王都番外編【おまけの短編集】
幕間怪劇 『音葉薺は猫又屋敷に迷い込む』
ある夏の日、
近所のネコが遊びに来ていたのである。
しばらくすると縁側に座り、膝にネコを乗せて麦茶を飲む。
「シャミも……どうぞ」
ネコに水をやる。ネコはチロチロと水を舐めた。
空が茜色に染まるや、郷愁的に降り注ぐ蝉しぐれをネコと共に聞き、時を過ごす。日が落ちかけると、ネコはふらりと膝から下りて、どこぞへ歩いてゆく。
「また、遊ぼうね。シャミ」
シャミは、ナズナがつけたネコの名前だった。
もう年寄りに近いだろう。
創暦一五七一年の夏の終わりで、ナズナがシャミと友だちになってから五年は経ったろうか。
この夏の日も、ナズナはしばしばネコと遊んだ。
まだ十歳のナズナは、生まれも育ちもこの王都。
晴和王国の
つい先日まで、ナズナは家族とアルブレア王国にいるいとこの家に行っていた。 しかしたったの二週間ぽっちで晴和王国に戻ってきた。
普通は数ヶ月かかる船旅をたったの二週間で戻れたのも、特別に船足の速い蒸気船と特殊な魔法の使い手のおかげだった。音葉の家が元将軍家で、ナズナの父・カエデが王家とも密接な関係を持つゆえである。
同じ時期、お隣の幼馴染みも海の外に出ていた。
隣に住む幼馴染み
もうすぐ帰ってくるはずだが、一番の親友チナミがいない今、ナズナの遊び相手はシャミだった。
「シャミ……まだ、来てないな……」
明くる日、縁側に座って本を読みながら待っているが、シャミはなかなかやってこない。
ナズナは立ち上がり、近所を歩いて回った。
すると、シャミがいた。
近所に住むシャミには飼い主がおり、その家にいたのだ。
生け垣からそっと庭を覗き見ると、シャミは女の子にいじめられていた。
「ああもう! おもしろくない! 母さんったら、勉強しろとか、家のこと手伝えとか、妹ばっかり可愛がって!」
女の子は、
タケコはシャミに当たっていたのである。
――かわいそうに……シャミ……。
心を痛めても、ナズナには助けに行く勇気がなかった。
「ひひひ。《
頬まで裂けるほどニタリと笑う口元をぷっくらふくらませたタケコ。
たちまち、タコのような形をさせた口からは、もくもくと煙が出てくる。
灰色の煙がシャミの胴体に巻きついた。
あがくシャミは逃げられない。
「この! この!」
動けなくなったシャミは蹴っ飛ばされて、尻尾を踏みつけられた。
可哀想に、シャミは声も出せずにうずくまる。
この少女の魔法《
いじめっ子が持つにはたちの悪い魔法である。
気が済んだのかタケコが家の中に入っていくと、ナズナは生け垣からこっそりシャミを呼んだ。
「シャミ」
にゃーとシャミは弱々しい声で鳴き、のそりのそりと歩いてきて、生け垣から顔を出す。
ナズナはシャミを抱きかかえて、散歩した。
「助けて、あげられなくて、ごめんね……」
「みゃ」
眠るようにそれだけ答えて、シャミは目を閉じた。
抱っこしたシャミを撫でながら家に戻る。
ナズナは、自宅の庭でシャミに向かって歌ってやった。
「あー」
天使のような歌声であった。
それは魔法であり、ナズナの歌声はシャミの身体の傷を癒やした。
「《元気ノ歌》だよ。……シャミ、元気に、なった?」
不安そうに、慈しむように、ナズナはシャミに語りかける。
優しい歌声に身体も良くなったシャミは、目を細めてやわらかに鳴いた。
「にゃ~」
「ふふ。よかった」
シャミは歩いてゆく。
「あ。シャミ……帰るん……だね」
気まぐれに帰るらしいシャミは、いつもふらりと去ってゆく。
しかし今日はいつもと違い、お礼でも言うように、一度振り返って鳴いた。
「にゃ~」
「また、遊ぼうね。シャミ」
ナズナが手を振り、シャミは帰る。
いじめっ子に傷つけられるのを見かねて、ナズナの魔法は効果を上げていたから、シャミの足取りも確かなものであった。
