための休学」を勧める形で遠回しに"疫病神"扱いしたという。

 天野命花の再通学は、現実的に厳しいだろう。


 当然ながら小町警察官達も、天野命花を最初の事件の捜査開始時から容疑者と仮定して、取り調べを継続してきた。

 とはいえ、天野家にとっては不条理極まりない不幸と世間の冷ややかな対応に、さすがの小町も内心穏やかではない。


 しかも捜査の進展につれて、天野命花への怪しさは濃厚になる一方、彼女は無実潔白である証拠も明かされていく「矛盾した結果」が想定される現状に薄気味悪さを覚えた。


 「しかも……五日前から、また様子がのです」


 常軌を逸した過食と拒食を往復し、不規則的な覚醒・不眠と過眠を繰り返すのは、明らかに異常だ。

 本来であれば、今すぐ精神科・心療内科を受診させるべきだ。

 聖クリニックでPSWを務める美琴も、その重要性を痛いほど理解しているはずだが、他の問題があった。

 事件直後から一週間以降、事件に対する世間の関心は下火になりつつある。

 しかし、報道陣は事件の情報を流すだけでは飽き足らず、天野命花の個人情報にまで手を伸ばしてきた。

 本人の容貌から大学での立ち振る舞い、さらには彼女の不遇な過去と家庭事情まで晒した。

 好き勝手な憶測や非難を報道されている現状を鑑みれば、やむを得ない。


 最近、美琴が仕事を休んで自宅にいることが増えた理由は、娘を放っておけない他、好奇と侮蔑の槍雨を避け凌ぎたいのだろう。

 学生の本分たる通学どころか、通院すらまともに叶わない状況に気を病んでいる母娘に対し、警察の自分がしてあげられることは。

 小町が心許なさげに視線を彷徨わせながら、沈黙に伏す美琴の言葉を待っていると、居間の扉は開いた。


 「マーマ。おやつたべていい?」


 目の前に現れたのは、噂の天野命花だ。

 第二の事件以降、命花本人と直接顔を合わせたのは久しぶりとなる小町警察官も、驚きを隠せなかった。

 向かいに座っている美琴も、ひきこもりの娘の予期せぬ登場に困惑を露わにした。


 「ええ……冷蔵庫の棚にケーキがあるから食べて。ママはいらないから」

 「ありがとう! あ……」


 困惑しつつもおやつの場所を教えた美琴へ屈託なく微笑む命花は、そこで小町の存在に気付いた。

 命花の無垢な視線にいたたまれなくなりながらも、小町は丁寧に頭を下げた。


 「どうもお邪魔しております」

 「こんにちは……こまちさん? でした? いつも、おつかれさまです」

 「え……あ、こちらこそ恐縮です」


 命花は小町の顔を数秒見つめてから、思い出した様子で指を打った。

 丁寧なお辞儀と共に労いの言葉すら零すと、命花は素知らぬ様子で踊るパタパタと冷蔵庫へ向かった。

 最初に逢った時とはまた異なる雰囲気を感じた小町も、狐につままれた表情で美琴へ目配せした。

 小町の眼差しが問いかけていることを察した美琴は、肯くように見つめ返す。


 「あのね……ママに、はなしたいことがあるから、またあとでおへやにきてくれる?」

 「ええ……わかったわ。ママはもう少し話をするから、ゆっくりおやつを楽しんで」

 「うん!」


 瑠璃唐草の咲いた陶器の皿に、直径十五センチのホールケーキを丸ごと乗せた命花は、上機嫌に声をかけてきた。

 瑞々しいデーツと木の実、香草を練り込んで焼いたバターと蜂蜜が芳しい濃厚バタークリームを塗ったケーキは、命花のお気に入り。

 いたずらっぽい笑顔と含みのある言葉に、美琴は内心訝りながらも微笑み返した。

 命花は待ち遠しげに歌を口ずさみながら、階段を上がっていく。

 異様に上機嫌な命花の姿を、美琴と小町は安堵と微笑ましさ、不安がない混ぜになった気持ちで見つめた。


 「命花さん、思っていたよりも元気そうで安心しました」

 「はい……そうなんです……んです」


 現実は、言葉よりも真実を克明に語っていた。

 たった今見かけた天野命花の精神は、凪の海のように落ち着き、心は温かな南国海のように晴れやかだった。

 だから、命花は"以前の命花"ではなかった――。

 美琴と小町の胸に波及した違和感は、氷のように冷たく固まっていく。


 天野命花は――。


 梔子くちなしの花びらみたいに滑らかな肌は、甘く香り立つように。

 黒水晶さながら艶やかな黒髪は、流れるように。

