幕間座談 『押絵と旅する忍びのことは忘れてください』
五月の初め。
蜃気楼を見に、
北陸地方にあるこの国は蜃気楼の名所があり、晴和王国各地から見に来る旅人がいる。
若葉の蒸れた薫りが広がる新緑の季節、初夏を思わせるように気温も上がってきたが、列車の窓を開ければ心地よい風が吹き込む。
旅人の二人は、今日見てきた蜃気楼の話に花を咲かせていた。
「すごかったね」
「うん。びっくりしたよ」
年の頃はまだ十代の半ばから後半くらいに見える二人だが、このとき十八歳。
創暦一五七〇年五月初頭のことだから、現在では二十歳になっている。次の誕生日で二十一になる。
二人は世界樹の近くにある『最果ての村』、すなわち
名前を、
アキとエミが話をしている車両は他に客もほとんどなく、二人の近くには、スーツ姿の紳士が座っているばかりだった。
スーツには不似合いな風呂敷が脇にある。
紳士は五十歳くらいだろうか。
落ち着いた老人のような雰囲気もありながら、手足はどこかしなやかそうで、年齢もつかみにくい。
しかし、アキには紳士が何者なのかわかった。
観察というより、感覚でわかる。
ふと目が合って、アキは微笑みかけた。
そして、ふらっと近寄って挨拶した。
「こんにちは」
「こんにちはー」
エミもいっしょに挨拶する。
「はい。こんにちは」
穏やかな紳士の挨拶に、アキは笑顔のまま問うた。
「あの。もしかして、忍者ですか?」
一瞬、紳士は驚いた顔をした。
片方の目は前髪に隠れているが、もう一方の目が如実に光を湛えた。
「大丈夫です。ボクたちも忍者だから、わかるだけです」
「て言っても、アタシたちは小さな里のお手伝いみたいなもので、たまに情報を教えに行ってお小遣いをもらうくらいですけどね」
声も出さず、紳士はおかしそうに小さく笑った。
「まさか私のほうが気づかないばかりか、逆に気づかれてしまうとは。こうして旅ばかりして、ろくに忍者らしいことをしていないからでしょうか」
「座っていいですか?」
アキが聞くと、紳士は手でうながした。
向かい合ったボックス席になっており、アキとエミは進行方向に背を向けるかっこうになる。
なんの躊躇もなく、アキとエミは名乗った。しかし、紳士が名乗ろうとすると、「忍者が教えちゃダメですよ」と二人が慌てて止めに入る。不思議な二人に、紳士はすっかり魅了されていた。
「アタシとアキは蜃気楼を見てきたんです」
「なんだか幻想的で夢みたいでしたよ」
尋ねるまでもなく、アキとエミは初対面の紳士に楽しかった思い出をしゃべり始めた。
しばらく話を聞いて、今度は紳士のほうが切り出した。
「こんな楽しそうな忍者は初めて見ました。お礼といったらなんですが、私の話を聞いていただけますか? あなた方になら理解してもらえる気がして」
「もちろんです」
「なんでも聞きますよ!」
アキとエミの返答を聞き、紳士はうなずくと、おもむろに脇に置いていた風呂敷を開いた。
そこからは、何枚もの押絵が出てきた。
「綺麗~!」
エミがうっとりと見つめて、アキは不思議そうにつぶやく。
「生きてるみたいなのもある」
「ふふ。あなた方にはそう言ってもらえると思っていました」
「この豚さんの押絵だけです」
「そう。それだけが特別。他はね、私がやっている絵画の行商としての商品なんです。私の魔法、《
「忍者っぽくない魔法ですね」
「ボクもエミも半分だけしか忍者じゃないようなものだから、忍者っぽい魔法は使えませんけどね」
楽しそうな二人に、紳士は言った。
「では、私とこの押絵の……なんと言いましょうか、身の上話とでも言ったらよいか。思い出と呼ぶには、今もその中にあり過ぎましてね。そんな私の話をさせていただきましょう」
そうして、紳士は少し不思議な物語を話し始めた。
「季節は春でしたか。もう初夏といってもよいような、まったくもって今日のような日和でした。
