第1話 それは何気ない日常から


 桜花爛漫おうからんまんという言葉が似合うほどに咲き誇る桜の森。ひらひらと舞い散る桜の花弁。風が吹けば落ちた花弁が舞い上がり、縦横無尽に飛び交う花吹雪は、ほかではお目にかかれない幻想的な美しい世界を作り出していた。

 人の営みと喧騒から切り離され、小鳥の囀りと草木の囁くような音だけが支配する桜の森で、思い出のある桜をじっと見つめる制服姿の少年がいた。


 あれから数年。幼かった少年は成長し、高校生になっていた。


 少年は横道から逸れ、樹齢百年以上の桜が根づく場所にいる。少年からすれば見慣れた光景を飽きもせずに見にいっていることになるが、不思議と見にいきたくなるのだ。気づかないうちにだ。これが毎日の日課になっている。


 少年はなにか行動するわけでもなく、ただ老樹の桜をしばらく見続けるだけ。満足がいくまで見続けた後、踵を返して元の道に戻る。


 現在、平日の朝。学生は学園へ登校する時間帯である。


 少年が歩く道は踏み固められてできており、学園近くの通学路に続いている。足場は悪く、普段は誰も通りたがらない道なのだが、少年は近道という理由で一年前から桜が咲くこの季節だけを狙って学校まで通っている。


「……いつ来ても飽きないな。ここは」


 ひらひらと散りゆく桜の花弁が視界に捉えた。

 少年はそれを目で追う。不規則に踊りながら落ちていく花弁が、池の水面に触れると同時に小さな波紋が起きる。やがて波紋は収まり、鏡のような水面が逆さまの世界を映した。

 ふと、少年の動きが止まる。

 少年の視線の先には、水面に映る自分がいた。


「……。我ながら、すげぇ目つきだ」


 僅かに花弁で埋め尽くされた水面に映る自分に呆れながら笑う。

 寝癖のついた黒髪。黒色の眼鏡。レンズを透して見える黒い瞳。整った顔立ちでありながら目つきは悪く、目元に薄っすらと隈があった。それに合わせて暗い雰囲気を漂わせており、気弱な人なら思わず一歩身を引いてしまうことだろう。

 それらを兼ね備えた少年、天瀬佑真あまがせゆうまは不敵に笑った。


「さて、読むか……桜といえばあれだな」


 そう呟く佑真はカバンの中から一冊の本を取り出す。掌サイズで可愛い女の子の表紙が特徴的な本、ライトノベルだ。道中は読書をしながら学園へ向かうのが、佑真にとって毎日の日課になっている。そして、今回の読む作品は佑真の楽しみにしていた本だ。


「恋桜の花吹雪、これを桜と一緒に嗜むとするか」


 ラノベを片手に楽しそうに微笑む。けど、傍から見たら死神のような笑い。そんなことはつい知らず、佑真は数枚の挿絵を吟味し、文章が綴られたページに突入する。

 この作品は、桜の下で告白され、両思いだったことが発覚してから始まる恋の物語だ。王道ならではの展開に、思わず舌鼓を打ちそうになるの抑えつつ読み進める。

 足元を気にせず、ラノベに没頭しながら平然と歩く。普通ならどこかに衝突しても可笑しくはないのだが、佑真は迷いのない足取りで歩き続ける。悠々と数ページ読み、区切りの良いところで前に戻っては読み返し、頭の中で場面を再現しながら作品を堪能する。

 本に夢中になっていると、誰かに背中をバシッと叩かれる。


「おっはよ、佑真! 今日も晴天、気持ちの良い登校日和ですなぁ!」


 勢いよく佑真の視界に入り込んできたのは見慣れた顔だった。


「チッ……、痛てぇな。朝から元気だな、透。おはよ」


 読書を邪魔され、背中も地味に痛いことに若干の苛立ち感じながらも挨拶を交わす。


「また随分と機嫌が悪そうだね。どうしたん? 夜更かしでもしたか?」

「どうしたもこうしたも、誰のせいだと思ってんだよ」

「あは~、わりぃわりぃ、次から気をつけるよ」


 ヘラヘラと笑って言う少年は鷹山透たかやまとおるだ。学生服の下に紫のパーカーを着ており、長めの黒髪に紫色のメッシュが特徴的な男子生徒。佑真の小学生からの腐れ縁である。いつもヘラヘラと笑っており、一部ではなにを考えているかわからない男だ。


「そんな不機嫌になんなよぅ。ある子から仲介して貰ったラブレター上げるからさ」

「ゴミになるからいらん」

「えぇ、いらんの? 折角の春なんだからちょっとは恋とかしようぜ? 春――それは出会いと別れの季節! 恋愛のスタートラインにはとてもいい時期よ?」

「春はそんなヤツが増えるから嫌になっちまうよな」

「だから青春しようぜぇ? 彼女作っちゃおうぜぇ? なんなら世継ぎも」

「イヤなこった」


 透がなんと言おうと佑真は意思は変わらず、どんな説得も突っぱねる。過剰なまでの発言ですら佑真は適当にあしらって、ライトノベルを読んでいる。

 ツッコミすら入れてくれないことに透は残念そうに肩を落とす。


「うーん、佑真ならモテると思うんだけどな」

「透もモテるだろ?」

「ホントに! いやぁ~やっぱ顔もイケメンで性格もイケメンだから――」

「ガチムチ漢に」

「漢かい! 僕は普通に女の子が好きだからね!?」

「必死なところがまた怪しいなぁ?」

「ちょちょちょやめんしゃい! 深堀しても土しか掘り返せないって」

「もともと土みたいなもんだろ」

「僕をなんだと思ってるのさ!?」

「さあな。俺が知ってんのは幼い頃からの腐れ縁ってくらいだ。さすがに頭ン中までなに考えってかわからねぇがな」

「そう簡単にわかられてたまるかい」


 透はそう言って溜息を吐く。そして、言葉を続ける。


「ねぇ、ホントに彼女作んないの? ずっとそのままでいいの?」

「しつこいな。俺はラノベ読むのに忙しいんだ。彼女作るくらいなら趣味に時間をさく。それが俺なりの人生最大の謳歌さ」


 佑真は頑なに意見を変えようとはしない。これが佑真であり、身内ですらない赤の他人のために対価のないことに時間を割くことを最も嫌う。そして、佑真は自分にとって彼女を作ることを最も時間の無駄だと思っている男だ。


