第六話『破殻』

 命花が中学二年生になった初夏の或る日に、『恐ろしい事件』は起きた。


 きっかけは、新しいクラスで一緒になった一人の女子生徒を、命花が庇ったことだった。

 その女子生徒は、一年生の頃から同級生による"いじめ"を受けていた。

 象肌の乾燥した皮膚に赤らんだ猿顔、皮膚を掻く度にフケのように零れる薄皮の死骸、皮下脂肪でむっちりした肥満体。

 特殊な容貌を理由に、周りからいじめられ、気味悪がられた。

 「かぴ象」や「デブ猿」、「フケ女」と言った侮蔑的な仇名で呼ばれた。

 頭を痒そうに掻くと、周囲は露骨に汚しそうな目で嗤い、嫌悪を表す。

 ひどい時は、制汗スプレーを吹き付けられ、荒廃した皮膚をさらに悪化させた。

 掃除当番や日直も、押し付けられた。

 時に"罰ゲーム"と称して、彼女と一緒に仕事をさせられる生徒もいた。

 女子生徒の容貌と頭を掻く行為は、「重度のアトピー性皮膚炎」による皮膚の乾燥と炎症、耐え難い痒み、「ストレスによる過食」が原因だとは。

 多感で残酷な同級生達は、知る由もなく。


 不幸にも、いじめを先導する集団と、また同じクラスになった。

 いじめの「司令塔」は、成績優秀で容姿端麗な学級委員長の女子生徒。

 いじめの「実行犯」は、成績・容姿・授業態度は中の上階級の男子生徒。

 双方共にどのクラスにも見かける、の生徒だった。

 そのうえ、いじめは巧妙な役割分担によって、隠蔽的に為されていた。

 しかし、無邪気で残酷な遊戯に一石を投じたのは、命花だった。

 命花は、いじめられていた女子生徒と親しかったわけではない。


 『いかなる理由があっても、いじめは悪』

 『いじめは無くさなければならない』


 学校や本で教わる規律や道徳の常套句へ忠実な性質に従った命花は、「やめてあげて、いじめはわるいこと」、といじめ主犯格達へ抗議した。

 命花は、人として道徳的に正しいことをした。

 しかし、命花の勇敢な行動と訴えは、凄惨な結果を招いた。

 いじめの主犯格と「観客」からの嘲笑と反感を浴びた命花は、翌日からいじめの標的となった。


 いじめをやめてほしい、と訴えを曲げない命花の頑固さから、新学期の時点で既に「空気の読めない奴」、と"異端者"扱いされていた。

 さらに、温和で大人しい命花だが、対話すると分かる。

 命花の関心と知識の極端な偏りや一方通行な話し方、皮肉や微妙な言い回しへの鈍感さに、神経を逆撫でされる者もいた。

 遊戯に水を差した命花に対する、同級生の侮蔑や嫌悪感、加虐心は一気に膨張し、簡単に破裂した。


 『天野命花は、変わり者(キチガイ)!』

 『天野命花は、SKY空気読めない奴!!』


 かくして、新たな"生贄"に選ばれた命花は、今まで女子生徒が受けてきたいじめを引き継がされた。

 最初は、自分がいじめの標的に変わったことを、直ぐに呑み込めていなかった。

 しかし、同級生の嘲笑に込められた意味を認識した途端。

 命花の心は、硝子のようにひび割れ軋み、表情は萎れる花のような悲しみを蓄積させた。

 空回りだったとはいえ、正義感の強くて優しい命花の心を踏みつけ蹂躙した残酷遊戯は、で終止符を打たれた。


 『おねがい、かえして……私の……エルゥの……ペンダント……っ』


 梅雨名残でジメリと照り盛る、初夏の六月――。

 学校の昼休み開始直後、命花は無理矢理屋上へ連れて行かれた。

 本来は立ち入り禁止の屋上は、わずか二メートル程度の金網柵フェンスで囲われていた。

 いじめ参加者に両腕をがっちり拘束された命花は、いじめの司令塔、そして標的の前へ引き摺り出された。


 『天野ってサイテ〜。いじめはいけません! って正義ヅラして、自分は"校則違反"?』


 司令塔は、命花が制服の下に隠していた瑠璃石の首飾りを取り上げると、目の前でかざしながら嘲笑った。

 肌身離さず持っていた大切な首飾りを奪われた命花は、顔面蒼白になった。

 首飾りの返却を必死に懇願する命花に対し、司令塔はさらに残酷な仕打ちに出た。

 司令塔の目配せを確認した取り巻きは、命花の体を金網柵へ押さえつけた。

 金網の隙間に顔と二の腕の皮膚が食い込む冷たい感触と痛みに、命花は涙目で呻いた。


 『やりな――。この試験テストに受かれば、アンタを仲間として認めてあげる』


 司令塔は、隣で控えさせていた女子生徒の手へ、首飾りを強引に握らせた。

 司令塔が下した命令の意味を理解した女子生徒は、手の内にある首飾りに固唾を呑んだ。

 ニヤニヤと愉悦に笑む司令塔と取り巻き、そして絶望顔の命花へ交互に視線を移し、黙って俯いてから数秒後。


 『許して……っ』


 命花に庇ってもらった元・生贄は、目を背けるように両眼を閉じると、片手を勢いよく振った。

 彼女の手の内を離れた首飾りは宙を舞い、金網柵の向こう側を飛び越えた。

 重力に従って地べたを目指して落ちていく首飾りを、命花は愕然と見つめた。


 『あははははは! すっごーい! あんなに飛ぶなんて、アンタもやるじゃない!』


 あははははは……!!

