幕間記劇 『鈴浦芳郎の名は記される』
俺は一秒とかけずに、紙にこう書いた。
『《マインペン》は現品限りです! この機会を逃すと二度と手に入りません!』
どうだ?
一秒もかからなかった割に、なかなかの達筆だろ?
これが魔法なのか気になるのか。
まあ、それもこれから話すから聞いてくれ。
今からするのは、無口なくせに冗談が好きな、俺とは似ても似つかない親父が残した小箱の物語だ。
俺が生まれたのは、創暦一五五三年五月二日。
今が
それなのに今でも名前は
小さなガキの頃の名前のままだ。
名前を変えるつもりもないけどな。
この十八年、いろんなことがあった。
それは、時には劇的で、時には平凡以下だった。
もしかしたら、同時にそれは、だれにでもある普通のいろんなことでしかなかったのかもしれない。
でも、俺には本当にいろんなことがあったと思える。
生まれた場所のせいもあるのかな。
なんせ、生まれは
いわゆる晴和王国の『王都』だ。
ただし、家はしがない文房具屋。
『
俺が小さい頃、家にはいつもお袋がいた。
お袋が文房具屋をやっていたんだ。
反対に、親父はいつも外に出ていた。
漁師だったから、あんまり家に帰れなかった。
短いと数日、長いと数ヶ月帰ってこない。
だからお袋は、よく手紙を書いた。
船の上にいても、一応伝書鳩が手紙を届けてくれるからだ。
それなのに、無口で筆不精な親父は、せっかくお袋が手紙を書いても、返事をしなかった。
なんで返事がこないのか、小さい頃は俺も気にしなかった。
小さい頃には気にしなかったことはいくらでもある。
うちがなんで文房具屋なんてやってるのか。
近所のアイスキャンディー屋はあれだけで食っていけてるのか。
紙芝居師のトメさんがサングラスを取ったらどんな顔をしてるのか。
都市伝説にもなってる『万能の天才』って人は本当にいるのか。
ただ、そんな中でも親父の部屋にある小箱はガキの頃から気になっていた。
あれだけは、お袋さえもなにが入っているのかわからないし、親父も決して教えてくれなかった。
しかも、親父の魔法のせいで触ることさえできないようになってる。
秘密はだれにだってあるとか、ガキの俺は考えもしなかった。
もしかしたら秘密でさえなかったかもしれないが、そんな親父と俺のコミュニケーションは、大抵、俺が描いた絵をお袋が手紙といっしょに送って親父が見ることと、親父がなにかぽつりとつぶやくことだけだ。
あのときだってそうだ。
確か、七歳だった。
ガキの俺が親父の似顔絵を描いたとき、お袋は自分の手紙といっしょに絵を送ってくれたんだ。
親父は家に帰ってきてやっと、ニヤリとして、ひと言だけ言った。
「ショウタ。走ってきた」
意味がわからなかったね。
なんで漁師として頑張ってるカッコイイ親父を描いたのに、それにはなにも言わず、家まで走って帰ってきたと報告しただけなのか。汗までかいて走ってきたのは、俺に会いたかったからかと勘違いした。
いや、それもあったんだろう。
親父は言うこと言ってやったと言わんばかりの背中でスタスタ風呂場に行って、無口なくせに下手くそな歌を気持ちよさそうに歌ってる。
よくわからないでぼーっと突っ立ってる俺に、お袋はうれしそうにこう言ったんだ。
「お父さん、うれしそうだったね。ショウタの絵、よっぽど気に入ったんだよ」
「そうなの?」
「そうじゃないとあんなに汗かいて帰ってこないわよ」
「汗?」
「ショウタが描いた、汗かいたお父さんの絵が気に入ったから、汗かいた姿を見せようと走ってきたんじゃない」
「どういうことだろう」
そこでお袋は、まだ親父の意図に気づかない俺に、楽しそうに説明した。
「お父さん、汗かいた自分をカッコイイって言われたと思ってるのよ。仕事してる姿じゃなくて、汗かいた姿を。ふふ」
おかしそうに笑うお袋を見て、俺もやっとわかった。
つまり勘違いしていたんだ。
額に汗かいて働く親父がカッコイイと思って描いた俺の絵は、ただ汗かく姿がカッコイイと思われてしまっていたわけさ。
とぼけた親父だろ?
