幕間怪談 『おいで。どうしたの? こんな山の中で』

 栗の木と竹林が多いことからささくりはらと呼ばれるこの地は、世界樹に近く、『最果ての村』の北に位置する。

 牧場が知られており、家族連れにも人気なのだが、ここよりやや北西にある山には、人があまり寄りつかなかった。


「やまんばが……出るって、聞いたよ。本当?」


 おとなずなが、父に尋ねた。

 父親のおとかえでは、涼やかで聡明、娘にも優しく穏やかだった。


「そうだね。噂ではあるけど、本当かもしれないね」

「……そう、なんだ」


 ぶるっと寒気がして、ナズナはカエデにくっついた。




 創暦一五七一年の秋。

 まだ十歳のナズナは、照花ノ国を訪れていた。

 照花ノ国は、ナズナの母の故郷だった。

 母親のおとみつの出自というのも、代々照花ノ国で国主を務める家系で、こうほくみやはなじょうが実家であった。

 つまりナズナは、ミツバの里帰りに光北ノ宮を訪ね、その足で旅行がてら笹栗原牧場に来たという次第だった。


「今夜はがわおんせんがいに泊まるから、そろそろ出よう」

「う、うん」


 王都からの客も多く、『おうおくしき』と呼ばれる温泉街にあるその温泉旅館は、ナズナも何度か宿泊したことのあるなじみの旅館だった。

 牧場で遊んだあと、ナズナは午後の三時には馬車に乗った。

 仕事の関係で忙しく動き回ることも多いカエデの都合で、馬車を運転するのは魔法の使い手である。

 本来ならもっと時間のかかる道だが、夕方には明日屋にまで行ける。

 馬車は走る。

 途中で、ナズナは馬車の窓から栗林を見つけた。


 ――おいしい栗ご飯、いいなぁ。


 ナズナはミツバに聞いた。


「ちょっと、栗ひろい、していい?」

「栗? いいわよ」

「お母さんと、お父さんに、栗ご飯……食べさせて、あげたいの」

「すぐそこがちょうど茶屋だ。お父さんとお母さんはそこで待ってるよ」

「うん」


 カエデにも了承をもらい、ナズナは馬車を降りた。

 その際、カエデがなにを思ってか、カバンから風呂敷を取り出して、ナズナに背負わせた。にこりと微笑む。


「これを。そして、ちょっと借りるよ」

「なあに?」


 わけがわからずに小首をかしげる娘に、カエデはまた別の風呂敷を背負わせ、首を横に振った。


「いいや。なにもなければそれでいい。ナズナ、気をつけていってらっしゃい」

「遅くならないうちに戻ってくるのよ」

「いってきます」




 ナズナは、栗を入れるカゴを背負って手には軍手をはめて長いトングを持ち、とことこ山を歩いて行った。

 最初はあまり見つからなかったが、ちょっと奥に入ってゆくと、たくさん落ちている場所を見つけた。


「ある」


 ――ここには、栗がいっぱい。集めるぞ……。


 まだ栗が落ち始める時期だから、足元いっぱいにあるわけではなかったものの、しばらく夢中になって拾っていると、カゴも八割方まで満たされていた。


 ――けっこう、集まった。お父さんとお母さんも、これなら、いっぱい食べられるよね。


 そろそろナズナが帰ろうと思ったとき、空は夕焼け色だった。

 遅くならないうちに温泉旅館に行くはずが、もうずいぶんと時間が経ってしまっていたようである。

 ナズナは慌てて帰り道を歩いた。


 ――なんだか、暗くなってきちゃった……。日が、短くなったから……。


 暗い道を歩いていると、足音が聞こえた気がする。

 ふっと、ナズナは振り返った。


「……」


 しかし、なにも見当たらない。


 ――気のせい……だよね。


 ちょっとずつ恐怖が増して、ナズナは足を速める。

 すると、さっき聞こえた気がしていたあの足音がまた聞こえて、しかもナズナの歩く速さに合わせて足音もペースを上げて近づいてくる。


「……」


 怖くて振り返れない。

 が。

 足を止めて、勇気を出して振り返った。


「……」


 ナズナはホッとした。


 ――やっぱり、いない……。いないん……だよね……。


 呼吸を整えて、再び前に向き直って歩き出した。

 そのとき、足音がさっきより近くで聞こえた。

 息が止まりそうになる。


 ――もしかして……やまん、ば……?


