10 『青葉玖子は万能の天才の話を思い出す』
ルカは、役所で研究論文を提出した。
外に出て、この建物を見上げていると、隣に立つサツキが手を合わせ、目をつむっている。ルカは小首をかしげる。
「?」
サツキは願った。
――この論文が、認められますように。
純粋な気持ち半分、それによる効果の計算が半分。
もしこれが認められれば、ルカにとっての御守りになるだろう。ずっと先になるかもしれない戦いを、サツキは見越していた。
「サツキ、なにを手なんて合わせているの?」
ルカに聞かれて、サツキは片目を開けて微笑した。
「論文が認められるようにと祈っただけだ」
「わたしもお祈りしておきます! ほら、ルカさんも」
「わ、私はいいわよ」
そう言いつつも、クコに促されるままルカも祈った。
三人はまた町を歩く。
春風に乗って川に運ばれた桜の花びらは、赤よりも鮮やかに舞い、屋形船に乗る人たちの目を楽しませる芸術になる。
浮世を彩る絵のようである。
瓦屋根の家並みは整然としたもので、様々なのぼりが立ち並ぶ。
昼間だからまだ提灯はただ風に揺れるだけだが、提灯一つ取っても、漢字やひらがなで文字が書かれたものがあったり、山や波が描かれたものがあったり、鬼や猫の顔になっているものがあったりと、お祭りのように色とりどりの種類があった。
そんな空間の中にも、大通りには提灯以外の明かりとしてガス灯があるなど、江戸の街並みに西洋の風味も混じっている。建造物にもそうした趣向を持つ物も見受けられた。
これも千と八百八町ある王都の中のほんの一部だという。
異風の大都会に、サツキは足を取られそうになった。
「ここも人が多いな」
サツキが人通りを見ながらつぶやくと、ルカが足を止めた。
「ええ」
クコも、サツキも、足を止める。
人の波が流れてゆく。
「今の時代、この都会はだれもが足早に通り過ぎる。私たちを置いて。自分がただこの喧騒に迷い込んだだけなのに。それに気づかないフリして」
ふと、サツキはルカとあの朝に話したことを思い出す。好きになれない過去が、フラッシュバックしたのだろうか。
そう思って、サツキは言った。
「急ぎ足な他人たちが、自分を見向きもせずに流れてく。忙しい都会に人は溶け込むばかり。それは、俺の時代……いや、俺の世界だってそうだ。きっと、いつの時代のどの世界でも変わらないことなんだよ」
「……」
ルカの視線を感じ、サツキは小さく微笑んでみせる。
「ルカが王都に抱いている乾いた情緒もわかるけど、俺にはこんな王都がおもしろい不思議な場所に見えて楽しい。逆に、ルカには俺の世界の都会が楽しいものに映るんだろうって思うぞ」
ふっ、とルカは笑った。
「そうかもしれないわね」
――春は心が揺れる。でも、サツキが隣にいるからかしら? 今は心地のいい揺らめきよ。花びらが舞い揺れるような、そんな穏やかさ。
柔らかな微笑みでルカは言った。
「サツキの世界の話、あとで聞かせて」
「もちろんだ。それより、今は俺にこの世界のことを教えてくれ」
「いいわよ」
「はい。なんでも聞いてください」
ルカとクコがうなずき、三人は歩き出す。
サツキは聞いた。
「じゃあ一つ質問がある。国王が住むから、ここは『王都』。それに対して、
「『
と、ルカが教えてくれた。
「なるほど。古き良き都市か」
クコは楽しそうに歩きながらサツキとルカに微笑みかける。
「洛西ノ宮も大きな街ですよね。わたしは伝統工芸のお店が好きです」
「一日じゃ見切れなそうだな」
「観光したいですが、また今度来ましょう。アルブレア王国が落ち着いたら」
「そうだな」
そのとき、自分はどうなっているだろう。ふとサツキの頭にそんなことがよぎったが、今は考えないことにした。
「他の晴和王国内の国はどうなってるんだ? 覚えておいたほうがいい国ってあるだろうか」
「わたしはそれほど詳しくありませんが、
認識としては、クコが知るのはその程度で、他の国々の知識もあるが語るほどでもない気がした。
ルカはむろん、クコより詳しい。
「『魔王』スサノオの名は覚えておいていいかもしれないわね。『
「へえ。すごい人がいたものだ。信果ノ国と湯越ノ国はどこにあるんだ?」
「そうね。《お取り寄せ》で地図を見たほうが早いわ」
と、ルカは地図を取り寄せた。
それによると、信果ノ国はサツキの世界での山梨県と長野県、湯越ノ国は新潟県あたりだった。
「信果ノ国はフルーツ王国で果物の生産が有名よ。軍政共に優れた国主と、そこに仕える隻眼の名軍師『
「この関東は特にないのか?」
「関東では、
「なるほど」
