第三話『真紅』

 『来るな……来るな!』


 どうして、にげるの?


 『近づくな……近づくな!』


 どうして、わたしをきらうの?


 『離れろ……お前は一体何なんだ!』


 おねがい、おこらないで、ひどいこといわないで、こわいこと、しないで。


 『このめ――!』


 世界わたしをこわさないで――!


 背中へ落木らくぼくしてきたような凄まじい衝撃と同時に、世界の端っこは赤黒く染まる。

 鼻腔を貫く苦酸っぱい匂い、つんざくような「父」の悲鳴に、目眩と頭痛に脳がぐちゃぐちゃにされそうだ。


 「        」


 知らない世界の言葉か、獣の呻きともつかない声は、耳朶を撫でた。

 赤子を慰めるような愛しみの”抱擁”は、どこか懐かしくて、無性に胸を締め付けられた。


 *


 久しぶりに夢を見たが、今思い出しても沈鬱になるばかり。

 夫と離婚する前後の記憶が蘇る。


 『なるほどね。やはり「私の見解」に間違いはなかった。命花は発達症候群の一つである自閉スペクトラム症……高機能自閉症だね。まあ、言葉の遅れを伴うが知的障害のないアスペルガーみたいに捉えたらいい。カナー型とアスペルガー型も性質的に微妙な違いはあるが』


