第33話 笑う傍らで


 制裁して気分スッキリした京子を連れて、佑真たちは桜の森へ向かった。

 春になると佑真が登下校に使う桜の森だ。森の外からは常緑広葉樹によって目的地である桜の森は見えることはない。桜の森に入るまでは足場は悪く、緑も深いことで不穏な雰囲気を漂わせている。常人でさえ躊躇するくらいの森だ。物好きを抜いてあまり来る者はいない。

 現在の時刻は三時。春を迎えたことで日は長いが、悠長にしていれば瞬く間に薄暗くなってしまうだろう。明るいうちしか桜だけが咲き誇る世界は楽しめない。


「綺麗……」


 そう言ったのは椿姫だった。


「初めてか? ここは」

「うん、近くにこんな良いところがあったなんてね。ビックリしちゃった」

「いいところだろ。俺の思い出の場所だ」

「へぇ……」


 椿姫はまた辺り一面の桜の森を見渡した。

 七葉市では桜の森は有名な場所として知られている。以来、観光名所として七葉市を代表する土地となったが、観光旅行者はべつの場所を桜の森と勘違いしたらしく、今となってはそちらが本家となった。

 知る人ぞ知る者がこの穴場に訪れ、無法者を嫌って誰も発信しない。


「よかったね、佑真。彼女に気に入ってもらえて」


 後続する透が茶々を入れてきた。


「か、彼女!?」


 急な彼女宣言されて椿姫は顔を真っ赤にさせる。


「やめろよ、透。今日ぐらい自重してくれ」

「ははっ、すんません」


 佑真の注意に、透は愛想笑いで返す。

 その反応に佑真は溜息を吐いた。


「おーい。おまえら、遅いぞー」


 すると、目的地に差し迫ったところで江崎たちと合流した。なんと江崎の隣にはフィアンセの桐沢までいた。今日の歓迎会リストの中には載っていないが、おそらく、仲間外れにするのは可哀想だと思った江崎の独断で誘ったに違いない。

 そのせいか、佑真の前に出た江崎は少し申し訳なさそうに後頭部に手を置いていた。


「すまんな、天瀬。急遽もう一人呼んでしまったんだが、大丈夫か?」

「問題ないっスよ。こっちも一人増える予定でしたからね」


 そう言って佑真は京子に指を差す。


「西澤か。てっきり帰ってると思っていたが」

「たまたまですよ。それに椿姫ちゃん絡みなら喜んで出席しますよ」

「そうか」


 京子を目の前に少々動揺を見せる江崎はそう言うと安堵の息を漏らした。

 そういえば会長って桐沢先生を狙ってたんだっけか、と佑真は以前のことを思い出す。

 女喰いの京子の素性を知っているのだ。大切な彼女が狙われてないか心配して江崎が動揺するのも仕方がないことだ。教師だから生徒を信用しろ、と立場を利用して叱責する気は起きない。なにせ女性教師を喰った可能性だってあるのだから。

 だが、訂正しなければならない。


「大丈夫ですよ、江崎。会長は彼氏持ちは狙わないようなので」

「そ、そうか……って気安く呼ぶんじゃねぇ」

 

 助言も虚しく指摘されてしまった。

 そんなやり取りをしていると招かれた桐沢が少し前に出て軽く会釈する。


「今日は呼んでくれてありがとうございます。はいこれ、差し入れ」

「大した物じゃないですがね。まあ、ゆっくりしていってください」


 佑真も続いて会釈し、差し入れの入ったビニール袋を受け取った。


「んじゃ、いきますか。こっちだ」


 そう言って佑真はみんなを先導した。

 道を外れた小道を進み、開けた空間に出た。晴天の青空が広がり、中心には立派な桜の大樹が佇んでいる。


「すごく大きな桜……」

「こんなところがあるとは」


 桜を見上げる椿姫に続いて京子もそう言った。

 佑真と透はというと、せっせとブルーシートを敷き、エコバックから総菜、紙食器と割り箸を取り出して並べる。それを見て椿姫も手伝おうとするが、途中退場を言い渡して、どうにも腑に落ちなさそうな顔をして京子の抱きものとなった。