 もう足も止まっていた。

 またおそるおそる振り返る。

 そこには、なにもいなかった。

 胸を押さえて、ふぅと息を吐き、前を向いた。


「ふぇっ!」


 驚嘆の声が漏れてしまった。

 なんと、目の前に、それはそれは大きなおばあさんがいたからである。二メートル以上ある。年は八十を過ぎていようか。よく見れば、肌の色も違う。水色っぽいような紫色っぽいような、人間とはなにか異なる肌の質感でもあった。


 ――や、やまんば、だ……。


 咄嗟のことに、ナズナは息を呑んで呼吸を忘れた。

 やまんばは、気安くしゃべりかけてきた。


「なにしてる?」

「……」

「なんじゃ。なにしてるって聞いてるんじゃ」

「……あ、あの、ええと……」


 震える唇で、それだけ言うのがやっと。

 そんなナズナに、やまんばはまた聞いた。


「なにか食いもんはないか?」

「……今は、ない……です」


 答えて、ナズナは顔を伏せて歩き出した。

 しかしやまんばはナズナの横に並んで歩いてついてくる。


「なにもないことない。そのカゴ、なにが入ってるんじゃ?」

「く、栗……」

「ほほうー! 栗か! 栗は好きじゃ」

「……」

「栗、くれ」

「え?」


 やまんばに栗をくれと頼まれて、ナズナは目をしばたたかせた。


「腹が減ってるんじゃ。栗、くれ。くれんのなら、おまえを食わせろ」

「……」

「な? 食わせろ」


 歩くナズナの顔を横から覗き見て、尖った歯を見せ笑いかけながら、舌なめずりをした。

 不気味な視線に釘付けにされ、ナズナは足がしびれてきたような恐怖に襲われた。

 足を止める。

 カゴを下ろして、カゴに挟んでおいたトングで栗をつかみ、やまんばに差し出した。


「……ど、どうぞ」

「うひゃあ! 栗だ! 栗だ!」


 やまんばはいがぐりを受け取ると、丈夫な足の裏と鋭い爪を使ってトゲのある皮をむき始めた。


 ――い、今のうちに……!


 ナズナは急いでカゴを背負って歩き出す。

 後ろではやまんばの声が聞こえる。


「うめえ! うめえなあ!」


 すると、またドタドタと足音が聞こえてきた。

 嫌な予感がしてナズナが横を見ると、追いついたやまんばが顔のすぐ横まで迫り、ニヤニヤ笑いながらこう言った。


「もう一つくれ。栗、うまかったぞ。もう一つくれ」

「……」

「まだあるじゃろ。くれ」


 自分が食べられるよりずっといいと思って、ナズナはまた栗を渡した。


「ひひひぃ! 栗だ!」


 その間に、またナズナは進む。


 ――この調子でいけば、十個くらい……もうちょっとかな……それで、栗林を、抜けられると思う。


 そんな調子で三回、四回、五回と一つずつ栗を渡して、六回目、やまんばは笑いながら言った。


「一個ずつは面倒くせえ。まとめて一度にくれ」

「まとめて……?」

「カゴごと渡してくれ」

「で、でも……」


 そうすると、一つも栗を持ち帰れず、いつやまんばに追いつかれるかもわからなくなってくる。


「おまえを食わせてくれてもいいぞ。わしはな、《うば》って術で、女を食うと、食った女の見た目に化けられるが、都合のいい器ならもういくつも食った。おまえの姿はいらねえ。男を食うと、食った男の残りの寿命だけわしの寿命も延びる。だから食うなら男がいい。でも、おまえで我慢してやる。わしは腹が減ったんで」


 邪気もなく脅迫してきた。知人にちょっとした相談をするような調子で、恐ろしいことを口走ってくる。ナズナは自分が食べられるより、栗を渡すしかないと思った。


「は、はい……」


 そっと、カゴを置く。

 やまんばは「どっひゃあ! 栗だ! たくさんだ!」と舌なめずりして器用に皮をむく。

 細く暗い道を歩き出し、ナズナはやまんばの視界から消えたのを確認すると、急いで駆け出した。

 息を切らしながら走る。

 だが、やまんばはあれだけあった栗をあっという間に食べ終えてしまった。叫びながらナズナを追ってくる。


「待てぇー!」


 やまんばは薄く笑いながらドタドタ走り来る。


「おまえを食わせろ! もう腹が減ってたまらん」


 うれしそうに楽しそうにナズナとの距離をぐんぐん縮め、あと三メートルまで迫ると、腕を前に伸ばして走る。


「久しぶりの人間だ! 久しぶりの人間の味だ! ひゃあああ!」


 はあ、はあ、とナズナは一心不乱に走っていたが、ついに魔法を使うときがやってきた。


 ――今しかない……!