 四歳を迎えた命花は、『自閉スペクトラム症』と診断された。

 きっかけは、命花を預ける保育所の担当職員からの指摘だった。

 夫の宗也に命花の話を直ぐ打ち明けると、彼は発達障害の専門分野で高名な知人の医師を紹介してくれた。

 命花が自閉症の診断を受けた際、美琴は母親として強い衝撃と将来への不安に苛まれた。

 美琴も職業柄、発達障害者も併発している患者ケースを支援してきたため、彼らを憐れみ蔑む偏見は抱いているつもりはなかった。

 しかし、いざ親しい者、しかも我が子となれば話は違ってくる。


 美琴から見れば命花は、花のように物静かで可憐な雰囲気で、他の子と遊ぶよりも本と絵描きが大好きなだけの天真爛漫な子どもにしか見えない。


 発達障害者の生まれ育ちを否定はしないが、患者としての彼らの大半が家庭と学校、職場において恵まれた境遇にあるとは言い難かった。

 だからこそ、美琴は自閉症の診断は慎重に考え、療育を受けさせるのも時期尚早だと夫へ意見した。

 それに発話力はともかく、読書を好む命花の博識さと理解力を考慮すれば、重い障害児の通う特別支援学級・学校へ進学させる必要性は見出せない。

 当時の美琴は、宗也を博学で人脈に富み、家族を顧みる良き夫だと信頼していた。

 この時までは――。


 「天野さん。ただいま戻りました。お疲れ様です」

 「ありがとう。今日もお疲れ様です、今村さん」


 四月十七日・水曜日の午後三時――。

 この日の聖クリニックは午前中のみの経営であるため、午後には先に帰宅した美琴はヘルパーの今村と命花を迎えた。


 「ただいま、ママ」


 今村へ労いの言葉をかけると、彼女の後ろで隠れていた命花は、ひょこっと顔を出した。


 「おかえりなさい、命花。今日は大丈夫だった?」

 「うん。きょうもべんきょう、たのしかった。それとね……さとーくんが」

 「こんにちは。家まで来てしまってすみません」


 普段と変わらずおっとり微笑む命花に続いて、隣にいた佐藤裕介があいさつを零す。


 「あの、もしよろしかったら皆さんでどうぞ」


 爽やかな温顔を礼儀正しくお辞儀させながら、丁寧なことに差し菓子まで渡してきた。

 最近人気のデーツナツメヤシのハニーバターケーキで、命花のお気に入りだ。


 「まあ、そんな。わざわざありがとう」

 「いえ、僕の方こそ天野さんと今村さん、南雲さんには大変お世話になっているので。一緒にいるほうが僕も安心できます」


 佐藤は、数秒だけ視線を命花へ向けながら丁寧に感謝を述べる。

 佐藤の零した「安心」の意味は、単に彼自身のことよりは、事件に巻き込まれた命花を案じてくれているのが伝わった。

 やはり、命花を佐藤に託した自分と南雲の判断は正解だった。

 お菓子を受け取った美琴は早速、三人を家へ招いてお茶を淹れ始めた。


 *


 「もう来られないって……?」

 「残念ながら、申し訳ありません。私も命花ちゃんのことは心配ですが、どうしても」


 佐藤の土産菓子に、紅茶と珈琲を片手に四人で談笑している途中、今村は天野に改まった態度で話かけてきた。

 「相談しないといけないことがある」、と申した今村は一瞬意味深に命花と佐藤へ目配せを送った。

 今村と二人きりで話し合うために、命花と佐藤には命花の部屋で待ってもらうことにした。

 今村の神妙な面持ちから嫌な予感はしたが、案の定今村による命花への行動援護の”サービス打ち切り”の話だった。


 行動援護は元々、命花が大学生活の調子リズムに慣れるまでの約束だった。

 とはいえ、あの金曜日の夜、幸い無傷だったとはいえ命花が事件に巻き込まれた事実。

 そして、学生達を負傷させた元凶が明らかになっていない現状を、美琴は重く受け止めている。

 事件が未だ収束していない中、命花を今村抜きで大学へ通わせるのは心許ない。


 「何とかなりませんか。せめて、行きと帰りだけでも」

 「本当にごめんなさい。実は……丁度週末に、が発覚したんです」


 今村からの衝撃的な報告に、美琴は驚愕すると同時に、彼女側の事情を悟った。


 「そうだったのね。おめでとうございます。そしたら私も、無理に引き止めてしまってごめんなさい」

 「いえ、私のほうこそ申し訳ありません。命花ちゃんが大変な時期に」

 「どうか謝らないで。お身体を大切にしてね」


 心底申し訳なさそうに謝罪する今村の気持ちが痛いほど伝わり、美琴は慌てて彼女を宥める。

 新たな命を宿す身重の今村が、事件現場の近辺で行動するのは、家族も心配でたまらないだろう。

 娘の命花を想う美琴も、今村とその家族へ重い負担を課すのは心苦しい。


 「ありがとうございます……命花ちゃんのことは、私からも南雲さんにまた報告と相談をします」

 「ありがとう」


 幸い、南雲を通じて知り合った今村から、再び彼へ相談を仰いでくれるだけでも有難い。


 「あの、こんなことを私が言うのも難ですが……命花ちゃんのことは、佐藤君に任せられると思います。お二人からも、話に聞いていましたが……彼、本当にいい青年です」


 命花と伴に動く佐藤を傍で見ていた今村も、彼へ好印象を抱いていた。

 今村曰く、佐藤は最前列で受講したがる命花の隣で勉強に励み、教室移動では困惑する命花が迷わないように案内してくれたらしい。

 昼食には、食堂の人混みと騒音が苦手な命花に配慮し、静かで自然豊かな中庭へ連れて行ってくれたりも。

 通学初日は、緊張のあまりぎこちない笑みを張り付けていた命花が、最近は表情が和らいでいる理由に佐藤の存在があると知った。

 佐藤が、命花にとって本当の良き友人になろうとしているらしい。

 粋を利かせた今村に、美琴の唇はほころぶ。


 「あの、天野さん……差し支えなければ、一つ訊いてもいいですか」

 「ええ、何かしら」


 話の途中、今村は躊躇した様子で言葉を探してみせた。

 首を傾げながらも淡い微笑みで肯く美琴に、今村は意を決して問いかけてきた。


 「命花ちゃんと一緒にいた大学の先輩を襲ったのは……なんですか?」


 奇妙に聞こえる今村の問いに、美琴は固唾を呑んだ。


 何かを思い出している美琴の沈黙は、肯定を表すように重苦しそうだった。


 *


 二時間前・自宅の居間にて。


 「それで、事件の捜査に何か進展は……?」

 「幾つかの手がかりと可能性はある程度。しかし、『真犯人』の特定には未だ判断材料が足りていません」


 午前中の勤務を終えた美琴を家の前で待ち迎えたのは、金曜日の夜に事情聴取を担当した小町警察官だった。

 今回は警察服ではなく、普通のOL風私服姿で再会した小町は、改めて警察手帳を提示しながら会釈してきた。

 捜査担当へ正式に任命された小町が改めて訪ねてきたのは、やはり聴取が目的らしい。


 「あれから娘さん……命花さんの様子はいかがですか」

 「命花は元気に過ごしているわ。今朝も大学へ行きました。好きなことを自由に学べるのが楽しいみたい」

 「それは何よりです。あれから娘さんは、何か思い出しました?」


 小町が事件の重要参考人として、命花へ目を光らせているのは察しがつく。

 母親として依然、不安と不愉快に苛まれる一方、小町から捜査の進捗情報を聞き出す好機と捉えた。


 「いいえ、何も。あの夜、自分が何故駐車場にいたのか、先輩や同級生に何があったのかすら覚えていません。ところで、命花のそばにいた二人の容態は、どうですか」


 事件は大々的に取り上げられたが、現時点では瑠璃山大生への私的情報プライバシー保護と大学生活、大学の風評への影響を配慮した報道規制が実施されている。

 焼肉店事件に関わった学生の氏名と学籍は伏せられているが、SNSや過激派記者の書き込みによって知れ渡るのも時間の問題な気がした。

 そういったメディア問題や社会へ落とす影響を鑑みている警察としては、早急にもっともらしい事件の真相究明、と元凶の排除による解決を望んで奔走しているのだろう。


 「事件当時、二人の傷と出血はひどかったですが、早い発見と救命処置が為されたおかげで、奇跡的に二人は一命を取り留めました」

 「よかった……っ」


 小町の報告を耳にした美琴は心底安堵した。

 一歩間違えば、娘の命花が二人の立場になっていた可能性を思えば、彼らの無事は素直に喜ばしい。


 「それで、結局二人を怪我させた者は、一体何だったのですか?」


 瀕死を負った二人が命を取り留めたのならば、彼らから事件の経緯と犯人の顔についても聞き出せるかもしれない。

 美琴は素直な疑問を寄せるが、小町は沈着な表情で眉をひそめた。

 質問に答えるべきか否か数秒思案してから、小町は淡々と口を開いた。


 「我々が思うに、下山した野生動物による襲撃の線が強いでしょう。二人の首筋から胸元にかけて、人や刃物ではなく、獣がつけたとしか考えられない鋭い引っ掻き傷と噛み傷を確認できました……それに」

