ロゼとオレンジピール

いすみ 静江

ロゼとカクテルに溺れる

静江しずえちゃん」


 小さな窓から、四角い秋の陽射しが、部屋に落ちていた。

 こんな時間は二人でコーヒーを飲みたい。

 お気に入りのマグカップを用意した。


「あうあう。静穏設計とは嘘っぱちよね」


 とてもハッピーになれる程掘削音がするミルで、豆を挽いていた。


「じゃあ、ちいちゃん」

「なあに?」


 すっぴん艶々で微笑んだ。


「静江さんも嫌いではないけれども、できれば渾名が嬉しい」


 名付け親がしろくんだから。


「結婚記念日は、どこかに行きたい?」

「ああ、私も気にしていたの。眞田さなだ詩朗しろうくん」


 真顔の彼が視線で訴える。


「しろくん」

「し、しろくん」


 頭よしよしされて、それでいいのか。

 丸みのあるテーブルにコーヒーを配った。


「もう、結婚して、一年かあ。俺達も年を取る訳だ」

「初めての記念日だね」


 あたたかいコーヒーで、様々な想い出と共に、旅行雑誌をさすりと捲っていた。


「去年の冬、私は、三か月の入院をしたわ。本当に寂しかったな」


 沢山のテレフォンカードと本を差し入れてくれたしろくんの思い遣りが沁みる。


「ああ、これどう? ペンションみどりだって」

「分かった。記念日の方にデキャンタプレゼントの魔法が効いたなあ」


 頭をぐりぐりされてしまった。

 ここが一番よかったので、早速電話予約を入れた。


 ◇◇◇


「先に小岩井こいわい農場のうじょうを見て行こうか」

「そうだね」


 私達は、ドライブも楽しんだ。

 沢山の羊の圧に笑ったり、引馬に乗せて貰ったり、お土産屋さんで楽しく過ごした。


「この道を行くといいよ」

「鬱蒼としているわ」

「大丈夫だから」


 騙された気持ちで、小道を行く。

 数人と擦れ違ったから、道には違いがなかった。


 ◇◇◇


 やっとペンション翠に着いた。


「お食事の支度ができております。離れへどうぞ」

「はい」


 ログハウスが、別館となっている。

 階段に気を付けて上がるが、ちょっと躓いてしまった。


「こちら、ご結婚記念のお祝いのロゼでございます」


 ワイン瓶からわざわざデキャンタに移し替えてくださった。

 この方が美味しいとは聞く。


「ステーキ、美味しいね」


 勿論、ロゼも進む。

 しろくんが注いでくれたりした。


「お腹空いていたの? ちいちゃん」

「やーだ。運動したからよ」


 私は、夜も運動するのかなと、期待していた。

 彼とは、乏しい位なので、記念日こそお手合わせ願いたい。


「お食事もロゼも美味しかったね」

「そうだね。そこのカウンターでカクテルもあるらしいよ」


 止まり木に宿ると、マスターがにこやかにグラスなどの支度を始めた。


「マスター。スクリュードライバーを彼女に。俺は、ジンライムで」


 マスターと呼ばれるペンションの管理人さんの手捌きが素晴らしかった。

 私は知らなかったから、目を丸くしていた。

 次々とオレンジが剝かれてくるくるになり、ウォッカにオレンジジュースにと溶けて行く。


「オレンジが甘くて口当たりもいいわ」

「スクリュードライバーは、あなたに心を奪われたとか、女殺しとも呼ばれているよ」

「やー。ジュースみたいね。しろくん」


 私は、こくこくと飲んでいた。

 この皮はどうするのだろう。

 できれば、食べたい位だ。


「今度は、ジンライム。俺はジンだけでも大好きなんだけれども、ジンベースも好きなんだ」

「へえ。私は、好きだけれども、ほぼお薬のせいで飲めないんだよね」

「ちなみに、愛情深い人って意味もジンライムにあるよ」


 ◇◇◇


 ここまでの話は覚えている。

 後日、結婚記念日旅行の写真を現像に出した。

 すると、とんでもない一枚が紛れていた。


「あの、眞田様は、お得意様なので、一応現像しましたが、本当は、こういう写真はできないのですよ」

「え? どれですか?」


 確かめると、広い浴場で、私が見返り美人をしていた。

 ヒップのギリギリの線までは、湯舟に浸かっている。


「すみません……」


 謝って、写真店を出た。

 しろくんの帰りを待って、食後にでも、訊いてみよう。


「はい、コーヒー」

「ありがとう」


 仲良く猫舌が冷めるまで待った。


「これ、私だよね? お店的に写真は現像できないみたい」

「あれは、俺が撮ったんだよ。駄目だったのか」

「うーん。ちいちゃん、覚えてません」


 はっとした顔で、しろくんが私を覗く。


「さっぱり記憶がないのか?」

「はう?」

「あの、めくるめく一夜を!」


 しろくんは、顎に手を当てている。

 唸っているので、嘘ではないだろう。


「俺は、大きな声出されて恥ずかしかったのに」


 しろくんは、両手で顔を覆っている。

 右目だけ、指の隙間から覗かせた。


「チラッ。酔っていたよな……」

「てへ。お薬も飲んでいたので、記憶は失いやすいです」


 飲み頃の猫コーヒーをいただく。


「一世一代の漢だったのにい!」

「そこ主張するの?」


 ◇◇◇


 その写真はどこへ行ったのだろう。

 既に、結婚してから二十六年が経つが、あんなに情熱的な夜は、数少ないと思う。

 それに、今の夫では、元気になれないらしい。

 恐らく、私以上に彼の悩みは深いと思う。

 そんなときはこうする。


「抱っこして」

「もう。ママは、いつまで経っても甘えん坊さんなんだから」


 ひっついている時間は短い。

 だが、キスよりもこの方が好きなようだ。


「つっつき、つっつき」


 楽しそうに、私のバストに触れて来る。

 面白いおじさんになっている所が、いいポイントだと思う。


「一緒にお風呂に入ろう? パパ」


 私のお誘いは百パーセント断る。


「やーだ。お風呂狭いし、一人がいい」


 このバランスもよく分からない。

 白髪も目立つこの歳になっても、お互いを想い合える。

 それだけで、十分幸せだと思う。


 去年の銀婚式にしても特段変わったことをしていない。

 私達には、私達の愛のカタチがあるのだろう。


「世の中、大変な人一杯いるよ。隣にいるだけでいいじゃないか。ね、ママ」

「そう? イベント感が欲しかっただけよ」


 私はずっと薬を飲み続けているから、アルコールは滅多にいただかない。

 もしも、あのときのロゼとくるくるのオレンジピールがあったならばと思う。

 溌剌とした若さで、彼の全てを食べ尽くしたいと思うのだろうか。

 彼も熱く迎え入れてくれるのだろうか。


「パパ? もう眠っちゃった?」

「うん。眠っている」


 本気で鼾を掻き始めた。


「パパ、おやすみなさい……」


【了】

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ロゼとオレンジピール いすみ 静江 @uhi_cna

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