幕間寓話 『黒猫トランスプラント』
吾輩は猫である。名前は
どこで生まれたのかとんと見当がつかぬ。常闇で吾輩をいじめる猫がいたことだけは記憶している。吾輩はこのあと、初めて人間というものを見た。そしてこの人間が吾輩の飼い主になった。あとあと理解したところでいけば、この人間こそが吾輩になったのである。
つまり、吾輩は元は人間だった。
おおよそ、そう言っていい。
自分としても、むしろそうした認識がしっくりくるのである。
むろん、そのときは吾輩もまだ人間ではない。そして当然、このあとも吾輩が人間になったことなどないが、吾輩を拾った人間が吾輩になった。
そうとしか言えない。
すべてのきっかけは、吾輩の主人・
主人の友人には、兄弟がいた。
兄が主人と同い年で、弟は三つ下。
この兄弟が七十に近い老人だから、主人も老境に入っていた。
しかも主人は自らの死期というものを悟っており、観念したようにそれを受け入れ、死ぬ準備さえしていた。
自分がこの世から消えてなくなることをなにより恐れていながら、死後の世界などないと割り切っているからたちが悪い。
どうすればいいか自分でもわかっていないようなのである。
それゆえ主人は自分の存在をこの世に残そうとした。
普通であれば、それは自らの遺伝子を残して子や孫へと命のバトンを託すであるとか、己の信念やら大目的というものを然るべき相手に受け継いでもらうとか、そういったことを考えるであろう。
しかし、主人は違った。
なんとかして自分のすべてをどこかに残したかった。らしい。
だったら自伝でも書けばよいものだが、それも主人の意に添うものではない。
主人は自分が死んだあとにたった一匹残される吾輩を案じた。
そんな吾輩に愛情を与える方法を、主人の友人が魔法によって叶えられると思ったそうなのである。
友人兄弟の名は、
おそらく悪人ではないが必ずしも善人とも言い切れぬ兄弟で、兄は『
兄のゲンイチロウは《
経験とはすなわち技術であり、習得された技という技を売り買いする。
思い出になるとそれは記憶であるが、そこに技術が伴わないといったことになる。
よくも兄弟そろって難しいことを魔法にしたものである。
主人は死が近づくと、ゲンイチロウに言った。
「吾輩はそろそろ死ぬ。たった一匹、身寄りもなく残されるこの黒猫が不憫だ。どうか吾輩の持てる経験と思い出を与えてやってほしい。少しは慰めになるだろう」
「わしと同い年でなにを言うんだ。まだ弱音を吐くときじゃないだろう」
「いいや。ゲンイチロウ、吾輩にはわかるんだ。おまえもそう長くはないこともな。ヨウジロウと二人で、どうか吾輩の最後の頼みを聞いてくれ」
ゲンイチロウは相当に悩んだらしい。
そのときの顔は吾輩も記憶にあるからよくわかる。ヨウジロウも同じように悩んだということだった。
だが、二人は決心してくれた。
あるとき、主人は食べ物が喉を通らぬという日があった。
――明日か、明後日か。ついにここまできたか。
そう悟った。
悟るとあの兄弟の元へ訪れ、主人は魔法を施してもらった。
「いいんだな?」
「後戻りはできませんよ」
不安げなゲンイチロウとヨウジロウの顔は今も覚えている。
主人はとうに意を決していたから、迷わず答えた。
「ああ。頼んだぜ」
そして吾輩に視線を落とし、しゃべりかけた。
「吾輩の経験と思い出があれば、おまえは強く生きていける。おまえがいてくれて楽しかった。ありがとう」
これが、主人の最後の言葉だった。
主人の身体は目を開くこともできねば口も開かぬ。
それからはもう、吾輩は主人の経験も思い出も受け継いでしまったわけだから、このときに今の吾輩になったようなものだ。
吾輩という猫は、ひとりの人間が七十年近い人生を生きてきた経験と思い出を移植された存在というわけだった。
黒猫になった吾輩は、黒猫として生まれたわずか半年に満たぬ記憶などより、七十年もの歳月を生きた記憶のほうが強く理性に働いた。