 「何か気になることが?」


 テレビでも報道された野獣下山説が濃厚だと知り、美琴は安堵と不安が半々だった。

 獰猛な野獣の仕業であれば、事件は人の手で起こされたのではないため、命花への疑いは晴れる。

 しかし、釈然としない表情を浮かべた小町の微妙な変化を、美琴は見逃さなかった。


 「二人を治療した医師が報告したのです。出血部位の範囲と傷口を分析した結果、獅子ライオンの四倍もの大きさの爪と牙を備えた”動物”によるものだと分かりました……私の言いたいことは、分かりますね?」


 目配せを送る小町の言葉を肯定するように、美琴は驚愕に双眸を震わせながら固唾を飲んだ。

 過去数年の間、瑠璃山大学周辺に野生動物の下山と、目撃情報は確認されていない。

 しかも、過去に獅子や熊、狼などの獰猛な野生動物が瑠璃山に生息しているのも、聞いたことはない。


 人ではなく、”正体不明の獰猛動物”が前触れもなく下山し、人間を襲った――。


 不可解な話に、美琴は改めて空寒さに震えた。


 *


 今村との話を終えた美琴は、二階の部屋で待機中の二人を呼びに行った。

 階段を登る間も、美琴は事件について逡巡する。

 今村には「まだ分からない」、とだけ答えた。

 警察が未だ断定していない情報を、他の人に明かす段階ではない、とわきまえたからだ。

 それに、妊娠初期にいる今村に対し、不確定な情報で余計な不安も与えたくない。


 「お待たせしてごめんね、二人とも……」


 命花の部屋の扉を軽く叩いて声をかけてから、美琴は入室した。

 しかし、二人の姿を見た美琴は瞳を瞬かせた。

 命花は絵を描いていた。

 てっきり、同級生水入らずで談笑に興じているとばかり思っていた。

 命花の意識と視線はカンバスと筆へ注がれ、美琴と佐藤は眼中にない凄まじい集中力だ。

 せっかく菓子を土産に訪ねてくれた友人を放って、命花は普段通り絵描きへ憂き身をやつしているとは。

 命花の失礼な行為に呆れた美琴は、注意を促そうとした。


 「ごめんなさい、佐藤君。ちょっと命花。佐藤が来てくれたから絵は後にしましょう?」

 「いえ、気にしないでください。僕も絵が好きなんです。命花さんの絵は独特で自然な感じが興味深いです」


 一方、命花の絵を隣から眺めていた佐藤は嫌な表情一つもせずに微笑んでいた。

 命花本人も悪気はないが、一度夢中になると周りもおかまいなしの態度を取る。

 そんな命花と過ごす沈黙を、苦に感じていない佐藤の寛容さに、美琴は内心感激すら覚えた。


 命花は相手との関係と状況に構わず、自分の好きなことを延々と話し続けるか、相手の話にズレた相槌を打って淡々と聴くかの両極端な意思疎通コミュニケーションを取る。


 命花自身も、他の人とは何をどう話せばいいのかよく分からない。

 常に手探り状態な他者との「何気ない会話」に困難を感じてきた。


 「今描いている絵も、迫力があって惹かれるものを感じます」


 命花が自閉スペクトラム症だと知った佐藤は、彼女の異質な雰囲気と言動をすんなり受け入れていた。

 他の同年代の若者みたいに命花を馬鹿にしたりせず、むしろ尊重的だ。

 佐藤の誠実で寛容な態度に、美琴は深い好感を抱きながら、命花のカンバスを覗きこんだ。


 「命花、何を……描いているの?」


 ソレはあまりに異様だった――。


 暗い森色の長毛で全身を覆い、頭部からは巨大牛ガウルの湾曲した両角を生やし、獅子の肥大化した鋭いツメと牙を剥き出している獣。

 一際目を惹くのは、闇に浮かぶ火の玉さながら不気味な”黄金の目玉”だった。

 無垢でありながら冷たい光を灯す双眸は、こちらを虎視眈々と窺っているよう。

 今にも、噛み殺さんとばかりの迫力に満ちていた。

 命花は、無心になって筆を踊らせている。


 「じょうずにかけているかな? ――」


 聖なる闇の獣を呼ぶ命花の声と眼差しは、恍惚と甘い光に揺らめいていた。 


 *


 『命花は高機能自閉症の女児という「希少価値」の高い症例だ。文字言葉の表現に比較的富んだ自閉症者の書籍は女性が大半を占める。彼女達は診断を見過ごされ、過酷な環境で育った』

