第5話 遠き光
麦穂の月、十五日。麦の穂の名の通り、月初めに前後して実り始めた麦は日に日に太り、吹き渡る風に重くゆるりと揺れる。ストローハイム領の大平原は黄金に染まり、夏の訪れを早々に告げていた。
麦を筆頭に、あらゆる農業が集中するストラ大平原を吹く風は冷たい。通年よりも、冷えた夏だ。
――よくない兆候だ。
窓から外を眺めていたズベンは思う。西の空から急速に雲が押し寄せてきている。押し寄せる黒い雲が、青い空を追いやる。いかにも不吉な空模様だった。ただの天候不順だとズベンも分かってはいたが、否応なく、その様に恐れを抱く。
彼は空に怒りを見ていた。
彼自身のものではない。従弟でありながら良き友として、弟同然に接してきたあの聡明な青年が、いまにもその手を伸ばして、この領主屋敷を上から掴んで握り潰してくるような、夢想じみた錯覚を覚えていた。馬鹿な、あり得ないことだと頭を振っても気分は切り替わらない。
「……やはり、徹底して殺しておくべきだったのだ」
絞り出すようにズベンは言う。口に出せばその罪深さと恐ろしさと、口惜しさが腹の底をねじり上げてくる。こみ上げた吐き気を深い呼吸で飲み下していると、すぐ側で笑う声が聞こえてきた。ぎ、と睨み上げれば、そこには一人の女が立っている。腰まである、栗色の柔らかな髪。深い紺碧の瞳。美しい女。従弟の婚約者であった、魔族の手先。
「何がおかしい、リリアナ」
「いいえ。おかしいのではありません。お可愛らしいと思いましたの」
「……何だと」
女に可愛いと言われたところで――特にこの女に言われるのは、屈辱を感じる。ズベンは歯軋りするように奥歯を噛み締め、睨む視線を一段と鋭くする。だが、リリアナは動じた様子も無く笑みを崩さない。
「あなた様は優れたお方。ですが、あの方には一歩及ばず、苦汁を飲み続けていらしたのでしょう。でも、あの方に勝るものもありましてよ。それが、私にはとても美しく、そして愛らしく感じられるのです」
「馬鹿にしているのか!?」
「いいえ、褒めておりますの。あなたはあの方より次に優秀で、そして、誰よりもお優しいのです。だから殺すことができなかった。毒に弱るあの方の背に、自ら刃を突き立てることができなかった」
そうでしょう、と半ば断定され、ズベンは唸る。お前に何が分かると怒鳴りたかった。だが、彼女が見透かした通りだった。あと一歩のところで、手にした剣を抜けず、シリウスを取り逃がした。そして、それは優しさなどではない。
「優しさなどと言ってくれるな、リリアナ。俺は甘かったのだ」
「そうとも言えるかもしれませんね。いずれにしろ、あなたはあの方より……そう、躊躇ってしまう。しかしあの方の心には、躊躇いが無かった」
「……!」
息を飲むズベンに、リリアナは微笑みかける。
「あの方は心の裡に苛烈さを抱えたお方。まるで炎のよう。ふふ……幾度その炎がこの身を焦がしてしまいそうかと危ぶんだことでしょう。ですが、もはやあの方の炎は消えた。私たちを焼き尽くすことなく、海へと落ちて。もう何も、恐れることは無い。過去の人となったのです。そうでしょう?」
「ふん……婚約者だった男相手に、冷たいものだ」
「あの人は燃えるように熱いのですから、凍てつくほどに冷たい方が、釣り合いが取れるのではなくて?」
少女のように笑う女を見やり、ズベンはその視線をまた窓の向こうへとやった。リリアナ・ワグネル。マインズバーグ領に拠点を構える、大商人ワグネル家の息女。ズベンは以前から彼女を知っていた。一大農耕地帯であるストローハイムに、農具を卸しに幾度も来ていた。父に付き添う彼女と言葉を交わしたこともある。
「……かつては、人の技術で空を飛ぶのだとはしゃいだ少女が、こうも恐ろしく育とうとはな」
呟きにしてははっきりとした声で、ズベンは言う。リリアナの耳には当然届いていたはずだが、彼女は笑みを深めて立つだけで、何も言ってこなかった。
「リリアナ、もう一度言うぞ。シリウスはお前が思う以上に頭の切れる男だ。そして果断でもある。何をしでかすか分からない。しばらくの間、シロフォノのどこぞにでも身を潜めていろ」
「あら……まるで、あの方が生きているかのようなお言葉ですわね」
「死んだ気がしない。少なくとも、海から死体を引き上げるまでは警戒を緩めるな」
「分かりました。アンブライトでのことは、プリムラとよく相談なさってくださいまし。あなた様のために、よく働いてくれることでしょう」
そう言って、リリアナは腰を折り優雅に一礼する。そして、白いドレスとケープの裾を翻し、部屋を出て行った。人払いをした私室に、静寂が戻る。ズベンの体から力が抜けた。革張りの椅子の背もたれに、体を預ける。
――自分は成功したはずだ。
いや、これから成功を収める。約束された成功だ。だが、気の重さがそのまま体にのしかかったように、全身が重怠かった。
雨雲が麦の上を覆う。実りを後押しする恵みの雨を隔て、西――。
トラヴァの町はどよめきに包まれていた。
「な、何だ、あれは!?」
見張りに立っていた兵が絶叫し、泡を食ったように見張り塔を降りて上官へと報告に向かう。町行く人々は西を指差し、雨が去った海岸に出るところであった者は、唖然として空を見上げた。
その日、トラヴァ西から五キロ沖に位置する島――アロィ島に、眩い黄金の光の柱が立ち上った。天を衝く輝きは十秒もの間光り続け、その光は、遠く王都からも見えたという。
その、光の根元にて――。
「……やっ……ち、まった……」
クロダルリは呻くように言った。天を見上げるその口元は引きつっている。握手を交わすようにクロダルリの手を握っていたシリウスも、ほぼ似たような表情で空を仰いでいた。二人の周囲には、金の光が粒子のように細かく舞っている。
「い、いいい……いま、いまのってさ、見えたよな?」
「……だろうな」
間抜けにも二人、口を開けて天を仰ぎながら焦る。握った手に冷や汗が滲んでいるのでお互いに焦っているのは分かっているのだが、ついいましがた起きた衝撃に思考が麻痺していた。
「追っ手が……思ったより、早く来るかもしれないな……」
呆然とシリウスが呟く。その視線の先で、最後の光の粒が瞬いて消えた。
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