虹②



 黒幕よりも、他の誰よりも驚いていたのは月彦だった。


「え?」


 よもやダメージを与えられるとは夢にも思わなかったが、しかし拳に奔る痛烈な感覚は、その現実逃避を否定する。


 だが先程まで聖剣をも退け、優位性を保っていた黒幕が跳ね飛ばされて転がる姿は、いっそコミカルなぐらいだった。

 良太郎達も、まさかの形勢逆転をシュールな空気に包まれながら呆然と見つめている。


「なッ……が、あ……!?」


 黒幕が頬を押さえ、口に入った砂をペッと吐きながら立ち上がる。

 たかだか一度殴られた程度では、状況はさして変わりない。けれども決定的に変わってしまった『なにか』が、再度月彦を突き動かした。


「べぶッ!?」


 戦いはまだ終わっていない――ねじ込んだ拳の痛みで平素の心持ちを取り戻しながら、月彦はめいめい思考を巡らせる。


 何故だか分からないが、魔法でもなんでもないただの物理攻撃であれば通じるようだ。そして思いがけない反撃に動揺した黒幕は、冷静さを欠いて錯乱している。

 そもそも突如殴られて判断が鈍らない人間は、そう多くはないだろう。相手は戦いに関してはてんで素人と見受けられた。


 ならば……絶対に勝ち目はある。

 この好機を逃すまいと、月彦は更に畳みかけていく。


「――なるほどな。神とやらも存外性格が悪い」


 その勇姿を、聖剣に戻ったステラが見定める。


「えっと……」

「ステラだ。俺の異世界からの相棒だと思ってくれ」

「その、ステラさん。今言ったのってどういう意味ですか……?」


 状況把握も大変だろうに、おっかなびっくりしながらも晴花は率先して問いかける。


「神自体が万能だとしても、与える力までが万能なわけではないということだ」

「?」

「……要は、あいつが絶対防御の対象だと思い描いていたのは攻撃全般などではなく、魔法だけだったということだ」


 しかしながら、魔法だけの絶対防御だとしても、その効果は絶大だ。聖剣はなまくらに堕ち、暁奈の魔焔も風前の灯火に過ぎなくなる。


 だからこそ、致命的なギャップが発生した。


 黒幕は良太郎達を「『Re:turnerリターナー -fantasiaファンタジア gardenガーデン-』のキャラクター」としか認識していない。

 それゆえ、ゲーム上のド派手な魔法合戦にばかり気を取られ、単純な肉弾戦がすっぽり抜け落ちてしまったのだ。そして神は、その認知の歪みを矯正することもなく力を与え、今に至るのだろう。


 神の悪戯と呼ぶにはあまりにも恣意的な悪意に、さしものステラも同情を禁じ得なかったが、さりとて憐憫はない。良太郎とステラに牙を剥いた相手に心を寄せられるほど、ステラに慈悲の心はなかった。


「ねえ、ステラ」

「なんだ」

「アイはひと泡吹かせたいって思ってる――どうしたらいい?」


 アイも、あくまで敵であるという共通した認識だったのだとしても、思いがけなさでステラは目を丸くした。


「あるさ。とっておきの大博打がな」

「なに?」

「な、なに言ってるんですか!?」


 良案を求めて身を乗り出してきたアイを、血相変えた晴花が諫める。


「そんな危ない橋渡らなくたって、加地先輩が奮闘してくれてるじゃないですか!」

「どうだかな」


 晴花の言い分はもっともだが、そうは問屋が卸さないのが現実だ。

 敵の思惑が甘かったのは言うまでもないが、反乱分子が現れた際の対抗策を講じていないほどの木偶の坊とは限らない。


「っ!?」


 ――そしてステラの予想は、最悪の形で的中した。


 パァンと乾いた炸裂音が響く。

 冴えて澄んだ空気の中、火薬の匂いは嫌に濃く香っていた。


「はははは……」


 狂ったように黒幕は哄笑を口の端から漏らす。

 懐から取り出されたのは、黒い鉄の塊。先から吐き出された小さな鉄の塊は、月彦のすぐ横をかすめていった。


「オレが!! この程度の備えもしてねぇと思ったかよ!! バアアアアアアアアッカ!!」


 その手に握られていたのは――


「こういう時のために、ワルい奴らからくすねといて正解だったわ。はー痛ぇ。口ん中切れてやがる」


 運よく凶弾を免れた月彦は、戦々恐々と尻餅をつく。

 ナイフなどで貫かれなかっただけマシなのか、判断がつかずステラは密やかに顔をしかめた。


「おいテメェ、動くんじゃねぇぞ」


 月彦の眉間に銃口が突きつけられる。


 形勢逆転は振り出しに戻った……否、むしろ悪化していると言っても過言ではない。

 聖剣を振るうよりも、魔焔を放つよりも、殴りかかるよりも早く、銃弾は命を射抜きかねない。たとえ黒幕に銃撃戦の心得がなくとも、文明が生み出した死神の鎌を前に、萎縮しない人の方が少ないだろう。