 『だが、もしも命花に幼少期からな療育と教育を受けさせれば、何か変わるかもしれない!』


 夫の娘・命花に対する愛情を疑うようになった理由は、夫の純真な知的探究心と身勝手な研究的打算だった。


 命花の診断宣告の時から夫へ抱き始めた違和感の正体は、ようやく浮き彫りになった。

 宗也は自分の見識と医師の診断が読み通りに一致した結果へ、満足そうに目を細めていた。

 さらには、命花を自閉症児向けの療育センターへ通わせ、特別支援学級・学校への進学を勧めた。

 ここだけ聞けば、宗也は我が娘の特性を受け入れ、公認の支援を積極的に受けさせようとする良き父親だろう。

 しかし、宗也が療育と特別支援教育へ固執したのは、父親として娘の特性と将来を入りしているからではなかった。


 高機能自閉症の女児という”珍しい症例”の命花へ、通常の特別支援教育と療育を受けさせたらどういう結果データを得られるのか――いわば自分の娘を”研究標本”として見なしていたのだ。


 障害福祉の教育学者だからと言って、何故夫の人間性まで無条件に信頼したのか。

 夫の本性とそれ見抜けなかった己の愚かさを、美琴は悟った。

 美琴が夫へ見切りをつけたのは、命花が小学一年生になった冬の時期だった。


 『命花は私の決めた学校へ転校させる。あちらとはもう話と手続きを進めてある』

 『勝手すぎるわ。せっかく命花は、今の学校での勉強と先生を気に入っているのに。それに、私だって仕事があるのに急に引っ越しだなんて』


 当時の命花が在籍していた小学校には、常時支援と介助を要する重い障害児向けの特別支援学級しかなく、市内にも特別支援学校は存在していなかった。

 すると宗也は現住所から車で三時間以上も離れた田舎町にある特別支援学校へ命花を転校させる手続きを、勝手に独断で進めていた。


 貴重な娘を自分の選んだ研究舞台へ放り込むためならば、娘にとっては慣れ親しんだ街と優しい大人達との離別、妻の職場への迷惑と信頼の失墜を伴う引っ越しを強いたのだ。


 娘と妻の都合と意思を無視した夫の独善的な行動に、さすがの美琴も黙認できなかった。

 特別支援学校への編入へ固執する宗也、慣れた地域と人々に囲まれた普通学級での現状維持を願う美琴の意見は対立した。

 今回ばかりは、美琴は母親として今の命花の状態と気持ちを、第一に尊重したかった。

 夫婦の諍いが続いていた途中、いくら説得を試みても譲らない妻に、夫は痺れを切らした。


 『崇高なる私の研究と娘の成長を邪魔するなら、お前だって許さないぞ』


 怒りでカッとなった夫・宗也は美琴を平手打ちした。

 殴られた勢いで尻餅をついたまま呆然と床を見つめる美琴に、夫は吐き捨てた。

 素直に従わなかった美琴の自業自得だ、と咎めるばかりに。

 たった一度きりの暴力に、衝撃と恐怖を覚えた美琴の頭には、二文字の選択肢が浮かんだ。


 きっと、――。


 アレは夫へ燻らせた強い失望や怒り、恐れと不安で混乱していた自分が見せたと悪夢だったに違いない――。


 *


 「すみません。聖先生はどちらへ?」

 「ああ。先生なら、さっき急な出張に行ったの。多分、夕方前には戻ってくるわ」


 四月十九日・金曜日――不可解な焼肉店事件から、一週間は経とうとしていた。

 しかし、警察の捜査は、想像以上に難航しているらしい。

 テレビでも、様々な憶測が行き交うばかりで、事件は謎に包まれたままだ。


 「ねぇ、まさか『瑠璃山精神科病院』なの?」


 一人の若い看護師が含み有り気に耳打ちしてくると、三島看護師は毅然と答えた。


 「そうよ。何だか複雑困難事例の患者を是非、聖先生にも診てもらいたいだとかで急に呼ばれたみたい」

 「確かあそこって、の病院ですよね?」


 三島看護師の答えを耳にした看護師達は、わざとらしい悲鳴を零す。

 怯えながらも面白半分にはやし立てる若手を、三島は軽く諫める。

 美琴も、予て小耳に挟んだ瑠璃山精神科病院の”闇の歴史”と”都市伝説”を朧気に思い出す。

 しかし今、美琴の頭を多く占めるのは、やはり娘の命花のことだ。

 