もう三十五年ほども前になります。
まだ私が十七歳の頃。
私は里長の命を受け、里を出て諸国を渡り歩いて情報を集めるために旅立ったのです。
情報収集は忍者の務め。
働き盛りの年頃になると外に出てそんな任務をこなす者が多い里でして、それも三十五年前となれば幕末の動乱期がいよいよ始まろうとしていた頃ですから、我々忍者の暗躍も必至でした。
私は、絵画の行商に身をやつし、旅をしました。
旅を一年もすると、道連れもできるもので、それは運がよかったということだったのでしょう。
のちに妻になる娘と出会って、共に旅をしていたのです。
娘は
あるとき、そう……これもまた、今日のような五月の初め。
私とエイコは夕暮れの時分、宿屋を訪れました。
日も長くなり出したその季節、私もエイコも日が暮れるまでよく歩いてそこに辿り着いたのです。
場所は天都ノ宮、つまりは王都。
王都の外れにあるためか、世界最大の幻想都市とも思われぬ寂れた場所にある小さな宿屋でした。
庭には馬小屋に豚小屋、牛小屋までありました。
小さな宿屋に反して家畜小屋まであるとは、別の商売もしているのかもしれないと思った。
宿屋は、家族で営んでいるようで、主人は三十代の前半か、妻も同じくらいで、息子もおりました。まだ十歳くらいでしたでしょうか。
主人は大柄で黒縁の丸メガネをかけ、妻のほうは角張った顔に細い目元、小さな口をすぼめるように閉じたなにを考えているのかわかりにくい表情の人でした。息子は父親似だったのでしょう。顔立ちもそっくりで無愛想な子です。
その晩、私はよく眠れませんでした。
エイコはたくさん歩いて疲れてしまったのか、ぐっすり眠っていましたが、私はなんだか妙に目が冴えて仕方なかった。
忍者の直感だったのでしょう。
書を読もうかと思っていたところで、廊下に足音が聞こえます。
深夜になんだろうと私は布団を頭までかぶり、寝たふりをしたのでございます。
すると、襖がすっと開いた音がしました。
なにを確認したのか、パタン、と襖が閉められました。
気味が悪くなって、私はこっそりと音も立てずに忍びの抜き足の技術を用いて、宿の中を調べてみることにしました。
私はすぐに見つけました。
ある部屋の囲炉裏を囲って、主人と妻がいました。
二人は囲炉裏に火をかけました。
妻が灰をならすと、主人がなにやら種を蒔き始めます。
すると、なんということでしょう。
種がぐんぐんと成長していったのです。
おそらくは魔法だろうと思いながら、じっとその様子を観察しました。
育っていった種は稲穂となり、金色の稲穂が実りこうべを垂れると、二人は稲を刈り取ります。
『さあて。なにがいい? あんた』
『馬と豚だろう』
『いいや、あれは馬よりも牛がいいわ』
『ふん。それも悪くないか』
『じゃあ、こっちは《
そう言って、妻は稲穂を叩き出しました。
二つに分けたもう片方の稲穂は主人が叩きます。
次に、妻は主人に稲穂を渡して石臼を引かせ、今度は妻のほうも石臼を引きます。叩いた稲穂は交換されていました。
『はい、《
ギュウギュウと音を立てて石臼が引かれて、最後に二人はそれで団子をこしらえていきました。
私はその光景を、ほんのわずか一センチ開いた襖から覗いていたのです。
しかし、そこで、私は息が止まりそうになります。
なんと、反対側の襖からは、主人と妻の息子が、私と同じように襖から覗いていたのです。しかも、私をじぃっと、刺すように覗いていました。まばたき一つしません。
子供の視線をこれほど恐ろしく感じたことは、私はなかった。
このことをあの息子が親に告げ口したらどうすべきか、そもそも、これはやはり見てはいけないことであったに違いなかろうかといろいろと考えているうちに、朝はやってまいりました。
早朝、私はエイコを起こします。
『ここの宿は危険だ。逃げよう』
訳はあとで話す、と言っても、エイコは笑って取りあいません。