さて、翌日。
まだ親友のチナミは帰ってこない。
「チナミちゃん、いつ帰ってくるかな……」
遊び相手が欲しくて、ナズナは目線を動かしシャミの姿を探した。
けれども、シャミもいない。
一日待ってこなくて、また翌日も待った。
夕方にもなると、ちょっと気になってタケコの家を覗きに行った。
シャミはいなかった。
さらに翌日。
ナズナはシャミが来ないのがどうしても気になって仕方なくなり、シャミを探して彷徨い歩いた。
空を、真っ赤な色が覆い尽くす。
黒い雲が茜空に散り、ナズナの影は長く伸びた。
「シャミー」
呼びかけるが、どこにもシャミは見当たらない。
「シャミー」
夢中で探していると、目の前に、人の姿があった。
さっきからずっと立っていたのか、それはわからないが、悠々とひょうきん者のような顔で薄い笑いを浮かべている。
白髪と白髯のおじいさんで、ナズナを見ている。
ナズナも視線に気づいて見返し、目が合うと、おじいさんは軽い調子で話しかけてきた。
「ずいぶん必死に探しているようじゃな。シャミってのはネコか?」
こくりと、ナズナはうなずいた。
「おまえさんが探しているシャミは、白猫か?」
また、こくりとナズナはうなずいた。
「そいつなら、あっちに行ったぞ。王都の外れのな、立派なお屋敷へ入って行った。青黒い瓦屋根のお屋敷なんじゃ」
指を差す方角に目を転じ、おじいさんにぺこりと頭を下げた。
「あ、ありがとう、ございます」
「ええんじゃ。そうじゃ。おまえさん、今から行くんか?」
「は、はい」
「じゃあ、これを持って行くとええ」
おじいさんは、赤い木の実をひとつ差し出した。
その意図がわからず小首をかしげたまま、ナズナは受け取るか迷ってしまった。
「困ったときには食べるとええよ」
「あの……おじいさんは、いったい……」
「そんなことはどうでもいいことじゃ。それより、早く行かないと暗くなってしまうぞ」
「は、はい。あ、ありがとう……ございます」
おじいさんの手のひらから赤い木の実をつまみ、ナズナはネコの顔の巾着袋にしまった。
ぱたぱたと走り出して、足を止めた。
「ええと、お礼は……また」
振り返ってみると、どうしたことだろう、さっきのおじいさんはいなくなっていた。
夢でも見たのかという気持ちになるが、赤い木の実は巾着袋にあるし、せっかく教えてもらった屋敷に向かい、駆けて行ったのであった。
ナズナが王都の外れまでやってくると、暮れなずむ夕陽もだいぶ落ちかけ、暗くなってきた。
――もう、帰らなくちゃ……。
ここに来るまで無我夢中で、星が点々と空に浮かび上がっていたことにも気づかなかった。
不安げにナズナが立ち尽くすと、声がかかった。
「もし」
呼ばれたとわかり、ナズナはそっと振り返る。
そこには、おばあさんがいた。
三角形を並べたような鱗という柄の着物をまとっており、年は八十くらいになるのではないか。
「は、はい」
「もう外は暗いよ。夜になる。王都の夜は危険もある。今日はうちに泊まっていきなさい」
知らない人の家にお世話になるのも申し訳なく、ナズナは首を横に振った。
「い、いいえ。ありがとう、ございます。でも、家までの道なら、わかっています……」
おばあさんはナズナを上から下までゆっくり見て、無表情に言う。
「そうかい。それなら泊まっていけとは言わないが、夜道は危ないし、提灯を用意してやろう。ここで待つのもなんだし、中へお入り」
「……は、はい」
勧められるままに、ナズナは屋敷の門をくぐってしまった。
「わしはタビという名で、この屋敷では長いほうだ」
タビと名乗ったおばあさんは、それからは無言で歩いた。
暗いからさっきまではわからなかったが、この屋敷は門も屋根も、瓦が青黒い。
――もしかして、さっきおじいさんが言ってたのは、ここ……? シャミ、いるのかな?