 『ちょっと命花。熱いじゃないの。風邪かしら?』


 一見、普段と変わらない月曜日の今朝に、登校する命花を見送った時の事。

 普段は青白い命花の顔が、ほんのり紅潮している気がした。

 心配になった美琴は、命花の小さな手と丸い額へ手を触れると、じんわり熱かった。


 『え? そうかな。わたし、だいしょうぶだよ?』


 熱に無自覚な命花は、不思議そうに頭を振る。

 改めてじっくり観察すると瞳も熱く濡れ、瞳孔は揺らめいているが、本人は平気そうだ。


 『そう……? ならいいけど、無理しないでね』

 『うん! だいじょーぶだよ。さとーくんもいっしょだから』


 自宅から最寄り駅前で合流する予定らしい。

 命花にとっては、初めて一緒に登下校する友達となる佐藤の存在を思い出し、美琴の表情も自然とほころぶ。


 『そうだ……ママにプレゼント!』


 屈託のない笑顔を咲かせた命花が差し出したのは、淡い空色のお守り袋だった。

 布は無地で袋の口は、紺碧色の紐と可憐な葉っぱ付きの白い造花で結ばれている。

 某百円ショップの手芸コーナーで販売されている、手作りお守りだ。

 布から紐の色と種類から飾り付けまで自由に組み合わせ、オリジナルのお守りを作るキットが小中学生に人気だ。

 小学生の娘を持つ三島から教えられた。

 きっと娘は母親を少しでも励ますために、わざわざお守りを手作りしてくれたのだ。

 昔から命花は美琴へ、小さな贈り物をたくさんくれた。

 野に咲く花から自然の木の実、家庭科実習で作った固くて香ばしいクッキーやほつれたハンカチ、何故か唯一苦手な似顔絵まで。

 不器用な娘の真心がこもった贈り物に、いつも美琴は心慰められた。


 『ありがとう、命花。すごく嬉しい』

 『きっと、このおまもりはママをまもってくれるよ……だからげんきだしてね』


 無邪気な祈りをこめた声に、琴線を震わされながらも、美琴は娘を抱き締めた。


 『そうね……ありがとう命花……ずっと大好きよ』

 『わたしも、ママのことずーっとだいすき……』


 耳許で囁き合う愛と朝陽の祝福に満たされる中、二人の日常は明けた。

 それでも、美琴の胸に巣くう不安の種は、拭えないままだった。

 このまま、何も起きなければいいのだが。

 小町警察官の情報から、美琴は野生動物襲撃説が濃厚だと信じた。

 悪意を持つ人間の仕業ではなく、自然災害や獣災であれば、命花は容疑者から外される。

 反面、獣の仕業であった場合でも、別の不安に襲われる。

 もしも、命花達が登下校中に危険な野生動物に遭遇し、先輩二人の二の舞いになる可能性も考えると気が気でならない。

 警察には一刻も早く事件を解決してほしい、と美琴は真に祈るばかりだ。


 「そういえば天野さん。最近の命花ちゃんの様子はどう?」


 午前中の診療時間は終了し、昼休憩に入った時に三島は美琴に尋ねた。


 「はい。思ったよりも元気そうです。ちゃんと毎日通学して、真っ直ぐ帰ってきますし。やっぱり大学の勉強は楽しいようで」

 「そう。それを聞いて安心したわ」


 三島は命花のことは当然、実は何よりも美琴自身を気にかけてくれる。

 三島の気遣いを、美琴は有り難く感じながら口を開いた。

 以前と変わらない、とは言い難い点はあるが命花自身がいたって安定しているのは事実だ。

 穏やかに零れた美琴の答えに三島も安堵で応え、直ぐに茶目っ気な笑みを浮かべた。


 「命花ちゃんが元気なのも、やっぱり”噂の佐藤君”のおかげかしら? 彼と命花ちゃんはどうなの?」


 何時になく、楽しげな笑みで朗らかに訊いてくる三島の意図を察した美琴は、苦笑で首を振った。


 「いえいえっ。佐藤君とはそんなつもりでは……命花とは、良いお友達なだけです」

 「あらそう? 話を聞いていると、佐藤君は好条件だと思うわ。誠実で優しくて、命花ちゃんの特性に理解を示していて、同じ分野を学んでいる。命花ちゃんとお似合いよ」


 思わず否定した美琴だが、三島の冷やかしに改めて逡巡してしまう。

 佐藤裕介は誠実で穏やかな好青年なうえ、周りから浮いている命花を唯一気にかけてくれた。

 事件当時から今も命花に付き添い、絵描きに没頭する命花に気分を害する様子もなかった。

 むしろ、命花の独特な絵の感覚センスに一目すら置いてくれた。

 きっと、命花に対する同情や無粋な好奇心からではない。

 自閉スペクトラム症の面もひっくるめて彼女自身に興味を寄せ、優しくしてくれていると思った。


 「あれ? 天野さんの携帯が鳴っているわ」

 「あ、本当ですね。誰からでしょう……?」


 談笑の途中で振動した美琴の携帯端末の画面を確認すると、最近登録したばかりの氏名と番号が表示されていた。


 「佐藤君からだわ」

 「あら、噂をすれば」


 奇しくも絶妙な時期にかかってきた着信は、話題の中心を占めていた佐藤本人からだった。


 「もしかしたら命花ちゃんとのことで大事な話がありますって、言ってくるのかも」

 「もう、やめてくださいよ。三島さんってばっ」


 親戚の叔母さながら、横から微笑ましそうに茶化してくる三島。

