高校二年 桜
「俺、じゃあ行くから」
キャプテンが別れを口にし、前方のバレー部たちに吸収されていく。
桜の花びらが降りしきる下で、彼らは目を細くし、快活に談笑し、肩を小突く。
何の変哲もない通学路が今日はまばゆい光に包まれたようで、僕はそれを手で遮ることも、瞼を閉じて見ないふりをすることも出来ずに、ただただ眺めていた。
ふと、思いついたように、舌の先を、軽く歯の先に押し当ててみる。
ぴりぴりぴりぴり。
うん、まだ痛い。
そのとき既に、僕の身体は重い腰を上げ、未来に向かって進み始めていた。
頭に浮かぶのは、彼女の事だ。
彼女は確か文芸部で、教室の隅で隠れるように本を読むような典型的な人見知りだったと記憶している。
しかし、ニキビがその肌に姿を現してから、彼女は変わった。
彼女のできものは、気が付かないままでいるには目立っていすぎた。
風が、眼鏡を、文庫本を、二つに結んだおさげ髪を、すべてを吹き飛ばしていった。
あるいは彼女ならば、この口の中に起きた悲劇を、理解してくれるのではないかという期待が僕の中に芽生えつつあった。
だから、彼女が僕に頭を下げてその場を立ち去った時には、なぜ謝られたのか、それが一般的な好感度の大小によるものだと認識するまでに数秒を要した。
僕はその場で膝を折った。
彼女は心地いいものであるかのように、桃色の天井に差した一筋の陽光の前に立ち止まり、後ろ髪を春の風の吹くままに任せていた。
ああ、僕は、フラれ、
「ずきずきずきずきずきずきずきずきずきずき」
口内炎の膜が破裂し、おそらく白色の粘液が舌の先を覆っていく。
「ずきずきずきずきずきずきずきずきずきずきずき」
涙が膝の上に落ちた花びらをしっとりと湿らせていった。
「ずきずきずきずきずきずきずきずきずきずきずきずき」
ああ、口内炎がなければ僕はこの痛みを、よろけながらも受け止め切れていただろうに。
「ずきずきずきずきずき」
今は口内炎の痛みを耐えきるのに必死で、淡い悲しみに身体を任せることができない。
ようやく復帰したバレー部に顔を出す気にもならず、僕は心の底から痺れるような刺激を感じながら、駅へ一人歩いた。
早い時間の電車は人もまばらで、どことなく誰もが虚ろな目でスマホを見つめている。まるで黄泉への渡り舟のようで、雪の降りしきる湖の上、目印は青い人魂と干し鯵の吊るされた竹棒、僕たちはどこへ向かうのだろうと思った。
......行く当てなどないのだろう。僕らは誰にも理解されないまま湖を彷徨い、そして彷徨い続けるのだ。これが僕があの朝憧れたものの現実であり、僕はそっと目を閉じた。
見ていたくない。夢は心地よくて現実は残酷だから、僕も彼も彼女も、夢から永遠に目覚めないことを祈るのだ。現実を見て見ないふりをするために、彼は僕の前ではキャプテンを演じ、彼女は僕を視界から追い出す。
家に帰っても電車で見た景色が焼き付いて離れず、僕は辛く味付けされた鯛鍋を尻目に、階段を上り、そのまま自室へ閉じこもった。
だが僕は見てしまった。夢を見ることが怖くて仕方がなかった。
目を瞑っても、耳を塞いでも、このまま誰も僕を夕飯に呼びに来ないのではないかという恐怖が頭の中に渦巻いて、僕の部屋を窮屈なものにした。
でも、このまま壁や天井に押しつぶされたほうがマシだ。
皆が寝静まった頃、僕は身体中の細胞という細胞が干からびていくような空腹感を覚え、部屋からの脱出を余儀なくされた。
居間の扉を引く。
父がソファでいびきをかいて眠っていた。
鯛鍋は既に片づけられ、代わりに小さな透明のお皿が、たんと置かれていた。
ラップを剥がすと、出汁の張りつめた香りが部屋中に広がった。
冷やし鯛茶漬けだった。
僕は我慢できずに白米と出汁を掻きこみ、鯛の切り身を歯の奥でさくっと嚙み切った。また白米を掻きこむ。鯛を飲み込む。
切り身が弾みながらすとんと落ちた瞬間、涙が止まらなくなった。
キャプテンは何もかも完璧で、ニキビの彼女は何もかも受け入れてくれる。でも、そんなのはただの僕の押しつけがましい憧れで、彼は趣味の合う彼のままで、彼女はニキビができる前の文芸部の彼女のままだ。本当は、誰も彼も自分のことしか考えていない。
高校二年生という期間が、あまりにも短いから。
父にも、そんな恐怖の期間があったのだろう。少なくとも僕の座っているこの椅子で、彼はそんなことを思い、朝飯を喰らっていたのだ。
しかし彼は現実を受け止め、恐怖を断ち切り、それを次に繋げようとした。息子を理解してやろうとした。それで、冷やし鯛茶漬けを思いついたのだろう。
まったく。
暗い天井を見上げると、そこには桜が咲いていた。
口内炎は、とっくの昔に治っていた。
一般的高校生の口の中に起きた一般的悲劇 メトロポリタンク @numakamanu
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