「さあ、準備したから全員座ってくれ」


 準備を終えた佑真の声に、続々とシートに座る。


「はーい、座って」


 京子に誘導されて椿姫も座る。わけもわからないまま透に渡された紙コップを手にお茶を注がれる。全員の紙コップにお茶が注がれ、行き渡ったところで佑真が立ち上がった。


「ええ、ご紹介に預かりました。わたくし、佑真と」

「結婚式か」


 さっそくボケをかまし、それに透はツッコミを入れた。


「コホン……、冗談はさておき、今日は椿姫の歓迎会ということで関係者に集まってもらいました。椿姫が部活に入って一週間が経ち、若干のトラブルがありながらも、今日というこの日を迎えることができました。俺たち情報部は非常に危なく、危険が付きものですが、それでも部活に残ってくれた椿姫に……ああ、面倒クセェ」

「諦めんなよ」

「こういう改まったの嫌いなんだ。んじゃ、入部してくれた椿姫に」


 佑真がそう言うと、全員の視線が椿姫に向く。彼女はきっと桜の下で食事ときたら花見かな、と連想して大きく的を外れたことだろう。

 ハトが豆鉄砲と喰らったかのような顔をする椿姫に佑真は不敵に笑い。


「カンパイ」

「「「「カンパーイ!」」」」


 乾杯の挨拶とともに歓迎会が開催された。

 椿姫は驚きつつも差し出される紙コップに軽く当て、こくりとお茶を飲み、ほっと息を漏らす。彼女は一息ついたことでようやく状況を理解できたらしく、微笑んだ。


「今日はわたしの歓迎会だったんですね」

「そうよ。情報部に入って認められた者へ送られるものよ。おめでとう」


 京子は優しい笑みを浮かべた。

 参加者一人一人、主役への挨拶は軽く済ませ、用意した総菜やらに手をつけ始める。


「愛ってすごい! 佑真のためにこんな健気な子があぁぁああぁああああっ!」

「透君大げさすぎるって!」


 急に泣き出す透は涙も出してもいないのに、涙と一緒にぐしゃぐしゃになったと言わんばかりに顔を乱暴に腕で拭き取ろうとする流れで山門芝居を見せる。目の前で見せられている椿姫が戸惑ってしまっていた。


「よせよ、透。俺のニッケルちゃんで削ぎ落すぞ」

「そのカッターの刃ってタングステン合金だからその名前はどうかと思い――いや、わかったからスッって出さないで。二つ出して僕をイェーガーしようとしないで? もう言わないからさ」

 やれやれと佑真はスッとブツを懐に戻した。

「なんだなんだ喧嘩か?」


 すると江崎が察知して寄ってくる。


「もう、へんかひひゃらめれふよぅ?」

「……芙美、おま、それ、なに呑んでんだ?」


 桐沢の異変に気づいた江崎はばっとそちらを見た。顔を真っ赤に染めてひゃっくりをしながら缶を片手に天高々と上げて笑っている姿に江崎は顔を蒼く染める。桐沢の持っているものは言わずもがな正真正銘の酒で、その証拠に『お酒』と表記されたマークがあった。それからの行動は早く、まず缶を掴み、手から強引に引き剥がそうとする。


「おまっ、昼間っからなに飲んでんだ! こらっ、放せ――って、力強ぇッ!」

「ひゃーめぇーてぇーくーらーさーいーっ!」


 桐沢も負けじと抵抗する。


「放せ! 酒癖悪いんだからここでは飲むなっ! ってイデデデデデデッ!? 爪を立てるな抉ろうとするなッ! おい、透と西澤、ちょっと酒を引き剥がすの手伝ってくれ!」


 江崎の要請で駆り出される透と京子。


「ひゃーっ! 透君のえっちぃ~。おっぱい揉まないでぇ!」

「ちょっ!? 生徒に冤罪ふっかけんのやめてくれません!?」


 ジタバタする足を抑えているだけの透にとんだとばっちりが飛んでいった。揉んでいるのは京子だというのに、なにも見えていない。それに目の焦点が合っていない。


「もう! お酒飲ーむーのーぅ!」

「あっ! 待て芙美!」


 強引にも振り切ってシートの場外へ裸足で逃げ出す芙美を江崎たちは追いかけていった。逃走を図ろうとするが、ふらつく足取りでそれほど早くない桐沢はすぐに江崎に捕まった。