でも、どんだけ大変な仕事をしてきても飄々と風呂場で下手くそな歌を歌ってる親父を、俺はやっぱりカッコイイと思えたんだ。
親父は家に帰っている間、次の漁に出るまでに、やることがある。
それは自宅の文房具屋『鈴浦』の商品管理だ。
管理といっても、基本的に売るのも管理するのもほとんどすべてお袋がやってる。親父がやるのは、とある商品の補給だった。
商品の在庫を見て、親父はせっせと商品を創る。
魔法で。
「《マインペン》、よく売れてるわよ」
親父はなにも言わずに、お袋の話を聞きながらペンを創る。
それが魔法道具、《マインペン》。
「いろんな人が買って行ってくれるの。これで物に名前を書くと、名前を書かれた人以外はその物に触れなくなるなんて便利だもの。一昨日なんか、偉い人が大切な情報を守るためにって買ってったわ。会社の機密文書に書いておくんですって」
「偉い人はさらにサインをするのだった」
「あはは。確かに、偉い人ってよくサインしてるわよね。機密文書にまでサインしてたら大変ねえ」
横でそんな会話を聞いて、七歳のガキだった俺は偉くなるとサインばっかりするものなのかと世の中を知った気分になったものだ。
思えば、これが俺の魔法を創造するきっかけだったのかもしれない。
お袋は言った。
「あ、そうそう。一ヶ月前だったかしら。なんと歌舞伎役者さんが来たのよ。《マインペン》をくださいって。そんなところでも知られてるなんて、驚きじゃない?」
「役者に売るなんてけしからん」
別に、親父は怒っているわけではなさそうだった。ちょっとニヤリとしている。それでも俺がハラハラしてると、お袋は阿吽の呼吸ですぐに意味を悟ってしまう。ぷっと噴き出して楽しそうだ。
「そうよねえ、もう先に言っておいてよ」
ぽんと肩を叩かれ、親父もまたニヤリと笑う。
俺は不思議に思って尋ねた。
「なんで笑ってるの?」
「だってお父さん、役者さんが《マインペン》買ったら、ファンへのサインに使っちゃまずいって言うんだもの」
「ファンへのサイン」
「せっかくサインしてあげても、サインした本人しか触れなくなっちゃうでしょ? だから、人気者の役者さんにはまずい魔法道具なのよ」
「そっか。そうだね。あはは」
「今度から、売るときはその点も気をつけるように教えてあげないとね」
その歌舞伎役者だってわかってるだろうが、こんなくだらない会話さえ、俺は親父とお袋がそろって笑ってるのを見られてうれしかったものだ。
ここまで来ればわかっただろ?
ああ、そうだ。
親父が小箱をだれにも触れないようにした仕掛けは、この《マインペン》に秘密があったのさ。
七歳の頃の俺は、小箱が気になるばかりでなにも知り得なかったけどな。
ガキにとって、月日が経つのは滅茶苦茶遅い。
俺はたまにしか会えない親父に、手紙は書かないが、絵を描くことはあった。時間が長く感じるのに親父にはあんまり会えないんだから、絵くらい描いてやろうと思ったんだ。手紙は照れくさいし、文章は下手くそだからな。
いくら月日が経つのが遅く感じても、時間っていうのは必ず過ぎるものだ。
気がつけば、俺もデカくなってきた。
十五にもなると、親父に絵を描いてやるのも恥ずかしい。十五まで描いてたっていうとそれも笑われそうだから、俺は絵を描くのが好きなやつだったとでも思ってほしい。一応、俺が描いた絵をお袋は勝手に親父のところにお袋の手紙といっしょに送ってやがるわけだからな。