 美琴は苦笑しながらも、満更ではなかった。

 他者とは異なる感覚と振る舞いを備えた命花の恋愛や結婚、それに伴う困難を考えたことはある。


 命花の特性を理解して受け入れ、彼女に合わせるか、彼女自身が合わせられる相棒パートナーとの出逢いと結びつきは、この狭い和国の瑠璃島では望みが薄いだろう。


 正直美琴は薄々諦めていたが、もしも二人にその気があれば――佐藤こそは――。


 「もしもし? 佐藤君」


 不安と期待半々で妙に緊張しながら、美琴は極力平静な声で着信に応じた。


 『もしもし! 天野おばさんですかっ。突然連絡してしまってすみません!』


 しかし、携帯端末のマイク越しに響いた佐藤の声は、ひどく焦っている様子で切迫していた。

 しかも、佐藤の音声の背後から遠く鳴り響いているサイレン音は、少し耳障りだった。

 突然の着信とただならぬ雰囲気から、瞬時に良くないことが起きた、と察した美琴の心臓は早鐘を打つ。


 「どうかしたの? 何があったの?」

 『本当にごめんなさい! 僕がついていながら、こんなっ』

 「まさか、命花に何かあったの……?」


 戸惑い気味ながら優しく問いかけた美琴に対し、佐藤は心底申し訳なさそうに謝罪を零した。

 聞いている方が気の毒に思えるほどの狼狽ぶり、と罪責感を示す佐藤に、美琴は嫌な予感を止められない。

 痛ましい沈黙が流れた数秒後、佐藤は意を決して状況を伝えてきた。


 『命花さんは今……救急車で運ばれています! 怪我をした他の同級生と一緒にっ」

 「っ――命花が?」

 『行き先は瑠璃唐草総合病院です……』


 絞り出すような声の佐藤からの連絡を耳にした途端、美琴は全身から血の気が引いた。

 「分かったわ」、と簡潔に返した美琴は、通話を切ると直ぐにロッカーを開けた。

 無言で鞄だけを乱暴に引っ張り出した美琴のただならぬ焦り様に、三島も異変を察した。

 しかしながら、三島に一言謝った美琴は説明の余裕すらないまま、クリニックを飛び出した。


 「(命花……! どうして、あなたばかり、こんなことにっ)」


 仕事着の白衣姿で駆け抜ける美琴へ、道ゆく人々は怪訝な眼差しを向ける。

 一方、美琴は途中でタクシーを捕まえると、命花の搬送先の病院へ急ぐよう詰め寄った。

 目的地への到着まで車で約十五分の間、美琴は理不尽な不安と困惑が渦巻く中、ひたすら娘の無事を祈った。


 *


 天野命花は今まで出逢った女子の中で、最も唯一神秘的ミステリアス独特ユニークな存在だ。


 最初に出逢った母親おんなは、顔も名前すら生まれた直後に忘れた。

 二番目は、児童養護施設の寮母おんな

 猫のようにおっとり微笑み、猫のように叱り、母猫のように抱きしめてくれる、世間一般でいう理想的な親らしい親だった。


 三番目と四番目の女は、同じ施設に入っていた孤児。

 片方はガサツで男勝りなため、他の子ども達には男女と揶揄われ、保育士には可愛げがないと疎まれていた。

 もう片方は、対照的に可憐な女の子らしいタイプで、他の子どもの憧れの的で、保育士には模範生と贔屓されていた。

 しかし正反対な二人は、同じ陰険で泥棒な性質を備えた「女」だった。


 男勝りな女児は、内面で惨めな劣等感と意中の異性への恋心を燻らせていた。

 他の女児を軽蔑し、憂さ晴らしに気に入らない子どものモノを盗み隠し、遊具からこっそり突き落とした。


 可憐な女児は、女子のリーダー的存在として恋の協力者を装いながらも、男を掻っ攫っては飽きて捨て、嘘の美容・ダイエットの助言によって相手を貶めていた。


 佐藤裕介は十八歳まで施設で生まれ育ち、念願の大学進学までの間に出逢った他の女達も、大体そうだった。

 大概の女は、感情的で非論理的で嫉妬深くて理不尽な反面、面倒見が良く柔軟で感受性の鋭い生き物だ。

 ただ、稀有な変異種を除いて――。


 『何を描いているの?』


 は広い教室の最前列に、一人きりで座っていた。

 尾骨辺りで跳ねる長い黒髪を無造作にひと束ねていて。

 一五〇にギリギリ届かない華奢な体をすっぽり覆う、毛布みたいに野暮ったい白のスウェットワンピース。

 花茎みたいに細く青白い首には、魔女が好みそうな瑠璃石の花が咲いた首飾り。

 ファンデすら塗っていない素顔スッピン

 若さと美貌、お洒落に恋愛といった青春の絶頂期にある女子大生らしからぬ彼女は、異彩を放っていた。


 『――わたしに、こえをかけているの?』


 言葉を覚えたての赤ん坊さながら、たどたどしい調子で奏でられた声は、氷砂糖のように甘く透き通っていた。

 初めて真近で見た彼女の顔は、幼女さながらあどけなく、人形めいた色の白さに輝いていた。

 容姿だけでなく、中身の幼さも匂わせる話し方とズレた抑揚は、ますます彼女を十四歳程度の少女に見せた。


 選択科目の発達心理学で、唯一最前列に座って真剣に講義を受けている『天野命花』に目が入ったのが、きっかけだった。

 周りの同級生は、教壇から極力距離を取って授業を聞き流し、お喋りや携帯端末いじり、他の授業の課題に暮れ、真面目に勉強するつもりがアルバイト疲れ、退屈と睡魔に負けた者達ばかり。