「やんっ、捕まっちゃった~♡」

「変な声を出すなっ。さっさとその酒を渡――グエッ!?」


 捕まえたと思いきや首をガシッと掴まれた江崎は、どうやって生み出したのかわからないような怪力を発揮する桐沢によって宙に浮かされていた。


「アアァァァァァァッ! 桐沢センセーそれはアカンて!」

「桐沢先生! 愛しの殿方を葬っちゃだめですって!」


 慌てて止めに入る透と京子。

 その様子を眺める佑真はお茶を煽りながら、


「すんげぇ、桐沢が江崎を持ち上げてらー」


 呑気にそう言った。

 学園内では超人と名高いあの江崎が元アイドルのひ弱な桐沢に持ち上げられているという光景は凄いとしか言いようがなく、透と京子の二人係でもびくともしない怪力となればもう笑うしかないだろう。しかもあの酒への異常な執着。見てればわかるほどのお酒大好きなただの女性だが、未来のフィアンセを消しかけるほどのなりふり構わない行動力は彼女の痛手だ。


「グぉ……」


 見物しているうちに江崎が地に投げ捨てられ、桐沢は幸せそうに酔い潰れ、地面に倒れて寝息を立て始めた。


「うーん……お酒おいしい~」


 寝言でなにか言っている。きっと江崎を食べているのだろう、そう思う佑真は、教師二人と慌てふためく透たちを見つめてお茶を啜る。そして、隣ではこのカオスな光景を見ておかしそうに笑う椿姫に視線を向ける。

 佑真は数週間の思い出にふけた。何度も送られてくるラブレター。屋上で出会った椿姫。恋路に加担した透。信用できない椿姫を信用した。あとお菓子が美味しかった。

 日の浅い関係だが、その内容は濃いものだった。


「どうかした?」


 視線に気づいた椿姫が声をかけてくる。


「ん? ああ、色々とあったなぁ、と」


 素直な言葉を返すと、椿姫は両手に持った紙コップに視線を落とす。


「うん、そうだね。たくさん、あったね」


 短くそう答えた。軽はずみで出てくるような粗悪な言葉ではなく、椿姫の発した言葉はどこか深みのある言葉で、佑真には十分に納得できるぐらいの重みを持っていた。


「………………」


 佑真は椿姫の首筋に触れた。


「ひゃ!」


 椿姫は小さく悲鳴を上げる。


「あ、わりぃ。一声かければよかったな」

「い、いいよ。佑真君だから」


 それは弁えない人間と言いたいのだろうか、と攻撃的な解釈を一瞬でもする佑真はすぐにその考えを振り払い、触れている首筋に意識を向ける。

 目を凝らさないと気づかないほどの細く赤い線に。


「首の傷は大丈夫か? 痛くないか?」

「うん。昨日にはもう。沁みるけど大したことないかな。傷が浅くて良かったよ」

「そうだな」


 そう言って手を離す。この傷は玲奈が関係していると予想はついていた。その件でも〆てやろうと模索していたが、軽傷で椿姫が語らないので今回はノータッチ。もう終わってしまった出来事だ。今更、椿姫が気にしていなければ掘り返すこともない。

 佑真は空になった紙コップにお茶を注ぎ、椿姫の紙コップにもお茶をたした。


「そういえば、俺のこと呼び捨てにしないんだな」

「え、なんで?」

「いや、あの時、扉越しに聞いてたからさ。俺のこと、呼び捨てで呼んでたよな?」

「あっ! いや、それはその……」

「ああ、べつに強引に聞きたいわけじゃない。ただ急に呼び名が変わったからさ、なにかワケがあるのかと思ってな」


 あの時、佑真は葛藤や気持ちの揺らぎが相まってそこまで気にならなかったが、いざ思い出すと気になった。普段は君付けの椿姫が玲奈との会話の中で呼び捨てにした。あの状況で芝居をするほど彼女に余裕はなかっただろう。


