虹③



 最初は闇の中だった。


 五里霧中どころか、上下左右の感覚もなければ、地面を踏み締める感触もない。

 浮遊感と言えば聞こえはいいが、実際は宙吊りか落下中かのような寄る辺のなさで、アイは困惑した。


「な、に……?」


 瞬間、視界が優しい光の壁に包まれる。


 『聖櫃』――影山弦から回収しながらも、使い手としての訓練も積んでいないからと、月彦が掌中に収めたまま持て余していたそれだった。さながら潜水ポッドのようにアイの身を守り、安定感を与えてくれていた。


 足場を得て、アイはようやく困惑から脱する。

 どこへ向かえばいいのか分からない……だがあるのか分からない重力に従って、ゆっくり下っていく『聖櫃』に身を委ねるのが最善手に思われた。闇雲に飛び出しても、またぞろあぶくのごとく黒塗りの世界に呑み込まれてしまうだろう。


「……行こう」


 アイを乗せた『聖櫃』は、奈落の果てを目指して下っていく。


 視界が変わってきたのは、しばらくしてのことだった――漆黒は灰色へ、灰色は純白へと。モノクロのグラデーションは表情豊かに、『八岐小蛇ヤマタノコロチ』とは異なる領域に到達しつつあることを物語っていた。


「…………っ」


 死に絶えたような静寂の中では、息を吞むアイの喉が鳴る音が、実によく聞こえた。


「こんにちは」


 眼差しの先、気さくな挨拶が出迎える。


 『聖櫃』が降り立ったのは、やはり眩いばかりの白い空間に腰かけた、声の主の元だった。

 身構えつつも、辿り着いた『聖櫃』は役目を終えたと言わんばかりに姿を消し、否応なく顔を合わせなければならなくなる。


 人見知りと呼べるほど人間と触れ合ってこなかったアイと言えど、相手がであれば、警戒するのもやむなしと言えるだろう。


「『あいさつ』を しましたが おきにめしませんでしたか?」


 出来損ないの機械音声だとしても、こうも無機質でのっぺりとした響きにはならないはずだ。


 浮世離れしたアイの容姿など言うに及ばず、人あらざる者だった魔王の蟲にも勝るとも劣らない、異様な風体――ギリギリ人型と呼べる『なにか』。

 中世の画家が腕によりをかけて描き上げた天使の絵を切り刻み、臓物で繋ぎ合わせたとしか言いようがない、冒涜的でおぞましいものだった。


 人間とは異なるアイの視座は、なんとか発狂を免れたが、他の人物が見て、同様に平静を装えたかどうか。それでも向かい合うと、アイは心なしか背中に冷たいものが伝うのを感じた。


「あなたは……なに?」

「アナタがたの 『ことば』でいえば 『かみ』です」

「神……」


 こちらの世界の神話に語られるような。かぐわしい物語性はまるで見受けられない。ならば異世界の創世を司った神かと思われたが、体に宿った魔導具からなる直感が、それも違うと訴えた。


 ならば、残るは一つ。


「この世界を、物語として認識している神様?」

「そうです」


 呆気ないほどに端的な肯定。

 取り敢えず友好的にコミュニケーションを取ってくれると分かり、それならばとアイは次いで問いを投げかける。


「何故、アイの前に現れてくれたの?」

「おもしろそうだった からです タイミングも ちょうどよかった」


 歯に衣着せぬ物言いだとしても、ここまで明け透けなのはなかなかないだろう。


「ここは セカイの『そとがわ』です ワタシと アナタだけ 『じゃま』は はいりません」


 そうして、神を名乗る曖昧模糊は続ける。


「むしろ アナタこそ いいたいことが あるとおもいます」

「アイが?」

「ええ 『ぎゃっきょう』を くつがえす ちから…… それを もとめて アナタは きたのでしょう?」

「否定はしない。けれど、部外者のあなたが『原初の創生魔法』をもたらしてくれるとは思えない」

「もたらせる としたら どうしますか?」

「…………」


 沈黙はなにより雄弁だ――そう神は内心ほくそ笑んでいた。


 神には、アイへの協力意識は毛頭なく、また与えられる『原初の創生魔法』を授けるつもりすら、さらさらなかった。

 既に物語は宴もたけなわ。予想外の逆転劇こそ手に汗握ったが、最早それまで。神からしてみれば、法外の戦力とはいえ『原初の創生魔法』ごときが、魔法の一切を封殺する相手に対して、戦局をひっくり返すほどの一手になるとは思えなかった。