 しかし、天野命花だけはいかに退屈で難解な授業も毎回、最初から最後まで居眠りしたことがなかった。

 尋常ならぬ集中力を密かに発揮する天野命花が気になった自分は休憩後、思い切って彼女の隣へ移動してみた。


 『授業のプリントに絵を描いている女子は他にいる? それで、ソレは何だい?』


 しかし、意外にも命花は先生の説明や補足を事細かに書き足した講義資料の空欄を、落書きで埋め尽くしていた。

 一目で興味と驚きをそそられた自分は、命花に絵のことを訊ねた。


 『だよ。紀元前……聖書よりいにしえのバビロニアに起源を有する聖霊』


 質問されているのが自分であることに直ぐ気付かなかった天然ぶりに加え、狂執的マニアックな趣味と関心を匂わせる斜め上な回答に、佐藤は一瞬反応に窮した。


 『そうなんだ……エルー? ってどんな聖霊?』


 バビロニアとか、名前しか聞き覚えのない少数派マイナーな神話・歴史の話、もしくはそれに基づいた独創的存在オリジナルキャラの類かもしれないと思いながら、佐藤は質問を続けた。


 『エルゥはね、肥沃の大地バビロニアに存在した深い森……無垢なる命達の聖域を守護する神の霊なの。森みたいに広くて、太陽みたいに温かくて、天使みたいに優しい存在なの』