 深い絶望に染まった表情で絶句する命花へ、嘲笑の歓声が湧き上がる。

 しかし命花は彼らの声も目の前に広がる空の色も全て、


 『!? 何逃してるの!? このグズ! 早く捕まえて――』

 『きゃああああ! 嘘っ!?』

 『おい、マジかよ……イカれてる』


 命花を押さえ付けていた生徒の腕は、凄まじい力で振り払われた。

 同時に、視界から消えた命花の姿を探した彼らの瞳は、驚愕に見開いた。

 不敵に笑っていた司令塔も、度肝を抜かれた表情で、金網柵へ釘付けになっていた。

 灰色の編み目から覗く青空を背景に、制服のスカートと漆黒の髪はひらめく。

 必死に手を伸ばした命花の体は、重力に従い、柵の向こう下側へ消えていく。

 元・生贄の女子生徒は、絶望に青褪めた顔で命花を呼ぶが、全ては手遅れだった。

 投げ捨てられた首飾りを取り戻したい命花は、無我夢中で柵をよじ登り、屋上から躊躇なく飛び降りた――。


 『天野さん――っ』


 後日、『屋上飛び降り事件』は学校全体、そして母親の美琴にも強い衝撃を与えた。

 奇跡的にも、命花は落下地点に生えていた広葉樹が緩衝材となり、擦り傷程度で済み、捻挫や骨折もなかった。

 事件を機に、命花と女子生徒が受けていたいじめは発覚した。

 いじめを実行した生徒達は、学校による適切な処分を受けたらしい。

 それでも、命花が中学校へ復学することは、二度となかった。

 体自体は無傷だったとはいえ、日常的ないじめと今回の事件は、多大なストレスと共に命花の心へ深い影を落とした。


 すっかりふさぎこんでしまった命花の精神状態を配慮すれば、いじめ関係者との面会と円満な謝罪と和解は、到底望めなかった。

 結局、美琴は命花を療養させるために、休学と転校の道を選んだ。

 命花の不安定な状態が第一の理由だったが、美琴自身もあんな恐ろしい事が起こった学校との関わりを、速やかに断ちたかった。


 いじめを受けていたことだけでも、衝撃的は半端ない。

 さらに、命花が屋上から飛び降りて死にかけた事も、美琴の心臓を抉るには十分過ぎた。

 だから、美琴は心の底から後悔した。


 もう二度と――あの時、味わったような苦しい感情も――娘を傷つけることも、繰り返したくはない。


 *


 昼下がりの陽光が淡く煌めく窓辺の机を囲うように、若草色の芝生絨毯に腰掛ける三人。

 暫し、彼らを支配していた重苦い沈黙を破ったのは、南雲の冷静な声だった。


 「ずっと話を聞いてくれたと思うけど、結論からして……やっぱり、命花ちゃんはちゃんと病院で診てもらうのが最善だ」


 薄い扉越しに二人の会話に耳をそばだてていた美琴、と佐藤の率直な考えそのものだった。


 「僕もそう思います」


 南雲のもっともな助言に、佐藤も賛同した。

 一方、先程から深く俯いている美琴は、沈黙に伏せたまま。


 「美琴さんは……どう思いますか?」


 美琴も南雲の意見に心底賛成だ。

 ただ、南雲の言う病院はを指しているのかを確かめることに、幾ばくかの躊躇を覚えた。

 しかし、南雲の真摯な眼差しに、美琴はこれ以上の課題と不安を先送りにはできないと決心した。


