5 『COM×PASS』
妙なものだった。
これだけ深い森にいながら、動物たちの呼吸がまるで聞こえない。
風に吹かれてさらさらと鳴る葉音のみがサツキの鼓膜を揺らし、この広い森には自分とクコの二人しかいないんじゃないか、と思うほどだった。
動物たちは一様に息をひそめているのか、この世界にはそもそも動物があまりいないのか。
ひとまず追っ手が近くにいないことだけを確かめて、サツキの考えを聞いていたクコがテレパシーでしゃべりかけた。
「(この世界にも動物はいますよ。サツキ様の世界と比べてどうかはわかりませんが、昆虫も動植物も多くの種がいます)」
「(ドラゴンなんかはいるのか?)」
サツキにとってはここは魔法の存在するファンタジー世界だから、つい口がすべった。この世界でも空想上の存在だったら、子供だと思われかねない。そんなサツキの心配は杞憂に終わる。
「(ええ。ドラゴン種は少ないですが、それゆえ、神聖な動物とみなされる地域もあります。サツキ様、だれも子供っぽいなど思いませんよ。ふふ)」
柔らかく微笑むクコ。
子供っぽいとかのくだりも伝わっていたのは迂闊だったが、それより、ドラゴンが普通にいる世界に降り立ってしまったらしい、とサツキは先が思いやられる。
元いた世界には昔、恐竜がいた。ならば、少しの環境や条件の違いで異世界にドラゴンがいたってなにもおかしくはないだろう。ほかにもサツキの元いた世界と異なる現実が多々ありそうである。
「(ちなみに、どうしてこの森には動物がいないんだ?)」
「(今は夜ですし、潜んでいるだけだと思います。夜行性の動物は音を殺して移動するのが得意な種が多いですからね)」
「(確かにフクロウなんかはその典型だ)」
「(また、この世界樹ノ森にはあまたの哺乳類と鳥類がいるそうです。野生動物の宝庫だと言う人もいますね。ここは特別な場所で、人間が魔法を使うためのエネルギーを発散しているため、特殊な磁場が働くと聞いたことがあります。悪事に利用しようと世界樹を求めて森に入った人たちがこれまで何人もいました。しかし、その多くが樹海に阻まれてたどり着くことなく命を落としたといいます)」
「(クコの国の大臣みたいな人間だっているわけだしな)」
「(ただ、世界樹を我が物とした人間がこれまで唯一人としていなかったこと、世界樹から離れた異国の地でもその恩恵を受けられ魔法を使えること、その二点から、いつしか世界樹を求めて森に入る人はほとんどいなくなりました。樹海は人を惑わせる幽霊がいるとか、いろんな噂も立ちましたから。磁場の乱れやすさと合わせて、森に入ることは避けられています)」
「(じゃあ、なぜクコは迷わなかったんだ?)」
クコは懐中時計を開いた。
「(さっきの懐中時計……)」
「(これは、《
「(便利だな。でも磁場は乱れているんだろう?)」
「(はい)」
乱れているというのに、クコは余裕の微笑みで針を見せてくれる。
盤面をよく見ると、サツキの世界にあった時計の秒針だけ別の小さな円形で示すもののように、円形が二つある。片方は左下を指しており、もう片方はくるくる回って狂っていた。
「(羅針盤の性能は普通です。この乱れた磁場では役に立ちません)」
「(この二つある円形は、方位を示すものだな)」
「(正解です。片方は北を、もう片方は世界樹を指しています)」
「(なるほど。そういうことか)」
コンパスの針を確認しながら、クコはずっと歩いてきたのである。
サツキが振り返って空を見上げると、世界樹が見える。だが、まだ近いから確認できるだけで、少し離れたら見えなくなってしまうだろう。この森の木々も背が高いから、上空の確認ができなくなるものと思われる。
「(世界樹はいったいどれほど大きいんだ?)」
「(3333メートルと言われてますよ。目視によって大きさを見て計算した結果や、魔法による計測で、いずれもその程度になったそうです。正確さはわかりませんから、覚えやすいようにぞろ目にしたのかもしれませんね)」
「(なるほど)」
わかりやすく覚えやすい数字を使う場合、高い塔などの建築物ではその例が多い。サツキの世界だと、東京タワーが一桁違いの333メートル。それを思えば、世界樹はなんという巨大さだろうか。日本一の山、富士山にも迫る高さである。
また少し歩くと、今度振り返ったときには、世界樹も見えなくなってしまっていた。
クコが《
遠くまで警戒の網を広げて進んでいたサツキとクコは、ほぼ同時に足を止めた。テレパスでの会話もやめる。
――金属音。
それも、鎖かたびらや鎧から発する、金属同士がこすれる乾いた音だった。
カサッ、と。