 エルゥという謎の神霊について熱心に語る時、命花の声は知的で凛と大人びていた。

 しかし、天真爛漫な笑顔は花のようで、瞳は無垢な心に輝く純粋な少女みたいだった。

 内容こそ意味深で幻惑的ではあったが、いつの間にか自分は彼女の言葉一つ一つに興味を惹かれた。

 天野命花の心の内側は、未知なる宇宙さながら広大で美しいで構成されているのだ。

 その何かの正体を知るべく、佐藤は科目履修登録完了時には命花と同じ授業を選択し、教室移動や時間変更に戸惑う彼女を支えることを希望した。

 大学サークルに関しても、命花が唯一関心を寄せた心理学研究サークルと絵描きサークルの二つの体験利用を共に梯子している。


 『エルゥ……エルゥ……♪』


 すると、当然ながら命花という天真爛漫な”少女のまま大人になろうとしている”人間について色々と知った。

 架空の神霊エルゥ、と瑠璃唐草もどきの同じ絵を繰り返し描くのが好きなこと。

 大学では、心理学とオリエント文学の勉強に熱いこと。

 聞き取り辛さや情報処理力の課題から騒然とした食堂や人混み、複数人との同時会話が苦手なこと。

 固くて生臭い食べものが苦手なこと。

 柔らかくて甘いものは、食べるのも触れるのも嗅ぐのも好きなこと。

 爽やかな自然や動植物、キラキラ輝く鉱石やビー玉が好きなことなど。

 中学時代は、同級生にいじめられて一度不登校になったが、母の働く精神・心療内科クリニックの職員との出逢いを機に、公認心理師を目指していること。


 何よりも神霊エルゥに心酔していることまで……隠し事をしない彼女は、素直に色々な質問へ答えてくれた。


 『いつも、ありがとう。さとーくんは、やさしいね』


 他の女子とは違い、普段は基本的に物静かで雑談に疎い。

 その上、あまり世俗や他人に興味がかなり希薄な命花は、傍にいる佐藤を良くも悪くも「空気扱い」していた。

 しかし、あまり人を寄せつけない独特の雰囲気を持つ命花も、やがて佐藤に対する信頼を垣間見せるようになった。

 思い切って心理学研究サークルの新入生歓迎会へ誘ってみれば、命花は「かんがえるじかん、ほしい」と保留してから後に応じてくれた。

 学内では佐藤以外の学生と話すこともなく、孤立気味な命花に歓迎会を通して友人を増やせればと思った。

 しかし、良かれと思った佐藤の作戦は、空回りする羽目となった。


 ほとんどの先輩達は、心理学研究という名ばかりの適当な占いとアンケートで遊び、サークル活動費は研究食事会という名の飲み会に使い潰していた。

 案の定、歓迎会では蜜柑果汁洗礼の餌食になった数名の新入生がいた。

 彼らの内の一人になりかけた命花は、自分がとっさに庇わなければ、確実にジュースと勘違いして飲んでいた。

 佐藤のとっさの機転で「天野さんには軽度のアルコールアレルギーがあるみたいで」、と誤魔化した。

 先輩の無茶振り洗礼を逃れた後も、歓迎会は一気に合コン飲み会さながらの白熱した雰囲気に呑まれた。

 強烈な酒気と焼けた肉、香水と汗の入り混じった匂いと熱気、酔っぱらいカラスさながら耳障りな騒ぎ声に胸焼けを覚えた。

 案の定、隣の命花は終始無言で俯いて自閉の殻で自分を守っていた。


 この前の金曜日は、今年最悪の夜になるだろう。


 仕方なく嗜んだ麦酒ビールが災いして催し、たまらず駆け込んだ手洗い場で散々待たされた。

 やっと戻って来たら、命花はいなくなっていた。

 代わりに、パリを歩き回るモデルさながらやたら派手な服装と濃い化粧、甘ったるい香水と酒気を纏った『加納エレナ』に席を陣取られていた。

 しかし、真っ先に気になった命花の行方を加納に教えてもらった自分は。またしても駆け出した。


 全身の血が悪魔に吸い尽くされそうな悪寒に襲われる中、焼肉店の駐車場で、ほんの一瞬――――。


 『十二日の夜のことだけどさ……天野は、覚えてない? その……駐車場で、先輩が』

 『して、にゅーいんしているんだよね? かわいそう。はやくよくなるといいね』


 先輩二人が「頸部から胸部を裂き抉られる」凄惨な事件現場となった駐車場へ駆けつけ、直ぐ救急車と警察へ通報した第一目撃者である佐藤だけは


 ただ、この目で見てもにわかに信じ難かった。


 事件以降、胸にわだかまっている一つの疑念の確証を得る鍵は、同じ現場に居合わせた「命花の記憶」だ。

 しかし、肝心の彼女は、事件当時の記憶を思い出せずに首を傾げるばかり。


 『天野は……先輩を襲ったのは、熊か狼だと思う?』

 『ごめん、わからない』

 『そっか。犯人が未だ見つかってないから心配だな……』

 『それなら、だいじょうぶだよ』


 命花は天真爛漫な笑顔を咲かせながら、無邪気に零す。


 『がまた、まもってくれるから。まっしろいおばけさんを、たいじしてくれたの』


 友人としては日が浅いとはいえ、佐藤は命花という純真な人間を理解しているつもりだ。

 命花は

 むしろ、他人の簡単な嘘を鵜呑みにするくらいだ。

 自分を毒牙にかけようとしたかもしれない先輩二人の悪意に気付きもせず、入院中の彼らを心配する命花は、他人には無関心だが、決して冷酷ではない。

 命花の特殊性は「自閉スペクトラム症」、という先天性の発達症が基礎にあることを彼女の母親から知り、ようやく腑に落ちた。

 それでも、事件以降の命花の不可解な台詞は、佐藤の胸を曇らせる。


 『エルゥはやさしいから、ともだちのさとーくんのことも、きっとまもってくれるよ』


 命花の口から零れない日はない存在エルゥは、彼女が創った守護霊。

 実在したかも不確かな古代神話の精霊、いずれにしろあくまで架空の存在だ。

 しかし、命花はあたかもエルゥがそこにいるような口ぶりで語る。

 エルゥに心酔する命花の甘い炎の眼差し、愛しさに滲み溢れた声は、まるでイエス・キリストに恋焦がれる乙女を彷彿させた。

 聖なる狂信を香らせる命花の言動に、佐藤は空寒さと同時に好奇心をそそられた。

 命花の隣を望む自分の気持ちは、心理師の卵として彼女への症例的な興味か、彼女の純朴な人間性への好意から来るのか、それとも――。


 「あれ? おい、裕介。あの女子じゃね? ほら、お前とよく一緒にいる」


 四月十九日の正午――二限目の必修英語の授業を終えた後。

 佐藤は同級生と一緒に話しながら移動していた。

 金曜日の二限目では、命花とクラスが分かれているため、彼女に逢えるのは昼休みだ。

 普段は、最も混雑する昼休み開始直後の生協店の前で、待ち合わせる。

 しかし、生協と食堂のある旧校舎の道中にある中央広場を指差した同級生に促された佐藤は、視線を追った。

 途端、信じ難い光景を映した佐藤の双眸は、愕然と見開いた。


 「ちょ……!? 佐藤!?」


 突然、俊足で駆けた佐藤に、隣の同級生は驚きの声を上げた。

 しかし、既に数メートルも前へ突き進んでいた佐藤の耳には、同級生の声どころか周囲の守衛と野次馬の姿と声すら届いていなかった。


 学内では見間違えることなく、一度見れば忘れられない。

 毎日同じ白地の野暮ったいスウェットワンピースに床を擦る長い黒髪、矮躯に不釣り合いの大きなリュックサック。

 人垣に遮られた視界の断片に映る特徴は、まごうことなき天野命花だ。

 広場の中央を囲む守衛、と救急隊員の人垣を猪突猛進に突き破った佐藤は、友人の下へ辿り着いた。


 「天野! 天野……! どうして、こんな……っ」


 しかし、命花の心と体は――。


 "五体の血濡れ人形"に囲まれた血の池の中心で、青白い眠り顔を晒しながら――。


 濡れた地面へ落ちた花びらのように血溜まりで転がっている六人は、一斉に激しく咳き込んだ。


 彼女達の唇からは、真っ青な空を塗ったような美しい花びらが吹き舞う。




***次回へ続く***


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