「前に言ってた。過去に会ってたって話に関係があんだろ?」


 椿姫に告白される前に会ったことがあるような話があった。佑真には記憶がなかったが、あの場面において自分で精一杯な椿姫が嘘を言ったようには考えられない。


「うん、そうだよ」


 あっさりと椿姫は肯定した。興味がなければ訊こうともしない佑真が興味を持って質問をしてくれることに彼女はどこか嬉しそうに柔和な微笑みを顔に浮かべる。


「……、そうか」


 対して佑真は素っ気なく返す。仕方がない。記憶にないのだ。話しているからといってなにか懐かしさを感じるわけでもなく、親近感すら湧かない。無に等しかった。


「悪いな。せっかく答えてくれたのに、なにも思い出せねぇ」

「全然いいよ。覚えてないのはしょうがないよ、ホントに。……うん、しょうがない」


 椿姫は少し寂しそうだった。どのような関係を築いていたのか佑真には到底予想がつかない。記憶の片隅にも、透と同等の関係を築いた女性なんていないのだから。


「お返しっ、わたしも佑真君に訊いていい?」

「呼び捨てにはしないんだな」

「佑真君ッ!」


 佑真が茶化すと椿姫は少しムキになって強い口調で主張する。

 さすがに折れるしかない。


「へいへい。んで? なにが訊きたいんだ?」

「佑真君の思い出、さっき言ってたでしょ? 桜の森は思い出の場所だって。少しでも佑真君のこと知りたいから聞きたい。ダメ、かな?」

「ああ、べつにいいぞ。そんぐらい」


 紙コップ一杯のお茶を一気に飲み干し、一息ついてから口を開く。


「俺にとって、すべてが始まった場所だからだよ」


 そう、答えた。そう答えて桜の舞う空を仰いだ。

 佑真にとってそれ以上でもそれ以下でもない本心からの言葉だ。

 嘘は言っていない。


「そっか」


 椿姫から帰ってきたのはとても淡泊な返答だった。

 それ以上はなにも聞かなかった。それでもどこか嬉しそうにはにかんでいる横顔は満足げだった。要望に答えられてなによりと、佑真はまたお茶を紙コップに注いだ。

 すると、先程までのびていた江崎が這いずってきた。


「んグ……ぐぉ、天瀬……お茶をくれ」


 今にも死にそうなほど弱々しくなった江崎のために佑真は仕方がなく、主役に継がせないように抱え込んでいたペットボトルからお茶を汲んで用意する。


「生き返ったんですね。どうぞ」

「すまん……」


 怠そうに起き上がる江崎はお茶の入った紙コップを受け取り、一気に飲み干した。


「ふぅ……死ぬかと思った。まさか酒買ってきてるとは思いもしなかった」

「あんな無様な江崎先生は初めて見ましたよ。ちょっと面白かったッスけど」

「見世もんじゃねぇぞ」


 嘆息する江崎は桐沢の近くのビニール袋に手を突っ込んで、炭酸ジュースねぇかな、とぼやきながら適当にまさぐる。クシャクシャになるほどの握力で酒の缶を握りつぶすように持っている桐沢に対し、呑気に子供みたいな味覚をぼそぼそと暴露していると、椿姫が気を利かせて紙皿に数種のおつまみを盛って持ってきて置いた。