人間としてできたことは、猫の手先でできぬこと以外ならばほとんどなんでもできた。
だからしゃべってみせることもできたのである。
「まったく、吾輩にとっての本物が黒猫の吾輩か人間であった吾輩か、とんと見当がつかぬ。だが、吾輩に名前はまだない。
兄弟はぽかんとしたものだった。
先に口を開いたといったら嘘になるが、どちらも呆然と口を開けていたのだから、先にしゃべったと言えば正しい。それはヨウジロウであった。
「エイザンさんっ! エイザンさんなんですか!?」
「考えてみろ。常石映山のすべてが吾輩になったんだ。それとなにが違うんだって話になるだろ?」
「確かに……」
ヨウジロウは納得したような様子だった。仮に腑に落ちたと言い切れぬとしても、そう理解するように決めたらしかった。
もし『万能の天才』みたいな奇才がそいつの頭を使ってうまいこと説明するとすれば、
遺伝子さえ切り離しながら記憶と能力をすべてトレースした人工生命体が、
とでも説明したことであろう。
吾輩としては人間の頃と同じ吾輩の頭脳という感覚だが、所詮はそんなものだと思われるのである。
なぜ猫の脳味噌で人間の頃と同様の思考が可能なのか、どうして猫の喉から人間の頃の老いぼれの声が出せるのか、疑問を持たないこともないが、魔法の原理原則を解明できるとは思っていない。思考や発声も人間だった頃の我が輩が持っていた技術なのかもしれないとでも思っておこう。
まだぼんやりしているゲンイチロウに、吾輩は言った。
「慣れるには時間もかかるだろうが、生きてるうちに慣れてくれ。吾輩もおまえとは残り少ない余生を楽しみたいからな」
やっと声を出せるようになったゲンイチロウは、こんなことを言った。
「家は、あのままじゃ暮らしにくいだろう。うちに住まないか?」
「それもいいな。だが、ヨウジロウの家にしておく。おまえのとこじゃ酒を止められそうだからな」
我に返ったのか、ゲンイチロウは噴き出すように笑った。
「それがいい。うん、それがいい」
以来、吾輩はヨウジロウの家に住み着いた。
黒猫が一匹増えただけでも、家庭というのは大きく変わる。それを吾輩の都合で変えぬために、吾輩は昼間は外をふらつくことが多いしこの家の邪魔はなるべくしないようにした。
邪魔だと思われていないのは百も承知だが、しゃべるのはゲンイチロウとヨウジロウの前だけにしていたから、外にいたほうが気楽なときも多い。
だが。
人間って生き物も動物って生き物も、敏感なものだ。
容易に吾輩に近づかない。
西洋人には黒猫ということで忌み嫌われることもあり、殺されそうになったりもしたが、晴和人はそんなこともない。
だから風来坊を気取ってみるが、敏感に過ぎる人間は不思議なものでしゃべりかけてもくる。
「ほんま、けったいなもんやなあ。うちは陰陽師やねんか。せやからわかんねん。自分、黒猫の皮を被った人間やろ」
橋の欄干にのぼり、丸まって欠伸をする吾輩に、そんなことを言ってきたのである。
仮面のようなメガネをかけた、薄気味悪い微笑の青年であった。たとえ事実をしゃべっていても真実ではないような、善も悪も包んでぼやかしたような、なんとも言えぬ不気味さを持っている。ただ、言葉はまろやかで、この人間の
だがそれでも黙っていると、その人間は言葉を続けてきた。
「警戒心もええことや。容易にはしゃべらんほうがええしなあ。けど、うちみたいに気づくのも多い。特に、この王都にいたらな。場合によっては命も狙われる。うちとお友だちにならへんか? 手助けもします」
吾輩は、黒猫になってから一年もの間、あの兄弟の他にはだれともしゃべらずに生きてきた。そろそろ飽きていたところであった。だからおもしろそうなこいつにはしゃべってやることにした。
「ああ。構わないぜ。だが、吾輩はもう七十に近い。しゃべり方には気をつけな」
「ひはは。おおきに。承知しました。そうそう、うちの名前は
「これからの? なんのことだ?」