「佑真はさ。もっと人生を謳歌してもいいんじゃなーい? 止まってても選択するときは来るけどさ。もっと自分から選択していってもいいんじゃない? 良い人生のために」


 透の話を聞いていた佑真は、ぱたん、とラノベのを閉じた。


「……良い人生のための選択、ねぇ。理想的な話じゃないか。そのためなら俺は自分から選択するぜ? けどさ、いっちょ前に言ってる透はどうなんだ? 理想は描けそうか?」


 生気を感じさせない無表情の佑真が言う。


「ふふっ、聞いて驚くなよ? 僕はね、か――」

「あっ、やっぱいいや」

「聞いておいて酷くない⁉」

「聞くと長くなりそうだったからついな」

「もう、そんなんじゃ本当に良い人生送れなくなるよ?」

「今までが散々だったからな。まあ、今は十分良い人生送れてるからいいさ。一般的な幸せとは程遠いんだろうけど、金の心配はねぇし俺の敵はいねぇし幸せだ……。なあ透、シュレディンガーの猫って知ってるか?」

「うん、知ってるよ。箱の中の猫がどうなるか、っていう思考実験のことだよね?」

「そうだ」


 シュレディンガーの猫は、毒ガスを放出する装置が大体半分の確率で作動するとして、中身の見えない箱に猫を密封して行う思考実験のことだ。この思考実験だが、普通に考えれば箱の中の猫は装置が作動して猫は死んでいるか、はたまた装置が作動せずに猫は生きているかの二択になる。しかし量子力学では、この二つは、観測するまでわからない、という見方をする。つまりは猫の生と死という状態が重なり合っていることになるのだ。

 様々な論争などが飛び交う実験だが、それを全部省くとして、この思考実験が教えてくれることは、未来にはいくつもの可能性がある世界があり、どの可能性が実現するかは確率で決まる、というものだ。いわゆる、ソーシャルゲームのガチャのようなものだ。


 この実験を考察したシュレディンガー博士という人物は、量子力学の考え方の愚かしさを示すためにこんな実験を考案したらしい。


「それがどうかしたの? 突然言い出すような佑真じゃないよね?」


 佑真が唐突に出してきた話題に、疑問を抱いた透は問いかける。


「いやなに、良い人生とか言われるもんだから、ふと思っただけのことなんだがな」


 首を傾げる透に、佑真は苦笑を返し、


「シュレディンガーの猫は箱を開けるまでわからない、って言ってるだろ?」

「うん」

「それを箱ではなく自分の目に置き換えて考えるとどうだろうか。目を閉じることで二つの世界が重なり合い、目を開くときにはどちらか一つの世界と結果を視認することになってもう片方の可能性は消える」

「どちらかの世界が消えて、たとえそれが望まなかった世界だとしても?」

「ああ。そこは変えようがないからな。――だがこうも考えられるんだ」


 佑真はゆっくりと目を閉じ、木漏れ日が漏れる森を仰ぐ。話し込んでいるうちにいつの間にか桜の森は終わり、常緑広葉樹の若葉色が混じる緑の深い森に入っていた。


「もしも、どちらかの世界が消えるんじゃなく、もう一人の自分がそこにいて、望んだ未来を見てるとしたら、きっと最悪なんてない幸せを迎えているんだろうな、って……。そう考えると、俺はどうもハズレを引いちまったみたいになるがな」


 ゆっくりと目を開けて不敵な笑みを零す佑真。


「ハズレに僕も入ってたりしてない?」

「ああ、透に滑り台から突き落とされたのが運の尽きだったな」

「酷くね!?」

「冗談だよ。俺は良い腐れ縁を持ったよ」


 そう言って佑真はもう一度、ライトノベルを開こうとしてやめた。少し名残惜しそうに溜息を吐く佑真はカバンの中へと収納する。


「ま、シュレディンガーの猫の話を箱じゃなく目に置き換えた例え話さ」


 そう言うと佑真は乾いた笑いを見せた。


「話を聞いてると、後戻りのできないエロゲのヒロインの個別ルートみたいだよね」

「めっちゃ簡単なやつで例えやがったよ」


 シュレディンガーの猫をまさか美少女アドベンチャーゲームで簡単に例えた透に、佑真は少し呆れてしまう。まあ、そこは透らしいと言えば透らしい一面ではある。


「まったく、久々にくっだらない話をしたもんだ」

「いいんじゃない? 佑真のそういう話結構好きだよ」

「そうかい……さて、もうそろ学校かぁ、ふぁ……」


 透を適当にあしらって大きな欠伸をする佑真。森を抜けて通学路に出た佑真たちは、学園へ向けて足を運ばせる。


「眠そうだけど、ちゃんと寝たか?」

「オールした」

「うわぁ……寝てねぇのか。やっぱ不機嫌の理由って」

「違う」


 何気ない話をしながら佑真たちは登校中の学生たちに紛れ込んでいった。


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