5 『朝靄は鏡となる』
翌朝。まだ日が昇りかけた時間。
あたりは薄暗く、蒼白い色の雲が浮かぶ。空の端には、白い光がおぼろげにのぞいていた。
サツキが目を覚まして庭に出てみると、ルカがいた。
ルカは振り返り、
「……サツキ?」
「おはよう」
朝の挨拶をすると、ルカも短く返す。
「おはよう。早いのね」
サツキは言葉を探す。
――修業しようと思ってただけなんだが、こういうのはあんまり言いたくないからな。
だから、サツキは別のことを言った。
「いい街並みだ」
診療所の庭から見えるのは、昨夕に訪れたときとは趣の異なる、朝の静かで清涼な空気だった。遠くに朝靄もあるが、それがまた、サツキにはきれいに見えた。
「私もそう思う」
――一晩で答えは出たのか?
サツキはそれを尋ねたかったが、つい街並みに目が行って質問するのを忘れてしまう。
何秒そうしていたか、ルカが言った。
「考えたけど、いっしょに行くのはやめておくわ」
「……そうか」
残念ではあるが、サツキにとっては仕方ないと簡単に割り切れることだった。王国奪還をするのである、協力するハードルの高さは、サツキにもわかる。ただ、ルカへの興味はあった。ルカの使える魔法についてや、ルカがどれほど医術の知識を持っているか、など。しかし、サツキは質問しなかった。
「俺とクコは、正午までにはここを出るよ」
「そう」
関心なさげな返事。だが、それは彼女のはた目の印象であり、サツキには、ルカがなにかを考えていることがわかる。感情が見えにくい声なのは、いろんな気持ちが溶けて混ざっているからだろう。
ルカは聞く。
「サツキは、この世界の人間じゃないのよね?」
「うむ。ただ、よく似た世界だった……。俺の住んでいた国にもこんなふうに桜が咲いていたんだ。景色だけなら、俺のいた時代より古い時代に来た感覚かな」
「そう」
サツキはルカを横目に見る。短い相づちを挟むだけで口を閉ざしているけれど、まだなにか話したそうにも見えた。なので、サツキはルカの言葉を待ってみる。数秒後、ルカは口を開いた。
「サツキは――」
「……ん?」
「この世界を、どう思う?」
おかしな質問だ。元の世界に帰りたくないのか、と聞いたり、向こうはどんな世界だったか、ともっと食いつくところだと思うのだが、ルカの関心は別のところにあるらしい。むしろ、サツキの感性がどんなものか、これがルカの気を惹いたのである。
サツキは思ったままに答える。
「きれいだと思う。それに、俺のいた世界になかった、魔法というものがある。おもしろい。……昨日、俺は同い年くらいの少女に会ったんだ」
なんの話かしら、とルカはサツキの横顔を見る。
「クコが天動説を口にしたとき、その少女は地動説を訴えた。でも、クコの話では、この世界では天動説が一般的みたいだった」
「ええ。当たり前のことよ。ただし、なんの根拠もない」
やっぱりそのレベルか、とサツキは内心で納得する。おそらく、この世界では、ほかにもいろんなことが科学で解明されていないのである。
「俺の世界では、天動説は科学的にハッキリ否定されていた。古代人とか、世界樹とか、トチカ文明とか、俺はそういう謎にも興味がある。……なんか、変な話だったな」
「そんなことないわ。興味深い。サツキのいた世界には、どんな医者がいるの?」
医者として、別世界の同業者が気になるのだろうか。
サツキが、どの医者について話そうか――歴史上の医者か、マンガやアニメの医者か、かかりつけの医者か……と考えていると、ルカは語を継いだ。
「私は、私の医術に自信がないの」
正直、意外だった。サツキには、ルカは堂々として見え、それが医者の娘としての自信から来るものだと思っていた。
「お父さんは立派な医者で、腕が立つ。魔法の腕も確かで、《
「テレキネシスのようなものだろうか」
「そうね。厳密には違うけど、近い。お父さんの魔法では、たとえば……お風呂場の蛇口をしめたいと思えば離れたところにいても想うだけでできるの。医療器具を操作して細かい動きをさせられるし、かなりの熟練度だと思う」
「なるほど」