いや、気づいていても俺もちっとは大人になったから、知らん顔してやってるのさ。
それで手紙も絵も描かなくなった俺だけど、反抗期じゃない。反抗する親父も普段は家にいなければ、家の文房具屋の手伝いもしてる俺にとってお袋は社長みたいなもんだから逆らうつもりもない。
すっかり小さな文房具屋の平社員になった俺は、長い間こっそり魔法の修業をしていた成果が実を結び、ついに魔法も使えるようになった。
魔法の創造に成功したんだ。
「早く親父に俺の創った魔法道具、見せてやりたいな」
「明日にも帰ってくると思うわよ」
「そっか。驚いてくれっかなあ」
「驚くわよ。顔には出ないけど」
「はは。そりゃそうだ。親父は仏頂面かニヤリとした悪戯小僧の顔しか見せない」
お袋とそんなことを話していると、客が来た。
客はお袋の創った魔法道具を買っていった。
店から客が出て行くと、お袋は言った。
「あたしの《
「だといいんだけどな。でも、お袋の《保存手帳》はすげえよ」
社長のご機嫌取りじゃなく、本心だ。
「厚みが変わらないシステム手帳だもんな。どんだけページ挟んでも、枚数関係ねえじゃん。バインダーとかなしで紙挟めるし、写真だって挟める。しかも引っ張るだけで簡単に取り外せる。俺はまだ半端なガキだしバカだから、あんまり世の中のこととか人間の性質とかそういうのわかんねえけど、いい商品ってのがあるからお得意さんがいるんじゃねえかな」
「わかったようなこと言って。ショウタも大きくなったもんだよ」
「身体だけな。身長もギリ親父に勝ってるかもだけどよ」
ちなみに、お袋の《保存手帳》はかなりの優れもんだ。
うちの商品だから宣伝のために言うんじゃない。
厚みが変わらないのと紙の取り外しが簡単なばかりか、インデックスをつければその範囲だけを開く設定にできる。
どういうことかっていうと、本来ならあの厚みの中にはない分量のページがあるわけだから、適当に開いたって探してるページなんか見つからない。それを、インデックスで区切ると、区切られた範囲だけでページ検索ができるようになる。
バカな俺がわかるような言葉でもっと言い換えると、インデックスだけで創暦一五六五年として区切っておけば、その年のページだけがその厚みに対応した表示になるってわけだ。
俺も途中でなに言ってるのかわからなくなっちまったけど、とにかく大量のページでもそれに対応する方法があるから、愛用者はすべてのページをずっと残してる人が多い。
もちろん、ペンホルダーやカードホルダーなんかも完備。
「ショウタ。魔法道具、さっそく今日から店に置く?」
「いいよ。俺は客よりも先に、親父に見てもらって改良の余地ありか聞いてみるからよ」
「そんなこと言って、本当は最初にお父さんに使ってほしいくせに」
「ちげえよ。俺は趣味の絵に使う以外に自分じゃあんまり試してねえから、身内で実験ってわけだ」
「あらそう」
お袋はどこかうれしそうに笑った。
翌日。
親父が帰ってきた。
いつもみたいに仏頂面で、なんの感慨もなさそうにスタスタ歩いてく。
帰ってすぐにやることは風呂に入ること。それはずっと変わらない。今も下手くそな歌を風呂場に響かせている。
風呂から出てきた親父に、俺は言った。
「なあ、親父。俺、魔法道具創れるようになったんだ。ちょっと試してくれよ」
鉛筆を差し出す。
「《
親父の反応を見る。
「おれが死ぬまで引っ越しはしねえぞ」
話を聞いてたのか?