 「私も、医者へ連れて行く方が命花のためになると思うわ。命花が……純粋なあの娘が外の世界で何度も傷ついて、また嫌な思いをした……そんな状態の命花をもう一度、外の世界へ送り出すのが怖かったの……っ」

 「おばさん……」

 「でも、だからといって……確かにこのままでいいはずがないわ……命花の身体と心が心配でたまらない……っ」


 ひきこもるのは、決して悪ではない。

 豊かで美しい自分だけの世界が生まれるのは、その人にしかない感性の創造であり、自分の心を護るためだ。


 命花のように、生まれながらにして他者と心を通わせる瞳と耳が弱く、孤独で安らかな宇宙を彷徨う人間には欠かせない夢の砦。

 けれど、いかなる命も一つだけで自力に生きているのではない。

 命花のような人間にこそ、彼女の世界を嗤わずにその美しさを尊びながらも、未踏の世界へ優しく導いてくれる他者が必要だ。


 「大丈夫だよ、美琴さん。最近は、マスコミの動きもだいぶ下火になってきた。聖先生が紹介してくれる大学病院なら、今の命花ちゃんに必要な科の診療も、まとめて受けさせてくれる。僕も、病院へは車の送迎と付き添いができるから頼ってほしい」

 「僕も友人として付き添います。また、命花が一緒に通学できるように力になりたい」

 「ありがとう……南雲さん、佐藤君……二人がいてくれて本当によかった……っ」


 命花と美琴のために真摯に手を貸してくれる南雲と佐藤に、心から感謝を零す他なかった。

 今までは、他の子どもよりも異質に映る命花の特性も、彼女の気持ちを尊重する母親の美琴を理解してくれる味方は、極少数しかいなかった。

 「変わった子ども」である命花を周りは訝り嫌悪し、笑い揶揄った。

 美琴を養育も躾もなっていない「母親失格」と見なし蔑む人々は、後を絶たなかった。

 二人で孤立するのが、常だった。


 命花が"普通の夫"との間に生まれた、"普通の子ども"として、"普通の家庭"に育っていれば、と。


 そんな、不合理な"もしも"は、頭を過ったこともある。

 けれど、「命花が命花であった」からこそ――自分は南雲や聖医師、クリニックの同僚、佐藤裕介といった、親身に心配してくれる"本当の味方"と出逢えた。

 それは、何にも得難い存在であり、命花がもたらしてくれた"希望"だ。


 「ところで南雲君……命花ののことだけれど」


 早速、南雲は聖先生に大学病院への受診予約のために連絡した後、三人揃って命花の部屋へ向かった。

 繊細デリケートな内容であるため言及するのは避けていたが、釈然としない美琴の気持ちは、南雲も同じだ。

 命花との異様な会話を交わした最中で導けた「一つの仮説」を、南雲は意を決して零した。


 「話を聞いた印象では……命花ちゃんに起きている現象は――かもしれない」


 南雲の零した仮説に、美琴は目を見開く。


 「あの、すみません南雲さん。想像妊娠って?」

 「身体に現れる、不思議な精神現象の一つだよ。妊娠に対する強い執着や切望、逆に異様な恐怖と拒絶によって、妊娠したのと同じ心身の変調が起きる。想像妊娠であっても、月経停止や悪阻つわり、食欲変化の他、腹部の膨張と胎動、乳房発達まで報告された事例もある。市役所に相談しに来た若い女性や中年女性の内、想像妊娠を呈した人達もいた」