 無垢な瞳は、湖さながら透明感に輝き満ちていて。

 純白のスウェットワンピースから伸びる手足は、花茎さながら華奢で可憐。

 愛らしさと美しさを絶妙に織り混ぜた顔立ちは、百年もの人形アンティークドールさながら端麗で上品に映った。

 存在そのものから香り立つ聖なる美しさ、と相反するを纏うようになった。


 血と怪奇の戦慄に満ちた事件は島を騒がせ、被害者達は致命的な後遺症を負った身体に精神を病んでしまったのを他所に――。

 唯一、清廉無垢な生命力と美に輝く天野命花の変貌は異様だ。


 「いつからあんな風に?」

 「あそこまでの変化は、五日前から……」

 「事件の後は、あれほど取り乱していたというのに」

 「それは……昔、命花が受けていたいじめの記憶と、加納さん達の嫌がらせが重なり、恐怖感情を喚起させられた反応かと。やはり第二の事件のことも、命花は「覚えていない」ようです……一体誰が加納さん達を傷つけたのかも……」


 本来であれば、病的な拒食と過食を繰り返した身体は歪み、悪夢の不眠と瑞夢の過眠、心の爪痕と恐怖に蝕まれた精神は崩壊へ近付く。

 しかし、先程顔を合わせた天野命花からは、病の片鱗すら感じられなかった。

 まるで、養分を吸収して美しく成長した花のように。

 命花が事件の記憶に限って忘れてしまう不可解な現象と、何か関係があるのか。


 「小町さんの方は、何か分かったことは? その……事件の犯人について」

 「はい、幾つかは。ただ……今回の一連の事件は正直、"不気味"の一言に尽きます。一つ明らかなことは、第一事件と第二事件はであることです」


 血で酸鼻極まった現場、体を裂き抉られた被害者、人間技とは思えない痛ましい傷跡。

 第一事件と共通点がある第二事件も、噂の未確認野生動物の仕業だろう、と美琴も結論付けていた。


 「両事件の被害者の診療録、と治療記録を警察の科学捜査部は分析しました。結果、傷口の形状や深い損傷具合から、犯人は鋭利な牙と爪で、接近に気付かれない俊足を備えた恐ろしい『獰猛生物ハンターアニマル』である可能性が高いです」

 「なら、人間ではなくて猛獣の仕業だと言うなら、話は早いのでは……」

 「しかし、我々警察が調べるほどに、ますます不可解なのです……」

 「どういう意味ですか」


 ほぼ予想通りの回答だが、小町警察官にしては煮えきらない言い方だ。

 普段から冷静沈着な仮面を崩さない彼女の瞳に、不穏な陰りが差す。

 美琴が内心訝る中、小町は核心へ迫る。


 「傷口に付着した犯人の唾液や細菌、土の成分を動物学者の協力下で分析した結果、どれもが和国のどの島にも存在しないはずのものでした」

 「え……?」

 「しかも、動物学者の推定では、『ことも分かりました」


 小町が報告した内容に、美琴は理解が追いつかなかった。

 小町自身も懐疑的な眼差しに、美琴の困惑顔を映していた。


 「そして、もう一つ……現場で発見された手がかりとして、私個人が気になっているものが。これを見てください」


 事件現場に残っていた手がかりとして小町が提示した写真を、美琴はおずおずと受け取って見た。

 空の雫のように青い花びら、とゼンマイみたいな葉っぱが、特徴的な花は映っていた。

 一見、瑠璃唐草と見間違う謎の花に、美琴は見覚えがあった。

 不覚にも心臓がドクリと高鳴り、頭の天辺が冷え渡る。


 小さな砂底の宝を掻き掘っている内に、自分達は広大無辺の砂海に飛ばされたようで呆然とさせられた。

 聖書より古に存在した枯骸ミイラの猛獣が、音も気配もなく忽然と人を襲い、瞬く間に消えた。

 しかも、惨劇が大衆の目前で起きたにも関わらず、誰も猛獣の姿を確認できていないと言う。

 いかに不気味で荒唐無稽な話でも、現場の状況と痕跡から、今はそう結論付けざるを得ない。

 美琴は次の言葉を探して、暫し沈黙する。


 「お気持ちは察します。警察も、見たままのモノや教授の話を鵜呑みにはしません」


 小町も思う所は同じらしく、美琴が感じている懐疑と困惑に共感を示した。


 「今では我々警察も大学付近を厳重に警備し、捜査部も専門家チームが始動しました。そしたら、直ぐに明らかになります。常に世を騒がせ、人々を翻弄するのは彼らの恐怖と思い込みに便乗する……"生身の存在"なのですから」