どこかで、彼らのうちのだれかに会うこともあるだろうか。もしそうなれば、影響を受けずにはいられない気がする。サツキのそれは杞憂ではないのだが、ルカは気楽な微笑を浮かべた。
「まあ。それよりも今は仲間探しでしょ。会ったらその時に考えればいいわ。まず、クコのいとこのナズナって子を仲間に誘わないといけないのでしょう?」
ルカには、
「はい。ですから、ナズナさんのお宅へも向かいませんとね」
「うむ。あとは、ルカの魔法の師っていう『
「クコのほうが済んでからでもいいけれど」
サツキとルカの会話を聞いて、クコは声を上げた。
「今思い出しました! そういえば、博士が『万能の天才』というお方の話をしてくれたことがありました!」
「博士も知ってるんだな」
「会ったことはないそうです。ただ、博士がわたしたち姉妹の家庭教師になったのは、その『万能の天才』が断ったからだといいます」
藤馬川博士がクコに話してくれたことがあった。そのときは気にしていなかったのだが、今やっと記憶と現在がつながったのである。
生物の授業をしているときだった。
「博士はいろいろな生物のことまで詳しいのですね」
「好きで調べていたら、自然と知識となっていただけのことです」
「様々な分野に通じた博士のお話はとても勉強になります! 本当によい先生と巡り会えました。この縁をつくってくださった両親や大臣の方たちに感謝です」
にこやかなクコに、博士は自嘲するでもなく苦笑してみせた。
「いいえ。わたくしの知識など、本来クコ王女の先生となるべきお方に比べたら些細なもの」
「本来? 別の方が先生になる予定だったのですか?」
「ええ。『万能の天才』と呼ばれるお方です。このお方を呼びたかったのは、ブロッキニオ大臣だそうで」
「つまり、ブロッキニオ大臣にとって都合のよいお方……というわけでもなさそうですね。わたしにとってもプラスになるお方だったのでしょうか」
「冷静に考えられていますね。その通り。ブロッキニオ大臣は、ただ有名な『万能の天才』を手元に置いておきたかっただけでしょう。あの『万能の天才』を呼ぶことができたらアルブレア王国の誇りだ、と漏らしていたそうですから」
「なるほど。わたしに学問をさせるためでも、わたしの考え方を改めさせようとするでもなく、むしろ飾りにしたかったのですか。実権を握ったあとでさえ、国の尊厳を見せる部品として機能しますしね」
「まさに、そうした計算もあったのでしょう。『万能の天才』とは、それほどの賢者です」
「博士さえ一目置くほどの人物というからには、すごい方なんですね」
「『万能の天才』にとっても悪い話じゃない。それなのにどうしてこの大任を断ったのか……。なにか理由でもあるのですかな? 非才のわたくしにはわかりませんが、もしあのお方に出会うことがあれば、クコ王女にも影響を与えずにはおかないでしょう」
「はい。お会いできたらうれしいです」
それ以降、クコは藤馬川博士とその『万能の天才』の話をしなかった。だからすっかり忘れていた。
クコからそんな話を聞いて、サツキは手を打って喜びたいほどだった。
――それほどの人なのか。ルカから聞いたばかりでは、すごいことしかわからず輪郭も得られなかった。クコの話からも、玄内先生の人物像にまでは迫れなかったが、俺が想像していた以上の人物らしい。
「なんとしても、玄内先生は探したいな」
「はい! 玄内さんとナズナさん、二人が仲間になってくれたら心強いですね」
サツキとクコはその気になっている。
「他には、忍者以外に仲間のアテはなかったのよね?」
ルカの問いにクコが答える。
「わたしが博士と話していたところでは、ルカさんとナズナさんと忍者の方だけでした」
「ルカは、どんな仲間が必要だと思う? 玄内先生の他に」
サツキに聞かれて、ルカはわずかに考えてから答える。
「そうね。料理をつくれる人がひとり。あとは強い人。かしら。人数は十人以上が目標だったわよね?」
「はい。博士からは少なくとも全部で十人くらいは、と言われてます」
と、クコが答える。
「なら、十人を超えたら、自分たちも含めて役職をつけ、私たちを組織として動かせるようにする必要があるわね。その辺は急に言われてもできないだろうから、今のうちから考えておいて」
ルカからの助言に、サツキとクコはうなずいた。
歩を進めていると。
なにか配っている人もいた。
通りかかったサツキに、青年がチラシを差し出す。
「少年少女歌劇団はいかがですかー? 今夜はどの席も余ってますよー」
ついサツキはチラシを受け取る。
