喫茶グレイビーへようこそ series 5

あん彩句

KAC20225 [ 第5回 お題:88歳 ]


 この店で占うと、全てがうまくいくらしい。実際に占ってもらったオレとしては、それが噂通りなのかはまだわかってない。わからないままここで働いている。


 店の名前は、喫茶グレイビー。オーナーのトムさんに言われるまま就職したオレの仕事は、掃除、皿洗い、パシリと賄いを作ること。


 いつもろくに客が来ない店だけど、その日は朝からピリッとした空気が漂っていた。


 オレがバケツと雑巾を持って店に行った時には、占い師のハルマキさんが奥の緑色のベロアのソファに鎮座するようにもうそこにいた。これは珍しい。

 しかもやけに地味な濃紺のパンツスーツ姿だった。なのに装飾がやけにうるさい。ゴテゴテしたメガネにギラギラしたチェーンが付けてあったし、指にはなんだか知らない宝石のついた指輪をいくつもつけている。



「ハルマキさん、朝飯は?」


「スムージーをくださるかしら」


 口調までおかしいぞ、と思いながらカウンターの中へ入る。カウンターでは、あやさんが骨折した左手をホルダーでぶら下げ、器用に右手だけで新聞を読んでいた。


あくた、パンと目玉焼き。パンは4等分でバターな」


 顔も上げずにオレに言う。


「トムさんは?」


「アイツは昨夜から帰ってねぇよ、気にすんな。ミサキも後から来る」


 オレが賄いを作るようになってから、従業員でもないのにミサキさんは朝から店にいる。オレの料理の先生であるので、食事を給料代わりに出勤しているのだ。

 そしてたまに綾さんに特別料理を作る。今まで綾さんに特別に作ってきたのは、全部が激辛料理だったらしい。そのせいで綾さんの舌はバカになっている。


「で? ハルマキ、昼前か?」


 背後を振り返って綾さんが聞いた。誰よりも偉そうな態度だけど、ハルマキさんより15歳以上は若い。ついでに言えばオレより年下だ。いつか一泡吹かせたい。


「そうね、その頃よ」


 何が、とは聞けなかった。聞かない方が身のためのような気がした。こういう勘はけっこう当たる。どうせ店にいれば何かはわかる。



 そして、11時過ぎに扉が開いた。カウンターの中で昼飯の準備をしていた時だ。サラダチキンのサンドイッチだって——沸かした湯に味付けした鶏胸肉をジップロックへ入れて湯煎する。マスタードソースは前に作ったのがまだ余ってるからそれが使えるとして、結構面倒だ。


 ふと顔を上げると綾さんと目が合った。『ちゃんと挨拶しろ、何スルーしてんだよコラ』とサボテンの針みたいな目線で訴えてくる。オレは慌てて入ってきたその人へ目をやった。



 初老の女性だった。綺麗に髪を染めているものの、なぜか背負っている不幸が透けて見える。どこか影がある女性だ。年が近かったら手を差し伸べていたかもしれない。でもオレはまだ20代だ、残念と言うべきか。



「いらっしゃいませ」


 オレはこの店に就職してから初めてそうやって接客と言えるような声を出した。女性がオレを見た。そして、意を結したように口をきゅっと結んだ。


「何でも占っていただけると聞いたのですが、間違いないでしょうか」


「はい——」


 頷きながら目をやると、視界の中でハルマキさんが頷いたのがわかった。


「——あちらへどうぞ」



 オレに頭を下げて、女性が奥へと進む。元々はすごく綺麗な人だったんだろうと思う。きっとモテただろうし、金持ちだったんじゃないだろうかという片鱗がある。でも今はやっぱりちょっと不幸そうだ。オレなんかよりよっぽどちゃんとした格好をしているのに、なぜかそういう雰囲気を消せていない。


 たとえば生地のしっかりしたジョーンズに真っ白なセーターはブランドものだろうけど少し古臭い。肩から下げたバッグはパンパンに膨らんでいた。靴は綺麗だったけれど、新品というよりは何度も洗った感じがしっかりわかる。


 ハルマキさんはその女性を笑顔で迎え入れ、前の椅子に座るように促した。オレが座った時はガッチガチの固い木の椅子だったけれど、今日は肘掛けのついた革張りのに変わっている。


「はじめに、ご相談料はお気持ちで結構です。趣味でやっているようなものですから、納得いかなければお支払いいただかなくても構いません」



 最初に料金の話なんて珍しいし、曖昧なその言い方も珍しい——ぼうっとハルマキさんが言うのを聞いていたら、綾さんが口を動かなさないまま「水!」と言う。


 ああ、と慌ててグラスに氷とレモン水を入れ、綾さんに顎で指図されて革表紙のメニュー表も運んで行った。しかし、メニューを見るまもなく女性に「紅茶を下さい」と言われてカウンターの中へ戻った。


 紅茶はトムさんが好きだから叩き込まれている。お湯を沸かしてティープレスとカップに注ぎ、温めているうちに茶葉を準備する。茶葉はトムさんが選んでいるのでオレはそれを使うだけだ。

 ティープレスにスプーンで大盛り2杯を入れて、高い位置からお湯を注ぐ。蒸らし時間は3分で、ゆっくりとフィルターを下げる。角砂糖とミルクも準備して女性の元へ運ぶ——完璧だ。