 動物学者の唱える超自然的オカルトめいた見解を、小町は暗に否定する。

 科学の発展が目ざましい現代でも、時に怪奇現象への恐怖や好奇に翻弄される世と人々のために尽力したい。

 そんな強い意志も籠められていた。

 小町の冷徹な雰囲気と対応に、美琴は身構えてきた。

 しかし、捜査の名目で天野宅へ足繁く訪問する小町は、事件によって私生活を狂わされ、世間から孤立している母娘の様子見も兼ねて心配してくれている気がした。


 「お忙しい中、いつもありがとうございます」


 玄関口で会釈と共に感謝を零した美琴に、小町は意外そうに目を張った。


 「いえ、こちらこそ……いつも、ご協力感謝しております。もし……何か気になることがあれば、いつでもご連絡を」


 小町は慇懃な口調を変えずに頭を下げると、扉へ手をかけた。

 仏頂面は相変わらずだったが、彼女の醸す空気が幾分和らいだ気がした。

 一見冷たいが、根は正義感の強い優しい方なのだろう。

 最初は苦手だった小町のことを、頼もしく感じ始めた。

 小町を見送った美琴は、彼女から渡された緊急連絡先のメモ用紙をそっと握り締めた。

 心の隅に渦巻く不安の雲を祓うように。


 *


 小町警察官が帰った後、美琴は命花との約束を思い出した。

 今頃ケーキを平らげて満足し、ソワソワと待っているだろう。

 林檎紅茶を淹れたお揃いのカップをお供に、美琴は部屋へ向かった。


 「お待たせ、命花。入ってもいい?」


 扉越しに声をかけながらノックすると、珍しく「はーい」と上機嫌な返事が聞こえた。

 美琴が来るまで健気に待っていた様子から、余程楽しみにしていたのは窺えた。

 それほど話したい内容は何なのか、美琴も気になった。

 事件の惨劇と外の現状に、不相応な明るい表情に上機嫌な口ぶりから、命花にとって「良き話」に違いない。


 「ママ! おつかれさまっ。あのね、さっそくきいてほしいのっ」


 美琴がノブへ手をかける前に、命花は先に扉を開けた。

 命花は嬉々とした調子で、美琴を部屋の中へ招いた。

 途端、美琴の視界は黒灰色の薄闇へ染まった。

 命花の部屋は照明すら布で覆い隠し、黒い夜の森模様の窓掛けを広げて真っ暗に閉め切っている。


 ここ二週間以上、自室へ引きこもっている命花は、窓越しの光すら厭うようになったからだ。

 しかし、今は精神的に安定している様子をみれば、小さな照明を灯すくらいいいのではと思った。

 美琴は、林檎紅茶の甘い芳香を漂わせるお盆を勉強机に置くと、灯りを点けた。

 すると最初に美琴の瞳へ映ったのは、あの後ろ姿の天使の絵だ。

 しかし、絵の中で咲いている瑠璃唐草の絨毯を改めて観察した美琴は「ひっ」、と口元を押さえた。


 「ママ……?」


 恐ろしさで言葉を失う美琴に、命花は心配そうに声をかけるが、美琴の耳には届いていなかった。

 真っ青な花の根本には、ゼンマイを彷彿させる緑の渦巻きが描かれていた。

 事件現場で発見されたのと同じ、青い花びらとゼンマイ型の葉は、娘の絵に描かれている。

 瑠璃唐草に似て異なる花びらは不吉な空色、葉っぱは悪魔の触手みたいに映った。


 「……命、花?」

 「あのね、ママ……わたしね」


 不意に服の袖を軽く引っ張られてハッと我に返ると、こちらをじっと見上げる命花がいた。

 娘の名前をか細く零した口元を押さえながら立ち尽くす美琴を他所に、命花は朗らかに打ち明けた。


 「わたしね……――……」


 仄闇に染まった部屋に、固い破裂音は鳴り響いた。

 空間に充満していく爽やかな優しい芳香が、鼻腔を掠めてから気付いた。

 これは、陶器の割れた音だ。

 林檎紅茶のカップを、美琴は落としたのだ。

 早く飛び散った破片と濡れた床の絨毯を片付けなければ。

 しかし、美琴は爪先どころか息すら止まっていた。

 身体は凍りついていながら、震えの止まらない瞳に映るのは――。


 「わたし、ができたの――!」


 未だ見ぬ愛し子を想う甘い眼差しで、天真爛漫に微笑む命花――。

 ちっとも膨らみのない薄い腹を撫でる、小さな両手――。

 背後の壁一面を覆い尽くす、おびただしい枚数の闇に浮かぶ――不吉な黄金目玉が光った。



***次回へ続く***

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