 最近の命花の心身に生じた異変は「想像妊娠」によるものだ、と考えれば腑に落ちた。

 事件による強い不安やストレスによって、心身の均衡を崩した結果としての「想像妊娠」、とそれに伴う異様な言動だったのかもしれない。


 「きっと命花ちゃんは、"お母さん"という存在に憧れたのかも」

 「そうなのでしょうか」

 「ええ。命花ちゃんには、美琴さんあなたと言う愛情深くて優しいお母さんがいるのだから」

 「もう、からかわないで南雲君……っ」


 確実なことは、産婦人科の診察で明らかになるだろう。

 純粋無垢な命花が、誰かに強引に行為へ及ばされ、妊娠させられた最悪の可能性は否定できた。

 美琴は心底胸を撫で下ろした。


 南雲の言葉が本当であれば、命花は子を生んで愛護する母親になることによって、虐げられて逃げて守られるばかりの弱い自分から無意識に脱し、恐怖を克服したかったのかもしれない。


 どこか愛おしくて微笑ましい心理的防衛機制に、美琴は久々の笑みを零しながら、娘に会いたい一心で扉を叩いた。


 *


 「え……? びょーいんに、どうして?」

 「命花の体が心配だから、専門のお医者さんに一度見てもらったほうがいいと思うの」


 部屋を訪れた美琴が、受診への促しと理由を説明すると、命花はキョトンと不思議そうな眼差しで首を傾げていた。

 美琴は切実な眼差しで、命花を見つめて微笑む。

 南雲と佐藤の二人も「僕達も付き添うから心配いらないよ」、と励ました。

 こちらの真摯な気持ちを伝えれば、命花は素直に応じてくれるはずだ。


 「わたし、いかないよ。びょーいんにも、どこにもいかない」

 「え……?」


 しかし、命花の口から零れたのは、思わぬ拒絶だった。

 今まで母・美琴の言うことを素直に聞き入れ、思春期特有の反抗期すら見せたことのない娘の返事に、美琴は初めて動揺した。

 次の言葉に窮する美琴の代わりに、南雲も不思議そうに尋ねた。


 「どうして、病院には行きたくないんだい?」

 「ずっとここにいる……ずっとエルゥのそばにいるの……ここであかちゃんをそだてるの……ここなら、エルゥといっしょなら……あかちゃんもわたしもまもってくれるって……したの」