シニカルな可愛げない笑みは吾輩の特徴でもある。リョウメイは吾輩の顔を見るとうれしそうに語った。
「今、
「歌劇団か。聞いたことはあるが、人気になるのか?」
「うちの《
「ほう。なんだ?」
「現在では表面的には『
「うさんくさいやつだ。まあ、それも悪くないんじゃねえか? いかにも、おまえは『監視者』って感じの呼吸が見える」
「ああ、それはええ。その名前でいきます」
「ひっ。好きにしろ」
「そういうことですから、王都でなにかトラブルがあるときにはそうした人たちのだれでもええ、報せてもらえると助かります」
「わかったよ。その程度の協力ならしてやる」
「ほな、失礼します」
リョウメイとはそれ以降も時々会うようになった。約束などはしない。たまたま顔を合わせる程度である。
別の時には、『万能の天才』玄内にも出会った。
あれも橋の上であった。
吾輩には、特別な目がある。
魔法によるものである。
《
これは光の影響を受けずになんでも見ることができる。怪異は見えぬ。未来なども見えぬ。その点、リョウメイのやつが持つ魔法とは完全に別物である。魔力の流れ、空気の流れ、音など、あらゆるものが見える。光の影響を受けぬわけだから、見逃しもない。暗くても見える。そして、妖魔を察知する力があり、これによって魔除けの効果を持つ。むろん、吾輩が妖魔を避けるだけなのだが。
いかにも常人とは異なる『万能の天才』は、吾輩の目をしてなにかが異常であった。魔力などほぼ流れてない。しかし、吾輩の妖魔を察知する器官が働き、これはめずらしく吾輩から声をかけた。
「おまえ、何者だ?」
相手は驚かぬ。吾輩を見返すと、しかと答えた。
「ただの風狂人ってところですか。噂は聞いてますよ、エイザンさん」
「ほう。吾輩のことを知ってたか」
「はい。とある陰陽師から」
「なるほどな。あいつ、口軽そうだからな」
シニカルに笑っている吾輩に、玄内も似たような冷笑を重ねた。
「言える。ですが、軽はずみなことは言いません。他にも『幻の将軍』と『王都の番人』はあなたのことを知っています」
「そうか」
このあと、なにを話したのかは覚えてない。しかし、妙に話の合うやつで、吾輩は会う約束もしなかったがやっとあの兄弟の他に友人ができた想いがした。もちろん、リョウメイは友人って柄じゃない。悪友になる日なら来るかもしれぬ。
また別の日には、変わったコンビが吾輩に声をかけた。
「こんにちは」
「散歩日和ですね」
サンバイザーをかぶった二人組である。軽装でいかにもよく動きそうだった。少年少女といった感じだが、実際の年齢より若そうでもあった。
さすがにこの二人は不思議に人懐っこいようで、黒猫の吾輩にもそれを発揮するものであるから、どうせ常人ではないと思い、仕方なく答えた。
「だな。おまえら、王都の住人か?」
「いいえ。違います」
「
それは『
「あの最果てで育つとこんな風変わりな人間ができるのか? ひひ」
「とってもいい村ですよ」
「空気もおいしいですしね」
なんという邪気のない無邪気に過ぎる二人であろうか。吾輩も毒を抜かれた気分になる。
「ま、この王都はヤバイのも集まる幻想都市。あらゆる魔法がはびこる都。気をつけな」
「はい」
「ありがとうございます」
「ああ。吾輩みたいなしゃべる黒猫だっているしな」
「……」
「……」
ここで初めて、二人は目を点にした。なにが起こったのか、吾輩にはとんと見当がつかぬ。
二人は声を上げた。
「ああああ! 猫がしゃべったー!」
「しゃべる猫ちゃんだああああ!」
「今更かよ」
さすがにこのときばかりは、吾輩もシニカルには笑えなかった。苦笑が漏れて、こいつら――
「また会いましょうね」
「ごきげんよーう」
まるで妖精のようなやつらである。どうやら本当に『星降の妖精』であるとか『トリックスター』といった呼ばれ方もしているらしい。それは後日、『王都の番人』
ヒロキの粋な感じが気に入り、吾輩はこいつにならいくらでも協力しようと思ったものである。
