第4話

 戻ったのは道端を通るネズミを数え始めたときだった。

【戦闘モード終了。通常モードに移行します。】

 コーヒーを飲みに来ただけだというのに災難だった。

 気を取り直し、私はもう一つの目的地へと向かった。いつ右手が暴走を起こすかわかったものではなかったが、私にとってやめるという理由にはならなかった。

 オレンジ・ストリートのから見て東の位置。オレンジ・ストリートのあるサニア教区に比べわずかに生活水準が高いオーフェルド教区に目的地があった。

 複雑に入り組んだ貧民街をぬけ、しばし歩くと、大きな建物が見えた。

 低い塀が周囲を覆う、二階建てのぼろ家。地獄と名高い救貧院の、その分院がそこにあった。

 分院は救貧院で働くに満たない年齢の子供たちが収容される施設で、8,9歳ごろになると救貧院に移動することになっていた。

 門の外側からのぞくと、狭い庭でブルドックを遊ぶ子供たちの中に目当ての少年を見つけた。少年は周りにつられるように小さく笑ったが、ふと、疲れたように地面をみる。

 彼は周囲をちらりと見まわしたので、手を振った。少年は私に気づき、別の子供にことわって遊びの輪を外れた。

 私と背の低い門を挟んで立った彼は、どこかやりにくそうな笑顔だ。

「おじさん。また来てくれたんだ」

「ああ。元気か、ジョン」

 茶髪の少年である。栄養不足のため貧相な体つきだが、母親譲りの繊細な容姿はどことなく目を引いた。

「……元気だよ。いつもありがとう」

 私はジョンとの間に妙な空間があった。彼もまたそれに気づいているだろう。もしくはジョン自身が生み出しているか。

 彼に好かれようと努力したわけではなし、子供への接し方も知らない私がジョンの懐にはいれるというほうが不思議な話だ。

「土産だ。絵本を買ってきた」

 私は懐から簡素な作りの絵本を取り出した。厳密には物語を楽しむものではなく、イラスト付きの文字教本であった。いくつかの土産で最も好感触だった。

「ありがとう。……僕のためにいいんだよ」

 私とジョンのつながりといえば、彼の親が私の戦友というのみである。

 しかし、それでもジョンを案じるのは戦友の遺児である事と、もう一つの取るに足らない理由だった。

「しかし、暇だろう」

「そんなこともないよ。……みんな問題を起こすし、マリアおばあさんはボケてる。ヒマじゃないよ」

 ちらりと視線を背後に寄越すと私もつられてその先を見る。少年の肩越しに先ほどまで仲睦まじく遊んでいた少年たちが拳を握り合い相手の顔にぶつけている。他の子どもたちは遠巻きにどちらが勝つか予想しあっていた。もしかしたら既に賭け事も行われているかもしれない。

 そこで私ははたと気づいた。

「あの子はどうした。いつも一緒にいる」

 確かルークという少年である。ほとんど話したことはないが、透き通った声が印象だった。ジョンから聞いたところによると、教会で聖歌隊のエースを担っているらしい。

 そういうと、ジョンはわずかに曇った顔をした。

「ルークは、里子に出たんだ。マリアおばあさんが言うには『良いお家』だって。あの人あれだから、言うことあんま信用できないけど」

 彼の表情にかける言葉を探したが、結局当たり障りのない言葉しか見当たらない。

「そうか。……よかったな」

「でもあいつ性格悪いから無理だよ。嫌われて、すぐここに戻ってくるかも」

 ジョンの気持ちを慮ると、私も残念だった。私から見ても、ジョンにとって栄養剤のような少年のように思えていたからだ。

「おや、ヨシュア?その男は、誰だい?」

 ジョンの背後から老女が顔をだす。彼女はこの院名物の痴呆老婆、マリアであった。

 私を見るや否や門をあけ、小躍りしそうなほど喜色満面で私にハグをした。

「あら!!!コービンじゃない!!」

「マリアさん、コービンは犬だよ」

「じゃあ何だって言うんだい?」

「アルフレッドさんだよ。前に紹介したよ」

「いや、やっぱりコービンだ。あたしゃ騙されないよ。いま、ご飯もってくるからね!」

 マリアは訂正を促すジョンをあしらい、足早に院のなかへ入っていった。

「気にしないで。持ち出す前に何を探してたか忘れるから」

「ね。楽しいでしょ」

 彼は私に微笑み、さも良い場所であると言う。

 友人の存在は彼がここに僅かにでも馴染めてる証拠であったが、本心ではどのように考えているか推し量れなかった。

 ……実を言うと、あと一歩心の奥へ踏み込むことをひどく躊躇っていた。

「いつにもましてすごいな……」

「ルークがここを出てってからひどくなったから、よっぽどショックなんだと思う。ルークはかわいがられたから」

 マリアが院扉に消えるまで、彼はその背中を見つめた。最後まで見届けると、今度は私に視線を戻した。

 ジョンは最後に必ず同じ質問をする。

 私は何を言うのか、大方の予想はついていたが彼が言い切るまで静かに聞いていた。

「……お母さんは、どう」

「元気だと聞いた。例によって面会はできなかったが、聖書の勉強を真面目にしていると聞いたよ」

 彼の母親は春をひさぐ女であった。先の大戦で亡くなった我が戦友アレックスに代わり生計をたてるため。しかし、運の悪いことに梅毒をもらい、現在は軍の病院で治療中だ。

 なかなかに規律厳しく、彼女に面会できないのは父親をなくしたジョンにとってさらにつらい事だろう。

「そう」

「じゃあ私は行くよ」

「うん」

 微笑む彼を背に私は分院を離れた。

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