 ナズナは飛んだ。

 空を飛んだ。

 背中につけた羽によって、ナズナは《てん使はね》の魔法で空を飛ぶことができるのである。

 この場合、本当ならば高く飛んだほうが逃げるのに有効だった。しかし、高く飛ぶには木の枝が邪魔になる高さにあるため、上には飛びにくい。

 それに、少しでも早くやまんばから離れたいナズナには、高く飛んでやまんばの視界から消える方法には考えが及ばなかった。

 ただ、ナズナは速かった。

 走るよりも速い。

 やまんばの走るのも速い。

 ぐっと前に伸びた手が、ナズナの足をつかみかけ、ギリギリのところでするりと抜ける。


「しぶといやつじゃ! 待てぇ!」


 一生懸命に飛ぶナズナであったが、体力はやまんばのほうに軍配が上がる。ついに、ナズナの足首がガシッとつかまれてしまった。


「あぁ!」


 絶体絶命、ナズナは短く叫ぶと、顔を振り返らせた。


「久しぶりの人間だぁ!」


 右手でぐいっと引き寄せたやまんばは、左手でナズナの首をつかんだ。

 刹那――。

 ナズナが背負っていた風呂敷がやまんばの鋭い爪で裂かれ、塩がさらさらと流れ出した。


「ぎゃぁ! ぎゃぁっ! 塩! 塩! やめろぉ! 嫌だ!」


 ぶん投げるようにナズナを離して、やまんばは塩のかかった左手が溶け出していくのを見て、喚きだした。


「いやあああ! 塩! 塩ぉ!」


 この隙を、ナズナは見逃さなかった。

 道からは少しそれるが、茂みの中に飛んでゆく。

 とにかく、まずはやまんばから逃げるのが先決だった。


「あの小娘! どこだぁ!」


 やまんばの吠える声が聞こえて、ナズナは息せき切って、大きな池を見つけ、その水面を飛び越えて、向かいの大きな木の枝に座った。

 心臓の鼓動がトクトク速く、なかなか鎮まらない。どっと疲れたのとまだ恐怖を拭いきれない緊張感がない交ぜになり、ようやく頭だけはものを考えられるようになってきた。


 ――さっき、塩は嫌いって言ってた。お父さん、やまんばが出るかもしれないから、塩を風呂敷に包んで持たせてくれたんだ。


 ただ、一度目に風呂敷を回収した理由はわからなかった。

 ナズナが考えていると、やまんばの足音が聞こえてきた。


「こっちに来たのはわかっとるぞ。どこにいるんだ? おまえを食わせろ。な?」


 やっと心臓の鼓動が落ち着いてきたところなのに、ナズナの心臓はまた速くなってきた。息の音が聞こえないよう、そして物音を立てないよう、そっと身を縮める。

 やまんばは、突然陽気な声を出した。


「なあんだ! 池の中に魚みてえにおる!」


 怖々とナズナがやまんばを見ると、やまんばは池の水を指差して喜色満面、飛び込もうとしていた。


 ――水面に映った、わたしが、見えてる……。


 しかし、それを水中にいるものと誤解しているやまんばは水に潜り、ナズナは水面が揺れた瞬間に枝を飛び立って池から離れた。

 茂みの木の枝でまた少しだけ休み、地面に降りたって、ゆっくり歩き出した。


 ――このまま……振り切れたら、いいんだけど……。


 ナズナは空を見上げた。


 ――もう暗くなっちゃった。


 夕陽も沈みかけ、空も紫色に染まっている。


「ここ、どこかな……」


 ふと、空に煙が立ち上るのが見えた。


 ――あっちに行けば、人がいるかも……。


 疲れて重たくなった足も、人がいるとわかると幾分か軽くなる。

 そのとき、ナズナはこの森の中を歩いている人を見つけた。

 角張った顔に、小さな口をすぼめるように閉じた、三十代半ばの女性だった。


「だれかいませんか」


 道に迷ったのか、呼びかけて歩いている。首をよく動かし、細い目を走らせる。

なにを考えているのかわかりにくい表情の人で、ナズナは怖くて木の陰に隠れてやり過ごす。

 それからまた少し歩くと。

 煙が立ち上る山小屋が見えて、ナズナは近寄って行った。

 山小屋の前には、綺麗なお姉さんがいた。年はまだ二十歳前だろうか。左手は袖に引っ込められて見えないが、優しい笑顔をして右手で手招きした。


「おいで。どうしたの? こんな山の中で」

「……あの、道に、迷っちゃって」

「このあたりは夜になると危険だし、人里離れた場所だから、今夜はうちに泊まっていきなさい」

「……」


 本当は早くお父さんとお母さんに会いたくてたまらないナズナだが、この山の中でやまんばに出会ったら食べられてしまうし、今はお姉さんの誘いを受けることにした。


「は、はい。お願い……します」

「はい。こちらこそ。ついでおいで」


 お姉さんの背中を見つめながらついて行く中、ナズナは尋ねた。