「お母さんも素晴らしい看護師だわ。でも、私は――手先が不器用だから、ダメなの。できるのは知識をたくわえ、研究の方面でサポートをするだけ。その研究も、私のサポートがなくても成り立つ」
そして、ルカは遠くを見つめながら言った。
「この景色はね――」
「ん?」
急に話が変わったのかと思ったが、違った。
「私の変われなさを映してる」
「変われない?」
「そう。私は、どこにも両親のような才能もなく、努力の仕方もわからなく、でもただただ両親みたいになりたかった。そして両親に必要とされたかった。手先が器用でみんなに信頼される医者のお父さん、明るくだれにも好かれるお母さん。私は、不器用で暗い。そんな私でも、初めてこの街を離れることになったとき、変われるのだと思っていた。新しい世界に飛び出すだけで、なにかが変わって、新しい私になれるのだと期待した。でも、現実は違った」
『王都』
明るく、暗く、幻惑的で、群衆はだれも自分に見向きもせず、ただ一人そこに取り残されたように生きた。
馴染めない都会。
照り返すように乱反射する光と、ゆがむ影。
外に出たくないとさえ思えた毎日。
そんな中でも、良い出逢いはあった。
「魔法の師匠になってくれる人がいて、魔法は覚えた。その人はお父さんの知り合いの医者で、すごい天才だった。そんな人に魔法を教わる機会もあって、私はなにか変われるかと思ってたけど、それでも変われない。魔法も理想とは違って中途半端。紛れ込んだ人混みで、なにかを探し忘れてきたような、そんな気分だったわ。そして、たった二年の歳月が経ってまたここに戻ってきた。あの頃は一秒ごとに離れてゆく。それなのに、私は同じ私のまま」
新しい世界を期待して飛び出すときに見たここからの朝日。
それでも変われなくて、何者にもなれず戻ってきたときに見たここからの朝日。
どちらもなにも変わっていなかった。まったく同じ景色だった。だからルカは、その朝日を見たときに泣いた。変わりたくて変われない自分が嫌で惨めで、悔しかった。
まぶしいはず朝日は輝いているようにも見えず、自分の瞳がくすんでいるのかと疑った。
いや、くすんで曇っているのは、心のほうかもしれない。
今から始まる一日も、なにも変われない昨日と同じ一日なんだと思えて悲しくなった。
――変われると思っていたけれど、現実は違ったの。なんだろう……ただ、足と心がもつれただけだったみたい。
三年前のその姿が思い出されるが、あの泣いている十二歳の自分と、今の自分。それは、まだ同じだった。
変われない。
「私は、医者としての父にも、明るい母にも、一歩も近づけなくて子供の頃と変わってない。それに、両親は、私を必要とはしていないのよ。自分たちの仕事のために私は必要な存在じゃない。だから将来は好きなことをしていいと言ってくれる。善意での言葉だとわかってる。でも、私は――」
そこまで言って、ルカは口をつぐむ。
――しゃべりすぎた。私も、こんな年下の子に相談するなんて、どうかしてるわ。
あの日と同じように朝日を見て、感傷的になっていたのだろうか。ルカは自嘲的な笑みを小さく浮かべる。
しかしサツキはまじめに聞いていた。
要するに、とサツキは察する。
「ルカは、本当は医者になりたいんだな。なのに、諦めている……」
「医者に、なりたい……? 私が……? そう――かもしれないわね。両親の手伝いをしたい気持ちにうそはない。ただ両親に必要とされたかった。ダメな自分が変わることで、必要とされる人間になりたかった。そう思っていた。けど、医者には……憧れていたのかも」
と、ルカは遠くを見つめたまま、独り言のように言った。
サツキはルカの言葉を聞いて、歴史の知識を引っ張り出してみる。昔から伝記が好きだった。だから、出てきたのは、伝記で読んだことがある医者だった。
「
「野口……英世?」
「彼は、幼い頃に、大やけどをして左手が自由に動かせなくなった。だから稼業の農家は継がなかった。そんな彼が医者を志したのは、その左手の手術に成功したからだったんだ。不自由ながらも指を動かせるようになり、感激したのが動機」
「そう」
ルカの声に浮かぶ感情は興味なさげだが、目には光が宿っている。どうやら興味を引いたようだ、とサツキは思った。サツキは野口英世の話を続ける。
