一般的高校生の口の中に起きた一般的悲劇

メトロポリタンク

高校二年 梅

 扉を引いて居間に入ると、僕の瞳はある一点に釘付けになった。


「ほら、今日バレーボールの都大会でしょ。お母さん何だかはしゃいじゃって」

 丼から飛び出すほど盛られた天丼を前に、母は聞いてもいないのに、弁明じみた解説をする。


「や、別にいいよ」

 その熱意に僕は負けて席につき、冬の肥沃な海を大手を振って練り歩いてきたのであろう、立派な海老天と真正面から向かい合った。


 いや、あるいは僕は天麩羅を見ながら、瞳の奥では丼のはるか遠く先、テレビを見つめる父の後ろ姿を捉えていた。


 海老のように丸まった背。あの背中が、僕が今腰かけているこの椅子にもたれなくなって随分経つ。そんなことを思うと、海老天を食べるのが億劫になって、手は横の味噌汁の方に動いた。


 椀を持ち上げ、熱がいつも通り手のひらに染み込んでいくのを感じながら、僕は透明な汁を啜った、そこに生じた違和感。


 そう、違和感。


 違和感は口の中で反響し、増幅され、刺激として全身を駆け巡った。今まで感じたことのない衝撃に僕は混乱し、「どうしたの」という母の声が聞こえるまでしばし冷静な思考が遠のいていた。


 急いで持っていた味噌汁を覗き込む。銀河の星屑が対流するその上澄みに反射した黒い口の中。突き出した舌の先に、目立って光る白い点。


 口内炎だ。


 それを理解した瞬間、銀河は対流を止め、色を失うように見えた。まじか

 。こんなタイミングで口内炎かよ。


 一方で、心の底ではなぜか喜ばしい気持ちも感じていた。多分、人生で初めて口内炎ができたという、その事実の到来がそうさせるのだろう。誰だって初めてなにかができれば嬉しい。


 結局僕は味噌汁が冷えるのを待って、また啜った。

 丸い椀は先ほどより軽く感じられて、まるでバレーボールみたいだった。



 敵のボールがネットを軽々と飛び越えて、着地を試みる。

 リベロ、それを阻止し、味方に繋げるのが僕の役目だ。


「チャンスボール」と黄色い声が響いた。体育館でやっている別の試合の応援かもしれない。が、余裕で捉えられる甘いボールであることには変わりない。ただ。


 口内炎さえなければ。


 腰を低く構え、ボールを迎え撃つ体制をとったその瞬間。

 風が、僕の横髪を通り過ぎた。

 雷のような刺激が、取り残されたようにその場に滞留する、


「ずきずきずきずきずき」

 体育館の淡い照明を受けた黄色いボールは、そっとその姿を黒く変質させていく。まるで、と僕は思った。

「ずきずきずきずきずきずき」

 まるで、砲弾だ。

「ずきずきずきずきずきずきずきずき」

 腕に力が入らない。肩は震えていて、腰は恐怖で今にも崩れそうだ。

「ずきずきずきずきずきずきずきずきずきずきずき」

 場内も、場外も、一点に集中される熱い視線。

「ずきずきずきずきずきずきずきずきずきずきずき」

 キャプテン、僕がボールを託す筈だった奴が走りだす振動。

 監督が落胆交じりに叫ぶ僕の名前。

 相手選手の顔が、にわかに色づいた。

「ずきずきずきずきずきずきずきずきずきずきずき」

 ずきずきずきずきずきずきずきずき。


 全てを背中で受け止めて、僕は悟った。

 これは、悲劇だ。


 僕が口内炎でボールを受け取れなかったことは、多分誰にも理解され得ないだろう。

 理解されたとして、僕はただの口内炎が原因でヘマをする軟弱者だと思われる。

 結局、僕は誰にも口内炎のことを打ち明けることはできない。


 僕は、朝、口内炎によって到来した何かを、これからずっと、口内炎によって消し去られていくのだろう。



 首筋に冷たい水滴を覚えて、僕はベンチの後ろを振り返った。

 そこにはキャプテンが立っていた。

 彼は鷹揚に挨拶をし、アクエリアスを差し出した。そして僕の隣に腰かけると、あの試合で僕に叫んだ口調のままで、僕に尋ねた。

「なあ、バレー部に戻ってくる気はないのか」


 僕はその言葉を耳にはさみつつ、内心ではまだ引かない口の腫れを気にしていた。

 あれから一週間。これだけ経ってまだ治りそうにないというのは、少し異常だ。


「聞いてるか。やっぱりお前が繋げてくれたボールじゃないと俺は気持ちよく打てない」

 繋げる。短い高二という期間を、他人に繋げることに費やす。なんだか馬鹿馬鹿しくって、僕が以前使っていた言葉じゃなかったら笑い飛ばしていたかもしれない。

 きっと高二が短すぎるから、みんな自分のことを考えるのに必死で、他人のことなんて考える時間がないのだ。それは僕も、彼も、すべての高校生に一般的に当てはまる。


 それぐらい、高校二年生という期間は特別なものなのだ。


「あれはなんだ」

 僕は湿った土のにおいの先に舞う、雪のような白い物体を指さした。

「え、ああ、さくらだ」

「そうか」

 彼は脈絡のない僕の発言に戸惑ったのか、僕の顔を覗き込む。


 彼の瞳には、桜が映っていた。





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