そわそわと視線を巡らせて歩いていると、急に、タビは振り返った。
「なにか、お探しかい?」
「え、あの……ええと、お友だち……ネコを、探しています」
タビはくるりと前に向き直り、歩き出す。角を曲がって、
「ここで待ってるんだよ」
と襖を開いた。
手持ち無沙汰な客がひとりで待つには、ずいぶんと広い部屋だった。
パチンと乾いた音を当てて襖が閉まる。
部屋の隅にぽつんと座り、ナズナは待った。
しばらくすると、襖越しに声がかかる。
「提灯が見つからなくてね。もう少しだけ待ってておくれ」
さっきのタビの声だった。
「は、はい」
ナズナの返事をちゃんと聞き取ったかはわからないが、タビはスタスタと歩いて行ったようだった。
また少しして、また襖越しに声がかかる。今度は別の声だ。
「お客さん。すみませんが、もう少しだけお待ちを。代わりと言ってはなんですが、お食事を用意しました」
すぅっと襖が開き、膳が出された。
中年の女性だった。
「わ、わたし、いり……ません。大丈夫、です」
「少しだけでもどうぞ。では」
有無を言わせず、中年の女性は下がって行った。
襖が閉まり、ひとりきりになったナズナだが、薄暗い屋敷の中だから、怖くて食欲なんて出ない。
ロウソクが一つきりで、風が吹けば消えそうな弱々しさだ。
膳には近づきもせず、じっと待っていた。
すると、今度は若い女性の声がした。
「失礼いたします。お風呂の準備ができました」
サッと襖が開き、ナズナは困惑した。
「お風呂……?」
「その声は……」
若い女性は、目を大きく見開いてナズナの顔を仰いだ。
「あなたはどうしてこのお屋敷へ?」
「お友だちを、探しに、来て……」
「ここは、あなた方が来るところではありません。人間が来てはいけないところです」
「人間……?」
「はい。ここは恐ろしいお屋敷です。早くお逃げください」
「え……」
そう言われると急に怖くなった。
ナズナは震えながら聞いた。
「ど、どうして、教えて、くれるん……ですか?」
「実は、わたくしは、あなたに可愛がられていたネコなんです」
「シャミ?」
咄嗟にその名前が口をついた。
どことなく、顔に面影があるような気がしたのだ。
「はい。今までお世話になり、本当にありがとうございました。あなたの優しさには、何度も救われました」
「シャミが、なんで、人間に……?」
「ここは、このあたりの年老いたネコたちが集まる場所。そして、猫又の妖怪になる場所でもあるんです。ネコは死ぬ姿を人に見せないと言うでしょう? それは猫又になるネコがそうだからなのです」
「シャミは、妖怪に、なったの?」
「そうなりますかね。ネコとしては十七年も生きました。そして、猫又になったのです。姿も今のわたくしのように人間らしく見せることもできますが、猫又は普段、ネコと人間の顔が半々くらいの見た目になるのです」
「シャミ、さみしく、ない? いじめられて、ない?」
シャミは優しく微笑んだ。
「大丈夫です。ここにはいじめる者はいません。それより、食事には手をつけていませんか?」
「うん」
「お風呂にも入ってはなりません。ここの物を食べたり水を浴びると、ネコになってしまいます。ですから、急いで逃げてください。見つからないように」
「で、でも……」
「わたくしのことならば心配いりません。もうただのネコには戻れない。もう会うこともないでしょう。最後に、これを差し上げます」
ナズナの手に握らせたのは、それはそれは綺麗なピンク色の宝石であった。
「どうぞ、ささやかですがわたくしの気持ちです」
「シャミ……」
「逃げて」
促され、ナズナはうなずいた。
「うん。シャミ、ありがとう」
「こちらこそです。こうしてお礼を伝えられてよかった。さようなら」
それから、ナズナは屋敷の者たちの目を避けるように、こっそりと部屋を出た。
廊下では幸いだれにも見つからず、冷や汗が流しながら、ようやく玄関を通り抜ける。
あとは、庭をまっすぐ進んで、門を出ればよい。
だが、背後からドタドタと足音が聞こえてきた。
「逃げたぞ」
「捕まえろ!」
ナズナは玄関を飛び出した。
すると、門の脇からネコの顔をした妖怪が何人も出てきた。
門から出すまいと、猫又たちは門を固める。