離れた場所で、草をかき分ける音も耳をかすめる。
おそらく、追っ手の騎士。
音は近づく。
「(こっちに来る。隠れよう)」
「(はい。あ、こちらへ)」
つないでいた手を引かれて、ゆっくりと数歩移動し、サツキはクコと共にひざを折った。
「(クコ、片ひざを立てて)」
もし気づかれたらいつでも動き出せるように、体勢は整えておく。この姿勢なら、足がしびれにくいし姿勢維持がきつくない。
クコがサツキにも自分のマントをかけて、二人で息をひそませた。
――バスターク騎士団長とジャストンさんだと、戦闘になったらかなり厳しいです……。フンベルトさんでも近づくと見つかりやすい……。エヴォルドさんとも真っ向勝負は可能な限り避けたいですし、セルニオさんにまた遭遇したら今度は油断なくトリッキーな動きで翻弄してくるでしょう……。
相手がだれでも、クコにはうれしくない。
――とにかく、見つからないためには、フンベルトさん以外だったら……。
念じるようにクコは目を凝らす。
人影が徐々に露わになる。姿を確認できた。
二人に近づく騎士は、『闘将』バスタークであった。
サツキはひと目見て、予想が当たっていたことを悟った。
――やはり彼らは、単独行動をしている。
この広い世界樹ノ森を、五人で固まって回り続けるとは思っていなかったけれど、サツキにとっては有り難い話だった。
なぜなら、ここからまた、一つの結論が導き出せるからである。
――この近くには、バスターク騎士団長しかいない。
予測されるクコの行動可能範囲から、追っ手の騎士たちは森の反対側まで行かないにしろ、少なくともこの周囲一キロ以内に仲間はいないだろう。
「(バスターク騎士団長はどんな魔法が使えるんだ?)」
「(炎魔法です。炎を操り、その炎はライオンのような動きをします。炎を拳にまとわせて戦うのが主なスタイルです。『闘将』と呼ばれる強い精神力と高い実力を持っています)」
「(魔法は、炎以外にはないのか?)」
「(おそらく。通常、複数の種類の魔法を使いこなすことは難しいのです。同じ魔法体系であったり同系統の魔法であれば使える人もめずらしくないのですが、まったく種類の異なる魔法を同時に使う人はまれですね)」
多重能力は、無理ではない。しかし、そうした能力者はほんの一握りとみていいらしい。サツキの知っている能力者モノのマンガやアニメの多くでは、多重能力者は特異な存在だったし、ここでもそうだろう。
だとすれば。
「(バスターク騎士団長に、他の魔法はないと思っていいか?)」
「(はい。炎の魔法だけでしょう)」
「(ならば、あの五人の中だと、逃げるのには都合のいい相手だな)」
少なくとも、この場ではサツキの理解しうる論理の上で逃げ切ればいいことになる。
さらに、そうなると。
クコは気づく。
この状況は、あまり悪くないことに。
理由は明白だった。
バスタークの鎧の音が、ほかの音を感知しにくくさせている。
――バスターク騎士団長が耳を澄ませても、自分から発せられる金属がこすれる音で、わたしたちの息づかいを聞こえにくくしてくれている。
大きな音さえ立てなければ、気づかれない。よっぽどクコの近くまで来て、立ち止まって、耳を澄ませて、そこではじめて、やっと息づかいのひとつでも聞こえる可能性が生まれるのである。
「(そう。要するに、バスターク騎士団長は魔法でも音でも俺たちに気づけない。相当注意深く目を皿にして暗闇を見分けなきゃ、通り過ぎる)」
「(わたしたちが、ドジをしなければ。ですよね)」
「(うむ)」
あとは、バスタークが遠くへ行くのを静かに待つだけだ。
「(ちなみに、わたしの能力について知っている者は数人しかいません。だから、こうして会話が交わされていることを彼らは知り得ません)」
「(そうだったのか。ま、簡単に教えるべきじゃないよな)」
当然だ。が、敵に知られていないことは、こちらとしては有利。相手に気づかれずに作戦を立て伝達し合える。
ここまできて、サツキもそんな大事なことをなんで俺に言ったんだ、なんて野暮なことは聞かなかった。逃げ切るには秘密の共有が必要なこともある。
ただ。
そのサツキの思考に割り込み、クコは言った。
「(いいえ。そのためだけではありません。わたしとサツキ様は、もはや運命共同体です。生きるも死ぬもいっしょです)」
「(それもそう、だな)」
この先なにがあっても、ともに進まねばならない。現実世界に戻るその日まで。
だから、今はなんとしてもバスタークに見つからないようにしたかった。
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