「結局、野口英世は左手を患者に見られるのを嫌って、細菌学者の道へ進んだ。でも、医師免許は取れたんだよ。学者として名声を得たけど、だれよりも有名な医者になったことは確かだ。努力すれば、不可能なことなんてないと、俺は思う。そして、その先をどう進むかは、本人の自由だ」
なにか咀嚼するように考えてから、ルカはサツキに尋ねた。
「昨夜、サツキはクコと修業をしてたわね。空手は美しかったわ。剣術の修業は始めてどれくらいになるの?」
「四日前、だったか」
「……サツキは、努力してるんだね」
と、ルカは、サツキに聞こえるか聞こえないかという小さな声でつぶやく。
サツキにはルカの言葉を聞き取れなかったが、会話も途切れたので、一度部屋に戻ることにした。
空と森の境目には、黄色い光が混じっていた。
これから布団にもぐっても、もう少し寝ていられるだろう。
「まだ眠いし、ちょっと二度寝してくる」
「そう。私は、もう少しだけ、ここにいる」
くるりときびすを返すサツキ。
が、サツキはふと足を止めて肩越しに振り返った。
「ついでに言えば、見える景色を変えるものは、自分の意識だと思う」
「自分の意識?」
うむ、とサツキは前を向く。ルカに背中を見せたまま続ける。
「俺がこの世界に降り立ったとき、ここはただの不思議な幻想世界でしかなかった。束の間の夢みたいな。でも、クコから話を聞き、彼女の国を救うと決めたとき、この世界は俺にとって現実になった」
それだけ言って、サツキは去った。
残ったルカは立ち尽くして、黎明の空を見上げる。
「野口英世……。手術して医者になれた人もいるなら、不器用な私も、努力次第で……」
朝の食卓には、クコとルカの両親がいた。
研究を終えてひと息つくルカの父リクと、お茶を淹れるルカの母ラン。そこで、クコは二人と話していた。
「ルカさんの気持ちは、どこにあるんでしょう? 学者か、医者か、ご両親のお手伝いなのか。それとも、なにかほかの……」
両親から、ルカが自分の医術に自信がないことを聞き、クコはお節介ながらも考えずにはいられなかった。
リクが言う。
「選ぶ必要もないんだけどね。まだ子供なんだ。なににでもなれる」
「この人が医者になったのも、三十を過ぎてからだったの。元々は研究をしている人だった。医者を目指したのが二十五のときだったかしら」
と、ランがリクについて話した。
クコは感心する。
「そうなんですね。わたしも、なにかを目指すのに、年齢は関係ないと思います」
「うん、そうよね。母親として、ワタシはなにより、あの子には外の世界を見てほしいと思ってるの。世界が広いように、あなたの可能性もどこまでも広がっているんだって知ってもらいたい。だから、連れ出してくれるとうれしいんだけどねぇ……」
「ただ、ルカは頑固だし、ボクたちの手伝いをすると言ってきかないかもしれない。だが、もしルカがクコちゃんたちと行くと決めたときには、ルカをお願いします」
リクに続けて、ランも頭を下げる。
「お願いします」
「こちらこそ。よろしくお願いいたします」
クコは丁寧に頭を下げ返した。
――ルカさん、やっぱりご両親は優しいお方ですね。
ルカは自分の部屋にいて、サツキは二度寝中である。このあと二人が起きて朝食を取り、しばらくして――サツキとクコは、宝来診療所を出ることにした。
お昼前だが、ルカが来ると言わない以上、長居しても悪かった。しかし、お昼くらいはゆっくり食べていきなさいとランに言われ、結局ルカの家を出ることになったのは、午後の一時を過ぎた頃だった。
リクとランが娘に言った。
「ルカ。送ってやりなさい。ついでに、トチカ文明の壁画も見せてあげるといい」
「
「はい。クコ、サツキ、送るわ」
「お願いします」
クコがルカに会釈して、リクとランにもお辞儀した。
「ありがとうございました。久しぶりに会えてうれしかったです」
「お世話になりました」
サツキもクコに続けて挨拶をして、リクとランからは「またおいで」「頑張ってね」と言葉をいただき、
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