またニヤニヤしてやがる。
そして、毎度のようにお袋はくすくす笑ってる。
「よかったわねえ、ショウタ」
「なにがだよ。話聞いてなかったじゃねえか」
「なに言ってるのよ。売れるって言ってくれたんじゃない」
お袋の陽気な声は、俺にはまだ支離滅裂な会話の途中に聞こえた。
「じゃあなんで引っ越しの話なんかしてんだよ」
「《速記鉛筆》が飛ぶように売れて、今のお店じゃあ狭くなるから引っ越しが必要になるくらいだって言ってくれたんじゃない」
横で親父はニヤリと満足そうだった。お袋の通訳は正しかったらしい。
俺は立ち上がって親父とお袋に背中を向けた。ちょっと口元が緩くなってたのを見られたら、親子といえど恥ずかしいからな。
「ったく。それならそれでいいけどよ」
「ふふ」
なぜだか、悪態をつく調子の俺の声にも、お袋が笑い声をかぶせてきた。親っていうのはわからない。
ちょっと決まりが悪くなって立ち去ろうとしたところで、俺は思い出して言った。
「昔さ、偉い人はよくサインばっかりしてるって言ったろ? あれがヒントになったんだ。字を書くのが速くなれば助かるだろ。それなら偉い人が買いにくる。偉い人が来れば儲かるって思ってさ。それだけだ」
俺が部屋に戻ると、親父は《速記鉛筆》を手になにか書いていたらしい。
あとで居間に戻ってきたとき、お袋が見せてくれた。
「なんだよ。手紙の返事もしない筆不精のくせして、無駄なことだけは書くんだな」
そこには、「店の前をネコが一匹通った」とか「おれが死ぬまで引っ越しはしねえぞ」とかくだらないことばかり書いてあった。しかも達筆。引っ越ししないってやつ、気に入ったのか?
あと、ネコの絵もあった。
この年になるまで俺は知らなかったが、親父は絵を描くのがうまかった。なにからなにまで親父に似てない俺だけど、絵の腕だけはもう少し似ていてもよかったんじゃないか?
そのまた翌日。
《
親父とお袋にお墨付きをもらったけど、売れるか不安もある。
うちの客は子供から大人まで幅広く、だれが来るかもわからない。この近所の人以外にも、お得意さんがいる。それはたぶんお袋のおかげだが、親父のおかげでもある。
内心そわそわしながら待っていると、子供がやってきた。
二人組の少女だ。
片方は八歳くらい、もう片方はとんでもなく小さいから何歳かわからない。もしかしたら姉妹かもしれない。
だが、姉っぽいおどおどした子より、小さい妹みたいな子が平然と前を歩いている。会話を聞いていると、同い年らしかった。
髪をポニーテールにした小さいほうの少女が言った。
「新商品の《速記鉛筆》ください」
「あ、ありがとうございます」
迂闊にも、こんな小さな子にも俺はうれしさのあまり取引先の社長に対するような挨拶をしてしまった。
「速く文字が書けるんですよね」
「はい。すらすらと書けます。俺が創った魔法道具で」
「すごいです」
相手がどれだけ小さな子でも、褒められてうれしかった。俺はやっと落ち着いてきて、優しく聞いた。
「自分で使うの?」
「いいえ。おじいちゃんが研究をしていて、たくさん文字を書くので、プレゼントです」
「きっと喜ぶよ」
「はい。今度会ったら渡します」
少女は後ろにいたもう一人の少女に言った。
「行こう。ナズナ」
「う、うん。いいお買い物、できたね」
「うん」
俺は慌てて言った。
「ありがとうございました」
店を出て行った二人組の少女を見送り、俺は初めて売れた自作の商品の喜びを改めて噛みしめた。
「よかったじゃない」
お袋がからりとそう言って、俺は「おう」とだけ答えた。
この日は親父もまだ家にいる。
珍しく親父が店先に顔を出して、俺の顔を見る。しかしなにも言わない。その顔をお袋に向けて、
「おれは気が早いから今のうちに作っておいた」
紙を渡した。
なんか言えよと思ったが、お袋はそれを見てうれしそうに俺に差し出した。
「よかったじゃない」
今度は似合わないウインクをしてみせる。
「ん? ……『1番人気の商品です』……だって? ちょ、まだ一個売れただけだろ」
「なに赤くなってんの。お父さん言ったでしょ。気が早いって。実際、お父さんはあんまり気が早いほうでもないから、そこだけは冗談ね」