「よくぞまあ人のこと散々どつき回してくれた、なッ!」

「がッ!」


 顎を勢いよく蹴り上げられ、堪らず月彦は倒れ伏した。

 ここまでなんとか無傷で来られていた頬に、鼻血が伝う。塗りたくるように靴底が踏みにじった。


「あァ~いい気味」


 暴力に酔いしれる黒幕は、良太郎や暁奈と銃撃が有利な距離を保っているためか、そもそも戦力として除外しているアイと晴花には目もくれない……だからこそ、ステラが大博打に賭けるだけの猶予があった。


『どうする? このままでは我々も蜂の巣だぞ』


 ステラはテレパシーでアイと晴花に語りかける。多少声を荒らげても黒幕は眼中にないだろうが、はっきりと意志を伝えるためのものだった。


「どんな案、ですか……」


 遺憾の意を顔に浮かべながら、けれども状況を打破したい気持ちは同じだと、晴花が促す。ステラはその言葉を待っていた。なにせ、賭けには晴花の了承も必要だったからだ。

 やっと手持ちのカードは揃ったと、ステラは告げる。



 晴花が叫ばずに済んだのは、ほとんど僥倖だった。たとえ魔法に疎い彼女でも、それが常軌を逸した提案だと理解できていたのだ。意味は分からずとも、月彦がコロチと呼んでいたあの黒い影丸呑みにされることが、どれだけ現実離れしているかは分かるはず。


「……そもそも食べるとかあるんですか、あれ」

『比喩さ。磁石に砂鉄が引きつけられるようなものだと思ってくれればいい』


 それでも異を唱えなかったのは、視界の端にいたアイが、一切の動揺を見せずに耳を傾けていたからかもしれない。


「そうすると、どうなるの?」


 震えのない、澄んだ囁き声が尋ねる。


八岐大蛇ヤマタノオロチの伝承くらい知ってるだろう?』


 日本神話の著名エピソードだ。倒したのがスサノオだとか、その後助けたクシナダヒメと婚姻しただとかいう話は、知らなくても構わない。本題はそこではないのだから。


『倒された後、その中から神剣が見つかった逸話……それを再現して、私を新たな聖剣にする』

「!」

『光と闇を混沌へと戻し、「原初の創生魔法」を引っ提げて帰って来られれば重畳だ。加地かじ月彦つきひこというイレギュラーを媒介にすることは、おそらく奴にとっても想定外だろう。そこにきっと、逆転の目はある』


 大博打に臨むのは、なにもアイだけではない。失敗すれば良太郎は第二の心臓を担うステラを失うのだ。

 その意味を分からない晴花ではなかったが、それでも必死に唇を引き結んでいたのは、今も尚行われる月彦への蛮行を見過ごすことができなかったからだろう。


 月彦は嘔吐した胃液、流血、砂塵、傷と打撲痕に塗れながら、首を縮めた亀のように蹂躙に耐えている。

 隙をついて取り押さえようとした際、万が一にも発砲されたら……懸念は抵抗する意志を奪っていく。月彦だけではない、良太郎や暁奈も同じだ。


『さあ、どうする』

「……たも……くるって……」

『ん?』


 晴花はつっけんどんに唇を尖らせて、照れ隠しに魔盾の表面をさする。


「あなたも、うちにご飯食べにくるって約束して」


 断腸の思いだろう決断に、晴花らしい答えが返される――それに笑みを浮かべないステラではなかった。


『あい分かった!』


 高らかな口上は密やかに、一世一代の作戦を開始する。


 音もなく、静かに聖剣『黎明讃歌ディールクルム』へと転身したステラが、晴花の魔盾『禍時慟哭クレプスクルム』と共にアイの手のひらに収められた。

 小さく、小さく、月彦が『聖櫃』の力を回収した時のような、扱いやすい灯火の宝玉に形を変え、アイへと取り込まれる。


「ぐ……っ!」


 アイの口の端から、込み上げた血が伝う。許容量を超過した力は、針のむしろのごとくアイの体を苛んだ。


 「アイ、」と叫びそうになった晴花が口元を押さえるのを尻目に、痛みを顧みることをかなぐり捨てたアイが、よろめいたまま転がるように走り出した。


「は? なんだ」


 初めて徒競走をする子供に似た不安定な足取りに、気づいた黒幕さえも呆気に取られる。ずっと軟禁状態で生きてきたアイにとって、これが生まれて初めての全力疾走だった。


「おい、止まれ。止まれっつってんだろ!」


 パアン、パアン、と容赦呵責のない二発の銃声。

 そして三発目がパアンと鳴り響いた。


「――っ!!」


 非情な鉛玉は無防備な脇腹を穿つ。


「アイっ!!」


 暁奈の悲痛な叫びがこだまするが、アイは止まらなかった。


 よろめきこそしたが踏み留まり、そのまま危なげなく次の一歩を踏み出して走り続ける。

 人造魔導具たる肉体は、常人には致命傷となる怪我にも耐え得るのだと気づき、黒幕は心底不愉快だと言わんばかりに舌打ちをした。


「なにやる気だが知らねぇけど、どうせ俺に魔法は効かないんだ」


 嘲りもなんのその、そうしてアイは辿り着く。


 瓦礫の影、身を縮めるようにして待機していた加地月彦の闇魔法『八岐小蛇ヤマタノコロチ』に伸ばした手の、ほんの指先が触れた瞬間――、


 世界が切り替わった。


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