「なんで、こんな……山に、住んでるん、ですか?」

「ふふ」


 にこりと微笑んで、お姉さんはそれには答えなかった。不思議に思ったがナズナは質問を継げず、黙ってついていく。

 山小屋に入り、ナズナは奥の部屋に通された。


「ここで休んでなさい。疲れたでしょう」

「は、はい」


 この山小屋にはだれもいない。ひとりで住んでいるらしい。ナズナはキョロキョロしながら問う。


「ひとりで、山にいて、さみしく……ないんですか?」

「別に。たまに、友人が来るから」

「お友だち……」

「そう。星降ノ村の変わった二人組。アキとエミっていうの。素顔のわたしにも優しい、唯一の友人」

「……」

「今、食事の準備をするわね」


 パタン、と襖が閉まった。

 不安な心地でナズナはじぃっと待っている。

 すると、なにやら音が聞こえてきた。


 ――なん、だろう……? なんの音……?


 シャーッ、シャーッと、なにかを滑らせるような音。

 気になって、なぜだか不安もいっそう募って、ナズナは、こっそり、そろぉっと、襖を指一本挟めるほどの隙間を作って開けてみた。


 ――ほ、包丁だ……!


 ナズナの目玉は瞳孔が大きくなり、爛々と光る。

 さらにお姉さんのほうへと視線を移すと、そこにいたのは、なんと、やまんばだった。


 ――あのお姉さん、やまんばだったんだ……!


 嬉々と大きな包丁を研いでいる。左手は溶けてただれているが、その左手さえ上手に使っている。


「あの女房は気味悪がられてダメだったか。でも、あの娘を食ったのはもう百年以上も前になるが、あの顔は器量がいいから家に誘い込むには便利なことじゃ。ひひひぃ」


 笑いをこぼして、ぴくりと、一瞬動きを止める。

 パッとこちらを振り返った。

 ナズナは慌てて襖から離れる。

 足音が聞こえて、襖が開く。

 そこからは、さっきのお姉さんの顔がにこりと笑いかける。


「もう少しお待ちを」


 ぱたんと襖が閉められ、ナズナが耳を澄ますと、再び包丁を研ぐ音が聞こえてきた。


 ――お姉さんは、百年前に、やまんばに食べられちゃった人……? さっき森にいたあの女の人も……だよね。


 やまんばが、《うば》という術、すなわち魔法によって、食べた女に化けていたらしい。


 ――ど、どうしよう。逃げないと……。


 どうやったらこの山小屋から出て、両親の元まで行けるのか。

 考えても、ナズナには名案が浮かばなかった。


 ――と、とにかく、外に出よう。


 襖越しにナズナは声をかけた。


「す、すみません」

「なにかしら?」


 そこで襖を開けて、ナズナは申し出た。


「ちょっと、おトイレ、貸してください」

「もう少し待ってもらえる?」

「ご、ごめん、なさい。もう……」

「ふふ。仕方のない子。でも、お手洗いは外にあるの。ちょっとついてきて」

「はい」


 トイレは外にあり、ナズナが中に入ると、お姉さんに化けたやまんばは、外で待っているようだった。


「待ってるから早くね」

「は、はい」


 やまんばは聞く。


「もう出る?」

「ま、まだ、です」


 ナズナは答えて、このトイレから出る方法はないか考えた。

 木で作られたトイレで、上には隙間がある。背の高い人がやっと手が届く高さだが、ナズナなら飛べる。それに、ナズナの大きさなら、その隙間から出られそうだった。


「ごめんね、ちょっと急げるかしら」

「は、はい」


 答えつつ、ナズナは空を飛んで、隙間から外に出た。

 そして、ゆっくりトイレから離れる。地面を歩くと音を立ててしまうから、そのまま飛んでゆく。


「お腹、痛いの?」

「……」

「大丈夫?」

「……」


 やまんばはハッとする。


「まさか……!」


 ガンと扉を蹴破り、お姉さんの形相はみるみる元のやまんばのものに変わっていった。


「逃げ出したなぁああああ!」


 化けるのをやめ、やまんばは駆け出した。


「まだそんなに遠くには行っとらんはずじゃ!」


 腕を振って全力疾走する。


「わしをバカにしてぇ! 許さん! 許さんぞ! 料理して食いたかったが、さっき、目の前にいるときに食っちまえばよかった! 今度は逃がさん!」


 その間にも、ナズナは力の限り飛んでいた。

 ここでも、高く飛んで木の上に行けば見つからずに済んだのだが、ナズナはより遠くへ逃げることしか頭になかった。

 やまんばの全速力は相当のもので、たちまちナズナの姿が見えてきた。


「見ぃつけた!」


 ニタリ、とやまんばは笑った。

 ナズナは振り返ってその顔を見てしまう。


 ――急いで逃げないと……!