とお袋は笑う。
ただ、本当にそれほど気が早かったわけでもなく、次に親父が帰ってくるまでには、ありがたいことに一番人気の商品になってくれていた。
俺が十八になる年。
つまり、創暦一五七一年。
近所に引っ越してきた家族が、客として買い物に来た。
その客は、十二歳の少女。
これから歌劇団に入るというホツキという子だった。
三人の妹がいる長女で、その妹たちにお気に入りのプリンを取られたことがきっかけで、《マインペン》が欲しいらしい。
「これでボクのプリンが勝手に食べられることもなくなるよ。ありがとうございます」
そんな調子で親父の《マインペン》も売れたし、お袋の《保存手帳》も少しずつ売れてる。だが、俺の《速記鉛筆》がなにより売れる。
秘書や絵描きに好まれてよく買われるようになった。
わざわざ秘書のために買いに来る上司もいるようだった。
その客は、小さな少女を連れていた。
「これが噂の《速記鉛筆》か。チカマルくんにお土産にしようか」
「秘書ですからね。喜ぶと思います」
「おれたちの分も買っておこう。我々も勉強用に便利だ」
「わーい! トウリさま、姫もこれでもりもり勉強します!」
「ふふ。姫が勉強好きになってくれるとうれしいが……」
こんなふうに、秘書へのプレゼントだけじゃなく、勉強用にも評判がいい。
次に来た客を見て、俺はその理由に思い当たる。
「アキさん、エミさん」
「やあ、ショウタくん」
「久しぶり。売れてるみたいだね」
アキさんとエミさんは、去年うちに来ていろんな商品を試して遊んで、そこで仲良くなった。
実はこの二人が王都や王都の外でもうちの商品がいいと宣伝してくれていたらしく、おかげで《速記鉛筆》はそこそこ有名になった。変わった二人組だ。
「今日はなにか買いますか? いや、お二人にならタダで差し上げます。欲しいものなんでも持っていっていいですよ」
「ありがとう! じゃあ《保存手帳》のページを一年分と……」
「あと、速記鉛筆も!」
つい、俺はあははと笑ってしまった。本当に遠慮がなくて、そこが二人との距離のなさを感じられて、ちょっと会わなくても二人が変わってない気がして、なんか好きだった。
なんでもない話に花を咲かせて、俺は二人との時間を楽しんだ。
「あ、そうだ。商品でしたね。はい、どうぞ」
「助かるよ、ありがとう」
「お礼に《
「きっといいことあるよ」
「ごきげんよーう」
「ありがとうございました」
二人が去って行く。
実は、エミさんの《打出ノ小槌》は、一つ振ると一ついいことが起こる魔法だ。効果はランダムでどんないいことなのかわからない。効果があるのは振られてから一日の間。
どんないいことがあるのか、それも期待せずにいたが。
夕方、親父が帰ってきた。
俺は驚いた。
本来なら、帰ってくるのは来週だったのに、ちょっと帰りが早まっても今日だとは思っていなかったからだ。
エミさんの小槌のおかげかもしれない。
「親父、おかえり」
「あら。お父さん、帰ってくるなら言っておいてくれたらよかったのに。たいしたもの用意できないよ。でも、ちょっと買い物に行ってこようかしら」
お袋は買い物に行き、親父は風呂場に行った。
この日の晩。
親父はお袋と話していて、といってもお袋が一方的にしゃべって親父が聞いていたのだが、手紙の話になった。
お袋が勝手に送った俺の絵について、
「ショウタってば珍しく船の絵を描いてたわよね。ここ最近は鳥とかネコとか木とか描いてたのに。久しぶりじゃない? お父さんの絵を描いたの?」
「ち、ちげえよ。親父の船を描いたわけじゃねえから。ガキじゃねえんだ」
俺がちらと親父を見ると、ぽつりとひと言。
「あんな背中でも見ておくもんだ」
「またわけわかんねえこと言って」
呆れる俺に、お袋は笑いかける。
「そんなことないって言ってあげたら?」
「なんの話だよ」
「お父さん、ショウタのことガキなんて思ってないわよ。立派な大人になったって思ってるの。子供は親の背中を見て育つって言うでしょ? だから、自分の背中を見せてもこんなに立派になったって喜んでるんじゃない」
「なげえよ」