目を通すと、そこには五人の少年たちと五人の少女たちが描かれていた。一応、写真である。サツキのいた世界の写真よりも随分と画質が低いような印象だが、それでも彼ら十人が美男美女であることはよくわかる。
歩きながら、サツキは問うた。
「これは?」
「
ルカの説明を聞き、サツキは自分の知識と照らして理解する。
「なるほど。アイドルのようなものか」
「
もう少し話を聞くと、北は宮城県の辺り、南は福岡県の辺りがそれに当たるらしい。
チラシに写った十人の美男美女には名前も書かれており、サツキはその中でも男役のような凜々しい少女に目が行った。
――
少年歌劇団の美少年とは違ったかっこよさである。
「まあ、私たちには関係のない世界ね」
「うむ。そうだな」
「王都の昼の華が歌舞伎、夜の華が歌劇団、とはよく言われています。どちらも、あとで見に来ましょう。いつになるかはわかりませんが」
クコの言葉にサツキがうなずく。
「うむ」
歌劇団の舞台を見てみたい気持ちもあったが、そんな余裕はないだろう。なにしろ、アルブレア王国騎士に追われる身でもある。またいつ遭遇するかわからない。
サツキが聞いた。
「ナズナの家までは遠いのか?」
「この王都は広いから、場所によっては今日中に着かないこともあるわね」
と、一時期は王都に住んでいたルカも続ける。
クコは街並みを見ながら答える。
「そうですね。到着は夕方くらいになるかもしれません。遅い時間に訪問しても迷惑になるので、今日は近くに泊まり、明日うかがいましょう」
「それがいいわね」
「うむ」
ルカとサツキも同意する。
また、クコはサツキに言った。
「サツキ様。
「確か『
「はい。『
「船の中では食事も出るんだろう?」
「はい。なので、他になにか欲しいものがあれば」
サツキの帽子《
街を歩いていると、クコは工芸品の店の前で足を止めた。
「サツキ様」
「なんだ?」
「これを買ってはダメでしょうか? 美しいです」
ちょっと恥ずかしそうに手に持つのは、小さめのタンスだった。六段の引き出しがあり、小さめといっても大きくはないという程度である。サツキのおぼろげな知識が正しければ、鎌倉彫りに似ている。確かに美しいが却下だ。
「持ち歩けない。俺の帽子にも入らないからな」
「ルカさん……」
潤んだ瞳で見つめられ、ルカは答えにくそうに言う。
「必須なものではないのだし、今は我慢なさい」
「……はい」
しゅんとするクコ。
確かにルカならば《お取り寄せ》の魔法で別の場所にしまっておけるが、こういった即必要としないものは空間の圧迫になる。
「いや、待てよ。衣服をしまって、必要に応じて取り出す場所にするのも悪くないのか?」
「言われてみれば、そうかもしれないわね。その大きさのタンスなら、わたしたち三人分ってことで使えるわ」
ルカは自分の服をしまうために、バックを毎回取り寄せる方法をとっている。だが、バッグよりも収納がきくならなにも問題はなかった。
「私が管理するとして、一人二段でいいかしら?」
目を輝かせてクコが喜びの声をあげた。
「わーい! ありがとうございます!」
さっそくタンスを購入し、ルカが魔法で異空間にしまった。これは基本、ルカの家の倉につながっている。倉の中で武器を大量に保管しており、タンスもそれと同じ場所に入れておいた。
「では、行きましょう」
クコはご機嫌に歩く。
この店からほど近い屋台では、帽子を目深にかぶった女性が人形を売っていた。年はわかりにくいがまだ若いだろう。服がワンピース風で西洋的、売られている人形もフランス人形やマリオネットみたいな西洋っぽいものだった。
「そこの方々」
人形売りに呼び止められ、三人は足を止める。
クコが聞いた。
「なんでしょうか?」
「お人形はいかが? 特にあなた、これを手に持ってごらんなさい」
「手に、ですか」
不思議そうにクコは言われるまま手に持つ。
他の精巧な人形と異なり、デッサン人形のようである。
人形売りはなにも言わないでクコの反応を待つ。
「持ちましたが……」
「どう? お気に召しました?」
「可愛らしいと思いますが、今のわたしには必要ありませんので。すみません」
「いいえ」
クコの手から人形をひったくるようにして取り返すと、もうなにも声をかけて来ず、彼女はじっと座って次の客を待つかっこうになっていた。
「行こうか」
サツキに言われて、クコはおずおずとうなずく。
「はい」
まだ気になるのか、クコは振り返っていた。
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