34 『ルフとトリックスター』
ミナトは朝月を見上げた。
その目からは涙がこぼれている。
悲しさ、苦しさ、寂しさ、悔しさ。
どんな感情なのか、ミナト自身わかっていない。
ただ、感情がコントロールできていないことはわかっている。
自分は生きているのだ、ということが意識できるくらい、熱い涙がぽろぽろとこぼれて地面に落ちる。土が涙を吸い込む。いくらでも受け止めてくれそうなほどだった。
不意に、咳が出る。
「ゴホゴホ」
胸を押さえて、何度も咳き込む。涙は止まらず
「いやだなァ……また咳が出る。痛くて、苦しくて、つらい……」
今もミナトは、ケイトのことを理解しようとしていた。
なにか少しでも、あの人のことを知っておきたい。そんな想いで、痛む胸を強く握る。
おそらくケイトは、自分のしてしまった罪を悔やんで、死ぬ道を選んだのだろう。
だがもはや、ケイトはすべてが嫌になったに違いない。
――やっと終われる。
ケイトの心境は、このひと言に集約していたように思う。
ミナトがたった一つわからなかった、ケイトの願いがある。ケイトが最後まで口にしなかったそれは、ミナトの手によって叶えられた。
――最後に斬られるなら、ミナトさんがいい。
ほかのだれかがやってきたら、隠れてやり過ごし、どこかで死のうと思っていた。あるいは、そのまま西を目指し続けたかもしれない。
もしだれも
でも、ミナトと話せてよかった。それで、ケイトは満足だった。
そんなこと、ミナトはゆめにも知らなかった。
こじれたようにとめどなかった咳がやっと止み、浅い息を繰り返し、呼吸が落ち着くと、安らかに刀を鞘に収めた。
「よい夢を。ケイトさん」
熱い涙が、まだ脈打つように流れ続ける。
――だれも、ケイトさんさえも見ていない今なら、まだ泣いていられる。もっと風に当たっていたいが、そうもいくまい。
ミナトはケイトの死体を見やる。
ふと、昨晩、寝つく直前ケイトに言われた言葉がよみがえる。
「最後くらいは、騎士として終えたい」
かすれるような声だったし、ケイトの独り言だったのかもしれない。そのときミナトは聞かなかったフリをして
ミナトは後ろで髪を束ねていた紐をといた。サラサラと、長い髪が風で流れ、白い紐は懐にしまった。
「最後は、立派に騎士道を貫いたように思います」
頭の離れたケイトの首元から、スカーフを拾った。ミナトの斬り方があまりに綺麗だったせいで、スカーフには血ひとつ飛び散っていない。
スカーフで、きゅっと髪を結い直す。
「その士魂、受け継ぎました」
もうミナトの涙は止まった。頬に残る涙の跡はいつ消えるかもわからないが、顔を上げられる。前を見る。
「アルブレア王国のことは、任せてください」
――それまでは、溢れそうになる涙も飲み込み、この悲しみも眠らせ、痛みも握り締めて、あなたの想いをつないでゆきます。あなたと笑い合えるはずだった未来を創るために。
再び、ミナトは馬上の人になった。
馬に乗って駆け出しても、思い出されるのは、昨晩ケイトが故郷の思い出話をする子供のような顔ばかりだった。
ミナトが弐番隊の三人とチナミに合流したのは、それから数日後のことであった。
だが、ここスラズ運河には、ミナトが出発した直後にもまだ人の姿があった。
隠れていた人間が、二人出てくる。
「アキちゃんとエミちゃんが、ここの朝日は綺麗だからって呼んだのに、いたのは別の二人だったわね」
「そうですね」
長く美しい髪を風に揺らせ、マントをなびかせる。純白の貴族服のような衣服をまとった恐ろしく美しい青年は、隣のメイドに顔を向ける。
「ルーチェ。あの子が斬られてから、どれくらい時間が経ったかしら?」
「三分五十二秒です」
メイドは時計の時刻を読み上げるように答えた。
「そう。なら、あと六分あるわね。レオーネちゃんを呼んでちょうだい。今ならまだ間に合うから」
「はい。ヴァレン様」
メイド秘書のルーチェは、十八歳。背もクコより一、二センチ低い程度で、髪は金色のツインテール。
「お兄様はロマンスジーノ城にいると思いますので、一分もあれば戻ります」
「わかったわ」
「では。《
魔法を唱えると、ルーチェは姿を消した。
ヴァレンは空を見上げる。
空には、炎をまとったきらびやかな鳥が飛んでいた。
くすりと笑う。
「あら、めずらしい。フェニックス……。時を渡り、空を渡る炎の翼よ。輪廻と再生の啓示よ。別名ルフと呼ばれる『
そう言って、騎士の死体に近づき、長い髪を風に遊ばせる。
「ふふ。本当に、あの二人はおかしな偶然を生み出すものだわ。こんな場面にアタシを遭遇させるなんて。無邪気に、無慈悲に、無自覚に、自分たちにとっての愛する人々を幸せにする、天使にして悪魔。幸運の使者たるあなたたちは、まさに『トリックスター』」
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