第5話

 ヘイズ・ハーバーで一番の富裕層の住宅地であるセリス・ストリート。

 貴族の別荘があるこの通りは、行楽の時期ではないとかなり閑散としている。

 綺麗に整備されたレンガ道にはガス灯が設置され、おもちゃ屋、お菓子屋、古物商……などの金持ちを狙う数人の商売人たちが端で愛想よく呼び込みをしていた。

 その通りの終わり。意匠の凝った華やかな鉄筋の屋敷と、中流階級の長屋が目立ち始める、その境界に簡素な屋敷がある。

 流行を介さない鉄筋の赤茶の建物はどちらの街並みにも属さず、一見すると周囲から浮いていた。

 私はその屋敷の扉に立ち、いまいち慣れない動きでドアを叩く。

 ゆっくりと開かれたドアからメイドが顔を出した。女性にしては珍しい、肩に毛先が触れるほどの長さで、ロングのエプロンドレスを身に着けている。

 彼女は薄い茶色の瞳を向けて、私に一礼した。

「カスティル様、ようこそお越しくださいました。ただいまご案内いたします」

 彼女の先導で奥の部屋に連れられる。

 館内はほとんどの置物がなく、玄関ホールには目ぼしいものとして地味なシャンデリアと模様のある絨毯のみである。貴族の屋敷とはちがった、使用人部屋をいくらか飾り付けただけのような屋敷だ。

 執務室に通されると、正面にある大きな執務机に男が座っていた。

「こんにちは。ご足労いただきありがとうございます」

 暖炉から発せられるあたたかな空気と共に男は私を迎え入れ、部屋の中央にある応接セットに移動にする。

 挨拶もほどほどに、私は年季のはいったソファに座るように促された。やわらかい感触が私を受けれる。今でこそ気兼ねなく座れるが、最初のうちはすわりがわるかったものだった。

 いつの間にか、飲み物を用意していたメイドが私の前に湯気のたつコーヒーを置いた。

 男は私にコーヒーを勧めた後、自分も紅茶を一口すする。そうして、机に置かれていた紙束から一枚紙を取り出すと、ペンで何かを書き付けた。

 すると彼は優し気に、

「最近はどうですか」

 私は昨日から数週間前の自身について懸命に巡らせる。しかし、これといった出来事はほとんどでてこない。いつものように、家で怠惰に過ごし、散歩をしては時たまジョンのところにいくという生活である。

 右腕に起きた一大事は伝えあぐねていた。

「いつも通りですよ。以前と特に変わりなく」

「些細な事で大丈夫ですよ。何を食べたとか、誰かにあったとか、その右腕のこととか」

 彼は依然として優しさを宿している。

 ここに通いだしてからすでに2年以上の年月が経つが、彼はいつもこのような調子だった。

「どう、というほどのことではないのですが」

 と、ルイの顔がよぎり、私は彼の表情を伺いながら右腕の経緯を説明した。

 しかし、特に複雑でもない経緯はすぐに話し終わる。

 彼は徹頭徹尾、真面目に私の話をきいていた。とはいえ、信じている素振りもない。小説をよんでいるようなものだった。

「なるほど」

 その一言だけで、彼は紙に何かを書き込む。ルイの反応が単純なだけに、気が抜けた。

 彼は次は、とお馴染みの質問を投げかける。

「では、あの幻覚は?」

「発作やめまいなどの体調不良は」

「以前の体験の記憶が蘇るといっていましたが」

 次々と繰り出される質問に、益体もないような回答をしていく。彼からしてみれば、支払っている報酬の割には合わないかもしれない。

 彼はずっとこのような質問をしているが、一体何の研究をしているのか私は全く理解していなかった。研究内容を説明された記憶があるが、彼から繰り出される専門用語や難解な単語のおかげで今の状態である。

 兵士の心に関する云々らしいが、定かではない。

 そこで私はあることを思い出した。なぜ忘れていたのだろうか。

「そういえば、赤髪の男に会いました」

 垂れてきていた前髪を払い、彼は私を見た後に笑う。

「なるほど」

「なにか知っているんですか」

「いえ何も」

 如何にも、知っていますという顔に徐々に薄い苛立ちが山積する。

 私は短気ではないと断言できるが、彼の場合は私を揶揄って遊ぶ側面がある。答えを既に持っているのに、教え渋るようなふりをする悪癖があるのだ。

「グレイさん」

「あはは、そう興奮せずに。憶測で情報を与えて、不安を煽ってもしょうがないですから」

 私の攻めるような言葉に、たいして面白くもないのに、腹を抱えて笑うものだからこちらの腹が立つ。少し落ち着いた後に彼は私の質問に答えた。

 彼は紙束をおいた。さらには膝に肘をおき、手の甲に顎をのせた。

「この町で赤髪の青年といえば、インガという子ですね」

「インガってここら辺の子供をまとめてるという?」

「ええ」

「確かに、赤髪で私も連想しましたが……とてもそんな雰囲気には。イアンというらしいですし」

「偽名でしょう」

 彼はそれが当然かのように言う。

「まさか」

 私は乾いた口をコーヒーで湿らした。

「人はみためで判断してはいけないとお母様にならいませんでしたか」

「……まぁ、母は数年前に死にましたから」

 私のこれまでの道行を知りながら彼はまたからかうようなことを言う。

 不謹慎極まりないが、彼はまた笑った。

「冗談です冗談」

「まぁ、そうですね。確かにそうです。人は見た目では判断してはだめですね」

 私がそういうとそうだ、と今思い出したかのように付け加えた。

「職にあぶれている子供に仕事を斡旋してくれるという大変な人格者です」

「そう聞きいて、君の中の青年ギャングのイメージはどれほど変わるでしょうか」

 彼は一口紅茶を飲んだ。背もたれに深く沈み込み、一息つく。

 暖炉の火が弱まり、少し冷えた室内。彼はそれに気づき、立ち上がって暖炉に薪をくべ始めた。

 ソファに座り、私を見つめる。責めるでも、諭すでもない。何一つ、先入観がないような瞳だった。

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