ついお袋につっこみを入れるが、お袋は笑って俺の背中を叩く。
「あんなに短く言ってくれたでしょうが」
「……う」
確かに、長いどころか短くてわからなかったほどだ。俺は言い直す。
「あれじゃわかんねえって言ったんだよ」
これでも精一杯の照れ隠しだった。親父はわかりにくい冗談みたいな短い言葉で、それとなく褒めてくれたっぽいこともある。だが、大人になったと言われたのは初めてだったんだ。
今思えば、あれが最後の会話だった。
親父は翌年、つまり今年事故に遭った。
創暦一五七二年三月、親父の乗っていた船は難破した。
原因は天候なのか巨大な海の魔獣に襲われたのか、ハッキリしていない。ただ、船が難破してしまったと報告があった。
海の仕事で、海には思わぬ環境的な変化もあれば、巨大な魔獣も多い。
ただ、最初は信じられなかった。
お袋は悲しんだし、俺も悲しい気持ちもしたと思うが、信じられなくなって状況がよくわからなかった。
あんな飄々とした親父が死ぬはずないと思っていたのだろう。
今にもひょっこり帰ってくる気がするのだ。だって、いつも漁に出てて家にはあんまりいない親父だったからな。
葬式もして、遺体もない親父を送って、あれから半月も経つと、ちょっとは実感も出てくる。
それでも、やっぱり受け入れていなかったんだろう。
ふいに入った親父の部屋で小箱を見たとき、俺が未だに親父の死と向き合えていない理由がわかった気がした。
小箱の謎があったからだ。
俺にはずっと気になっている小箱がある。
父が大切にしていた小箱だ。
たぶん、俺が物心ついた頃には今と同じように、大切にあの場所にあったと思う。
でも、触れない。
あれは一体なんだろうか。
不思議で仕方なかったあの小箱を、今なら開けてもいいんじゃないかと思った。
お袋に相談すると。
「そうね。お父さんも死んじゃったし、開けてもいいんじゃない。でも、どうやって開ける?」
「わかんないけど、王都にいるっていう『万能の天才』なら開けられるんじゃないか?」
「いる場所わかる?」
「知らないんだよなあ……」
そんな三月の末。
店の前を桜の花びらが舞うと、二人の客が入ってきた。
俺の友人、アキさんとエミさんだった。
二人は会って久しぶりと挨拶すると、すぐに俺の表情からなにかを読み取った。普段から笑ってばかりで、親父とは違うけどなんだか似ている飄々とした感じを振りまく割に、察しはいい。
「もし言えるならさ、ボクら聞くよ」
「心に空いた穴はすぐに埋めることないけど、話すと気持ちに整理がつくことだってあるんだよ」
見た目は十代半ばくらいなのに、俺の二つ年上のアキさんとエミさんは不思議な人たちだった。この二人にはわかったようなことを言われても苛立ちもなければ、他の人には話せないことでも話せる気がするんだ。
「ええっと、趣味の絵をやめたんですよ」
なんだかうまく言葉が出なくて、最初に言ったのはそんなつまらないことだった。
だが、二人は真剣に聞いてくれた。
「そっか。いろんな戸惑いが絡み合って、今までやっていたことができなくなることってだれにでもある気がする」
「抱えきれなくなってたんだね。その理由と向き合って解決するのって簡単じゃないけど、よかったら聞かせてよ。いつまでだって聞くよ」
いつの間にか、俺は親父のことをつらつら二人に話していた。
一度しゃべり出すと、堰を切ったように言葉が出てくる。
すべて聞いたあと、アキさんとエミさんは小箱を見に部屋へと行った。
俺はこの小箱を開けられるのは『万能の天才』と噂される人くらいだと思っていた。
でも、二人はやっぱり普通じゃなかった。
「これか」
「開けるね」
普通は触ることさえできないのに、二人は小箱に触ってあっさり蓋を開けてしまった。
「どうして、開けられるんですか?」
なにが入っているかよりまず、それが気になってしまった。
「ボクらにもわからない。どうしてだろうね」
「それより、中を確認してみたらどうかな」
エミさんが小箱を手に持ち、俺に差し出した。
俺は小箱の中身を確認する。
「これは……」
手紙だった。
全部、お袋からの手紙だった。