 オレがそうして紅茶を準備している間に、ハルマキさんも完璧に女性の心を開いていた。昨日見たテレビ番組に着いて話して笑っている。目元に皺を作って微笑んだ顔は、背負っていた不幸が薄れて見えた。



「ご相談は、孫のことです」


 紅茶を一口飲んでから女性が切り出した。細く吐き出したため息のせいで不幸がまた背中に戻ってきたように見える。


「先日、孫が児童相談所に保護されました」


 めっちゃ重いじゃん、とカウンターの中で顔を顰める。


 綾さんは雑誌を読んでいたけれど、顔を上げて「紅茶」と言った。オレには絶対にコーヒーを淹れさせないつもりだ。あのでかいマシンに触りたいのに。


「母親は娘なんですがね、再再婚なんです。孫は最初の夫の子で、どうも今の夫とうまくいかなかったようで……」


 これまでの『私、結婚できますかぁ?』みたいな占いとは雲泥の差だ。重すぎて店の中の空気が澱む気までする。


「引き取ろうとしたんです。でも、孫に拒否されました。唆されているんです。あの子を救えるのはもう私しかいないのに——」


 顔を伏せて声を詰まらせた女性は演技でもなんでもないはずなのに、それを見つめるハルマキさんはしれっと冷めた目をしていた。そこに違和感を感じながら、綾さんに紅茶を出した。



「お孫さんは8歳?」


 ハルマキさんが穏やかに聞く。しれっとした冷めた目は幻だったかのように、朗らかな表情だ。


「いいえ」


「さっきから『8』が浮かぶようですが、もうひとりのお孫さんかしら?」


「違います」


 否定しながら、女性には何か思い当たる節があるようだった。声色が少しキツくなる。言いたくなさそうだったけれど、ハルマキさんの視線に負けて低い声を出した。


「私の母が88歳になります」


 それまでのしおらしさとは打って変わり、女性は牙が生えたみたいに攻撃的にそう言った。声からも「憎らしい」と伝わってくる。


「家族中の嫌われ者ですよ。姪がいるのですが、その女を使って私の孫を唆しているんです。あんなに可愛がってきたのに、あの子は姪と一緒に暮らしたいと——」


 女性が肩を震わせた。


「どれだけあの子にお金を使ったと思います? 欲しがるものは買い与えて、行きたいといけば連れて行き、遊びに来れば服を買い揃えて持たせてやりました。それなのに私を拒むように唆されているんです!」


「このお孫さん、あなたのことをなんとも思っていません」


 にっこりと微笑んでハルマキさんが言った。当然、女性は表情を険しくした。


「姪御さんに任せておけば、この子はもう何も心配いりません。それにしても、無事に米寿が迎えられると良いのですが、ねぇ——」


 ため息混じりのハルマキさんの言葉を聞いて、女性の頭の中で何かがカチコチと動いて形になったのが手に取るようにわかった。なぜわかったかというと、この女性はきっとオレと同じ類の人間だから。


 母親がいなくなればその遺産が自分の手元に入る。孫よりもそっちに気を取られてしまったんだ。頭の中には楽して金が欲しいという願望がある、オレと同じ。



「違います、あなたのことですよ」


 ハルマキさんがテーブルの上に両腕を乗せ、身を乗り出すようにきっぱりと女性へ言った。


「娘さんはあなたにそっくりね、それは理解なさってるでしょう? そろそろ目を覚まさないと、数十年後、お母様のように幸せな誕生日を迎えることは厳しくなりますよ。まずはもうひとりのお孫さんを気にかけてみたらどうでしょう。彼女はずっとあなたに助けを求めています」


 女性は言葉を詰まらせた。そしてその後は、終始俯いて何かを考え込み、封筒を置いて店を出て行った——ハルマキさんが大きく伸びをして立ち上がった。


「お疲れ」


 綾さんが雑誌を見たまま呟いた。


「一件落着か?」


「いいえ、結局あの人は少し遠くへ行くことになると思うけど」


「遠く?」


 孫はどうした、と疑問に思いながら聞くと、ハルマキさんは女性の残したカップをカウンターへ運びながら頭を振った。


「男性が現れる。あの人の強い望みは、自分が依存できる何かよ。今はそれがお金と孫に向いているだけ」


 紅茶は一口飲んだだけだった。ハルマキさんは封筒を綾さんの読んでいる雑誌の上に置き、隣へ腰掛けた。


「残念ながら、叶うのはあの人の願望の方でしょう。幸せになるためには私の助言を守ることが必要なんだけど」


「米寿ねぇ、そんな先の話いつまでも覚えてるわけねぇじゃん。目の前に欲しいものがぶら下がったら、人は簡単にバカになる」


 綾さんはそう言って椅子の上に膝立ちになり、封筒の中から札を出してオレの顔の前でチラつかせた。五千円札だ。とっさに手を出したら、綾さんはあっさりとそれを手放した。


「小遣いだ。どうせ金欠だろ」


 ニヤリとされて、ちょっと恥ずかしくなった。綾さんがそんなオレの羞恥心を気にも留めずにさらりと言った。


「知ってたか? お前の給料決めんのはトムじゃなくて、あたしだぞ」



 ……さあて、美味いサラダチキンのサンドイッチを作るとしようかな。




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