 またしても、非現実的な台詞を切実な眼差しと共に零す命花に、三人は言葉を呑んだ。

 空想の聖なる守護霊への盲信と依存、存在しない赤子への母性的執着が深まった命花の態度。

 事態は、三人の想像以上に深刻だと思い知らされた。


 「何言っているんだ、命花。子どもがいるかいないかにしろ、医者さんに診せないと、生まれるものも生まれないだろう?」

 「ちょっと佐藤君」


 三人の内に芽生えた焦りを抑えられなかった佐藤の言葉に、命花の瞳は不信の色に曇った。

 まずい、と危機感が湧いた南雲は慌てて佐藤を諫めるが、既に手遅れだった。


 「さとーくんは、しんじてないの?」

 「そうじゃないよ命花ちゃん。佐藤君は命花ちゃんが心配だから、つい強く言ったんだ。佐藤君の言う通り、お医者さんに診てもらうほうが、子どもにもいい……」

 「じゅんくんも、エルゥをしんじていないの? エルゥがわたしとあかちゃんをまもってくれるのに」


 南雲はさりげなく言い添えたが、彼の言葉はかえって、命花の不信感に火を付けたらしい。

 内心焦った南雲は、平静を装って命花を宥めるようとする。


 「そんなことないよ。エルゥはいるんだよね」

 「なら、わたしをびょういんへつれていくとかいわないでっ。エルゥからわたしとあかちゃんを……」


 命花の言葉を呑み込めば、問題は振り出しに戻る。

 かといって、こちらの要望を無理に押し通せば、彼女との信頼関係に走る亀裂は不可避だ。

 どちらか一方のみを選び捨てさせる、厳しい状況と命花の頑な意思表示に、さすがの南雲も頭を悩ませた。


 「大丈夫だよ、命花ちゃん。お医者さんは、僕も信頼している人達だから。外に出るのが不安なのは、よく分かるけどね」

 「やだ、やだ! やだやだやだやだやだやだやだ……!」


 優しく語りかける南雲の手を、命花は振り払った。

 癇癪を起こした子どもさながら、首を振って駄々を捏ねる姿に南雲は、一瞬放心した。

 まさか、ここまで激しい拒絶で手を払われるとは予想しなかった南雲も、ついに動揺を表した。

 命花は、堰を切ったように喚き始めた。


 「わたしはびょーいんなんかいかない! にもでない! ここでエルゥとあかちゃん、三人でずっといっしょにいるの……!」

 「いい加減にしなさい――!」


 廊下に渇いた音は、力強く瞬いた。

 白い左頬へ、じんわりと湧き上がる渇いた熱と痒い痛みは、やつれた右手と呼応する。

 呆然と濡れた瞳で見上げられた美琴は、我に返って立ち尽くした。

 今思えば、これが初めてだ。

 娘が母親にぶたれたのも、母親が娘をぶったのも。

 ただ、美琴は理解わかってもらいたくて。

 けれど、理解ってくれない悲しみは、火花の感情となって彼女を突き動かした。


 「あ……あぁ……っ」


 仄かに赤らんだ左頬を押さえながら、美琴を見上げる命花は、絶望に滲んだ声を漏らした。

 命花に手を上げた美琴の瞳からは、既に怒りは消えている。

 それでも、美琴を映す濡れた瞳は、激しい怯えに揺れていた。


 「ごめんなさい、命花。でも……」

 「……だめなの……それだけは……だめ、だめ――っ」


 小さな溜息を吐いて己を落ち着かせてから、美琴は命花を優しく諭そうとした。

 しかし、絶望の波打つ瞳は既に美琴を映しておらず、彼女の言葉すら耳に届いていなかった。

 必死の拒絶をぶつぶつ唱えながら、心臓発作で苦しむように胸元を押さえてうずくまる。


 「命花、どうしたの? 大丈――」


 憐れなほど激しく震える小さな肩へ、美琴は手を伸ばした。


 「やめて――! 」


 は、右半身で爆ぜた。

 末端の内側から熱く生々しいものが、どっと噴き出す感覚もした――。


 「美琴さん――!」

 「おばさん――っ」


 南雲と佐藤の切迫した呼び声を認識した瞬間、美琴は息を呑んで気付いた。

 "ソレ"は、己の右肩から腕にかけて爆ぜた痛み、と血のぬくもりだったのだ、と。

 途端、右側から内側へ燃え広がる激痛と不快感に、美琴は目尻に涙を溜めて膝を着く。


 「ぁ――っ、めい、か……命花――!」


 しかし、痛み悶える悲鳴の代わりに唇から漏れたのは、娘を案ずる叫びだった。


 「だめです! おばさん! だ!」

 「! 美琴さ――」


 しかし、激痛の体に鞭打って娘のもとへ這って行こうとした美琴を、佐藤と南雲は引き留めた。

 何故、止めようとする?

 ただ、娘のもとへ行きたいだけなのに。

 大切で孤独な娘を抱きしめてあげたいのに。

 邪魔をしないで……。

 激しい痛みと動揺に侵蝕された美琴の胸に、苛立ちすら燃え上がる。

 しかし、南雲の呼び声が中途半端に止まったことに、美琴は訝った。

 痛みを堪えて伏せていた頭を、美琴は上げた。


 「っ――なさ……ごめん、なさ――ごめんなさい……ごめんなさい――……っ」


 深い絶望に溺れる命花と目が合う。

 透明な涙は床へ零れた。

 赦しを希うように謝罪をひたすら零す命花に、美琴は憐憫を掻き立てられ、手を伸ばそうとした。


 「――――!!」


 無垢なるいかりの咆哮は、影となって生者を呑み込んだ――ように。

 純粋無垢な少女の魂を抱擁し――罪深き命を排斥した。


 「命花――――」


 世界は、聖なる深淵の緑闇りょくあんに呑まれる――。


 無垢なる少女と獣、新たな命の花を残して――。



***次回へ続く***

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