 飛んで飛んで、ナズナは我を忘れるほどに魔力の限りで飛んだ。

 対するやまんばも、獲物を目の前に走るのがどんどん速くなり、どんどん迫ってくる。


「もう塩はない! 諦めろ! ひひひひひ!」

「……」


 振り返ると、距離が縮まっている。ナズナは心臓が飛び出しそうになった。けれども同時に、ナズナが前を見ると、明かりが見えた。


 ――明るい。だれか、いるんだ。


 ナズナが明かりにたどり着くのが先か、やまんばがナズナの足首をつかまえるのが先か。

 追いすがるやまんばが怒鳴る。


「もう追いつくぞ! 食わせろ! な? わしは腹が減ってる! 食わせろ!」


 もうちょっとでナズナの足に、やまんばの指先が触れるというとき、ナズナは背中に重みを感じた。

 さっきも背負っていた、塩だとわかった。

 パン!

 柏手で打つ音が響く。

 その瞬間、ナズナとやまんばは、急な睡魔に襲われた。

 ナズナは力が抜けてふらりとして、やまんばもよろめきながら、二人はぶつかってしまった。

 ぶつかると、ただでは終わらない。

 二人共眠たくて仕方ないからなんの抵抗も攻撃もしないが、ナズナの背負っていた風呂敷だけは、ぶつかった拍子にほどけてしまう。やまんばにドサッと塩がかかってしまった。

 やまんばは弱点の塩をかけられ、目も覚める。


「ぎゃあああ! 塩! 塩だあ!」


 眠りかかっていたナズナも、闇をつんざくようなやまんばの声で、完全に目を覚ました。

 慌ててやまんばから離れるように前へ前へと飛ぶ。

 すると、その先には父のカエデが立っていた。


「お父さん!」

「ナズナ」


 最後の力を振り絞ってカエデの胸に飛び込み、首に腕を回して抱きついた。

 カエデはナズナを抱っこするような形で、優しく頭を撫でてやる。


「大丈夫。もう大丈夫だよ。やまんばは溶けてしまった」

「やまんば……」


 ナズナが振り返ると、やまんばは苦しそうにもがくように溶けているところだった。

 さっき溶けてただれていた左手同様に、今度は全身が溶岩のように溶け出していく。


「塩は嫌だ! 助けて! 助けてぇ! 助けてよぉ!」


 そして、とうとうやまんばは全身すべて溶けて消えてしまった。

 断末魔が耳に残り、ナズナは寒気がして、カエデの胸に顔を埋めた。

 母のミツバも隣にきて、ナズナの頭を撫でてやりながら、カエデがどうやって助けてくれたのか教えてくれた。


「よく戻ってきたわね。まさか、本当にやまんばが出るなんて。実はね、お父さんはもしやまんばが出たら危険だから、塩を入れた風呂敷を持たせたのよ。一度ナズナにあげてそれを返してもらったのも、最後になにか抵抗するすべになるかもしれないと考えたからなの」

「やっぱり、お父さんすごい」


 尊敬の眼差しで父を見上げるナズナに、ミツバが続けて言う。


「お父さんの魔法|還《かえ》で最後ナズナに塩を戻したとき、もう一つの魔法《かしわおん》でやまんばとナズナを眠くさせて、やまんばがナズナの背負った塩にぶつかるよう計算したわけね」


 カエデの魔法、《かえ》はものを元の状態に還したり、元の場所に還したり、借りた相手に還したりすることができる。《かしわおん》は柏手を打つと、その音を聞いた相手を、眠くしたり黙らせたり怒らせたり落ち着かせたりすることができる。


「ありがとう。お父さん」

「ナズナが無事でよかった。じゃあ、明日屋に行こうか」

「うん」


 こうして、この山に住むやまんばはいなくなった。

 だが、やまんば伝説は全国各地にある。

 やまんばは全国の山にいると言われており、その土地によって特質が変わるらしい。

 山の神に仕える巫女が妖怪になったという説もあるようだが、しかしその正体を知る者はいない。

 時たま食った人間に化けて人里に降りてくることもあるともいうし、それは人間たちにまぎれて人をさらって食うためだともいう。

 もしかしたら、すぐそこの山にも、こっそり住んでいるかもしれない。

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