つまり、見廻組のパトロールを影で手伝っているようなものだった。
当然、見廻組の中でも知っているのは未だにヒロキだけだ。新入りはむろん、ヒロキの娘すら吾輩のことを知らない。
「今日もありがとうございます。エイザンさん、このあと一杯いかがですか」
「いいな。やるか」
そんな具合で、ヒロキとは酒も飲む仲だった。
他に鋭かったやつといえば、『幻の将軍』である。
この人間はだれよりも冴えていたのではないだろうか。ひと目で吾輩を見抜いたように微笑みかけた。柔らかい物腰は『
「初めまして。エイザンさん」
「こちらこそだな。『幻の将軍』。ひと目でおまえがそれだとわかるぜ」
「本題に入っていいですか?」
「気が早いじゃねえか。いいぜ」
「今後、この王都を守る上で協力してもらいたい四人がいるんですよ。それらをまとめて『
「メンツはおおよそ、『王都の番人』、『微笑みの宰相』、『大陰陽師』、『万能の天才』ってところか」
「ええ。その通りです。しかし、あなたにもご協力を仰ぎたい。ぼくに差し出せる物があればなんでも差し出しましょう」
吾輩は黙って『
さすがにあの四人を束ねようとしてしまうほどの男であり、吾輩もこの男には猫の手でも貸してやる気になった。
「いいぜ。だが、見返りなどいらぬ。吾輩は気ままに協力するだけだ」
「ありがとうございます」
「なにかあれば、すぐに見つかりそうなヒロキにでも報告する。が、事案によっては直接おまえの元へ行けばいいな?」
「はい。そうしていただけると助かります」
「じゃあな」
平素、これで一番捕まりそうなのはカエデだが、吾輩も適度な距離は保っている。あまり踏み込んでいい領域じゃないからだ。
そして時が流れ、創暦一五七二年現在からでいえば二年前。
この年、ゲンイチロウは死んだ。
兆候はまだなかった。
吾輩の《常闇ノ目》でも妖魔は察知できなかった。
であれば原因が普通ではなかったということなのだが、殺人だった。殺されたのである。
ゲンイチロウが死ぬ当日、吾輩はふらりと『経験売り場』にやってきた。
すると、死期も知らぬはずのゲンイチロウがこう切り出した。
「エイザン。おまえは猫になった。まだ猫としても三歳くらいか。あと十年以上は生きられるだろう」
「うまくいけばな。急にどうした? ゲンイチロウ」
「わしはもうこの店を閉めようと思う」
「そうか。それもいいかもな」
「店をやめたら、わしの魔法は不要になる。だから、わしよりも長生きするおまえに譲渡したい」
「なるほど。魔法も技術、経験として譲渡できるって魂胆か。確かに、吾輩の目も人間だった頃の魔法がそのまま備わってる。だが、気が早くないか?」
「いいや。なんというか、すっきりしたいんだ」
「まあ、それでおまえの気が済むなら吾輩がもらってやる」
「ありがとう」
かくしてゲンイチロウは、黒猫である吾輩に自らの魔法《経験売り場》を譲渡した。
なんの前触れもなく、その日のうちに店は閉じられた。
「じゃあな。また来るぜ」
「ああ。ただの年寄りの茶飲み仲間として来てくれ」
フ、と笑って吾輩は店を去った。
その日の晩、ゲンイチロウは斬られた。逆恨みのようなものであった。売った経験がすぐに他の者に譲渡され、売ったことを後悔して買い戻そうとしたときにはもう手の施しようがなくなっていた、という話である。まったくどうしようもない事件である。
このときほど、吾輩は悲しんだこともなかったであろう。
ヨウジロウはこれを知り、吾輩以上に悲しんだ。
「元気出せ、とは言えぬ。吾輩にできることは、これまでのようにおまえの側にいることだけだ」
「エイザンさんには、感謝してます。でも、どうしたらよいか」
「きっと、時間が解決する以外にないんだろう」
「時間が、忘れさせてくれるのでしょうか」
「いや。心の整理をさせる時間ってことだ」
ここで、なにを思ったか、ヨウジロウは盲点に気づいたようにつぶやいた。
「……忘れる……」