『確かに無愛想だったわね。でも、お金も払わずに逃げるなんてできないわ』
『……』
私は言葉がありませんでした。
なぜといえば、私自身、なにが危険なのかわかっていなかったからです。
だから私は、こっそり《
本体の私自身は床下に潜み、隠れて主人たちを観察することにしたのです。
このままなにもなければ、朝食だけいただいたのち、この宿を出ればそれでいい。
それでよかったはずでした。
朝食には、私が思っていた通りのものが出てきました。
昨晩、あの夫婦がこしらえていた団子です。
妻のほうが差し出すのを、エイコはなんにも疑わずに食べてしまいます。
私の影分身も食べてみました。
すると、私の影分身は壊れてしまいました。
影分身はダメージを受けると破壊される、つまり、魔法的な攻撃を受けたことに相当するなにかがされたのだ、と私は確信しました。
しかしもう遅い。
エイコは、みるみるうちに、豚の姿に変わっていきました。
苦しそうな悲しそうな鳴き声を出して、エイコは震えていました。
あの団子は、人を家畜に変えてしまうものだったのです。庭にあった家畜小屋も、まさにこの夫婦が宿に泊まった客から作り出した家畜どもだったのでした。
宿屋の夫婦は、血相を変えて私を探し始めました。
『いつの間に入れ替わっていたんだ』
『忍者だったとはね! 困ったもんだよ。勘づきやがったのね』
『くそう。忍者じゃ、容易には捕まえられないか』
『いいのよ、あんた。女のほうはこうして、あんたの《馬団子》の魔法とわたしの《稲穂トントン》で豚にしてやったんだから』
『ああ。この豚なら悪くない値で売れるだろう』
『もうちょっとだけ、あと三、四歳だけでも大人の女盛りなら、雌牛にしたかったんだけどね』
そんな会話を盗み聞いて、私は宿屋から離れました。
なんとか、エイコを人間に戻したい。
その一心で走りました。
王都の中心に行けば、なにか特別な魔法の使い手もいると思って駆けているときでした。
目の前に、不思議なご老人が現れました。
もしかしたらずっと立っていたのかもしれません。
長く白い髭をたくわえたご老人は、ひょうひょうと後ろ手に突っ立って、ひょうきんに薄い笑いを浮かべています。
そして、なんとも気軽に私に話しかけてきました。
『探しているのはこれじゃな?』
『え、木の実……?』
ご老人の手のひらには、赤い木の実がちょこんとありました。
『動物になった人間を元に戻したいんじゃろ?』
『はい。しかし、なぜそれを……』
『ええんじゃ。案ずるな』
『は、はあ……』
『あとはな、これを食べさせるんじゃよ』
『そうすれば、人間に戻れるんですね?』
『戻る。が、二十年だけじゃ』
『二十年……』
『それよりあとにも人間でいたければ、他の方法を探せばいい。魔法によってそうなったのなら、魔法で戻せるかもしれん』
『はい。ありがとうございます』
『お礼はどうでもいいことじゃ。それより、早く行かないとはぐれしまうぞ』
そうだ、と私は思って急いで戻りました。
宿屋に戻ると、まだエイコは売り飛ばされてはいませんでした。
ちょうど庭で、主人と妻が鞭を片手にエイコを歩かせ、時折、妻のほうが鞭でエイコを叩き、豚小屋に誘導したのです。
豚小屋に押し込めると、主人と妻はエイコに言います。
『すぐに買い手も見つかるからな』
『待ってるんだよ、いいね』
それだけ声をかけ、主人と妻が宿の中に戻っていきました。
だれもいなくなったところで、私は豚小屋に近づいていきました。
『エイコ。これをお食べ』
たった一粒の赤い木の実を口に放り込むと、エイコは食べてくれました。
するとどうでしょう。
あのご老人の言った通りに、エイコは人間の姿に戻りました。
『エイコ』
『も、戻ったのね。わたし』
『よかった』
『ありがとう』
『お礼はいい。とにかく逃げよう』
『ええ』
