19 『アリスマティックジャーニー』

 ゼロには、数字上特別な意味がある。

 あらゆる算術において、0だけは働きが大きく異なるのである。

 足しても数値に変化をもたらすことなく、引いても変化を起こさず、掛けたらすべてが無になり0となる。そして、割ることができない。割り算に0を持ち出すことは、1つのリンゴを0人で分け合うという、概念的な考え方にならざるを得ないからだ。

 その特殊な数字が生まれたのは、人類が学問を始めてから時間が経ってからのことだった。

 サツキは言った。


「俺がいた世界において、最古の文明であるメソポタミア文明は、この世界だとソクラナ共和国のバミアド周辺で生まれた」

「あ。星座の生まれた場所……」


 ソクラナ共和国のバミアドを訪れたとき、サツキはヒナにそんな話をしたことがあった。ヒナはそれをよく覚えていた。


「そう。人類が最初に星座を描いた場所だ。で、イラク南部をバビロニアといって、シュメール人がいたんだ。彼らは60進法を創造したと言われている」

「時計の数え方ね」

「うむ。1から60で表記する方法だ。だが、この世界でも俺の生きていた時代でも、通常使われるのは10進法。これは0から9で表す。バビロニアは数学も高度だったし、付近にあったエジプト文明の人々も高度な社会や建築を残したものだが、0は使わなかった。南米の古代マヤ……ええと、メラキアの南の位置にも、古代文明があったんだ。そこではゼロを記号として使ったが、俺の生きていた世界のゼロとも、この世界のゼロともちょっと違う」

「そこからなにがわかるのよ?」


 話の脱線にも思えたろうか。だが、サツキはその先に言いたいことがあった。


「こんにちの俺たちの知るゼロの概念を生み出したのは、インド人だと言われているんだ」

「位置的に、ガンダス共和国がインドだっけ」

「うむ。彼らの尊ぶ宗教が、ヒンドゥー教や仏教などの『くう』という思想を持つことからゼロが生まれた、と考える学者もいる。だが、正確にはいつどのように生まれたのか定かではない。俺が前に読んだ本では、三世紀から五世紀くらいに生まれたと書かれていた」

「サツキがいたのが西暦って暦の二千年代だから、ざっと千五百年くらい前、か」


 うむ、とサツキはうなずいた。


「0を持ったインド式の数字は、算術に用いることから算用数字とも呼ばれるし、アラビア数字とも呼ばれる」


 たとえば、「1」はインド数字、「Ⅰ」がローマ数字で、「一」が漢数字になる。インド数字はアラビア数字や算用数字とも呼ばれる。


「インドはアラビア圏ではなかったが、アラビアを通って西洋に伝わったため、アラビア数字と呼ばれたようだ。ちなみに、アラビアというのは、アラビアンナイトなどがあった中東辺りで、この世界ではソクラナ共和国からメイルパルト王国辺りまでがそれになる。つまり、この世界のアルビストナ圏だな」


 このアラビアというのは、『大陸の五叉路』バミアドと同じく、イスラム文学の最高峰・アラビアンナイトの主な舞台であり、その時代のバグダッドは大陸の東西をつなぐ巨大な交易地点で、当時は世界最大の都市だった。

 アラビアンナイトという物語がアラビア語に翻訳されたとき、日本は平安時代である。時代背景としては、紀元前のメソポタミア文明のとき人々が星座を描いたし、その後ローマなど西洋の興隆を経て、東は中国も先進国家であったが、再びバグダッドは最大の繁栄を極めたことになる。

 当時のバグダッドでは、宗教の教義を崩さぬ限りは広く学問を吸収した。そのためインド数字は便利なものとして受け入れられたのである。

 インド数字の算術を記したイスラム教の学者・アル=フワーリズミーの名前にちなみ、計算の手順を意味する「アルゴリズム」という言葉が生まれたが、彼もまた、浮橋教授同様に天文学者でもあった。

 ヒナが聞いた。


「インドからアラビアまではわかったわ。そしたら、西洋諸国ではどうやって広まったの?」

「最初は、イタリアの商人たちが商売のために使ったんだ。イタリアは、ここイストリア王国だな。だが、識字率や印刷術の問題からすぐには広まらなかったそうだ。ルネサンス期の十六世紀後半、科学が大きく進歩して、やっと、建築や武器などあらゆる面で算術を必要とし、利便性の高いアラビア数字が広がって、やがては世界にも広まったと言われている」

「うん、おもしろかったわ。そうなると、この世界で数学が進歩するための時期はすでに来ているってことね。魔法っていう科学の阻害物もあるけど、地盤はあるわけだし。だから、哲学者が数学をやる時代はとうの昔に終わったって言いたいのね」

「それもそうなんだが、俺はもっと単純なことを思ってさ」


 サツキの微笑に、ヒナが「ん?」と小首をかしげる。


「なんだか、似てるなって」

「似てるって?」

「辿ってきた道が、さ。晴和王国の浦浜でヒナが仲間になって、そこから船に乗っての旅が始まり、俺たちはガンダス共和国に上陸した。そのあと、ソクラナ共和国を通ってこのイストリア王国まで来ただろ? 俺たち、この数字と同じ国を巡って旅をしてきたんだぞ。結構おもしろいじゃないか」


 たったそれだけのことを言うために、こんな説明をしてくれたらしい。それがおかしくてヒナは「ぷ」と笑った。でも、ちょっとうれしくもあった。なにがうれしいのかは自分でもわからないが、別の世界で生まれたサツキとの距離が、また縮まったような、そんな感じもする。