振り返ると、後ろからやってきた猫又の手には、桶とひしゃくが握られていた。
「湯をかけてやる」
「ネコにしてやる」
猫又の男や女が後ろから迫り、とうとうナズナは前に走り出した。
しかし、前にも門を固めるネコたちがおり、ナズナは取り囲まれてしまった。
――ど、どうしよう……。
困ったナズナは考える。
そこで、夕方に会ったおじいさんの顔と言葉が浮かんだ。
――困ったときに食べるとええって、言ってた。
ナズナは巾着袋から赤い木の実を取り出して、口に放り込んだ。
ごくんと呑み込み、すぐに身体の変化に気づく。
「からだ……が、軽い……」
実は、あの赤い木の実は身体を軽くする効果があるらしかった。
元々ナズナには、空を飛べる魔法があり、それによってふわぁっと三日月の浮かぶ空に舞い上がった。
ひしゃくから湯水をかけようとする猫又たちも、空の相手には届かない。
屋敷の屋根から飛びかかってくる猫又もあったが、ナズナは軽くなった身体のおかげでそれも避けて、そのまま勢いよく屋敷から離れていった。
――よかった……。からだが、軽かったから、空を速く飛べる。おかげで、逃げ切れた……。シャミ、おじいさん、ありがとう。
翌日。
ナズナの隣に住む幼馴染みのチナミが帰ってきた。
おじいちゃんとの思い出話を聞かせてくれて、そのお返しに、ナズナも昨日のことをチナミに話した。
それを盗み聞きしていた少女があった。
シャミを飼っていたタケコである。
タケコはニタニタしながらナズナに突っかかってきた。
「話は聞いたよ。シャミって呼んでたんだ。ワタシはあんなネコに名前なんてつけなかったんだけどさ、飼い主はワタシだったわけ」
「だからなに?」
怖がるナズナの代わりに、チナミが聞いた。
チナミは小柄なのに、年上で背の高いタケコにもまったくひるまない。
「だから、ワタシが行けばもっといいお礼がもらえるってことよ」
ナズナのもらった宝石がうらやましくてたまらなかったタケコは、「どいて」とナズナを押しのけて、さっそく屋敷へと出かけて行った。
タケコが目当ての屋敷を見つけると、おばあさんが出てきた。
三角形を並べた鱗の柄の着物をまとっている。
「ねえ、おばあさん。ワタシ、友だちに会いに来たの」
「そうかい。その友だちがいるかもしれないし、まあ、中へお入り」
「はい」
門をくぐって中へ入り、タケコは期待して待っていた。
しかし。
屋敷から、タケコが戻ってくることはなかった。
王都の治安を守る見廻組がタケコの捜索をしたが、何日経っても見つからない。
後日、ナズナとチナミがその屋敷のあったところへ行ってみると、そこには普通の家が数件並んでいるのみだった。
数ヶ月後。
桜の舞う時期になった。
ここを歩く二人組がおり、家の前で足を止めた。
「あ。ネコちゃんがいる」
男女の二人組で、頭にサンバイザーをつけている。顔立ちが若作りだからまだ少年少女に見える二人で、少女のほうがネコの前でかがんだ。
ネコはおばあさんの膝の上に抱かれ、身動きも取れない様子であった。
「あはは。なんだか暴れようとしてるように見えるよ」
「お転婆だ」
「ね」
「おばあさん。このネコ、なんて名前ですか?」
ネコを抱いたおばあさんは、三角形を並べた鱗の柄の着物をまとっており、皮肉っぽい笑いで答える。
「名前なんてつけてないよ。ネコって呼んでる」
「へえ」
「エミ、その子なにか言いたそうじゃない?」
「アキ、そんなことわかるの?」
「なんとなく」
「なんだ、適当か。あ、ネコちゃん、口から煙吐いたよ。輪っかができた。アタシの足に巻きつけてる」
「魔法が使えるなんて、すごいネコだ」
おばあさんはネコに注意していた。
「こら、ネコ。人様にちょっかいをかけるんじゃないよ。ごめんなさいね」
「いいえ。ネコちゃん、おばあさんの言うこと、ちゃんと聞くんだよ」
「ごきげんよーう」
二人組が去り、ネコはぐったりとおばあさんの膝の上で頭をもたげた。
ひらひらと桜の花びらが踊る季節になっても、未だにタケコの行方は知れず、ナズナに赤い木の実をくれた不思議なおじいさんの姿を見かけることもあれ以来なかったということである。
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