家畜どもは鳴き声を上げ、自分も人間に戻してくれと懇願しているように、私には聞こえたものでした。
しかし木の実はもうない。
私はエイコの手を引いて逃げようとしました。
が。
私は視線を感じて振り返りました。
そこには、昨晩の宿屋の息子がいました。
息子に叫ばれるかと思って身構えていると、こう言われました。
『おれは止めないよ。逃げたらいい。元々、悪くもない人を家畜にして売り飛ばすなんざ、おかしいと思ってるからさ』
そのまま、息子はきびすを返して宿に戻っていきました。
私とエイコは逃げました。
どこまでも逃げました。
そして、里に戻って結婚して、子宝にも恵まれました。
子供も育てて、あっという間に二十年が過ぎていました。
約束の二十年が終わってしまう。
この間にも、私は忍者の情報収集能力を使ってなんとか家畜を人間に戻す術はないものか調べましたが、見つかっておりません。
二十年が経つとき、三人の子は里に残して、私とエイコは再び旅に出ました。
旅の途中、ついにエイコは豚の姿になってしまいました。
こんな姿、子供たちに見せられません。
だからそれ以来、私は《
アキとエミは豚の押絵を見た。
「そうでしたか」
「あの宿屋の夫婦は戻せないんですか?」
エミの問いに、紳士は首を横に振った。
「まったく困ったものでしてね、家畜にするだけの魔法でした。あのあと、私はそんな魔法で旅人を苦しめるあの夫婦が許せなかったので、噂を広めてやりました。ありのままのことを話していったんです」
「どうなったんですか?」
今度はアキが問うと、紳士は淡々と答えた。
「
「へえ。でも、その名前なら……」
「うん。聞いたことあるよ」
アキとエミには、心当たりがあった。
「『
「やっぱり」
「そうだと思いました」
《
「あの子も、人を家畜にする魔法は使っているそうですね。ただし、条件を設けた」
「条件?」
とエミが首をかしげる。
「悪い人ならば家畜にしてもいいと思っているから、彼の父が作ったのと同じように稲を作り、それを食べた人間をいつでも家畜にできる状態にしておく。いざ悪い人だと判断されたら、水をかける。水をかけられたら、家畜になるのです」
「そういえば、そんな話聞いたことあったな」
と、アキは思い出した。
紳士は優しく助言する。
「ですから、念には念を入れて、なるべくならばあの屋台では食べないほうがいい。そこで米粒ひとつでも食べたら、いつでも家畜にされる可能性があるわけですから」
「はい」
「そうします」
「まあ、あなた方なら大丈夫でしょう」
それから紳士は、押絵に景色を見せてやっていたのを風呂敷に包み直した。どこか照れたように言った。
「すみません。少し長くなってしまいましたね。エイコ……妻も、こんなことを話したものだから照れていることでしょう。だれかに話すのは初めてのことでしたから。本当に、あなた方に話せてよかった」
「こちらこそ。そう言ってもらえてよかったです」
「お話を聞かせてくれてありがとうございました」
アキとエミがぺこりと会釈すると、紳士も会釈を返した。
「押絵と旅する忍びのことは忘れてください。そろそろ私はこの田留木の駅で降ります」
紳士が席を立ち、最後に半身だけ振り返らせて。
「そうでした。私ばかりが名乗っていませんでしたね。私は
そう言い残すと、フウライは駅を降りて去って行った。
フウライの声は、アキとエミには届いていなかった。同時に列車内に入ってきた別の乗客たちの声に掻き消されて、名前を聞くこともなく、お礼の言葉も聞こえなかった。
ただ、さっきまでそこにいたのが嘘みたいに、なんの匂いも残さず消えただけであった。
五月の蒸した若葉の薫りばかりが窓から流れ込む。
列車はゆっくりと走り出した。
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