「ねえ、サツキ。こんな小難しい話、あたし以外だれも聞いてくれないわよ? まあ、あたしにはその浪漫もわかるし、いくらでも付き合うけど」


 と、ヒナはどや顔を決める。

 天文ばかりでなく物理や数学も好きな『科学の申し子』を自称するヒナにとって、興味深くて、もっともっと、いろんなことを聞きたくなる話だった。


 ――あたしとサツキの旅は、そんなおもしろい旅でもあったんだ。……なんか、いいな。こういうの。


 ちょっと微笑みかけた口元を引き締めて、


 ――こ、これは、次は世界よね。アラビア数字がイタリアを経て世界に広まったみたいに、イストリア王国から先の世界もいっしょに旅をするのが筋よね。


 じぃっと熱っぽくサツキをにらみ、


「そ、そういうことだから。い、いいわ! 次は世界を旅しようじゃない」

「だな。まずは西だ。次はシャルーヌ王国か」


 そこは、世界に先駆けていち早く革命を成し遂げた軍事天才、『軍人皇帝』フィリベールが国王として国を治めている。この世界における数学的な思考法である『マテマティック展開』を生み出した異才の人であり、『神の頭脳』とも称される人物である。

 数学の旅がまだ続くなら、彼にも会って旅が終わるのがふさわしい気もする。ぜひフィリベール国王に会いたいと思うサツキであったが、それ以上に、ヒナとの数学の旅はここで終わらせてあげてもいいとも思っていた。


 ――もし、地動説の証明ができて、ヒナがこのまま浮橋教授といたいと思っていたら、旅は終わりになるのかな……。


 あとは、アルブレア王国という強大な相手と国家規模で戦う、危険な旅が残されるばかりだし、連れ回すのも……などと、サツキは考えていた。むろん、ヒナにはまだなにも言っていないが。


「だが、その前に裁判もある。今日もちょっとは星の話もしておこう」


 サツキがそう言うと、浮橋教授がうなずいた。


「そうだね。それで、バビロニアでは……」


 と、浮橋教授が話し始めた。

 ずっと黙って会話を見守っていた玄内も再び話に加わり、四人で話し合う。

 そこに、バンジョーが料理を作ってもってきた。


「完成だぜ! どうぞ、浮橋教授!」

「すごく良い香りだね」


 浮橋教授が見ると、和食が並べられてゆく。


「こっちにいると、普段はあんまり晴和王国の料理は食べられないんだ。うれしいよ」

「そう思ってたんすよ!」


 よほどおいしかったのか、寝食を忘れていたせいか、浮橋教授はたくさん食べてくれた。ただ、話も尽きないので話しながらである。サツキとヒナは少なめにいただき、バンジョーは「うめえ」と連呼してガッツリ食べている。玄内も味わいながらしっかり食べる。


「バンジョーくんは科学に興味は?」

「オレはよくわかんないっす! でも、化学調味料ってのは聞いたことがありますよ」

「違う科学じゃないのよ! あんたなんにも知らないんだから無理して話を広げようとしなくていいわよ」


 ヒナのつっこみにもバンジョーは笑って、


「そっか? オレは難しい話はわかんねえど、みんなが楽しそうだからなんか言えたらなって思ったんだ」

「あはは」


 浮橋教授は楽しそうに笑った。

 こうして、今日もまた、浮橋教授と星の話などいろんな話をして、十一時過ぎには浮橋教授の部屋を辞した。

 名残惜しそうに浮橋教授はヒナたちを見送った。


「またおいで。待ってるよ」

「うん、また明日ね」

「ありがとうございました」


 ヒナが手を振って、外に出ると、来るときには朝の忙しさだった通りもすっかり昼の顔になっている。


「さて。おれとバンジョーは先に帰って修業だな」

「押忍! て、サツキとヒナはどこかに行くのか?」

「うむ。神殿を見ていこうかと思ってる」

「なんだ、神殿か」


 バンジョーは興味がなさそうだった。楽しいことならついて行く気満々だったのだろうが、神殿を見るくらいなら玄内の修業でも構わないといった感じだ。

 玄内とバンジョーの二人とは途中で別れて、サツキとヒナはアマデウス神殿を目指す。


「じゃあ、行くわよ。アマデウスに」




 アマデウスは、あらゆる神々を祀るための神殿である。

 古くから神を愛する精神の強かったマノーラの人々らしい神殿だが、ここに祀られるあらゆる神々も、宗教に沿う神々に限られる。


「このマノーラに根を下ろす宗教。その神々を祀っているだけだから、あらゆる神々って言っても、実情はほかの神は認めていないわ」

「じゃあ、今度裁判で戦う神を祀っているってことか」


 サツキが複雑そうにつぶやくと、ヒナはその表情を読み取って、努めて明るく言ってやる。


「そういうこと! だからね、サツキ! 宣戦布告に行くわよ」


 自分たち親子が戦っている相手を拝みに行くなど、そんな馬鹿らしいことをさせることになってしまったかなとサツキは思っていることだろう。

 だからヒナはあえて「宣戦布告」と言ってみせた。


「ふ」


 とサツキは笑ってくれた。


「うむ。だな!」

「さ、行くわよ」


 それから、二人で神殿・アマデウスを見て帰ったのだった。もちろん、大きな声で宣戦布告などできなかったが、ヒナはこうやってただいっしょに街を歩けただけで満足だった。

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