「ん?」
以降、ヨウジロウの魔法は、吾輩にも相談されることもなく実行された。
ヨウジロウは、自らの魔法《思い出売り場》によって、兄・ゲンイチロウが死んだ思い出を売った。売り物になったが、その中身をヨウジロウは知らぬ。
それからヨウジロウは元の明るいヨウジロウに戻り、しかしいつも仲の良かった兄が遊びに来るのを待つともなく楽しみにしているふうだった。
「あんまり遊びに来なくなったな」
「年だからな。ゲンイチロウのやつ、あれで見栄っ張りなとこもある。弱ってる姿は見せたくないとか、いろいろあるんだろ。吾輩がそれとなく見て来てやる。おまえは知らん顔してろ。そのほうがゲンイチロウも喜ぶ」
「そうか。はい、そうですね」
「じゃあ、行ってくる」
吾輩は、ゲンイチロウの死を知らぬフリをして過ごした。
こうして、時間ばかりが無用に過ぎた。
創暦一五七二年四月現在、未だにヨウジロウはゲンイチロウの死を知らぬ。
吾輩が外を歩いていると、『万能の天才』を見かけた。
こいつも吾輩と出会った頃から数えればいろいろあって、今は亀の姿になっている。
密かに仲間意識みたいなものさえ抱いていた。
動物の姿になった者同士。
しかし、『万能の天才』は元の姿を取り戻そうとしているらしい。できるのならばそれがいいと吾輩も思う。
「どうも。エイザンさん」
「よお。どうした。こんな深夜に」
「もう明け方です」
「だな。朝日が眩しいぜ」
もしこんな場面を人間に見られたら、しゃべれるようになった動物同士が井戸端会議でもしているように映ることであろう。
「さっき、おれに弟子入りを志願したやつがいたんですよ」
「おまえに弟子か。似合うと思うぜ?」
「柄じゃないと思いましたが、おれもあいつなら導いてやれる気がして。あいつの旅について行く気になりました」
「おまえの門出か。めでたいじゃねえか」
「はい。ヒロキにも言いましたが、そんなわけでしばらく王都を留主にします」
「吾輩も見廻りくらいはするし、ヒロキもいる。それに、『幻の将軍』がいればおまえくらいいなくても問題ない」
「そうですね」
ふと、吾輩は思いついたことがあった。
「ああ、そうだ。おまえに魔法をやる。おまえなら魔法名さえ教えれば、面倒な手順を踏まなくてもくれてやれる」
「魔法ですか」
「門出の祝いに、一つ餞別をやろうってだけさ。魔法名は、《経験売り場》」
普段は堂々として落ち着き払った『万能の天才』も、このときばかりは目をしばたたかせた。
「あなたが持っていたんですか」
「まあな。死ぬっていうその日、ゲンイチロウが吾輩にくれた。店を辞めたいってんで、もらってやったのさ」
「でも、いいんですか?」
「おまえが持ってたほうが効果的だ。おまえなら、ゲンイチロウが売り物として保管していたすべての経験を管理下における。つまり、魔法に限らずあらゆる技という技を手にすることができるんだ」
その程度のことは、すぐに気づいていたらしい。だからこそ、もらうのに躊躇した様子であった。
ゆえに、吾輩は極めてシニカルに笑って言った。
「こんなことわざを知ってるか?」
「……」
「猫に小判」
亀の顔に浮かんだ冷笑は、吾輩の祝いの品を受け取る顔であった。
王都を去る友人を見送り、いつものようにヨウジロウの家に帰る。
「達者でな。おまえは、人間に戻れるといいな。『万能の天才』」
吾輩は今でも気ままな黒猫である。
見廻組の協力もするが、このことは組長のヒロキしか知らぬ。迷子の女の子にしゃべりかけられれば答えもするが、耐えきれず逃げる自分が時折情けない。ヒロキの娘を見つけて、そちらへ誘導するのが精一杯である。
だが、『万能の天才』のように人間には戻れずとも、ゲンイチロウのようにすでに死しているのでもなく、こうして今を生きている。こんな暮らしでも、どうも愉快だ。
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