読んだらしいことはわかっていたが、それを帰ってくるまでには捨ててしまったのかどうかさえ俺にはわからなかった。
あの手紙と俺の描いた絵は、ちゃんと小箱に入っていたのだ。
実はちゃんと大切に保管していたのだ。
俺はそれを知って、うれしくなった。
それなのに、不思議と涙が出た。
手紙と絵を、俺は何分も見ていた。
そして、アキさんとエミさんは俺に優しく言った。
「そんな涙が流せてよかったね」
「心が埋まった感じがする」
「はい。ありがとうございます」
それから、二人はいつもみたいに飄々と去って行く。
「また来るからね」
「ごきげんよーう」
俺はまた「ありがとうございます」となんとか声を絞り出すだけしかできなくて、姿が見えなくなってもしばらく見送っていた。
お袋が顔を見せると、俺はやっと我に返ったように、小箱を開けてくれたアキさんとエミさんの話をして、小箱の中身も見てもらった。
「そっか。そうだったのね」
もっと驚くかと思っていたのに、意外とお袋はただ優しい目をするだけだった。
なんとなく気づいていたのか、どうなのだろうか。
まあ、そんなことはなんでもいい。
アキさんとエミさんのアイディアで、小箱には親父が残した《マインペン》で俺とお袋の名前も書いてくれた。これで、俺とお袋も小箱に触れるようになったのだ。複数人の署名も可能だとは俺やお袋でさえ知らなかった。
もしかしたら利用者で知ってる人はいたかもしれないが、これで俺と謎の小箱の話はもう終わり。
四月に入って、今朝また小箱が気になって中身を見れば、お袋から親父への手紙が増えていた。
お袋にとっては手紙を書くのは習慣になってるんだろう。
俺も、なんだか手につかなくてほんのちょっとの間だけやめていた絵だけど、また描いてやってもいいような気がしてる。
そんなわけで、もしかすると俺と小箱の物語には続きができるかもしれない。
それならそれでいいよな。
俺は今日も文房具屋『鈴浦』で店番をする。
創暦一五七二年四月八日。
ここで話は冒頭に戻る。
《速記鉛筆》のおかげで、一秒とかけずにこう書けたってわけだ。
『《マインペン》は現品限りです! この機会を逃すと二度と手に入りません!』
達筆だとは思うけど、まだ親父ほどじゃない。
まあ、お袋のほうが親父よりも字がうまいから、俺もそのうち親父以上の字は書けるようになるつもりさ。
今日、残りも少なくなった《マインペン》は、午前中にも売れてくれた。
昼過ぎになって、残りは一本。
客が来た。
三人組だ。
少年が一人と少女が二人。
「《保存手帳》、素敵です。わたしはこれにします」
「《速記鉛筆》。私が王都にいた頃にはあったかしら? これは便利そうね。買っておかないと」
二人の少女がそれぞれ欲しい物を決めて、白銀の髪を持つ少女が帽子の少年に聞いた。
「気になるものでもありましたか?」
「うむ。《マインペン》」
「現品限りだそうです。そう書かれていると欲しくなりますよね。しかもラスト一本ですよ」
「それもそうだけど、この効果が絶妙だ。記名された人物以外は触れない。これ、俺が普段書いてる戦術ノートに使えるんじゃないかと思ってな。俺の名前の他に、クコとルカの名前も書いても有効だろうか」
あの少年はすぐに俺が長年思いつかなかった使い方に思い至っていた。発想が柔軟みたいだ。
俺は少年に教えてやる。
「名前を書かれた人は何人でも効果ありだよ」
「そうですか。では、これください」
「はい。まいど」
カウンターに座ったまま三人組を見送って、すっからかんになった《マインペン》の売り場を見る。
俺は店の前を舞う桜の花びらにぽつりと言った。
「親父、売り切ったぞ」
幸い、親父が心配するほど店を大きくしないといけない種類の商売じゃない。ちょっとくらい狭くてもなんとかなるもんだ。
だから、現品限りと書いた紙は残したまま、あの売り場は保存しておくことにした。俺の名前を書いて、他のだれも触れないようにする。泥棒だって盗みたくもないだろうがな。ついでに、俺は自分用に持っていた《マインペン》で、こっそり親父の名前を書いた。
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