「どうぞ、江崎先生。おつまみあったので置いときますね」

「おっ、気が利くな。あんがとよ」


 江崎はお礼を言い、嬉しそうにおつまみを口に運ぶ。幸せそうだ。だが、その隣で不服そうに死んだ目で見つめる佑真の姿があった。


「椿姫、主役が気を利かせなくていいんだぞ?」

「なにもやらない、ってなんかソワソワしちゃって。いいでしょ?」

「ノーだ。大人しくしてろ、今日の主役」

「それでも。ほらほら、お茶注ぐよ」

「あ、どうも……じゃなくて」


 なかなか引き下がらない椿姫に翻弄される佑真。


「ったく、痴話喧嘩なら他所でやってほしいね。教師の前でイチャつきやがって」

「い、イチャついてなんて……っ!」


 そう言われておろおろと顔を真っ赤にする椿姫は、不意にぷいっと佑真たちに背を向ける。その隣で平然とお茶を啜る佑真は溜息を吐く。


「全敗してる江崎だけには言われたくねぇな」

「痛いところを突くんじゃねぇよ、ったく……。ま、それはさておき」


 じっと佑真を見つめる江崎がふっと笑った。


「なんだよ。気持ちわりぃ」

「いや、ちゃんと仲直りしたんだな」


 そう言った。


「まあな」


 佑真はそれに素っ気なく答えた。

 その反応に満足したのか、ふっとまた鼻で笑った江崎はビニール袋から細長い黒い箱を取り出す。取り出すも、目的の物ではなかったのか、首を傾げた。


「なんだ? 黒い箱」


 江崎がそう言って開けようとすると、桜の根元で京子と一緒に桐沢を開放していた透が青ざめた顔で必死になってこちら側へ突っ走っててやってくる。


「ちょっと待って開けないでください、それェェェェェェェェェェェェ!」

「おい、なんだよ」

「いいですからっ! なにかの間違いですっ! 僕が責任もって処分しますんでっ!」

「処分って、そんなに危ねぇ物なのか? それになんだ、この紙切れ?」

「あっ、いや、それは………………とにかく、読んじゃダメッ、両方プリーズッ!」


 必死になって透は、佑真に送ったはずの細長い黒い箱を江崎から取り上げようとしている。先程ビニール袋を受け取った際に佑真がシャワールームの前に透がニヤニヤと悪い顔をしながら置いたであろう黒い箱をこっそりと入れていたのだ。


「怪しいわね……わたしも見せてよ」

「か、会長まで!? あばばばばばばばばっ!」


 京子の参戦に、慌てふためく透は顔を真っ青にしながら変な声を上げる。


「わたしもまーぜて~」


 先程まで酔いつぶれていた桐沢が江崎にボディスタンプをかまして下敷きにした。苦悶の声を上げる江崎の手から細長い黒い箱が離れ、透は見逃さずに奪取する。


「ふふっ」


 四人がバカ騒ぎに椿姫が笑い声を漏らした。

 今日は無礼講。明日は休み。疲れるまで飲んで楽しんで閉めよう。

 ここにいる全員で雰囲気に酔って。とことん酔おう。

 佑真のそう思いながらお茶を啜った。


 ピピピピピピピピピピッ!


 だが、その酔いは唐突に流れ出した着メロによって醒めてしまった。

 出元は椿姫の携帯だった。彼女が着信先を確認すると、元気になって明るくなった表情が一瞬にして曇ってしまった。


「どうかしたか?」


 気絶寸前だった江崎が異変に一早く気づいて椿姫に訊く。


「お父さんからです」


 そう言う椿姫の顔がさらに暗くなる。


「……。出ないのか?」


 佑真がそう訊くと、椿姫はじっと携帯を見つめてから首を横に振った。


「うん……。いいの、もう決めたから」


 暗かった表情から一気に明るい笑顔を見せる椿姫。なんの脈絡のないその言葉はなにを意味するのかわからない。だが、言葉はどこか椿姫なりの決意を感じた。

 なにを決意したかは椿姫自身にしかわからないこと。あえて知る必要もないだろう。その胸の内を開くまで、時間をかけて待つしかない。


「……。そうか」


 空になった紙コップを口に加えて見ている佑真は呑気にもそう考える。


「もう……お父さんは頼り過ぎるから、今日はお灸を据えるという形で」


 文句を垂れる椿姫は携帯の電源を切ってポケットに入れる。

 それからは何事もなく楽しい歓迎会が行われた。

 楽しく、わいわいと。たまに桐沢や京子が暴走して、てんやわんやになったり。

 最高の歓迎会となった。

 だが、その傍らで佑真は一人冴えない面持ちで空になった紙コップを口に加え、椿姫のことを考えていた。べつに恋愛感情がどうとかそんな話ではない。

 ただ……あの時見せた明るい笑顔が、どこか乾いているような、そんな感じがしたのだ。

 そう、思ったのだ。


「……、お茶飲も」


 人知れず、佑真はそう呟いた。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る