Hats off

@Tarou_Osaka

本編

 昔から図書館が好きだった。小学校のときは毎日放課後に寄っていたし、中学校に上がってからは、もっと長い時間を過ごすようになっていた。高校生になって、近くの大きな市立図書館に行くようになってからは、休みの日はずっといることが多かった。わたしが蔵書を全て読みきることは、現実的に考えて不可能だと思う。土曜と日曜に四冊を読みきったとして、三百万冊の蔵書を読むまでにどれくらいの時間がかかるだろう。一万五千年? 生きている間に制覇できるような相手じゃない。逆に、自分が手に取った本は、その中から選ばれたということになる。わたしが選んだのと同時に、相手もわたしを選んだ。

 

 夕方四時。何度も人とぶつかって薄くなった学校の紋章。それが窓に映っている。手を離せば無関係になってしまうような、小さな自己主張。わたしは十七歳。高校に上がってまだ二年なのに、鞄は学校名が読めないくらいに掠れている。電車が揺れて、わたしも揺れる。違う高校の制服を着た女の子と腕が触れる。わたしは一日にどれくらい、人とぶつかっているんだろう。その内、邪魔だと思われたことは何回? 謝りもしない生意気な女だから、誘拐して家に連れ込んで、バラバラに刻んで殺してやろうなんて思われたことは? その答えは大抵目の中にあるから、わたしは人の目を見ることができない。電車が弓なりのカーブを抜けるのに合わせて、みんな足を踏ん張ってまっすぐ立とうとする。わたしも同じようにする。できるだけまっすぐ。よろけたりして、余計な音を立てたくないから。

 

 わたしを選んでくれた本は、いつだって特別だった。ページを開くと前書きがあって、海外の本だと、協力してくれた人に感謝の気持ちを述べているものだってあった。すごいことだと思う。本は、一度印刷したら取り返せない。やっぱりあの人が良かったなとか、あの人も書いておけばよかったとか、わたしだったら後悔するはずだ。書きたい名前が十人いたとすれば、わたしは絶対に九人書いて、最後の一人を忘れる。そして悪いことに、手遅れになってからそのことを思い出すのだ。昔から『あともう一歩の努力』ということをよく言われた。小中学校の先生、親戚、そして両親から。試験勉強で絶対に覚えていたはずの問題だけをミスしたり、水泳大会で飛び込み台を蹴る力が本番だけ出なかったり。わたしは中々一位をとることができなくて、ほとんどの場合名前を覚えられない二位か三位だった。


 百人の人がいて競争をした場合。印象に残るのは、一位の人と百位の人。そして普段は下の方にいるけれど、上位に食い込んだ人だ。ちょっと前にあった実力試験で、わたしは学年で二位だった。一位の女の子とは全教科で七点差。『あと一歩の努力』だったのか、そうじゃないのかも、よく分からない。その時、わたしに何かとしゃべりかけてくる男の子が隣にいた。からかわれる訳じゃないから、いじめとは思っていないけれど、学校で出くわすと必ず話しかけてくる。『君、やっぱすげえんだな』という、素直な感嘆の言葉。それを聞いて、わたしは前から言おうと思っていたことを返した。『一年でトップ五十に来てる。君こそすごいよ』。その男の子は、去年までずっと学年で下の方の成績だった。スポーツができるわけでもない。話が特に面白いわけでもない。後者はわたしも同じだけれど。小柄で、わたしと同じくらいの目線。『先生みたいなこと言うんだな』。笑いながらの返事が返ってきた。わたしは、どの生徒がどの試験で何位だったかを暗記している。だから、先生みたいなものかもしれない。


 乗り換えの駅に到着し、ドアが開く。わたしは人とぶつからないように歩きながら、ホームを抜けた。高校に入ってから何度も通った通路を歩く。常に同じ位置を歩けたらいいけど、思い起こせば、今までに同じ位置を歩いたことなんて一度もない気がする。一度人を避けたりしただけで、それは昨日と違う進路になるから。点字ブロックのすぐ隣を早足で歩いていると、やっぱり向かいから同じところを歩いてくる人がいた。少し進路をずらせて、その人とすれ違う。その人は、点字ブロックの横を歩くことを選んだ。わたしはいつだって、それを選ぶことができない。最後まで選び通せたらと思う。それくらいに、信念の強い人間だったら。あと一歩の努力で、完成したわたしになれたら、どれだけいいだろう。『九十八点は、マイナス二点だと思え』。しっかりと試験勉強をするようになって、初めて受けた試験の結果を見たとき、わたしの両親は言った。中学校のとき、わたしの望みはただひとつだけだった。それは、両親がだれか別の完璧な子供を選んでくれるということ。今はそうでもないけど、そのころは早く諦めてほしかった。


 図書館に少しだけ寄ろうと思いついて、わたしは駅のコンコースにかかった時計を見上げた。奥の階段を上がったホームから二駅だ。手前の階段を上がった方からは、四駅で家に帰れる。わたしは、しばらく立ち止まっていた。もしわたしが図書館に行くことを選んだら? 一時間くらい家に帰るのが遅れる。今まで、平日に図書館へ寄り道したことはない。おそらく、この日の出来事は両親の記憶にはっきり残るだろう。事あるごとに言われるかもしれない。でも、許可を求めることだけは、絶対にしたくない。やはり、帰ったほうが賢明だろうか。わたしは手前の階段を早足で駆け上がった。

 

 最寄駅への電車が来るホームは、いつも人が少ない。駅員さんも一人だけで、生きている人間とは思えない表情で仕事をしている。この電車で帰るのはわたしと、あと他のクラスの何人か。いつも話しかけてくる男の子も同じ電車だ。ホームにはおじいさんと、小学生らしい子供の集まりが数人いた。電光掲示板によると、次の電車は準急。この駅には止まらない。ざわついている。わたしは直感的にそう思って、鞄を肩に掛けなおした。この違和感は、どこから来るんだろう? おじいさんと子供たちが、同じ方向をちらちら見ていることに気づいた。わたしは直感で駆け出していた。ホームの上にぽつんと置かれた鞄。見覚えがある。いつも話しかけてくる男の子。でも、本人がいない。わたしがホームから身を乗り出すと、線路の上に男の子がいた。わたしはおじいさん達を振り返った。多分、ふざけて線路に下りたと思っているんだ。男の子は、おそらく何かを落としたんだろう。拾おうとして降りたけど、その時に足をくじいた。駅員さんが気づいていないから、つい今だ。わたしは線路に飛び降りた。駅員さんの声が遠くから届いた。男の子は片足をかばいながら体を起こそうとした。わたしは言った。

「大丈夫?」

「やっちまったわ。降りてきてくれたんだ、ごめん。てかやばいよ、もう電車が来るんだ」

 わたしの目には、もう電車が見えていた。駅員さんだって間に合わない。わたしが手を握って力を込めると、男の子は言った。

「命の恩人だよ、君は」

 ホームから落ちた同級生を助けようとした女子生徒。学業の成績は優秀で、スポーツもこなしていた。新聞記事の見出しみたいな、過去形のわたし。

 みんなが、口を揃えて言う。『あの子は助けようとしたのだ。命を挺して』

 わたしは、男の子の手を線路に押し付けた。爪が食い込んで血が流れ出したとき、ヘッドライトが真っ白にわたし達を照らして、ブレーキの音がオーケストラのように響いた。あなたは、選ぶチャンスをくれた。血の通ったひとりの人間として、死ねるチャンスを。

 地獄から救い出してくれて、ありがとう。

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