 それゆえ、アイが「欲しい」「ください」の一言を述べれば、それっぽい神秘を演出して追い返す気でいた――、


「知っているかもしれないけれど、」


 ――その瞬間までは。


「アイは、加地かじ朔之介さくのすけの屋敷で飼い殺しにされてた」

「?」

「来る日も来る日も、人体実験。ない日には、本当になにもない。暁奈がメイドとしてきてからは、本を読んだり、身嗜みを整えたり、会話したり……彩りは増えたけれど、それでも根本は変わらない。アイは、籠の中の鳥だった」


 うっすらと首を傾げたのを、アイは気づいたかどうか。

 素知らぬ顔で、アイは訥々とつとつと、意図の分からない自分語りを続ける。


「ある日、それも突然。実験によって高熱にうなされていたアイを、唐突に背負い上げて、こう言ったの」


 『ここを出よう』――まさしく青天の霹靂だったことだろう。


 驚天動地、急転直下、空前絶後。

 おそらくは、月彦が本当は異世界転生者ではないと発覚した時よりも、ずっと驚いたはずだ。


 暁奈がいかに人情味溢れる人間性をしていたとしても、師父たる朔之介に背を向けられるはずがない……それは脱出をとうに諦めきっていたアイ自身が、誰よりも知っている。


「アナタの 『きょうぐう』は すでに しっています」

「ううん。神様のあなたにも、知らないことがある」


 だからこそ、その僥倖は希望のごとく輝いて見えた――けれども、それだけではない。


 その日からアイは、以前とは比べものにならないほどの体験をした。

 団欒の食卓、衣服を自分で選ぶということ、晴れた日の清々しさ、人のあたたかさ、秋雨の冷たさ、喫茶店で飲むコーヒーの味わい……それらすべてが、アイにとって尊い綺羅星だった。


退

「――――」

「見てみたくない? 


 「事実は小説よりも奇なりを本当にしよう」と、アイは逆に神を誘惑する。


「――――」


 元より、『原初の創生魔法』を授けるか否かは、神の気分次第だった。手間暇も指先一つ動かす程度のもの。その程度で展開が変化するなどといった期待は、別段抱いていなかった。


 ……そう、この瞬間までは。


「なるほど」


 考えが少し、されど確実に変わった。

 こうして言葉を交わす相手がいなかったため、これまで得られてこなかった提案に、神は思いがけず舌を巻く。


 折角の観劇なのだ。幕が下りるまで、席を立つのは勿体ない。

 そのうえ時間の枷に縛られない神にとって、些細な寄り道に不利益は存在しなかった。


「アナタの 『ていあん』に のります」

「!」

「『げんしょのそうせいまほう』を アナタに さずけます」


 交渉成立。

 そして別離は呆気なかった。


「さようなら」


 神が別れの言葉を言い終わるや否や、アイが辿ってきた道筋を遡らせる力が働き、返答を述べる間もなく、元いた世界へと押し戻されていった。


 誰に聞かせるでもなく、神と名乗った正体不明の存在はひとりごちる。


「もう あうことは ないでしょう」


 そう呟いたのは、本当に神だったのか。

 天使や悪魔、侵略者、観測者、怪物、それらに類する者がうそぶいていただけなのか。最早、知る由もない。


 真相は影よりも暗い闇の中に消え失せた。


「ああ そうだ 『さいご』に ひとつだけ おまけをしましょう 『じゃま』を されては いけませんから」


 ――物語の幕引きは、近い。


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